第1回   佐藤康夫     (第八駆逐隊司令・44期・中将)
 

   
 『注:兵学校に在校中第75期三明 久(1号、オ605)で同分隊の対番第77期佐藤文夫君(数年前病没)の厳父である』
 
              


佐藤は明治二十七年三月三十一日、東京の小石川で誕生した。
 生家は神奈川県牧野村で代々、医を業としていたが、父の代になって静岡に移住した。
 佐藤は生まれてから小学校の前半までを母方祖父のいる東京で過ごしたが、後に静岡に移った。
 彼の小学校は静岡城址二の丸あとにあり、濠を隔て、静岡連隊があった。毎日勇ましい練兵をみて、いつとはなしに軍人を志すようになったのかも知れない。
 毎日元気よく戦争ごっこや、ベイ独楽遊びに興じ、あるときはお濠の中に浮かべてあった籠を破って沢山の鰻が逃げ出し、鰻屋の親爺に大目玉をくったりした。
 この小学校時代に川口という少年と親しくなった。
 静岡中学校をへて大正元年九月に四十三期生として兵学校に入校した。ところが、しばらくして軽い胸膜炎を患ったようで、そのため一年遅れて四十四期に編入された。
 佐藤は、あまり背は高くはなかったが、肥えており、のっしのっしと大地を踏みしめるような歩き方をし、何となく未来の海の武将といった風情があったという。
 同期生の面白い評がある。
「佐藤といえば柔道を思い出すほど強かったが、また佐藤といえば水泳を思い出すほど水泳が下手だった」
 柔道のほかに棒倒しが好きだった。真っ先に突進してゆく気迫は物凄いものがあり、この頃から佐藤は口ぐせで、
「よし、おれがやろうー」というようになった。
 頑張り屋で、冬でも毛布を用いず、シーツ一枚をおおうのみで眠ったという。
 短艇競技、棒倒し、弥山登山などに佐藤の真面目は発揮され、その体型もあってブルドックと仇名された。しかし彼は兵学校時代、休暇になると鎌倉の円覚寺に参禅し、任官してからもよく座禅を組んで心の修業にもはげんだという一面ももっていた。任官してからはもっぱら水雷屋としての道を歩み、水雷長、駆逐艦長、駆逐隊司令と進み、特に昭和十五年八月からは、第五、第九、第八駆逐隊司令として、息つく暇もなく奮迅の働きをした。
 かつて、愛子夫人に言ったことがある。
「水雷ほどいいものはない。おれは水雷に入って本当に良かったと思っている」
 彼は典型的な水雷屋気質の持ち主で、怒り出すと手がつけられず、
「このばかもんッ」の怒声は雷のごとく響き、ある若い士官のごときは恐れをなしてマストの上まで逃げたという逸話があるが、過ぎてしまえば春風駘蕩としてあとに何も残さず、だから部下は怖がっても決して恨んだりはしなかった。
 佐藤は酒をこよなく愛した。三人で四斗樽を空にしたという噂もある。
 昭和十五年二月、外山三郎(66期)が「旗風」の航海長として乗り組んだ。当時、南支の警備にあたっていた第五駆逐隊は、司令旗をしばしば「旗風」に揚げたため、外山は佐藤司令に接する機会が多かった。外山は海上勤務のあと兵学校教官をつとめ、終戦後は海上自衛隊に入り、のち防大の教授になった人である。
 外山によると、佐藤は聞きしにまさる酒豪で、一行動終えて泊地に入ると、その夕食時から飲みはじめ、翌日の夕方近くまで、じつに二十四時間近くも、眠りもせずに飲みつづけたという。
 しかもその間、誰かが相伴していないと不機嫌なので、酒好きの外山がよく相手をさせられた。しかし、佐藤の酒は一緒に飲んでいて少しも堅苦しくなく、愉快に飲めるので、とても楽しかったそうだ。
 でっぷりと太り、丸々とした童顔で、何ごとも信を相手の腹中におく話しぶりで、まさに戦国武将の風格が感じられた、と外山は言う。
 外山が在勤中の第五駆逐隊の最大の作戦は、第二次バイアス湾上陸と南部仏印進駐であったが、その頃には小規模な戦闘ほ無数に戦われた。
 そんなとき、敵弾が飛んでくると、外山は緊張のあまり顔がひきつってくるのだが、佐藤司令の顔を見ると、常にかすかな笑みを浮かべて敵の陣地を見据え、微動だにしなかったのには、その戦場度胸のよさに改めて感心した、とも言っている。
 酒の方は斗酒なお辞せずだが、煙草も佐藤の大煙草″といって有名であった。従兵は煙草を命じられると、いつもチェリー二百本入りの大函を持参するのだが、それが一日で足りないこともあり、佐藤の指先はヤニで真黄色であったという。
 酒、煙草が好きで、そのうえ菓子まで好きで、そこに置いてあればどんな菓子でもぼりぼり平らげてしまうという始末である。
 それでいて、佐藤の健康は巌のようであった。肥満していて酒、煙草の不養生をしても、血圧や糖尿の心配もなく、内臓も頑丈で、あるといえば足の水虫くらいで、これには軍医長も舌をまいていたという。
 のちにガダルカナルの補給や撤収で苦労するようになるが、一般にガ島の往復を三回もやると、たいていは眼がくぼみ、頬が尖って異相を呈し、体重は激減し、尿の色が変わってき、ひどいときは神経衰弱になるといわれた。
 佐藤はガ島往復を十二回もやっている。級友が、「ところが佐藤ばかりは不思議で、顔色も全然変わらんし、以前より太っているのには驚いた」と言っていた。
 佐藤は、上海事変、支那事変といく度も戦ったが、太平洋戦争に入ると、何と二十七回もの戦闘に参加している。
 その間の大きな作戦は、第一がスラバヤ沖海戦、第二が第三次ソロモン海戦を含むガダルカナル作戦、第三が最後の戦さとなるニューギニア方面海戦である。

               
     二


 昭和十七年二月十五日、難攻不落といわれたシンガポールも陥落し、マレー半島最後の砦ジャワ島を攻撃することになる。
 東部ジャワ攻略部隊はマカッサル海峡を南下してスラバヤを目指し、一方、西部ジャワ攻略部隊はカリマタ海峡を南下してバタビアからジャワ西北端のバンタム湾に突入する作戦である。
 この作戦でボルネオ島をはさんで東西両方面で日本軍と連合軍との間に海戦がくりひろげられ、東部方面ではこれをスラバヤ沖海戦と呼び、西部の海戦はこれをバタビア沖海戦と呼んだ。
 陸軍輸送船三十八隻を護衛する東部ジャワ攻略部隊は、二月十九日、ボルネオ北東沖のホロ島を出撃した。このときの護衛兵力は、巡洋艦四、駆逐艦十四、それに駆潜艇、哨戒艇、給油艦を加えると総計六十七隻におよぶ大船団である。
 この日本軍の動静を察知したドールマン少将は、麾下の巡洋艦五、駆逐艦九をひきいて二十六日夜、スラバヤ港を出撃した。
 二十七日昼すぎ、西村祥治少将は輸送船団を西方へ退避させ、自ら指揮する第四水雷戦隊の旗艦「那珂」以下駆逐艦六隻をひきいて敵に向かった。
 敵は一時ひるんでスラバヤにとって返そうとしたが、やがて反転して午後五時過ぎ、一万七千メートルに迫ったところで、まず「神通」から砲撃を開始し、ここに海戦のひぶたが切っておとされた。
 米巡は各艦、砲撃の効果を識別するために砲弾に染料を使用しているので、巨大な赤や青や黄の水柱があちこちに立つ。
 西村戦隊のあとについて来た田中頼三少将指揮の第二水雷戦隊は、煙幕を展張して退避する。横から第四水雷戦隊はさらに突っ込んで魚雷を立てつづけにぶち込むが、なかなかあたらない。しばらく激しい砲雷撃戦がつづいたが、そのうち「羽黒」の一弾が英巡エクゼクーに命中。さらに魚雷がオランダ駆逐艦に命中して轟沈し、ために連合軍は混乱におち入り、やむなくドールマン少将は全軍の退避を決意した。
 退避する連合軍を日本艦隊が攻撃する。
 他の駆逐隊は七千五百メートルまで接近して魚雷を発射すると反転してゆくなかで、その間をぬって司令佐藤康夫大佐指揮する第九駆逐隊の「朝雲」と「峯雲」の二艦だけが全速で突っ込んでゆく。
「朝雲」 の艦橋では水雷長が気が気ではない。
「司令、もう撃ちましょう」
 佐藤は前方をぐつと睨んだまま、
「まだ、まだッ」
 こんな言い合いが二、三度くり返されるが、佐藤は発射を許可しない。
 たまりかねた岩橋透艦長(51期)が、
「司令、他の隊は反転しました。当隊も反転したらどうですか」と進言する。すると佐藤は、
「艦長ッ、うしろなど見るなッ、前へ!」と大声で叫んだ。その気迫に艦長は思わず首をすくめた。
 単縦陣で東方へ逃走する連合軍艦隊に対し四千メートルまで接近したとき、はじめて佐藤司令の「発射はじめッ」が発せられた。
 満を持した「朝雲」「峯雲」からいっせいに魚雷が発射される。敵は煙幕をはって逃げようとする。
 日本側がたった二隻の駆逐艦と知ってふたたび敵艦のいくつかが反撃して来た。
 英駆逐艦一隻をついに仕止めたが、「朝雲」も機械室に命中弾をうけ、電源もやられ、主砲も動かなくなった。
 佐藤はすぐさま、
「砲は人力で操作ッ、砲撃を続行せよッ」と厳命する。
 その日の戦いが終わったのは午後八時に近かった。

 高木惣吉少将(43期) は、
『この突撃戦のとき、巡洋艦は一万七千メートルくらい、駆逐艦もせいぜい八千〜一万メートルくらいから酸素魚雷を発射していた。ところが佐藤司令だけは、第九駆逐隊をひきい勇敢に敵に向かって突進してゆくので、艦長が敵の集中射撃を心配すると彼は、「艦長、戦場ではうしろなんか見るな⊥とたしなめ、友隊の射程距離の半分の四千メートルに迫って発射し悠々と引き上げた。敵の被害の大半は、この佐藤司令の働きといってよい』と激賞している。

 厳しいガ島への輸送作業がつづいていた頃の佐藤の日誌に、珍しい一首がしるされていた。
  「難局に 男冥加と突入す
     なるもならぬも 神に任せて」
 ガ島への積荷を艦一杯に積んでゆくとき、戦闘行動に支障がある、という苦情がしばしば出たが、佐藤は知らん顔をして、
「おい、もっと積むものはないか」と逆に催促したという。
 また、深夜にガ島に着いて積荷を下ろすとき、かならずといってよいくらいに敵機の来襲がある。
 すると佐藤は、まっ先に司令の乗艦の探照灯をつけて自ら目標となり、他艦の砲射撃に都合のよいようにした。
「よしッおれがやるッ」を常に実践しでいたのである。昭和十七年十一月、十二日と十四日にわたって第三次ソロモソ海戦を戦い、二回も感状を受ける働きをしたあと、佐藤にわずかの休暇があたえられ、久しぶりに静岡の自宅で数日を過ごすことができた。家には年とった母と妻、それに三男一女の子供がいた。そしてこれが最後の家族の団欒となった。

 佐藤はふたたび戦線に帰ってきた。
 そこには困難なガ島撤収作戦が待っていた。
 彼はその頃の日誌に書いた。
 「孤島ガダルカナル。敵機の威力下に勇戦する陸軍を想えば胸がいたむ。川口部隊長は生きているだろうか」
 佐藤がガ島の惨状に思いをはせ、その生死を心配した陸軍の川口部隊長は、かつて小学校時代、静岡城址二の丸あとで戦争ごっこやベイ独楽で遊んだ仲良しの川口清健である。

 昭和十七年八月、大本営は一木支隊に対しガ島奪回作戦を命じた。
 しかし、一木支隊先遣隊九百名は、上陸後わずか三日でガ島米兵力一万六千の前にあえなく潰滅し、八月二十一日、一木清直大佐は自決した。
 ついで急遽、川口支隊約五千五百が送り込まれたが、この隊も二日分の糧食と貧弱な火器しか持たされない非力なもので、九月に行なわれた二日間の夜襲で早くも食糧が底をついてしまった。
 すでに制空権を失ったわが軍には、予定した補給もままならず、のちに川口清健少将の回想によると、
「糧食は九月十三、十四日で食い尽くし、一粒の米もなく、全員絶食の状態で五、六日行軍し、檳榔樹の若芽が唯一の食糧であった-------」
 という状態であった。
 数回の攻撃失敗のあと、作戦に関しての意見の違いから、辻政信参謀の進言によって丸山師団長から、九月二十四日に予定された攻撃の前日になって川口は、突然、罷免されてしまった。なお、このときの作戦について川口と辻との論争は戦後までつづくことになる。
 だから佐藤が、「川口はどうしているだろう」と案じていた頃は、すでに川口は従兵一人を連れただけで、飢餓と惨敗のショックに打ちひしがれて憤然としてガ島を去っていたのである。
 川口に代わった東海林俊成大佐によって奪回作戦は続行されたが、結局は敗退してしまう。
 結果だけいえは、ガ島に投入されたわが軍の将兵は約三万二千。そのうち二月一日に始まり七日に終わった撤収作戦で、ガ島をのがれることができたのは約一万一千。そしてそのほとんどが飢餓と疫病、戦傷により戦力を失った将兵であった。
 敵機の襲撃をうけながら、幾度となく決死の撤収作戦に従事した佐藤は、そのつど剛胆にして細心な指揮により、ようやく無事撤収作戦を終わることができた。
 陸軍側から、最後の一兵が乗船し終わりました、との報告をうけてもなお、佐藤は陸上をいつまでも確かめることをやめなかったという。
        
                    


 佐藤は戦死する二週間前に第八駆逐隊司令を命ぜられた。
 本来ならしばらく内地での静養の期間をもてたのであるが、佐藤はこれを断わった。
「よし、おれがやるッ」
 彼は休む間もなく、司令駆逐艦「朝潮」 に乗り組んだ。

 ガ島撤収のあと、次に火のついたのはニューギニアである。
 ここには昭和十八年初頭、陸海軍約七千名が配備されていたが、米濠軍はぞくぞくと兵力を送り込んでまさに危機に直面していた。
 もしこのラエ防衛線がくずれれば、一挙にニューギニア北岸の敵勢力が強大となり、トラック、パラオ方面が危うくなる。何とかこの線を補強しなければ、ということになり、兵力約七千三百を送り込むことになった。
 護衛するのは木村昌福少将指揮する第三水雷戦隊の駆逐艦八隻。これが輸送船八隻と運送特務艦「野島」をひきいて二月二十八日、ラバウルを出発した。
 佐藤司令はラバウルを出撃する前日、久しぶりに会った「野島」艦長松本亀太郎大佐(45期)と酒を飲んだ。
 佐藤は兵学校で松本の一期上、しかも同じ分隊で生活したこともある仲であった。
 佐藤は別れしなに、松本の肩をたたきながら、
「こんどは危ないかもしれん。貴様のフネがやられそうになったら、俺が助けてやるからな」と言った。
 出撃して三日目には早くも敵哨戒機に発見され、二日から大型爆撃機による熾烈な攻撃がはじまった。
 味方機の防戦も効果なく、三日にはB17、B25の大攻撃をうけ、旗艦「白雲」は沈没、木村司令官は辛うじて「敷波」に移乗した。「時津風」も間もなく航行不能となる。「荒潮」は直撃弾をうけ操舵不能となったところを、これもまた被爆した特務艦「野島」と衝突する。輸送船は三隻が沈没し、あともすべて火災で航行不能となった。無庇の駆逐艦五隻は、敵機の攻撃の合間をみて救助作業に走りまわる。
 そのうちふたたび、「敵機、モレスビーを発進」の無電をうけた木村司令官は、「救助作業を一時中止し、ロング島北方海面に退避せよ」と令した。このとき、「朝潮」座乗の佐藤司令は、
「われ『野島艦長との約束あり。同艦救援ののち退避す」という信号を送り、現場にとどまって救援作業をつづけた。
 他の僚艦四隻は収容中の遭難者約二千七百名を、ラバウルから来援した「初雪」と「浦波」に移しラバウルに向かった。
 一方、現場では間もなく炎上中の輸送船四隻も沈み、「野島」も沈みはじめ、海に投げ出された松本艦長は辛うじて「朝潮」に救い上げられた。しかし午後一時以降、ふたたび二回にわたって敵機四十機の攻撃をうけ、「朝潮」もついに航行不能となった。
 このときの戦闘で「朝潮」艦長吉井五郎中佐(50期)および、救出されて「朝潮」に同乗していた「荒潮」艦長久保木英雄中佐(51期)が共に戦死した。
 佐藤司令は、もはやこれまでと総員退去を命じた。
 艦は急速に沈みはじめた。
 まだ艦にとどまっている松本に、佐藤は声をかけた。
「おいッ早く退去しろ」
「いや、司令こそ退去して下さい。私と一緒に飛び込みましょう」と松本が言うと佐藤は、
「いや俺のことはいい。さあ貴様、早く退去しろ」と言いながら、艦橋から前甲板に出て、艦首の繋索柱に腰をかけた。
 松本はとっさに佐藤の決意を悟った。松本は思い切って海中に飛び込んだ。
 しばらく泳いで顔を上げると、艦尾から沈みつつある「朝潮」の艦首部分に、じつと腕をくんで悠然と空を見上げている佐藤司令の姿があった。
 松本は海中から頭を下げ、最後のお訣れをした。
 松本は三日間漂流ののち僚艦に救出され、佐藤の最後の模様を涙ながらに人に伝えた。
 昭和十八年三月三日のことである。このとき佐藤五十歳-------。

 開戦以来、戦闘に参加すること二十七回、ガダルカナル島への輸送、撤収に従事することじつに十二回にも及んだ佐藤は、戦死後二階級特進して中将に任ぜられ、のちに戦死した吉川潔少将と共に全軍から水雷の鬼≠ニ讃えられた。
                             
                             (完)