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日本スプリントのカリスマ
末續 慎吾 (ミズノ)
出場種目
200m
data
27歳
1980/06/02生
178cm・68kg
末續 慎吾

世界陸上写真

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  • 末續慎吾
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▼自己ベスト
100 m・10秒03(2003年5月5日)=アジア歴代3位、日本歴代3位
200 m・20秒03(2003年6月7日)=アジア&日本記録

▼世界陸上出場 4回目
05ヘルシンキ大会 200m準決勝3組6着(20秒84)、4×100mR8位(1走)
03パリ大会200m銅メダル(20秒38)
01エドモントン大会200m準決勝2組6位(20秒39)、4×100mR5位(2走)

▼主な戦績
07日本選手権200m優勝(20秒20)
06日本選手権200m優勝(20秒37)
05アジア選手権 100m2位(10秒44)、4×100mR優勝
04アテネ五輪100m2次予選1組5着(10秒19)、4×100mR4位(2走) 04日本選手権100m優勝(2連覇)
03日本選手権100&200m優勝(100mは初優勝。200mは2連覇)
02アジア大会200m優勝、4×100mR2位(2走) 02日本インカレ100m優勝
01日本選手権200m優勝(02年は故障で欠場)
01東アジア200m優勝、4×100mR1位(4走)
00シドニー五輪200m準決勝2組8位(20秒69)、4×100mR6位(3走)=38秒31・アジアタイ

▼WhoAmI
 2003年世界陸上パリ大会男子200 m銅メダリスト。ハードル種目を除く短距離種目では、五輪を通じても日本人初のメダル獲得の偉業を達成した。20秒03の自己記録はアジア記録。2006年は連戦のなかで20秒25の自己3番目の好タイムを出したほか、アジア大会は確実に2連勝を達成。日本短距離陣のエースとして、世界陸上大阪大会でも活躍が期待されている。
 2000年に200 mで学生記録を2回更新し、シドニー五輪ではいきなり準決勝進出。3走を務めた4×100 mRでは、途中で脚を痛めながらもバトンをつなぎ6位入賞を果たした。当時大学2年生だったが「陸上競技で生きていくために、シドニー五輪というチャンスを逃したくなかった」と、強い意思があった。大学1年から2年にかけての冬期で、「猛練習を行った成果」だという。
 2001年の世界陸上エドモントン大会でも準決勝進出。このシーズンから高野進コーチの理論の理解度が高まり、走りの技術が洗練されていく。エドモントンのレース終盤でトップ選手たちに引き離された経験から、高野コーチとともに“なんば走法”を考案し、03年のアジア新と銅メダルに結びつけた(最近は“二軸走法”と表現することが多い)。
 2004年は末續の「世界一速い男に挑戦したい」という小さい頃からのこだわりで、100 mに専念したが、大会前から足底に痛みがあり、アテネ五輪は2次予選止まり。2006年は「スプリンターとしての器を大きくする」という狙いで、400 mに出たり、あえて連戦となるスケジュールをこなした。
 今年は「見ている人に感動を与えられるのは、自分が成績を残すこと」と、得意種目の200 mに絞って世界陸上に挑戦する。2003年と同じパターンで、日本選手権の次の出場は世界陸上と試合数も絞る。末續が力を一点に凝縮したときのパワーはすさまじい。本人の目標はあくまで決勝進出だが、一気に19秒7〜8台を出してメダル争いに加わる可能性もある。

▼TOPICS
熊本県出身 九州学院高校→東海大学→東海大学大学院→ミズノ

●目標はメダリスト…「ファイナリストを目標にしたら、その時点で壁を作っていることになり、ファイナリストにもなれない」
●9秒台&19秒台…同様に、記録的にも9秒台と19秒台を壁とは思っていない。「9秒台と19秒台を“超えなければならないもの”とは感じるが“壁”と感じたことは一度もない」。卒業論文のタイトルは「9秒台と19秒台へ向けてのアプローチ」
●“走る腹筋男”…1日2000回の腹筋をすることで有名(3回くらいに分けて行う)

●世界陸上パリ大会200m銅メダル・・・五輪・世界選手権を通じて短距離種目でアジア選手がメダルを獲得したのは1900年パリ五輪男子200mノーマン・プリチャード(IND)の銀以来103年ぶりの快挙。「手の震えが止まりません。結果が3位とわかるまで、正直、生きた心地がしなかった。1回見ても信じられず、何回も見て3位ということを確認しました」
表彰式では「込み上げるものを抑えるのに苦労しました。アメリカの国旗が2つあって、隣に日の丸があって・・・。あんな場面、想像できないです」「夢じゃないように、メダルを首にかけたまま寝ました(笑)。朝起きて、もう一度手にした時、『あ、夢じゃなかったあ』と少しだけ実感が湧いてきました」

●なんば走法・・・なんばとは日本の古武術の動きで、同じ側の手脚を同時に出す動作のこと。この動作にヒントを得て、力を入れるタイミング(左脚と左腕に同時に力を入れることで手脚の動きのズレを修正する)を磨き、ラスト20mを走り切るためのテクニックを身につけた。小学生のときに空手をやっていたため連動した動きが得意だった。
●「ボクが陸上競技を始めた頃は『日本人に短距離のメダルは絶対に無理』と言われていました。メダルを取って当然といえる時代の先駆者になりたい」

●家族構成・・・父・陽一郎、母・和子、兄・誠(3歳上)、妹・香織(3歳下)。両親ともに理容師。末續が東海大に進学した99年6月に両親は離婚。「自分が頑張ればまた一緒に暮らせる」と願うも、00年2月父・陽一郎さんが急死。
●幼稚園時代からの夢・・・幼稚園の運動会では他を圧倒する走りに祖父も大興奮。「幼稚園の頃からオリンピック、オリンピックって言っていたように思うんです」
●“もっこす”・・・熊本人の意地っ張りを表現する言葉。周りをにぎやかにする、ひょうきんさと“もっこす”こそが末續の持ち味。
●小学生の頃は熊本市陸上クラブに入り、全国小学生リレー大会へ走幅跳で出場した。4m85で予選落ちするが、その年女子走幅跳で池田久美子が5m14を出して優勝。
●中学時代・・・1年の頃は競技としての陸上へ戸惑いを感じ、練習をさぼり気味。3年時には全日中には出場できなかったものの、九州中学選手権で2位。そのとき、スカウトされて九州学院高に進学を決める。
●00年の関東インカレで200mのA標準を突破しシドニー五輪代表に内定。
●世界デビュー…東海大1年時にアジア・ジュニアに出場、100 m3位。大学2年の4月に手動計時ながら200 mで20秒4をマーク。5月の関東インカレで20秒67の学生新。9月のスーパー陸上で20秒26の日本歴代2位。9月末のシドニー五輪で準決勝進出。
●04年アテネ五輪100m・・・前年の世界陸上パリ大会200m銅メダルの栄光を捨て、世界最速を決める100mに絞って臨んだアテネ五輪で2次予選5着敗退。「どんな結果でも100mをやりたかったし、僕の選んだ道ですから」
●完敗だったが失敗ではない・・・アテネ五輪のとき、外反母趾の具合が悪くなっていたことを明らかにした。
●「9秒台を狙います。それがメインテーマです」・・・これまで9秒台とかファイナルとか結果だけを見て振り回されていたし、自身でも振り回していた。「純粋に足が速くなる方法に向かえばいいんじゃないかな」だが、9秒台だけでは世界と戦えない。「9秒台を出すことは便秘みたいなもの。出しておかないと体に悪い」北京五輪でのメダルに向けての1ステップにすぎない。
●世界陸上ヘルシンキ大会・・・準決勝では、ゆっくりとした飛び出しの後、徐々に加速。コーナーからスピードに乗っていく走りを見せたが、最後で勝負ができず、6着(20秒84)に終わった。
●01年エドモントン、03年パリ、05年ヘルシンキと3回連続で準決勝以上に進出している。
●06日本選手権・・・2年ぶりの日本選手権。200m1本に絞り、20秒37で3度目の優勝。「20秒2台が出るかなとも思いましたが、東日本実業団の怪我もあって、今季(06年)初戦みないなものですから。多少バランスが崩れたところもありましたけれど、いい走りができました。」

●06年の主な競技結果
7/1 日本選手権 200m 20秒37 優勝
7/14 GLローマ 100mB組 10秒35 8位
7/16 フィンランド 200m 20秒69 優勝
7/19 ベルギー 200m 20秒25 優勝
8/12 熊本国体最終予選会 100m 10秒41 1位
12/11 ドーハアジア大会 200m 20秒60 金メダル、4×100mR銀メダル(2走)

●07年の主な競技結果
5/5 GP大阪 100m 優勝(10秒23)
6/30 日本選手権200m優勝(20秒20)

2007年8月30日更新