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●大宰府 だざいふ

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 福岡県太宰府市所在の日本古代官衙遺跡(天智朝〜平安時代末)。行政区画としての「太宰府」と区別するために歴史的に扱う場合は古来の大宰府と表記する。国指定特別史跡

【大宰府の成立】『日本書紀』に7世紀を通じてみられる筑紫大宰がその前身である。大宰(おおみこともちのつかさ)の官職名は筑紫にのみあるのではなく,吉備・周防・伊予にも置かれている。それが律令体制の整備とともに,存続さるべき性格をもっていた筑紫大宰を大宰府として残しほかを廃止した。かくして大宰府は,白村江の敗戦(663)をへて,おそらく海岸線近くから現在の太宰府市の地へとその場所が移動するとともに,律令体制の法の整備に従って,その古代国家のなかの位置づけも確定するのである。

 その政治的統括の範囲は,西海道・九国三島に及び,本来中央財源である調庸物が大宰府の場合特別で,西海道諸国のそれは,まず大宰府に集められ,大宰府の府用にあてられ,残余が中央に送られた。しかし,最も大宰府らしい機能は,その地理的な条件から重要な役割とされ,さらに律令制の成立とともに法制化された,蕃客・帰化・饗讌のことである。中国・朝鮮などの諸国からの使節の送迎・接待,つまり大宰府は当時の日本外交の窓口の役割を果たしていた。それと関連して客館としてつくられるのが大宰府鴻臚館である。もともとこれは唐制の導入であるが,初めて鴻臚館の名がでてくるのは平安時代に入ってからでそれ以前は,客館あるいは筑紫館と呼んでいたようである。公的な交易がすたれたのちでもここは,唐商人などの宿泊施設として活用されていく。その所在地は早くから福岡城内に比定され多くの関連出土物が知られている。福岡城の造営,明治以降は軍隊の基地として,戦後は大幅な公園計画と幾多の改変を受け,現在は平和台野球場の一部として往時をしのぶよすがもない。

【大宰府の都城】律令体制が定着していくに従い,中央では藤原京・平城京,とあいついで都城が造営され,唐風に碁盤目状に道路を配する都市計画のなかで官衙や寺院を位置づける街づくりが,地方にも,国衙などを中心にこの条坊制の採用という形で広まっていった。大宰府条坊制は,大宰府政庁が北区中央部に方4町,その東には方2町を占める学校院の敷地,さらにその東に観世音寺が方3町を占める。中心から観世音寺々域東辺まで7町,その7町を政庁中心から西へ折り返すと,筑前国分寺の中軸線にあたる。このような全体計画のなかで両大寺院を都城のなかに配している。条坊は鏡山猛氏の復元案によれば,左・右再郭がそれぞれ12坊,南北22条とされている。ただし坊間は,平城京などと異なり,1町の計算である。政庁の周辺には種々の官衙が並び,官人の私宅がつづき,官の大寺の甍がそびえ,外国人等の往来もあり〈人物殷繁にして,天下一の都会〉のごとく,大宰府都城はまさに西海道第一の都会であった。しかし中央から赴任してきた貴族にとっては,西海道一の都会も所詮は“遠の朝廷”であった。その望郷の念から,大宰府の官人たちのなかに歌に慰を求め,さらに大伴旅人山上憶良等の文学活動となり,万葉集のなかに筑紫歌壇ともいうべき大輪の花を咲かせるのである。

【大宰府の防衙】白村江における日本軍の敗北から日本は直接新羅からの脅威にさらされることになった。そこで大宰府都城の防衛のため造営したのが水城であり,大野城である。

 天智天皇3年(664)〈筑紫に大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ〉とある。博多から御笠川をさかのぼり筑紫の平野が最も狭くなったところに設けられた。全長1.2km,基底幅40m,高さ13mの盛土の堤,この博多側に幅60m,深さ4mの堀が存在した。大野城は水城につぎ665年,百済からの亡命貴族の指導で基肄城とともに築造された朝鮮式の山城である。その後大宰府の防衛努力は,怡土城の完成(786)をもって終わる。大宰府は昭和43年(1968)から文化庁の指導のもと福岡県教育委員会で発掘調査を行っている。これからの成果を期待したい。

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