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琉球処分官、松田道之の書簡発見2009年12月8日  このエントリーを含むはてなブックマーク Yahoo!ブックマークに登録 twitterに投稿する

琉球へ行く直前の1879年3月5日の松田道之の書簡。出発日や人数などを記している
       松田 道之
見つかった滋賀新聞。4行目後半から「琉球王ヨリ薩州ヘ愁訴シ復讎ノ意ヲ含ミテ出仕セリト風説アリ」と確認できる

 琉球を廃し沖縄県を設置したときの琉球処分官・松田道之(1839〜82年)が、1879(明治12)年3月の来琉直前と帰京後に書いた直筆書簡がこのほど、古文書収集家の和田正義さん(65)=那覇市=によって発見された。
 さらに72(同5)年、琉球が明治政府に派遣した維新慶賀使が、明治政府に対し台湾出兵を求めたとみられると記述する「滋賀新聞」も見つかった。
 中琉日関係史を専門とする西里喜行沖縄大教授は「松田の私的な面が垣間見えるもので、非常に貴重で面白い資料だ」と話しており、松田の人物像や琉球王国末期の歴史を掘り下げる資料として今後注目を集めそうだ。(高良由加利)

◆精神的負担 赤裸々に/“琉球情報”国内で操作 滋賀新聞
 今回見つかった琉球処分官・松田道之の直筆書簡と、「琉球処分」の契機となった「台湾出兵」に関連する「滋賀新聞」の記事からは、日本へ併合される前、琉球の情報が日本国内で操作されたことなど、当時の琉球王国を取り巻く情勢が浮かび上がる。
 書簡は松田の滋賀県令時代の部下で同県の大書記官だった酒井明(後に徳島県知事)にあてたもので、沖縄県設置を宣告するため横浜港から琉球へ出発する直前の1879年3月5日と帰京後の同年8月10日に書いている。
 3月5日付には「小生ハ五十名以内之属官ト百五十名之巡査ト三百名之兵員トヲ引率シテ来ル十二日横浜出発」とあり、帰京後の書簡には返信が遅れたことをわびた上で「病にかかり、吐血や半面痛に襲われ、医者からは精神的なことはすべて忘れるよう強く言われた」旨を記している。
 一方、「滋賀新聞」は、72年10月に大阪に滞在していた琉球の維新慶賀使に触れている。71年、台湾に漂着した琉球人54人が殺害された事件について「琉球王ヨリ薩州ヘ愁訴シ復讎ノ意ヲ含ミテ出仕セリト風説アリ」(琉球王が薩摩へ訴え、復讐(ふくしゅう)してほしいと伝えるために東京へ行ったとのうわさがある)とし、「琉球処分」の契機となった74年の「台湾出兵」が琉球の希望だったように記述している。
 実際には、琉球は最後まで台湾への出兵に反対していた。
 西里喜行沖縄大教授は、75年にも来琉した松田が日本専属を強要し、琉球の強い反発を買い決着を見なかった出来事に触れ「松田は75年当時、2カ月にわたり論争し、暴動的な状況を経験している。手紙の病気の描写は返信が遅れた言い訳かもしれないが、79年の『処分』時にストレスは相当あっただろう。琉球が台湾への報復を訴えたという記事も、琉球に関する情報を日本が操作した一端を示すものと考えられ、非常に興味深い」と述べ、今後の研究に期待を寄せた。
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<用語>松田道之
まつだ・みちゆき 明治時代の内務官僚。1872年初代滋賀県令。明治政府の琉球処分官として75年7月14日に首里城で「琉球処分」の方針を伝えた。79年3月27日、軍隊と警察官を伴い首里城へ乗り込み琉球王国を廃し、沖縄県設置を宣告。同年、東京府知事に就任。


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