{公開書簡}

 拝啓 大阪市長・平松邦夫 様

 

 余寒お見舞い申し上げます。

 本日は立春というのに、いつもの年のように春めく想いが全くしない中で迎えました。

 昨年、9月長月席・田辺寄席の頃、田辺寄席の34年間に亘る会場(大阪市立阿倍野青年センター)の統合・廃止案〈『経費削減の取り組みについての(素案)』〉が伝わってきました。今年6月に地域寄席としては前代未聞の、35年目・500回記念公演を迎える10ヶ月前の時だけに、その衝撃は計り知れないものがありました。

 「寄合酒」(田辺寄席ニュース)の10月号(08109()発行)にて、その事実を報告しました。田辺寄席参加者等からはすごい反響がありました。田辺寄席世話人会としての統合・廃止案(素案)への「所感」を発表し、同時に青年センター、田辺寄席へのアンケートと多くの皆さんのご意見をまとめ、「大阪市市政改革室」に提出する事に致しました。1113日に「寄合酒」11月号(08116発行)に同封して送らせていただきました。22日までの10日間に届けられた329通のアンケートを元にして、世話人会の責任でグラフにまとめさせていただきました。アンケートの意見欄には157名もの方がご意見を書いて下さいました。わずか10日間でこんなに多くの声を寄せて下さるとは、阿倍野青年センターと田辺寄席の存続を求めて下さっている方がいかに多いかと何よりも力強く思ったものです。

 1127()、「大阪市市政改革室」に「田辺寄席世話人会」の意見書を提出しました。(アンケート以外の8名様の意見と「参加者の声」から青年センター問題を抜粋(18名様)も作成し、「意見書」に添付しました)。〜この「意見書」は500部作成し、マスコミはじめ関係各位に配布いたしました〜

 「意見書」提出後、市政記者クラブでの記者会見には、テレビ2社、全国紙4社がご参加下さいました。翌28()朝刊には、4紙が一斉に報道して下さいました。その日の昼に、平松市長様が急遽、阿倍野青年センターに来られたのには、びっくり致しました。その時に丁度おられた、卓球利用者の「つぶしたらあかんで!」「残してや!」の強い要望の声を、つぶさに聞かれた事だと思います。私が青年センターに行ったのは、その後だったため、直接お会いすることが出来ず残念に思っています。

 その後、関西テレビ〈081217(水)〉、ABC・朝日放送〈09・1・19()〉や、OBC・ラジオ大阪〈09・2・2()〉等でも、「阿倍野青年センター・田辺寄席」の問題が取り上げられ、市民の間に関心が大きく広がっている事はご承知のことと思います。

 テレビ、ラジオ報道では、「今後の方向は検討中」という事ですので、今一度、「阿倍野青年センター・田辺寄席の歴史と今後」等について述べたいと思います。

 

阿倍野青年センターの

     成り立ちと田辺寄席の開席〕

 

〇阿倍野青年センターは、青少年の心身の鍛錬と研修のための施設にと、故早川徳次氏(西田辺に本社があるシャープ株式会社創業者)からの建設資金(当時3000万円)や、ライオンズクラブからの庭園資金の寄贈により19691127日に設立されたものです(その後、早川氏は空調設備資金として500万円追加寄贈されたと聞いています)。早川氏は、周辺地域に、地域貢献、福祉貢献として、早川福祉会館や育徳園等の建設にも多大の資金を寄贈されています。阿倍野青年センター受付カウンター横には、

「感謝 早川徳次殿には 大阪市立阿倍野青年センター新設に際し、建設資金として、金三千万円を寄贈せられました。ここに深く感謝し、長くご芳志を記念いたします。 

昭和4412月2日大阪市長 中馬馨」

のプレートが掲げられています。

 

〇田辺寄席は、1974年9月6日に第1回目を開催しました。JR阪和線南田辺駅すぐのパン屋3階の広間でした。「地域から笑いの渦を巻き起こそう!」とはじめた地域寄席は大盛況で、パン屋3階の広間では全く入りきれなくなり困っていた一周年の時に、阿倍野青年センター職員から「ウチを使ったら」というお誘いがあり、会場を東住吉区から阿倍野区へ移転しました(JR阪和線が阿倍野区と東住吉区の境界であり、直線距離にして350m程北西への移転でした)。

 

〔田辺寄席1回目の使用拒否騒動〕

 

 阿倍野青年センターに移転してすぐの第14回田辺寄席は、公演のポスター等全て出来上がっている中で、使用が拒否され、2年目に早くも継続が危機になりました。その理由は、「青年センターは青年のための施設なので、あらゆる層が来る寄席はなじまない。寄席には最もふさわしい場所があるはず」の一点張りでした。私達は、「地域の青年サークル(私が最年長の方で当時28歳)と若手噺家グループ(最年長が25歳の米治さん〈現雀三郎さん〉が協力し、上方芸能と地域文化の発展にがんばろうとしている。この施設こそそれにふさわしい」と主張。マスコミも「寄席をヨセと言われても」と大きく取り上げました。「住民が育てた田辺寄席」「市が会場を貸せぬ」「十四回を前に立ち往生」の字が踊り、我が家の電話は励ましの声で鳴りっぱなしでした。大阪市教育委員会にも抗議の電話が殺到したらしく、2日後には、大阪市は会場使用を認めました。その後、34年、474回(09年2月現在)阿倍野青年センターを会場にして、田辺寄席は継続してまいりました。

 今回、会場問題で、田辺寄席が「存続の危機」といわれる時、真っ先に思い出されるのが、34年前の1回目の「使用拒否騒動」の事です。

 

〔その後の田辺寄席〜阪神大震災や地域との関わり〜〕

 1995年1月17日、阪神大震災。翌日の18日は田辺寄席の初席、余震で揺れる中での公演でした。初席恒例のぜんざいも振るまうが、「神戸の惨状をテレビで見ているだけの人に、なんで、ぜんざいを出してるんや」の想いがつのり、4日後のハイキングの例会を神戸への救援活動に切り換えました。その後は、避難所が閉鎖になるまで、毎週通いました。避難所閉鎖後は、テント村、仮設住宅、そして今は月1回、復興住宅の「ふれ愛喫茶」を開催し、「交流活動」を続けています。避難所の時から始まった「神戸出前田辺寄席」も今年で12回目。戦災にも震災にも耐え抜いた東灘区・御影公会堂に田辺寄席の舞台が出来上がるのは、何よりの励ましと被災者の方は語って下さいます。

 田辺寄席は今年で35年目を迎えますが、その35年の中でハッキリと区分け出来るのは、1995年1月17日です。それまでの約20年とその後の15年は余りにも違います。多くの人達との協力なくしては何一つ出来ない事を一つ一つの現実が教えてくれました。神戸での活動も、田辺寄席参加者のカンパ、支援物資への協力、活動への参加が不可欠だったし、被災地の人達の受け入れがなければ続けられませんでした。

 田辺寄席の開催は、参加者、気持ちよく出演して下さる噺家さん、下支えする私達世話人会、みんなが田辺寄席を自分の寄席のように考えて下さっていたから続けられました。そして何より、開催する拠点、阿倍野青年センターがあったからの開催でした。

 地域の人達との協力で、伝統野菜「田辺大根」の復活と普及も大きく広がりました。

 田辺への模擬原爆を語り継ぐ運動も大阪市の小学校・中学校の平和教育に活かされています。

 それらの協力しあう人達の広がりは飛躍的に拡大しました。その広がりは、田辺寄席の参加者数にも反映してきました。震災前は約80人の参加者だったのが、毎年増え続け、

150人を超える事も。阪神大震災後、もう一つ「田辺寄席」が出来たかのようでした。3年前の月3回公演以後は、月400人近くになり、年間4500人の方が来られるようになりました。「神戸出前田辺寄席」や「田辺寄席in寺西家」「どっぷり昭和町」等も加えると、年間6500人の人達と笑いを共有する事になりました。そのような中で、35年目、500回記念を迎えられるのは素晴らしい事だと思っています。

 

〔田辺寄席は地域寄席ー地域を離れては存立の意味はない〕

    〜「島之内寄席」と「田辺寄席」の基本的な相違点〜

 

「田辺寄席も阿倍野青年センターが廃止になるのなら、『島之内寄席』のように、会場を転々としてでも続けていくべきだ」の善意と励ましの声も何人かから聞きました。

「落語定席が無い上方落語は滅亡していく」との思いから、上方落語協会会長・六代目松鶴師の主導で、南区(現中央区)千年町の島之内教会で、1972年2月より、「島之内寄席」を(月5日興行)開催されました。会場側の都合で、田辺寄席が始まった2年後にはなくなりました。

 その後は「島之内寄席」は会場を転々としました。1974年4月、心斎橋ブラザーミシンビル、12月には船場センタービル、1975年6月、ダイエー京橋店(月3日興行に)。1984年4月、南区畳屋町・料亭「暫」に、1987年、心斎橋CBカレッジ(月1日興行に)、

1993年、天王寺一心寺シアター、1996年、ワッハ上方レッスンルーム。2005年、ワッハホールへと会場を移しながらも、継続して開催されてきました。

 その「定席」へのひたむきな思いと、六代目が作り出した「島之内寄席」は決して絶やしてはならないという粘り強い思いも、60年を経ての「定席」復活への大きな力になったものと思われます。

 このように「島之内寄席」は、上方落語協会主催であり、定席復活への「シンボル的寄席」なのです。「島之内」という「冠」はあっても、地域にこだわる必要など一切ないのです。

 しかし「田辺寄席」は違います。「田辺寄席」は「地域寄席」なのです。田辺寄席の誕生から現在まで、「田辺」という地域にこだわり続けた35年でもあります。

 「ホール落語」に通い続けていた頃、ふと、身近に生活する地域にこそ、「笑い」と「うるおい」が大事なのでは。庶民の生活の悲喜こもごもを鮮やかなまでに描き出す上方落語は、生活の真只中でこそ聞くべきではないか。家族ぐるみ、親子連れ、子ども同士が気楽に聞ける寄席は、日々生活する地域にこそあるべきではないか、との思いが駆け巡りました。それらが、「田辺寄席」誕生のきっかけになりました。

 

〔田辺の地域について〕

 

「寄合酒」0710月号の「参加者の声」に「阿倍野なのにどうして田辺寄席?」という質問がありました。

 〜32年前、(田辺寄席開席一年後)、東住吉区山坂2丁目から、今の阿倍野青年センター(阿倍野区桃ケ池町)に会場を移した時も、「阿倍野区に移るなら『田辺寄席』の名前を変えなければいけないという意見がありました」。会場の最寄り駅がJR阪和線「南田辺駅」なので、「田辺寄席」のままでいいという事になりました。

 又、この地域は元々、「田辺村」「田辺町」と呼ばれていた所です。田辺の町の氏神ー山阪神社(田辺西神)の氏子の範囲にもなっています。この地域の小学校・長池小学校は「田辺第二小学校」として誕生しています。今、田辺の郷土野菜「田辺大根」を全校挙げて栽培し、毎年12月には、「田辺大根祭り」も行っています。このように「田辺」とは最も深い関係の地域です。

 田辺とつく地域は、東住吉区では、「北田辺」「田辺」「東田辺」南田辺と四つあり、阿倍野区には「西田辺町」があります。駅では、地下鉄御堂筋線「西田辺」、谷町線「田辺」、JR阪和線「南田辺」、近鉄南大阪線「北田辺」。その全てが阿倍野青年センターから徒歩15分以内です。このような地域で、33年間開催しているので、阿倍野・東住吉「田辺寄席」と名乗っているのです。〜と答えました。

 

〔阿倍野青年センター

  〜新しい名称と体制で存続を!〜〕

 

 (素案)が発表されて以来、田辺寄席参加者だけでなく、毎日のように利用されている卓球、空手、ダンスサークル等の方達も、本当に心配されています。特に卓球利用者の人達の心配は大変なものです。「青年センターに来ていなかったら、みんな病院通いだ」と話されます。健康の増進にもつながり、生きがいにもなっています。阿倍野青年センターは、創設直後から、あらゆる年代の方が集まる施設でした。地域の拠点施設として、多くの世代の交流の場でもあったのです。今はそれにふさわしい名称と体制にすべき時なのかも分りません。利用者と地域の人達の力と英知を集めあい、みんなで協力運営しあうようなそういう施設を、大阪市と協働して作り上げて行きたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。                            敬具

     2009年2月4日(立春)

 大阪市長・平松邦夫様

                            田辺寄席世話人会

                                  大久保 敏

(追伸)

 この手紙には個人的なことは書いておらず、多くの方に知ってもらいたい内容でもありますので、

「拝啓 大阪市長・平松邦夫 様」

のタイトルで、田辺寄席ニュース「寄合酒」(2009年2月号)、「田辺寄席公式ホームページ」にも掲載させていただきました。よろしくご了承下さい。