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【蹴球探訪】

初めてW杯予選を戦ったサムライ<後編> 

2010年5月21日

世界サッカー選手権大会極東予選、韓国戦の第2戦にメガネをかけて出場した、異色の神主GK・渡部英麿さん

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◆眼鏡かけたまま足元へ突っ込んだ

 第1戦から先発メンバーは8人入れ替わったが、その中に1人だけ眼鏡をかけた選手がいた。背番号「1」、当時29歳のGK渡部英麿(85)だ。広島出身で中国電力に勤めるかたわら、本職は神主という、異色の全日本(日本代表)のGKだった。

 1954(昭和29)年3月14日。世界サッカー選手権大会極東予選第2戦の韓国戦は午後2時に始まった。快晴のもと、明治神宮競技場は1万2000人の観客で熱気を帯び、1週間前に極寒の中で1−5で大敗した第1戦とは様子が違った。劣悪だったピッチも乾き、状態は良好だったという。

 「当時、わしは眼鏡をかけたままプレーしよった。視力は0・0ナンボだから、眼鏡をかけんとプレーできん。コンタクトレンズはあったかもしれんが、わしの財力じゃ、よう買わなんだ。眼鏡をかけたまま、足元へ突っ込んで行ったけど、壊れたこともケガをしたことも一度もない。サッカーが今のように激しいスポーツじゃったら、眼鏡をかけたままじゃとてもできんかったけどね」と渡部は振り返る。

 実は第1戦でも竹腰重丸監督は、当時としては長身だった173センチの渡部を先発させることを考えていた。試合前日、当時40歳でチームの中心的存在だった川本泰三が渡部に聞いてきたという。

 「試合中、眼鏡に泥がついたらどうするんや、とね。『広島ではその辺の水たまりでチャチャと洗ってます』と答えた。川本さんは『ほうか(そうか)』とそのまま黙ってしもうた。あとで考えたら関東の黒土の泥がついたら、洗っても取れません。広島とは土の質が違うから」

 結局、竹腰監督は、身長は高くないものの、機敏なGK村岡博人を先発させた。しかし結果は大敗。もし天候とピッチ状態が良く、渡部が先発していたら結果は違っていたかもしれない。

◆4年前“憧れの地”スイスへ『ここへ来とったのかも』

韓国戦の前後に合宿していた東京大学のグラウンドで撮影された、当時全日本と呼ばれた日本代表の集合写真。後列左のメガネをかけているのが渡部英麿さん。グローブがいまとはかなり異なるのが分かる。ほとんどの方が鬼籍に入られた(渡部英麿氏提供)

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 序盤から日本は再三、両サイドからクロスを入れ、好調な滑り出しだった。「当時のルールは、スコアは関係なく、1勝1敗なら再試合。勝てばもう1回できる。やろうやと、チームはまとまっていた」と、渡部は述懐する。

 前半15分に岩谷俊夫(毎日新聞記者、70年没)が先制。しかし、その後は韓国の猛攻を受けて2失点。後半、守備的になった韓国相手に加納孝(早稲田大卒、00年没)が同点ゴールを奪って2−2。終了5分前に川本が決定的なシュートを放ち、決勝点が決まったかと思われたが、ゴール前でクリアされた。第1戦に出場して“戦犯”と非難され、この第2戦はベンチで見ていたDF山路修は言う。

 「ゴールの中からけり出しよったんだが、審判が認めなかったんです。川本さんは『あれは絶対に入っとった』と悔しがってた」

 試合は2−2のまま終了し、1分け1敗で日本は敗退。韓国は初めてW杯出場権を得た。

 それから3カ月後、韓国は54年スイス大会初戦でハンガリーに0−9で大敗。続いてトルコに0−7で敗れ、敗退した。つまり、それだけ当時のアジアと世界の差は大きかったのである。

 一度、世界を知った韓国はその後、86年メキシコ大会予選で日本を下して2度目の出場を果たした。以来、2010年南アフリカ大会が7大会連続8度目の出場である。一方、日本はその後、韓国になかなか勝てない時代が続いた。W杯へは98年フランス大会で初出場を果たし、今大会で4大会連続4度目となる。

   ◇

 渡部は4年前、06年ドイツ大会を観戦したとき、どうしても立ち寄りたい場所があった。「スイスへ行きたかった。どうしてもね。初めて行きました。スイスの山々を見てね。見るたびに、ここへ来とったのかもしれんと。そう思ったですよ」。日本のサッカーの礎となった、初めてW杯予選を戦った19人のサムライたち。すでに15人が鬼籍に入った。 (原田公樹)

 ▼渡部英麿(わたなべ・ひでまろ) 1924(大正13)年9月24日、広島生まれの85歳。広島一中を卒業し、復員後に国学院大学卒。家業である広島市内の邇保姫神社の神主を務めるかたわら、似島中教員、中国電力を経て、山陽高の教員を務める。同校ではサッカー部監督として67年に高校選手権で初優勝へ導く。宮本輝紀ら多くの日本代表選手を育てた。

(2010年5月21日 東京中日スポーツ紙面より)

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