長崎ペーロン大会
(2007年7月28日〜29日)




長崎の夏の風物詩、長崎ペーロン選手権大会が28日から2日間にわたって催され、晴れわたった長崎港で、選手たちは日ごろの成果を披露しました。港内の約半分の水域を大会専用水域として区分して行われます。この大会は「ながさきみなとまつり」のメインイベントとして行われます。


28日は職域、中学、女性の3部門で計33チームが参加、29日は一般の部で県外3チーム(兵庫2・熊本1)を含む26チームが出場し、三重A(崎上)が3年ぶり2回目の優勝を飾りました。


レースが行われるコースは往路630m、復路520mの計1150mで、この往復コースでタイムを競います。漕ぎ手は太鼓やドラの音に合わせて櫂で力漕(りきそう)します。水しぶきを上げながら競漕するペーロン船に、陸の会場からは大きな歓声が上がります。


29日の一般の部では三重A(崎上)チームが深堀A(戸泊)チームにわずか0・12秒差で競り勝ち、3年ぶり2回目の優勝を飾りました。

上位成績は次のとおりです。
(1)三重A(4分59秒20)
(2)深堀A(4分59秒32)
(3)野母崎(5分1秒39)


ペーロン船は有志の各町内や地域ごとに所有しており、各地域で小規模のレースを行ったりしています。各チームは日ごろからこの大会をめざして練習に励んでいます。子供のチームから大人のチーム、職場単位のチームまでさまざまにメンバーを組んで楽しんでいます。日本国内でのペーロン祭は長崎、相生(兵庫県)、沖縄で行われています。


<イベントの内容>
7月28日(土) 長崎ペーロン選手権大会(松ヶ枝国際観光埠頭)
ベイサイドコンサート
花火大会
ベイサイドマーケット
7月29日(日) 長崎ペーロン選手権大会(松ヶ枝国際観光埠頭)
先賢まつり長崎さるき山車パフォーマンス
市民ステージ
大花火大会(両日合計5,500発を予定)
飛帆クルーズ
ベイサイドマーケット




 当日の長崎港の風景。港内はやや南寄りの風が吹いてさざ波が立っているが競技には支障ない。




<ペーロンとは>
長崎開港後間もなく中国船によって長崎に伝えられ、代用漁船の時代を経て専用船が考案され、1940年(昭和15年)ごろ現在の船型に定着しました。これまでの最大級の船は天草富岡出来町船で長さ28mですが、現在は長さ13.5mに規制されています。細長い和船造りの船体には鯨船のチャセン(船首飾り)を付け、舷側には龍、朝日などの紋様を描き、中央の銅鑼太鼓にあわせて28人の漕手が力漕します。これにアカ汲み、舵取りなど合計33人が乗り込みます。



これがペーロンの船形。この細長い船に総勢33人が乗り組む。



ペーロン大会の横断幕



埠頭には各出場チームの応援団席が設けられている



競漕観覧席スタンドが設営されている。入場料500円。



出場26チームの総勢が集合して開会式



桟橋には出場チームのペーロン船が係留されて選手の乗船を待つ



開会式も終わり、いよいよ乗船開始



まずは一斉パレードのスタートラインへ向かう



次々にスタートラインへ向かう



ユニホームは色とりどり



全参加チームで一斉パレード



港の半分の海域はペーロン船で埋まる



噴水船がパレードを彩る



白い噴水があがる



今度はブルーの噴水が・・・



パレードは一巡してUターンしスタートラインへ戻る



いよいよ競技開始。1レース5艘ずつで予選を競う。



スタートから630m沖合いのUターンポイントへ向かう



Uターンしてゴールへ向かう



ゴールに近づくと各艇の差が出てくる


<ペーロンの由来>
そもそもの始まりは西暦紀元前300年のころ。中国の戦国時代、湖南地方で楚の宰相屈原は懐王を助けて善政を敷き、名宰相といわれていましたが、ざんげんにより政界より退けられました。その後間もなく懐王は、秦の軍勢に捕えられ客死しました。屈原は楚の国運をなげいて汨羅(べきら)に身を投じました。人民はこれを非常に悲しみ、「ちまき」を作って川に投げ、龍船(白龍)を浮べて競漕し、その霊を慰めました。 ペーロンの呼び名は「白龍」の中国音のパイロンがなまったものといわれています。


我が国へは1655年に伝来したといわれています。その当時数隻の中国船が長崎港を訪れた際、強風のため出航できなくなったので、海神を慰めて風波を鎮めるためにこの「ペーロン」競漕を港内で行いました。これを長崎の人たちがとりいれて競漕を行うようになり、当地の年中行事の一つとなって今日に及んでいます。

                                    (2007年8月5日記)