無音の想い出                        

 想念を働かせ時間をさかのぼる。こころのなかに、ある風景がだんだんと像を結んでくる。緑の草地。甘い土の香り。池から流れ出る小川のせせらぎ。しかし、そこには音がない。無音の世界。まだ二十代だった母親がいる。のどかな昼下がり。突然の暗転。黒蛇に足を噛まれた母のところに、やはりまだ二十代だった父親が駆けつける。傷口を締めつけるハンカチの白さ。明るい自然を背景に浮かび上がるひとつの記憶。私が四歳のときの想い出だ。

 この夏のある日、私は仕事を終えてから京都へ向った。七十歳を超えた両親から私の生まれた土地へ行こうという誘いがあったからだ。インターネットで「有田光雄の民主経営論探求」というホームページを公開している父の構想は、この情報根拠地を充実させるとともに、「家の履歴書」という冊子を書くことにある。結婚してから十六回の転居。「引っ越しの専門家」とは父の言葉だ。朝鮮戦争に反対することが「アカ」と呼ばれ、社会的排除を受けていた時代の人生。転居の回数はそれだけで勲章なのかもしれない。

 翌朝。弟の運転で「周山」に向う。渋滞気味の京都市内を抜けると、山あいの木々の緑が心地よい。「目には青葉」の季節。「福知山はどうする」。弟の言葉に「何時間もかからないから時間があれば行ってみようか」と母が答えている。私はあれっ、と思った。おかしい。周山町(現・京北町)。それが私の生まれた土地だ。車中ではまだ道程について会話が続いている。往復すれば時間が掛かりすぎる、だから今回はやめておこう。そうしたやりとりを聞いていた私は不安になり、やがて愕然とした。私はどこで生まれたのか……。

 一九五二年二月二十日。私の誕生にあたって父は日記にこう記している。「私は生まれてくる私の子どもを私の最良の精神状況の下に迎えるために、『中央公論』の諸論文を読みながら、その瞬間を待った。”再軍備に反対する””ある共和主義者の死””自白を裁く―松川事件を中心として”などを読みながら」(有田光雄・有田和子『わが青春の断章』、あゆみ出版)。このとき父は二十二歳。敗戦から復興へと向っていた日本。前年九月には対日講和条約と日米安保条約が調印され、私が生まれた二か月後に発効している。吉田茂首相が「自衛のための戦力は合憲」と答弁し、国会が紛糾した時代。いま年表を見れば、数行の文字が記されているだけだ。だがその記録の内実には数えきれない人間の苦悩と行動、そして挫折があった。歴史の意味とは本来そういうものだ。農林省に就職したものの、朝鮮戦争に反対したため、三か月でレッドパージされた父は、米屋の配達夫などをしたのち、山口県から京都へと転居する。一九五一年六月二十三日付けの日記に、父はこう書いている。「六月二十四日、午前九時二十分京都駅着。いよいよ新しいたたかいの土地、京都だ。これから京都に生きて京都でたたかうのだ」。それから八か月のちに私の人生がはじまった。

 そのころの両親の住み処は北桑田郡の周山町だった。物心ついてからの私の理解もそうだった。ところがどうしたことか。私が生まれてから転居をした福知山市と周山町とが同じ場所だと思い込んでいた。しかもこの初夏までずっと。生まれ故郷を聞かれたとき、私は何の疑いもなく福知山だと答えてきた。思い込みの怖さ。記憶の重なり。京北町に向う車中。私はその錯誤を伝えた。みんな笑っていた。この旅行がなければ、私はずっと「福知山生まれ」だった。さて蛇の想い出だ。私の記憶では福知山。恐る恐る母に電話をすると、そのとおり、福知山での出来事だった。私は少しだけホッとした。

(『子どもと教育』2001年12月号)

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