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大和」艦橋から見たレイテ海戦

都竹 卓郎

1 プロローグ

昔ある雑誌に書いたことがあり、今も矢張りそう思っているのだが、戦争の話を精確に語り伝えることは非常に難しい。特に話題が広い局面に関わり合っている場合は、検証すべき資料や記録が大幅に増え、それ等をきちんと繋ぎ合わせて、話の筋道を辿る「思考回路」に、兎角「配線ミス」を生じ易い。戦後は、戦時中一切不明だった相手方の状況が、なまじ種明かしされたことから、何もかも判ったかのような安易な気分が蔓延し、却って書き手の側の軽率な独断を助長して来た嫌いがなくもない。

標記のレイテ海戦については、左近允がニュース92号で、所謂「栗田艦隊の反転」を取り上げ、数々の論評の中にこの手の「短絡思考」が少なからずある事を、具体的事例を挙げて指摘している。

この問題は、当時旗艦「大和」の通信士として、丸3日間栗田長官の数メートル後方で、発着電報の処理と通信指揮室との連絡に携わりながら、一部始終を否応なく目撃する立場にあった小生に取っても、当然重大な関心事であり、戦後も自分なりに内外の関係文献に目を通すように心掛けて来たので、屋上屋を架する感もあるが、この機会に改めてその総括を試みることとした。故加藤孝二の熱意と献身で始まった当「なにわ会ニュース」も、近く100号で終刊という含みであり、今の内に書き留めて置こうという、「駆け込み心理」に促された面も若干ある。

この稿を書くに当たって一番役立ったのは、昭和191125日付の「軍艦大和戦闘詳報第3号」であった。

この報告の前段は、艦橋で私の傍にいた庶務主任板垣主計少尉(故人)が、逐一書き留めていた戦闘記録がいわば台帳となっており、その時々刻々の経過を、私自身の記憶と付き合わせながら辿ってゆく上に、大きな助けとなった。

中段の令達報告欄は、発着電報(つづり)と信令綴から起こしたのであろうが、仔細に点検すると案外な欠落もあり、必ずしも完(ぺき)とは言い難い。

然し、電報関係は幸い私自身が役目柄残らず目を通しており、戦術判断が主の上級司令部の報告も併用して、補完的に使えば、全体を見通す上に必要なデーターの半分に当たる味方側の情況はほぼ把握できる。

余談ながら、最後段に書かれている各科の戦訓は、当然細かい話が主で一般の関心は薄いが、成程と感じ入る点も多く、私には結構興味深かった。

残り半分の敵側の情況は、戦後公表された米国の史料から読み取るわけだが、私が参照した文献は(なま)の1次資料ではない市販の著書で、細部については記述の不備とか、独り合点と思われる箇所もある。然し、当時は全く判らなかった相手方の、動きや考えが色々書かれており、目か(うろこ)の思いがするも多かったことはいうもない。

一方、日本側の著作も一長一短で、十把一からげに扱うわけにはゆかないが、きめの粗い「思い込み先行型」の論調の含有率が、外国のそれよりは高めのように感じられた。

 

 シブヤン海の激闘 

昭和19年6月のマリアナ海戦後、日本海軍に残された唯一の海上決戦兵力となった第1遊撃部隊(第2艦隊)が、捷1号作戦の発動により、マラッカ海峡南端のリンガ泊地から、ボルネオ島北岸の前進根拠地ブルネイ湾に進出したのは1020日、翌日全艦への給油を終え、中部フィリピンのシブヤン海、サンベルナルジノ海峡経由の北回り航路をとる本隊32隻(栗田艦隊)と、スルー海からスリガオ海峡へと南寄りに進撃する支隊7隻(西村艦隊)とに分かれ、25日早暁レイテ湾への同時突入を期して、出撃したのが22日であった。

本隊は翌23日未明、パラワン水道で敵潜水艦2隻の襲撃を受け、艦隊旗艦「愛宕」と「摩耶」が沈没、「高雄」大破という災厄に会ったが、栗田司令長官、小柳参謀長らの首脳は駆逐艦「岸波」に救助され、夕刻「大和」に移乗して将旗を掲げ、24日早朝にはシブヤン海の西の玄関口、タブラス海峡の南端まで進出した。

これ等の動きは、23日の薄暮ミンドロ海峡を南下中の栗田艦隊を、別の米潜水艦が発見していた事から、いち早く敵側に察知された。

38機動部隊の総指揮官ハルゼー大将は、補給の為ウルシー泊地に向かっていたマッケーン中将の第1空母群には反転合同を、残る第2、第3、第4群の空母11隻には、シブヤン海全域を攻撃圏内に収める地点への移動を命じ、着々と迎撃シフトを整えていた。ちなみに、ハルゼー提督自身は戦艦「ニュージャージー」に()乗し、ボーガン少将指揮の第2空母群(ボーガン隊、以下同様)を率いて、シブヤン海の東口を(やく)するサンベルナルジノ海峡沖に急行した。 


2A 第2空母群ボーガン隊による序盤の攻撃

24日終日、栗田艦隊に加えられた激しい空襲は、このボーガン隊の空母「イントピレット」、「キャボット」を9時10分に飛び立ち、1025分に来襲した第1次攻撃隊44機によって火(ぶた)が切られた。

対空戦闘は25分続き、宇垣第1戦隊司令官の日誌「戦藻録」の表現を借りれば、「2,3機落として大したことなしと見えた」が、「妙高」が魚雷を受け落伍、「武蔵」も被雷したが損傷軽微で進撃を継続した。

次いで、正午時過ぎに来襲した第2波35機も、同じボーガン隊の雷爆混成の攻撃隊で、「武蔵」は更に魚雷3本を受け、最高速力22ノットに低下し、艦首もやや沈下気味で前途多難を思わせた。

この日の栗田艦隊は、「大和」を中心とする第1部隊と、「金剛」を取り巻く第2部隊との、二つの輪形陣を組んでいたが、「大和」、「武蔵」がずば抜けて大きく見えた(おかげで「長門」を大型巡洋艦と見誤った)事から、初め2回の攻撃は専ら第1部隊に指向され、第2部隊は殆んどその圏外に在った。

後知恵を承知で敢えて言うのだが、この際1戦隊、3戦隊などという建制区分を超えて、第1部隊の「武蔵」と第2部隊の「榛名」を入れ替え、さらに「武蔵」を第2部隊の輪形陣の中央に据えて、両部隊を同じ形にすれば、敵の攻撃も均等に二分され、この虎の子戦艦を失わずに済んだのではという気がしてならない。現に、6月のマリアナ海戦の前衛部隊では、同じ第1戦隊の「大和」と「武蔵」が、それぞれ別の空母を囲む輪形陣に入り、3番艦「長門」は遠く本隊の2航戦の直衛につくという前例が、既にあったことを併記して置く。

 
 
2B
 第3群シャーマン隊からの強力パンチ

第2波が飛び去って40分後、1325分に来襲した第3波は、マニラ東北東のポリリオ諸島沖にいたシャーマン少将指揮の第3空母群の「エセックス」、「レキシントン」を発艦し、ルソン島南部の東に伸びた地峡を越えて飛来した、総数68機の大編隊であった。

 南北に長く布陣した第38機動部隊の、最北端にいたこの空母群(シャーマン隊)は、我がクラーク基地にも近く、8時頃から相次ぐ日本機の来襲に(さら)され、9時30分には軽空母「プリンストン」が被弾、大火災(後に沈没)という状況に立ち至った為、栗田艦隊に対する空襲はこの時刻まで遅延したわけである。

然し、その攻撃は極めて鋭く、「エセックス」隊は第1部隊、「レキシントン」隊は第2部隊に殺到して、「大和」は各2発の直撃弾と至近弾を受け、動きが鈍っていた「武蔵」は、更に魚雷1本(計5本)と爆弾4発が当たり、遂に輪形陣外に脱落した。

丁度その頃、これ等の敵機の帰投先であるシャーマン隊の空母に、今度は小沢艦隊の旗艦「瑞鶴」の、爆装零戦隊20機が襲い掛かっていた。この攻撃については1240分頃、「可動全力76機発進、ラモン湾東方、地点略号フシ2カ所在の敵を攻撃」する旨の入電があったが、進撃中に分散し、目標に到達出来たのはこの編隊だけだったらしい。この時期の米空母群の防空能力は極めて高く、4発の至近弾を与えるに止まったが、シャーマン隊は次の攻撃隊を送り出すタイミングを失い、その分栗田艦隊の損害の累増を未然に防ぐ、間接の効果はあったといえよう。

結局、第38機動部隊の4空母群のうち、この日の我が航空攻撃に捕捉されたのはこの第3群だけで、直撃弾も「プリンストン」を沈没に導いた1発のみであった。

ないものねだりになるが、この日の基地航空部隊の攻撃が、栗田艦隊を3回も空襲したボーガン隊に、一つでも取り付いていたら、シブヤン海の戦況もやや変わっていたかも知れない。

なお、前記フシ2カの敵に関する電報は、「大和」電信室には着いたが、艦橋に届いていないという「怪説」があり、結構著名な人物の書物にも載っている。これについては、当時の海軍の通信システムの説明と併せ、後で改めて触れる。


 2C 第4群デビッソン隊の見参

第3波が去った後、30分と置かず来襲した第4波25機は、早朝スルー海の西村艦隊攻撃に派遣した飛行機隊を収容後、急遽北上して来たデビッソン少将の第4空母群が、1315分にサマール島沖から我々に向け放った65機の内、いち早く編隊を組んで先行した、「エンタープライズ」搭載機の(てい)団であった。

一般に、攻撃される側が来襲機数を精確に数えることは難しいので、ここまでは米空母の発進時刻と機数の記録を、来襲時刻と付き合わせて記述して来た。スコールが多発する洋上と異なり、シブヤン海は(ぬぐ)ったような晴天で、ほぼ全機が目標上空に到達出来たと推定したからである。

ところが第4波以後は、空母群までの距離と来襲の時隔が詰まり、こうした照合が困難になってしまった。事実、1426分から始まった対空戦闘が一応終わり、速力を第1戦速(18ノット)に落として10分とたたぬ15時には、早くも第5波が電探に映り第4戦速(24ノット)に増速、激しい戦闘が再開された。

この空襲は極めて濃密で、日本側の史料には80100機とあるが、「大和」の戦闘記録には機数の記載がない。次々と襲い掛かって来られたため、自艦の動きの記注に追われ、数えている暇がなかったのであろう。

実は、米国側の史料では攻撃回数は6回となっており、日本側の認識より1回多い。前記デビッソン隊の残り、40機の「フランクリン」搭載機から成る後続(てい)団と、ボーガン隊が午前中に放った二つの攻撃隊を収容した後、新たに編成した第3次攻撃隊(40機以上)が、偶然ほぼ同時に来着したため、我々には一塊りの第5波と見えたらしい。正直な話、第3波が来襲した1325分から、第5波が飛び去る1525分までの2時間は、ほとんど休みなしに戦い続けたというのが偽らざる実感であった。

この大空襲で、「大和」が、錨甲板を貫通した500ポンド爆弾により、艦首左舷の水線部に破孔を生じたほか、各艦とも相当の損害を被ったが、輪形陣の後方に孤立していた「武蔵」は、集中攻撃を受けてほぼ停止状態に陥った。   

米国側の資料によると、この日栗田艦隊に対する攻撃に直接参加した敵機は延261機、一方この時点で進撃を継続出来る我が方の残艦は23隻、ブルネイ出撃時の32隻から3割減のレベルまで減少していた。

 

3. 反転と再反転

3A 反転決断をめぐる経緯

第5波の空襲が漸く終った1530分、艦隊は輪形陣のまま、290度方向に一斉回頭を行い、速力18ノットで西進し始めた。この反転は、

@ 激しい空襲を冒しここまで進出したが、味方の航空攻撃は奏効せず、敵機来襲の頻度も機数も増大する一方である、

A 1821分の日没まで尚3時間もあり、このまま進むと、幅7kmの輪形陣の保持が困難なマスバテ水道付近の狭(あい)海面で、空襲を被る公算が高いこと等から、一旦敵との間合いを広げ、戦況を見極めようとしたもので、16時にこれらの所見を具した報告を聯合艦隊あてに打電した。

このうちAは、海図と時計を見れば、私のような若年士官でも、容易に判断のつく当然の措置であったが、@は作戦構想と現実の様相の著しい乖離(かいり)という、深刻且つ根本的な問いかけであった。

 24日は航空総攻撃が予定されており、我々のエア・カバーに力を割き難い事情は判るとしても、終日1機の来援もなかったことに対する憤(まん)も、文面に込められていたように思える。シブヤン海を瀬戸内に例えれば、広島、岡山、松山等に幾つも飛行場を持ちながら、目の前を通る味方の艦隊が、遠く土佐沖あたりから飛来する敵空母機に、散々叩かれているのを見殺しにしたことになる。セブ島のパゴドロには、洋上は飛べなくても陸地沿いなら飛べる、陸軍の戦闘機だっていたのである。

再び、後知恵を承知で言えば、そもそも栗田艦隊の突撃を作戦の主軸とするのなら、艦隊直属の戦闘機隊を、基地航空部隊の指揮系統とは別に編成し、担当幕僚も置き、常時艦隊の所在海域に近い基地に随動させるよう、手配して置くべきであった。

この日の戦闘に即して考えれば、敵空母群の攻撃圏外に在るフィリピン西岸の基地から、仮に50機余の戦闘機を三分して車掛かりに繰り出し、常時1718機を艦隊上空に配して置けば、敵の空襲には対処し得た。

例え撃墜出来なくても、自由自在な射点の取得さえ妨げれば、敵機のパンチ力は激減するからである。まともな決戦能力を失い、土俵を割りかけていた日本海軍に、こういうヘテロな発想もあってよかったのではなかろうか。

事実、戦艦と巡洋艦に搭載されていた水上機は、ブルネイ出撃前に一括ミンドロ島のサンホセ基地に分派され、海戦時はレイテ湾と周辺海域の偵察に従事した。せめてこれが戦闘機隊であったらという思いを今もって禁じ得ない。

ところで、この海戦の幾つかのクリテイカルな場面での艦橋の様子、とりわけ艦隊首脳の間のやり取りを、よく聞かれることがある。私自身担当の役目があり、そんなことに聞き耳を立てていた訳でもなし、答えようがないのだが、あらましの実景を描写すると、

まず右舷前方の腰掛に栗田長官、左舷の腰掛には宇垣1戦隊司令官(森下艦長はトップの防空指揮所)が座り、長官の傍らには小柳参謀長が立ち、その後方から信号甲板にかけて、津田航海長以下10数人の「大和」の要員が、それぞれ配置についていた。

参謀連は、概ね1段下のデッキに在る作戦室に籠もっていたが、時折山本先任参謀が大谷作戦参謀を伴い艦橋に上がって来て、先ず参謀長と三者協議の上、長官の決裁を取っているらしい姿はよく見掛けた。

 この24日の反転時の有様は、判然とは記憶していないが、当の小柳参謀長自身が「大谷参謀の献言」とはっきり書いているのだから、多分そうだったのであろう。

この西進の途中、艦隊は一時北に針路をとり、落伍した「武蔵」の状況を確認に近接した。あらゆる注水区画が既に満水になったらしく、左に10度ほど傾斜したまま艦首が前のめりに大きく沈下し、御紋章が今にも水に漬かりそうに見えた。「こんなにやられて」という想いに胸を衝かれ、暫し絶句したことを覚えている。


  3B 再開された進撃

「武蔵」には3隻の援護艦を残し、更に西進を続けたが、その内にあれ程激しく攻め寄せていた空襲がぴたりと止み、空も海も先刻までの沸騰状態が嘘のように、いつしか静まり返って来た。こうした情況の中で、進撃再開、120度方向に一斉回頭が下令されたのは1714分であった。

味方の航空部隊の攻撃成果は依然不明であったが、この時刻以後の敵機の来襲は、空母への帰投が日没後になるため、手控えられると踏んだのであろう。事実、4ヶ月前のマリアナ海戦で、6月20日夕刻来襲した米機216機の内、戦闘による損失は20機に止まったのに、帰投時に夜間着艦が出来ず、不時着水した機が実に80機以上にも昇ったのである。

 

その頃、アメリカ側には新たな情況が一つ生まれていた。第3群シャーマン隊の空母「レキシントン」に坐乗していた空母部隊指揮官ミッチャー中将が、早朝から自隊に加えられた一連の空襲を日本の空母機によるのではないかと疑い、北方に放った索敵機が1640分、遂に小沢艦隊を発見したのである。

一方、栗田艦隊の無謀とも思える突撃を見て、むしろ日本機動部隊の側背からの奇襲を警戒していたハルゼー大将は、この報告に過敏に反応し、遠く東方洋上に離れていたマッケーン隊を除く3群、10隻の空母(「プリンストン」沈没で1隻減)全部を引き連れ、奔馬の勢いで北に(ばく)進した。

小沢艦隊は既に搭載機を持たず、米空母群の一つを振り向ければ、優に撃破出来る貧弱な戦力しかなかったのだから、サンベルナルジノ海峡沖をがら空きにしたこの北上は、明らかに誤断だが、その原因の一つは、「栗田艦隊の方は最早再起不能なまでに叩きのめした」という、パイロット達の途方もない誇大戦果報告にあったらしい。

日本側にも台湾沖航空戦の報告のような、とんでもない事例があるが、洋の東西を問わず戦果報告、特に飛行機乗りのそれは、針小棒大になりがちということであろうか。

再反転により、艦隊が再び「武蔵」の傍らを航過したのは、日没後間もなくであった。ややあって西を振り返った時、艦体を左にかしげたまま、まるでびっこを引くような姿で遠ざかってゆく「武蔵」の、真っ赤な夕焼け空に浮かび上がったシェルエットが、今も眼底に焼き付いている。 

       

 全軍突撃せよ

4A 反転電、突撃命令電をめぐる紛議

この栗田艦隊の一時反転は、聯合艦隊司令部に大きな衝撃を与えた。広く知られている電令作372号、「天(ゆう)を確信し全軍突撃せよ」は1813分の発信で、東京通信隊の放送を受信していた「大和」には、1855分に着信した。この時はとっくに再反転を終え、3時間半前の反転地点を越えたシブヤン海東部まで進出していたのだが、特に通報しなかった為、無用の疑心暗鬼を生んだようである。

ここで、92号の左近允論文にも出ている、小島清文という当時「大和」の暗号士であった人物に、一言触れて置きたい。

彼の手記によれば、この日の夕刻ガンルームで食事をとり通信指揮室へ戻ったところ、既述の聯合艦隊宛「反転報告」の暗号化を命じられ、18時に電信室に回付した10数分後に、艦橋の都竹中尉に呼ばれて上がってゆくと、栗田長官から直々、この(1813分発信の)全軍突撃命令は、「こちらの(18時発信の)報告を見て出されたものと思うか」と問われ、「そう思う」旨を答えたというのである。

彼の手記や談話は、いずれも出鱈目だらけだが、取り敢えずこの話に限って間違いを指摘すると、先ずこの時間帯は全員が戦闘配置に就いており、ガンルームで夕食などという悠長な状況ではなかった。又、反転報告の発信は既述の通り16時であって、18時ではない。更に、聯合艦隊の「全軍突撃」命令の発信は1813分だが、着信は前記のように1855分だから、彼が長官の諮問を受けたと称する181520分頃は、「大和」では誰もその電報の存在すら知らなかった。

勿論、私も彼を艦橋に呼んだ覚えはなく、そもそも通信指揮室には、艦隊暗号長の松井利夫少佐(65期)がいて、万事を取り仕切り、ほかに暗号専門の特准士官のベテランが3人もおり、小島氏はそのコマの一つでしかなかった。要するに、自分の存在を殊更大きく見せつけようとする、甚だ悪質な作り話なのである。

小島氏は、海軍の通信系の仕組みを全く知らず、「大和」が聯合艦隊や各艦隊の司令部と、ダイヤル即時通話さながらに、直接交信しているものと、思い込んでいたようである。海戦後、第1航空艦隊司令部に転勤して、翌年ルソン島の戦線で米軍に投降し、帰国してから反戦運動に仲間入りしたらしい。

一時は「不戦兵士小島清文」とかいう名を売り込んで、文芸春秋に寄稿したり、黒柳徹子とのテレビ対談に出たりしたが、やがて鮮度が落ち、故郷の島根県に帰って物故したと聞いている。

それにしても気になるのは、「平和」とか「不戦」とかいう、安直な枕言葉さえ冠して置けば、こんないい加減な「虚言」が堂々とまかり通る(あるいはまかり通らせる)、日本のマスコミ界の(わき)の甘さである。

この風潮は21世紀に入った今も変わっていない。敗戦から62年、占領の終結から55年、とうに駆除して然るべきこの種の病原体を、いまなお抱え続けているこの国の社会は、一体何処に漂着するのであろうか、うたた深憂に耐えない。

初めに戻って、聯合艦隊は一時困惑し、1955分に遊撃部隊宛返信の形で、進撃命令を改めて発信したほか、更に参謀長名の説明電を送ったりしたが、やがて関係電報の傍受結果などから事情が判り、平静を取戻した。我々にとっても敵にとっても、長く激しかった戦いの一日が漸く暮れ、重苦しい殺気を含んだ暗夜の海を、夫々明日の戦場へと向かっていった。

 4B サンベルナルジノ海峡突破

最初の反転位置を東へ通り越した19時過ぎ、艦隊は輪形陣から縦陣に陣形を変換し、月齢7のほの暗い海上を一直線にマスバテ水道に向かった。「武蔵」沈没の報が「浜風」から入ったのは、その途中であったが、もはや感慨に捕らわれている情況ではなく、2035分左に変針して一旦北東に進んだ後、右に変針して南東に向首、次の狭水路テイカオ水道を速力22ノットで航過し、いよいよ太平洋への最後の通路、サンベルナルジノ海峡(以後当時の部内の慣用に従いサンベルと略称する)西口に達したのは、深夜の2317分であった。

この間、「大和」からはサンホセ基地所在の水上機隊、第3部隊(西村艦隊)、および関係の各艦隊司令部宛に、「今より全滅を賭して進撃、深更サンベル海峡、翌朝9時レイテ湾口、11時泊地突入」という行動予定と共に、各隊の策応攻撃を要請する電報が、次々と発せられた。

サンベル海峡は全長30浬、潮流がピーク時には8ノットにも達する難所として知られ、大小23隻もの艦隊が深夜通過すること自体大変な難事であったが、例えこのまま「何事」も起きず進んだとしても、ここをくぐり抜け外洋に出るのは、日替わり後の25日0時30分過ぎか、1時近くになるものと予想された。

ここでいう「何事」とは、海峡の東出口付近に網を張る敵水上部隊の待ち伏せ攻撃の事である。前日シブヤン海で「再反転」した後の1734分、南南西の至近距離に敵艦攻7機を発見、次いで1744分にも東方に別の飛行機をレーダー探知したことから、我々の進撃再開は敵に知られていると考えるべきであった。

艦橋は深い緊張に包まれ、時折下る操舵号令と、テレトークを通じて流れる「見張りを厳にせよ」という指示以外は、全員が一様に沈黙したまま、行く手の闇に瞳を凝らしていたが、0時37分遂に海峡を出て75度に変針、俄かに強まって来た風波の中を、サマール島東岸沿いに南下しレイテ湾を目指す、最後の航程に入った。

ここで、ハルゼー大将が北進に際して、栗田艦隊邀撃(ようげき)のために、リー中将の高速戦艦群をサンベル海峡の出口に残すという方策を、何故採らなかったのかという問題を、推測が主とならざるを得ないが、一通り考察してみよう。

まず、

@ 彼自身が航空畑の出身で、日本側も依然空母が主力の筈だという、固定観念に執着していた。次に、

A 戦艦は、南北数100浬に散開していた3空母群に分属しており、6隻中3隻までが最北端の第3群シャーマン隊所属で、既に前衛として北上の先頭に立っていた。また、

B  艦の速力は飛行機の10分の1そこそこで、夕刻に発動し集結、邀撃配備を夜半までに整えるのは難しい。

C 第@項と関連するが、高速戦艦はVT信管を全幅活用する艦隊防空の(かなめ)であり、これに相当数の随伴艦まで付けて分派すると、翌日の昼戦で空母を囲む輪形陣の防御力に、大きな穴が開くこと等が挙げられよう。飛行機が使えず、混戦に陥りやすい夜戦を避けたい心理も、多少あったかも知れない。

(ちょ)突猛進の典型のようにいわれるハルゼーの判断にも、仔細にみると、当時の彼の置かれていた状況や得ていた情報の下で、それなりの合理性があったことが分かる。

4C 明日一日の命ありとも覚えず

Ifの世界から現実に戻り、栗田艦隊にとって最大の問題は、作戦の実行スケジュールの大幅な遅れであった。24日朝までの計画では、サンベル突破は1930分(日没1時間後)、レイテ湾内のタクロバン泊地突入は25日6時(日出30分前)の予定であった。

つまり、シブヤン海の昼戦を凌ぎ切った後、日没1時間前から約13時間は夜の闇に覆われ、敵の航空攻撃を全く被ることなく進撃して、明け方泊地に雪崩れ込むという算段であったものが、今や5時間遅れとなり、このまま進むと、レイテ湾口スルアン水道の手前60浬付近で夜が明け(6時半)、以後前日に倍する規模の空襲に、終日曝され放しということになる。

反転、再反転そのものに要した正味の往復時間は3時間半であったが、その前の戦闘、特に午後の相次ぐ大空襲で、ほとんど前進不能なほど頻繁な回避運動を余儀なくされた結果、更に大幅な遅れとなったことが、今や作戦の成算を根底から揺るがす事態を招いたわけである。

結果論として、1530分以後の空襲は事実なかったのだから、この反転は一見無用であったように思えるが、遠方から飛来する敵機にとって、日没というデッドラインを控え、往復飛行距離が60浬も伸びるのは大きな障害であって、そのために空襲が途絶えたとも受け取れる。

若しあの時反転せずに突き進んでいたら、逆に60浬(再反転地点からは90浬)も距離(飛行時間)が詰まって、敵機は日没前の母艦帰投が十分可能となり、サンベル海峡手前の狭(あい)海面で、致命的空襲を浴びたであろう。近代海戦の仕組みは、事情を知らぬ者が腰だめであれこれ論評出来るほど、単純ではないのである。

とまれ、ブルネイから長()1,000浬を航破して来た栗田艦隊2万の将兵は、いよいよ最後のコーナーを回り、残り200浬の決死のファイナル・ストレッチに入っていた。レイテ湾口の北60浬で迎える黎明後間もなく、昨日よりずっと近距離にいる敵空母から、雲霞のような空襲を、絶え間なく受けるであろう。

9時に湾外に着いても、入口のスルアン水道を通るには、輪形陣を一時単縦陣に変え、直進せねばならぬが、そんな合間が果たして得られるだろうか。仮に湾内に入ったとしても、対空戦闘vs水上戦闘という二重苦が待っている。どこを見ても活路はありそうになく、いよいよ戦死の日が来たか。うねり立つ夜の海を見下ろしながら、そんなことを止めども無く考えていた。

宇垣1戦隊司令官も、24日の日誌「戦藻録」の文末に、「明日一日の命ありとも覚えず」と記し、辞世の句を書き留めている。この期に及んでは、中将も中尉も覚悟するところは同じだったとみえる。

その2

わが命日と思い定め1025日、東の空が白み始めた6時23分、サマール島東岸沿いに針路150度、速力22ノットで南下中の「大和」の11550km に、敵空母から早暁発進した偵察機と推定される標的がレーダー探知された。

位置はレイテ湾口スルアン水道まで67浬、3時間。目指すタクロバン泊地には115浬、5時間余、もはや敵の鼻先まで踏み込んでしまった今朝は、やがて昨日に倍する濃密な空襲の火(せん)を浴びることは必至と思われた。

 予期せざる不時の会敵

6時40分、予定通り170度への変針を終え、次いでそれまでの夜間索敵航行隊形から、輪形陣への変換が下令されようとしていた6時47分、

「マスト、左70度水平線、反航」

見張りの下士官の甲高い声が、まだ穂のかに匂っていた艦橋の夜気をつん裂くように響きわたった。

「4航戦じゃないか」。

前日の夕刻、「日向」、「伊勢」を中心とする前衛の編成と進出を報じて来た、小沢艦隊からの入電を思い浮かべたらしい、そんな(つぶや)きも聞かれたが、

「違います、空母です、あ、飛行機を出しています」。

 敵だ! 夢想もしなかった意外な局面の展開に、誰もが一瞬呆気(あっけ)にとられて息を呑んだが、束の間の放心は忽ち(せき)を切ったような活気に一変した。

 「列向130度、展開方向110度」、

「戦艦戦隊、巡洋艦戦隊進撃せよ」。

矢継ぎ早の下令に続き6時58分、「大和」の前部砲塔6門の46センチ砲は轟然火を吐いて、東南東31kmの敵に第1斉射を送り、「長門」「金剛」「榛名」も相次いで砲門を開いた。程なく空母6隻を基幹とする敵兵力の全貌が判明、私達が持つ7.7倍の双眼鏡にも、水柱と煙幕の間に出没する艦影が少しずつ映り始めた。右前方5kmではいち早く進撃を開始した「羽黒」、「鳥海」の2艦が、乾舷より高く艦尾流を噴き上げながら、20センチ砲の射弾を敵に送っている。発見電に続いて送られた、

「われ天(ゆう)的戦機を捕捉し、敵空母に近迫,・・・・・ 殲滅せんとす」

という電文に、この時の将兵の高揚感がよく現れている。聯合艦隊も

 「サマール島北東海面にて彼我主力決戦中、全軍右に策応、敵を猛攻せよ」と応じ、興奮の色を隠していない。 

戦後判明した通り、我々がハルゼーの主力部隊と錯覚したこれらの空母は、実は上陸作戦援護用に商船やタンカーを改装した護送空母で、レイテ湾口の南,東,北東沖合にそれぞれ展開していた「タフィ1」、「タフィ2」、「タフィ3」(無電略号)と呼ばれる3群、計16隻のうち、最北端の「タフィ3」に属する6隻であった。

1万重量トン、18ノット、搭載機数28機という劣弱な要目からベビー空母、ジープ空母などと揶揄(やゆ)され、洋上航空戦も未経験の部隊であったが、16隻分を集計すると、内輪に見積もっても優に400機前後の艦上機兵力を擁し、且つ米海軍が既に開発していた油圧カタパルトによる、アヴェンジャー攻撃機の連続発艦が可能で、飛行機の輸送以外は使い道のなかった日本の特設空母に比べると、実戦力は格段に高かった。現にこの日未明、スリガオ海峡で敗退した西村艦隊の「最上」や、志摩艦隊の「阿武隈」を追撃、撃沈したのは、最南端の「タフィ1」の空母4隻から発進した飛行機隊であった。

 起ち上がり直後の戦況

この朝の天候の利は、残念ながら敵の側に在った。前日のシブヤン海の拭ったような晴天とは打って変わり、上空は灰色の雲に(おお)われ、薄くもやった海上に林立するスコールの柱と、急(きょ)展張された煙幕の合間に見え隠れする敵艦に、その都度射撃要素を計算し直さねばならぬ、甚だ難儀な砲戦を余儀なくされた。

戦後、相手が正規の機動部隊ではなく、いわばマイナー・リーグ級の弱敵と判ったことが妙な先入観となって、戦史研究家を自任する一部「有識者」が、日本海軍の砲術技量そのものにまで、底意地の悪い疑いの目を向けているが、海洋という2次元面上での視界と気象の関係とか、1発必中方式ではない公算射撃の仕組みも、皆目弁えぬ素人談議でどうも戴けない。 

100年前の日露戦争で、ウラジボストックを基地に日本近海を荒らし廻ったロシア艦隊の捜索が、濃霧のためはかどらぬことに業を煮やし、「濃霧、濃霧逆さまに読めば無能なり」と書いた新聞があったというから、ジャーナリズムの軽佻(けいちょう)浮薄は今も昔も変わらぬものらしい。

当の米海軍側の史料には、「極めて優秀な射撃であった」、「砲術科士官が望み得る最高の弾着」といった、至極簡明な評言が、余剰な修辞を交える事なく、さらりと記されているだけである。

「タフィ3」の旗艦「ファンショーベイ」が最初左舷、次いで右舷至近距離に、大口径砲の弾着を受けた時、「司令官クリストファー・スプラウグ少将は、その次に見舞われる直撃弾を予感し、思わずライフ・ジャケットの(すそ)(つか)んで首をすくめたが、3度目の着弾はなかった

恐らく敵(日本)の砲術長は至近弾による激しい衝撃で煙突から高く吹き上がった黒煙を見て、これで1隻仕留めたと考え、目標を変えたのであろう」という、玄人にしか書けない描写もある。

この記述は、日没後,宇垣1戦隊司令官に呼ばれて艦橋に来た能村砲術長の、私の耳にもよく聞こえていた報告と合致し、司令官の日記「戦藻録」にも「31`より砲戦開始、2,3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」とあるから、「大和」の射撃と考えて先ず間違いなかろう。

 2番艦「ホワイト・プレーンズ」は、「金剛」、「榛名」の36センチ砲の砲撃に(さら)され、最初の6分間に3回の(きょう)()弾と、多数の至近弾を受けて、乗組員は足をとられ、搭載機は繋止(けいし)が外れて隣の機に衝突し、一時は艦の操舵の自由も、効かなくなるという有様であったが、奇跡的に命中は免れ、ちょうどやって来たスコールに逃げ込んで、韜晦(とうかい)することが出来たという。3回も夾又して1弾も当たらぬということは、確率上滅多に起きないだが、もし事実とすれば、我々はよくよくついていなかったと思うない。

 空襲下の混戦(第1幕)

7時8分、敵空母をスコール中に見失った「大和」は、暫時レーダー追尾を試みたが、7時9分に主砲射撃を中止、なおも全速で東進を続けた。このスコールは7時15分頃一先ず東に通り過ぎたが、敵空母は南西方向に棚引く煙幕に隠れて、東南東から南東に変針し、砲戦開始前に飛び立っていた機を合わせ、計95機をともかく発艦させた。

この頃日本の戦艦戦隊は22キロ、巡洋艦戦隊は16キロに迫っており、「タフィ3」のスプラウグ司令官は直衛駆逐艦に対し、母艦の避退を援護するため、飛行機隊に呼応して反撃に移るよう指示した。上空には、他の空母群からの来援を合わせ、100機余の敵機が飛び交い、散発的ながら執拗(しつよう)な空襲を開始していた。

反撃の先頭に立った駆逐艦「ジョンストン」は、北方9,000メートルの重巡戦隊に向け魚雷10本を発射、うち1本が7戦隊の旗艦「熊野」の艦首に当たり、ほぼ同時刻に空襲で被爆、損傷した2番艦「鈴谷」と共に戦場から脱落させた。

然し、「ジョンストン」はこの戦果を見届ける前に、多数の大口径、中口径の命中弾を次々と受け、体験者によれば、「トラックに跳ねられた子犬」のようにもみくちゃにされて、傍らのスコール内に逃げ込んだ。

「大和」は、これらの直衛艦には副砲で対処していたが、7時25分から主砲も加わり、7時27分「敵巡洋艦1隻轟沈」と報じた後、7時30分に射撃を中止している。右砲戦だったので、艦橋の中央やや左舷側にいた私は直接見ていないが、どうも命中直後、「ジョンストン」がスコールに入り、急に視界から消えたのを轟沈と誤認したらしい。

巡洋艦としたのは、米海軍には普通の駆逐艦(DDと略記)と、それより一回り小さく兵装も劣る、護衛用駆逐艦(同DE)の2種の艦があったため、前者を巡洋艦、後者を普通の駆逐艦と勘違いしたもので、護衛空母を正規空母と思い込んだように、随伴艦の方も1ランク高く見立ててしまったわけである。

「ジョンストン」と入れ替わりに突撃して来たDD「ホーエル」は、多大の損傷を被りながら、魚雷4本を北方8,000メートルの戦艦「金剛」に、10分後に距離5,000メートルで、残り5本を重巡「羽黒」に向け発射したが、いずれも交わされ、お返しに大小40発(?)もの命中弾を受け、沈没米艦の第1号となった。米国側の記録には、その魚雷1本が「羽黒」に命中し、水柱が上がったと書かれているが、この水上戦闘で米駆逐艦の放った30本以上の魚雷の内当たったのは既述の「熊野」に対する1本だけであった。

7時30分以後も、「大和」は敵護衛艦の反撃や散発的空襲を副砲、高角砲、機銃で払いのけながら東進し、敵空母群のほぼ真北に達した7時54分、右100度に数本の雷跡を発見、急(きょ)左に転舵して北北東に進みながら、8時に「全軍突撃」を下令した。

ところが、長距離を()走して推力の鈍った魚雷は、つい非戦側に回頭してしまった「大和」を中に挟んだまま並進し、なかなか通り過ぎてくれない。高さ40メートルの艦橋からは、気泡がほとんど真下に見える程のきわどさであった。

8時4分、漸く雷跡が消え南に向首したとき、戦場ははるか3万メートル彼方に遠ざかり、スコールと共に、1時間余の戦闘で吐き出された多量の煙幕や砲煙が濛気となって立ち込め、目指す敵空母の姿を覆い隠していた。

 空襲下の混戦 (第2幕)

8時12分、敵情偵察のため、予め準備していた零式観測機をカタパルト発射した。他の艦の艦載水上機は文字通り露天架載で、至近弾や自艦の砲撃の爆風で破損の恐れがあるため、ミンドロ島のサンホセ基地に一括派遣され、レイテ湾の偵察等に携わっていたが、後部に格納庫を持つ「大和」は、この場面で使用することが出来た訳である。しかし、上空に群れ飛ぶ敵機の中に突入した複葉、下駄履き姿の同機は、   

「空母1隻大火災、他は南東に避退中」

と報じた後、敵戦闘機の追跡を伝えて連絡を絶った。「あ、駄目だな」と呟いた1戦隊通信参謀末松少佐の、暗然たる面持ちを今もふと思い出すことがある。

 8時22分、懸命の追跡の甲斐あってか、2隻の空母を南南西20キロ付近に再発見して、主砲射撃を再開、1隻が炎上しているのが視認された。輪形陣の左後尾にいたこの空母「ガンビアベイ」は、北東からの追い風に煙幕が吹き戻され、「頭隠して尻隠さず」になったところを、すかさず(ねら)い撃たれて、陣外に脱落しつつあった。もう1隻の空母「カリニンベイ」にも大小13弾が命中し、1弾は飛行甲板を貫き格納庫内で(さく)して火災を生じたが、飛行機を大方出し切った後で、致命傷とならず、再び煙霧中に姿を没した。

8時40分、今度は南東水平線上に別の空母3隻が望見され、戦艦陣で最も東にいた「榛名」が攻撃を命じられ、左に転舵してこの敵を追ってゆく。直接視認した空母はこれで計9隻、今や敵主力の真只中に飛び込んだというのが、偽らざる実感であった。

この新手の空母群は、戦場の南東海域に布陣していた、スタンプ少将配下の「タフィ2」で、北風に向かって飛行機を発艦中、我々の視界に入って来たのだが、この「榛名」からの遠距離砲撃以外は攻撃を受けることなく、自由に飛行隊を発着させて、終日我々を悩まし続けた。

敵を高速空母群と考え、風上側への占位に拘泥して間合いの詰めが遅れ、砲力発揮の機会を、阻まれ勝ちな戦艦戦隊に比し、重巡洋艦戦隊は優速を駆って空母群に肉薄し、スコールと煙幕にしばしば遮られながらも、有効な打撃を与えつつあった。

敵機の反撃も遠方の戦艦よりは、空母に追い迫っている重巡に集中し、「羽黒」は8時に敵の500ポンド爆弾が、2番砲塔の天(がい)を貫いて塔内で爆発、あわや弾火薬庫に引火という危機に直面したが、決死の応急注水により食い止めた。この爆撃で93式電話機の空中線が吹き飛び、重巡戦隊を先導していた同艦と、「大和」との通話連絡が途切れたことは、事後の戦況の把握に大きな支障を与えた。

等速直線運動を基本とする水上砲戦と、回避運動が主体の対空戦闘は、本来両立し得ないのだが、「大和」の場合、初期段階の空襲は少数且つ散発的で、中には爆弾を持たぬ擬態攻撃も見受けられた。

宇垣司令官の「戦藻録」には、「30機程度は発進したと見え」数回来襲したが、さほど「意に介せざりき」とあり、私自身も似た印象を持っていたので、「タフィ3」の空母が、初動の30分そこそこの間に95機も発進させたという、米軍側の記録には正直驚いた。初めは誤記ではないかと思ったが、母艦別、機種別に、兵装まで含む綿密な表示で疑う余地は乏しい。陸戦支援用の爆装機と援護戦闘機だけで、雷撃機を欠いていたのは幸いと言えるが、それでも「鈴谷」が被弾し、早々と落伍に追い込まれたのは大きな痛手であった。

「タフィ3」の飛行機が、半ば空中退避を兼ねた、「おっとり刀的発艦」であったのに対し、前記「タフィ2」の空母6隻からは、本格的な艦船攻撃装備を整えた79機が、8時30分頃までに続々と発進し、魚雷49本、500ポンド爆弾133発、100ポンド爆弾、ロケット弾各200発以上を、主として重巡戦隊に浴びせた。

ただ、戦果報告は相当誇大で、命中魚雷5〜10本とあるが、実際は8時55分頃「筑摩」の艦尾を直撃した1本のみであった。一方、母艦への帰投が不能となった「タフィ3」搭載機は、大半がタクロバン飛行場に不時着、一部は「タフィ2」の空母に着艦して、我々への再攻撃に加わったようである。

 水上戦闘の終盤

5A 燃料消費合戦への懸念

8時50分、「大和」は敵情偵察のため、再び観測機をカタパルト射出したが、前回同様やがて敵戦闘機の妨害に会い、以後通信が途絶えた。そのまま南西に進むこと約10分、西方数キロに前述の空母「ガンビアベイ」の、炎々と燃えさかる姿が煙霧の手前に現れた。既に行き脚は止まり左に大きく傾斜して、海面にはこぼれ落ちた多数の敵兵が浮遊している。

と、突然右舷後部に起こった、単装機銃の発射音が我々を驚かせたが、指揮所からの制止で直ちに止み、艦橋にも少時の沈黙が訪れた。小柳参謀長は山本先任参謀と大谷作戦参謀を呼び、何事か協議していたが、すぐ纏まったらしく、栗田長官に歩み寄って決裁を得た後、宇垣中将に向かい

「司令官、南東にとって戴きます」

とその意を伝えた。西側の空母は、もう追及不能と判断したのかも知れない。

この変針で、「タフィ2」を追撃中の「榛名」が正面に見えて来たが、その向うの空母までは確認できない。やがて、西方10キロ付近に停止漂泊(又は微速航行)中の「鳥海」、その南やや遠方に同じく「筑摩」を相次いで発見した。

外観に格別のダメージは認められず、前者は左舷中部への被爆と砲弾の誘爆による前機損傷、後者は艦尾に受けた航空魚雷による機関室浸水と舵故障を、それぞれ修理中であった。

敵を高速空母群と思い込んでいた艦隊首脳は、この頃追撃戦の続行に懸念を抱き始めたようであった。30ノット台の高速で避退しているらしい相手を、これ以上深追いしても、燃料消費合戦に引き込まれるだけで、この後レイテ湾に突入し、又もや燃費の幾何級数的増大を伴う大立ち回りを演じるとなると、油切れで行き倒れる駆逐艦が現れ兼ねないという不安は、一概に杞憂(きゆう)とはいえない。

そもそも、ブルネイ・レイテ間往復2,400浬を、無補給で走らせるというこの作戦自体、目一杯でゆとりがなく、駆逐艦が全速で駆けずり廻るような修羅場が、そう何度も重ねて起きることは想定していなかった。この朝の会敵は、いわば計算外の出来事だったのである。

5B 「逐次集まれ」

9時10分、北西から敵空母群の右側背に近接中と推定される10戦隊旗艦「矢矧」の、配下の駆逐艦5隻に対する突撃命令が隊内電話で傍受された。艦隊司令部はこれを機に局面の収拾を決意し、

「逐次集まれ、我0900の位置

ヤヒセ43、針路北、速力20ノット」

との命令を中波と隊内電話で発信すると共に、「大和」は大きく左に回頭して初め北東、次いで北に針路を転じた。尤も、この前後9時6分から約10分間に、グラマンTBF艦攻7機が来襲、魚雷回避、1機撃墜といった一幕があり、現実に変針を終えたのは9時25分であった。

9時15分頃に行われた10戦隊の雷撃は、9.5キロ後方からの追尾発射であったため、9分後の目標到達時にはすでに17キロを航走して、流石の93式魚雷も推力が衰え、うち2本は空母と上空の飛行機の機銃射撃で、爆破されたらしい。空母1隻撃沈、1隻撃破という戦果報告は、これらの爆発とか、反対方向の南東側から行われた「羽黒」「利根」の砲撃の水柱を誤認したものであった。10戦隊に続航した第2水雷戦隊は、射点到達前に反転集結電を受け、結局遊兵に終わった。

米軍側の史料によれば、この2隊の突撃を妨げたのは、先に「熊野」の雷撃に成功したDD「ジョンストン」で、すでに魚雷も撃ち尽くし、備砲もあらかた破壊され、満身創痍となりながら空母と10戦隊との間に割って入り、「矢矧」はこれを雷撃運動と疑って一時非戦側に転舵したため、空母雷撃の好射点に就く機会を失ったとされている。当然の事ながら、「ジョンストン」は集中砲火を浴びて沈没し、勇敢な艦長エヴァンス中佐以下189名が戦死した。

引き揚げてゆく日本駆逐艦の艦橋から、一人の士官が沈み行く同艦に敬礼を送っていたという、当時海面を泳いでいた米兵の目撃証言がある。

一方、敵の左後方に迫っていた重巡戦隊は、前述のように9時すこし前、「鳥海」、「筑摩」が相次いで落伍し、「羽黒」「利根」の2艦のみとなった。「羽黒」は8時59分、右90度、11.5キロに空母3隻を発見、17斉射を加えたが、9時11分再び(もう)気中に目標が隠れ、射撃を中断して間もない時18分、反転集結の命令を受信した。これらの戦況は、先に記した「羽黒」の電話空中線の破損により、「大和」には全く伝わっていなかった。

この追撃中止については、とかく辛口の批判が多いが、立ち入った議論は控えるとして、「あと数分で空母を(せん)出来た」かのような安易な議論には、当時の視界情況からみて賛成し兼ねる

9時の「大和」と「羽黒」の図上での距離は14キロ、その向こうの敵空母でも25キロ程度で、前日のシブヤン海のような快晴なら十分見えたはずだが、スコール、(ばい)煙、硝煙に遮られ、戦闘情況はおろかそれらの存在すら目視できなかった。「羽黒」も時11分以後は、暫時敵空母を見失っている。

まして「レイテ湾口が目の前だった」とか、「輸送船団のマストが見えた」などという話は、口から出任せの作り事である。先頭の「羽黒」から湾口まではまだ30浬近くあったし、レイテ湾は関東平野並みの広さで、タクロバン泊地はその一番奥、湾口からさらに2時間以上の航程であった。

当時「羽黒」の庶務主任で、戦闘経過の記注を担当していた福田幸弘主計少尉(故人)は、予想外の反転命令に接した時の橋本司令官、杉浦艦長の態度が極めて平静であったことを、少なからぬ驚きを込めて、著書の中に誌している。歴戦の二人の指揮官の目には、情況の一切が見えていたのかも知れない。

この2時間余の海戦で、終始果敢に戦った日本側の主役が、重巡戦隊であったことは疑いない。「羽黒」を例にとると、砲戦回数が都合8回、主砲は101斉射、発射弾数588発、徹甲弾の残弾はわずか125発しかなく、砲身の塗料はすべて()げ落ちていたという。また、「利根」は砲戦19回、主砲斉射107回、発射弾数408発で、残弾は約半分であった。未帰還の「鳥海」、「筑摩」は資料がないが、交戦時間は「利根」と大差なく、この4隻だけで、千数百発の20センチ砲の斉射を行ったと推定される。

因みに「大和」は、後甲板で水上機のカタパルト発射を3度も行ったため、主砲射撃は前部砲塔の6門に限られ計124発、副砲は301発という記録が一応あるが、これには、水上戦闘終息後夕刻までの数次の対空戦闘で使われた三式弾が含まれているようで、私の記憶では主砲の徹甲弾射撃は16斉射、96発であった。

5C 戦果の実態とその背景

この戦闘の戦果は、艦隊司令部の報告とは大きく異なり、撃沈は護送空母「ガンビアベイ」と直衛のDD2隻、DE1隻の計4隻に止まった。そんなことも戦後内外の評判を下げた一因で、先に言及した一部「有識者」から、砲術技量そのものへの、シニカルな疑問を提示されたわけだが、彼我の記録をつき合わせると、命中弾は100発を大きく上回り、10発以上被弾した米艦も数隻を下らない。

以前ある「軍事史家」が、この日の日本艦隊の全発射弾数を2,700発余と算定し、「差し引き約2,600発はむなしく海中に消えた」と書いているのを読んだことがある。数値の根拠はさておき、この伝でゆくと、仮に10門の斉射で初弾が2発命中し、急射撃に移って5斉射連続で命中弾を得ても、40発は無駄弾という話になる。つまり、動目標を散布界内に捉えることが眼目の公算射撃を、普通の鉄砲打ちと同じ尺度で計っているのである。

結構命中しているのに、撃沈が少なかった最大の原因は、標的をハルゼー機動部隊の高速空母群と考え、徹甲弾を使用したことに在った。徹甲弾は超硬合金製の硬い弾帽で、自艦と同クラスの敵艦の厚い装甲板(戦艦なら3040センチ)を打ち抜き、停止する瞬間に受ける著大な撃力により、(さく)薬の信管が作動するようにデザインされているので、商船改造空母の薄い鋼板をほとんど無抵抗で貫通し、内部で(さく)裂しなかったのである。

勿論、後者の場合もその後何枚かの内壁を貫通する度に少しずつ減速して、最後は盲弾となるか、あるいは反対舷外に突き抜けるわけだが、そういう緩慢な制動過程では、信管の加速度センサーは機能しない。自動車の運転で、前者は急ブレーキ、後者はゆっくりブレーキを踏んだ場合に、体に感じる慣性力の差を思い浮かべればよいだろう。

結果論になるが、徹甲弾は次のレイテ湾での敵戦艦群との交戦に備えてキープし、ここではより鋭敏な信管を持つ即発性の通常弾を使えば、敵艦を内側から爆破し、より大きなダメージを与えて、撃沈数をもっと増やすことが出来たであろう。

奇想天外な発想だが、初動段階で三式弾を水上射撃に使ってみるのも一法ではなかったか。1発で縦横数百メートルもの広がりを持つ、テルミットの火網を、斉射で空母に浴びせ掛ければ、艦橋の人員があらかた殺傷されて操艦不能となり、逃げ足を止められたのではないかという気がするのだが、暴論の類いだろうか。

前出の福田氏によれば、敵に最も近接していた「羽黒」では、いくら当たっても弾が吸い込まれるだけで、一向火災を起こさぬことに首を捻り、商船改造の特設空母ではないかという懸念を、持ち始めていたようである。

それかあらぬか「羽黒」の戦果報告は、「控え目にしておけ」という杉浦艦長の意向もあって、 

「特空母1隻撃沈、特空母1隻大破、乙巡1隻大破、駆逐艦1隻撃沈概ね確実」という、極めて実態に近いものとなっているが、取り立てて艦隊司令部に注意を喚起した形跡はない。  

ところで、米海軍が纏まった建制の護送空母部隊、それも16隻、搭載機400にも及ぶ膨大な兵力を持っていたという認識は、日本側には全くなかったように思う。   

私が唯一記憶しているのは、4ヵ月前のあ号作戦(マリアナ海戦)の際、確か聯合艦隊参謀長名で、「敵は若干の特空母を伴っているが、第1次攻撃をこれに指向せぬよう識別に注意せよ」といった趣旨の指導があったことだけである。

  再集結とその後の戦況

6A 再開された進撃  

四方に散開していた艦隊が、レイテ湾口の北東45浬付近に一応集結したのは1030分頃であった。集結地点を進撃方向とは逆の、北寄りに選んだことに対する批判には、小柳参謀長は、「逐次集合して所要の陣形を組み終わるまでは、艦隊は組織的戦闘を行えず、最も弱点を露呈する時間帯なので、視界が悪く咄嗟(とっさ)会敵の恐れある南方を避け、集結点を北寄りに選んだ」といった応答をしている。北寄りといっても、海戦の終盤に沈没した米艦の乗員が多数浮遊していた地点で、さほど大きく後退したわけではない。

この問題については、若年士官の経験しか持たぬ私は判定資格に欠けるが、各艦の記録を仔細に読むと、この集結過程の途中でも、数機から十数機規模の空襲を頻繁に受けており、参謀長の案じる各個撃破の危険が終始あったことが窺われる。

最も不運だった「鈴谷」は、集結直前の雷爆25機の来襲で被弾して、小火災が発生し、そのまま低速で陣列の定位置に向け占位運動中、「大和」から眺めると、右舷発射管室の開口部にチロチロと小さな火の手が見え、「あ、不味い!」と眉をひそめているうちに、大爆発を起こした。密封された炸薬は、少々の火気では簡単に引火しない筈だが、熱気で高圧酸素容器が破裂し、高温の酸素焔が一挙に魚雷を包んで仕舞ったのであろうか。

「鈴谷」の乗員救助には「沖波」を、「鳥海」、「筑摩」の援護には「藤波」「野分」を夫々当てて、サマール島東岸沿いに北上、サンベル経由帰投を指示する等の手当てを講じた後、11時南西に向首し、レイテ湾に向け進撃を再開した。同行する兵力は16隻、ブルネイ出撃時の半数となり、前日までの二つの輪形陣はここで一つに統合された。

丁度この頃、栗田艦隊の猛追を漸く逃れた満身創()の「タフィ3」に、早朝マラバカット基地を発進した、関行雄大尉の率いる神風特別攻撃隊敷島隊の、爆装零戦5機が襲い掛かった。

「大和」からは見えなかったが、西側を北上中の重巡戦隊からは、その直前低空をまっしぐらに南に突進して行くその姿が目撃されたという。1051分から始まったこの攻撃で、空母「セントルー」は、飛行甲板を破り格納庫内に突入した1機により魚雷、爆弾が次々と誘爆し、前後7回に及ぶ大爆発の後、1120分頃沈没した。

「タフィ3」の災厄は更に続き、1110分、セブまたはダバオから発進したと見られる10数機の特攻隊により、空母「カリニンベイ」が2機の体当たりを受けて大破した。これで、同隊6隻の空母のうち2隻が失われ、残る4隻も損傷が著しいため、英領アドミラルテイ諸島の、マヌス海軍基地に回航される事となった。

6B 彼我の情報格差

話が時間的に前後するが、実はこれより先、朝の水上戦闘が始まって間もない7時30分頃、矢張りダバオかセブから発進した神風特攻隊が、最南端の「タフィ1」を襲って、空母「サンテイ」と「スワニー」に各1機が命中しており、「タフィ」隊3群の可動空母は計8隻に半減した。

これ等の戦果は、我々は夜になるまで知らなかったが、敵側では当然重大な被害としていち早く通報され、危機感を募らせた上陸支援部隊(第7艦隊)の総指揮官キンケイド中将は、北方のハルゼー機動部隊に対し、狂気のように来援を督促していた。

相当部分が平文で行われたこれらのやり取りは、「大和」でも直接傍受され、敵信専門の大和田通信隊や高雄通信隊からも続々入電していた。THIS IS NOT A DRILL(これは演習に非ず)という、真珠湾でお馴染みの文言も、久々に登場した。後聞だが、軍令部は「大和」からの第1報が届く前に、大和田通信隊からの連絡で、この朝の海戦の生起を知ったという。

これらの敵信情報を総合すると、敵空母部隊は数群から成り、フィリピン東方海域で南北に長く布陣して、満遍なくエア・カヴァーを保持していたが、今朝南方の一群(つまり「タフィ3」)が我々と遭遇し、大きな打撃を被ったので、北方群がその支援に全速南下中と予想された。

 南方群でも、前者の南東海域にいた空母群(「タフィ2」)は無傷で、(ねぐら)を失いタクロバン飛行場に着陸した他群の艦上機と共に、次第に反撃を強めつつあった。

この判断は必ずしも見当外れではなかったが、北方群がこちらの予想を遥かに超え、小沢艦隊をルソン島の北端近くまで深追いしたため、来援が大幅に遅れる情況に在ったことまでは読めなかった。

その代わり、前日のシブヤン海の海空戦に参加せず、はるか東方洋上で給油を行っていたマッケーン中将配下の高速空母第1群、正規空母3隻、軽空母2隻という、38機動部隊最強の兵力がレイテに向け急行中で、後刻大空襲を浴びせられる羽目になるのだが、それも(つか)めていなかった。

今から考えると、敵は広範囲の制空権を確保して、戦場全体を隈なく俯瞰し、こちらの一挙手一投足まで見通しであったのに対し、我は高さ40メートルの「大和」艦橋からの眺望、それも煙霧に阻まれ勝ちな視界の中で、物事を判断せねばならない。つまり、情報空間の(ひろ)がりが3次元VS次元という、決定的ハンデイキャップを負わされた戦さであった。

そもそも、行き先のレイテ湾内の敵情がよく判らなかった。それまでの一番新しい情報は、前日の昼間サンホセ基地から偵察に向かった「最上」搭載機の、確か「輸送船35隻タクロバン在泊、戦艦1隻ドラグ沖航行中」という電報だけだったので、改めて1145分、「長門」から預かっていた観測機の、この日3度目となるカタパルト射出を行い、レイテに向かわせたが、その後の消息は私の記憶にない。

 

7 反転北上を決定

レイテ湾突入に際しての最大の難題は、機雷(せき)で制約されている、湾口のスルアン水道通過であった。原計画では敵機の妨害のない未明を予定していたのが、実際には真っ昼間に空襲を浴びながらの強行突破となり、然も水路の幅員を考えると輪形陣は解かざるを得ない。南方群の空母による反撃は、攻撃単位の機数が次第に増大しつつあるものの、今朝の海戦の余波のせいか、まだ十分には組織化されていないように思えたが、新手の北方群が来着すると、こちらは100%のフリーハンドを持ち、前日のシブヤン海の戦闘経過を見ても、その猛攻下での水道突破は不可能に近い。いわば、後ろを気にして始終振り返りながら、進撃しているという格好であった。

1150分に発信された

0945 ヤキ1カ出現の敵機動部隊を攻撃されたし」

という要請電は、そういう艦隊司令部の焦慮の表れのように見える。

ヤキ1カは兵路要図で、サマール島の北東角沖合に当たる地点符号だが、ここに米空母群がいるという電報があったかどうか、私自身判然とした記憶はない。この記号は航空用だから、飛行機からの発見電であろうが、無責任を承知でいうと、海戦が進行中で、現に9隻もの空母を直接目視し、「敵主力の真只中に飛び込んだ」と実感していた時機なので、あまり気に留めなかったのかも知れない。

各艦の完全な送受信記録は残っていないので、十分な検証は不可能だが、戦闘詳報の令達報告欄には発信艦所、着信艦所の不明な電報が結構あるし、地点符号の受信ミスの可能性もあるから、一概に偽電だとか、作り電報だなどと片付けるわけにはゆかない。いずれにせよ、通信の齟齬(そご)の問題、特に小沢艦隊とのそれは甚だ重大なので、次号で一括検討したい。

 レイテ湾への進撃を再開してから約1時間半後の1217分、正面の南西方向から艦攻15機、同20分に約30機、更に同30分には約50機が来襲し、激しい対空戦闘が同54分まで続いた。午前中の比較的少数機によるゲリラ空襲とは異なり、統制のとれた大編隊の組織的攻撃であった。

この空襲は、実は「タフィ2」の空母群から発進したものであったが、司令部は北方から来着した新たな機動部隊による攻撃と判断し、1310分、

「遊撃部隊はレイテ突入を止め北上、敵機動部隊を求めて決戦、爾後サンベルナルジノ海峡を突破せんとす」

との信号を掲げ、針路10度に一斉回頭して北上を開始した。

後世「謎の反転」などと呼ばれたこの決定の評価は次号に譲るとして、これで「必然の死」が「蓋然(がいぜん)の死」に変わり、生存の望みが開けたなどという気持ちは全然湧かなかった。明らかに我々より優速な敵機動部隊が、砲戦距離外から大量且つ頻繁に攻撃隊を発進し、こちらをアウトレンジすることは必至で、それは若輩の私にさえ予測出来たことだから、栗田長官や幕僚たちが考え及ばなかったはない。

現に、この無電を受けた軍令部で、伊藤整一次長は「北へ行くのは危険だ」と発言したことが、当時作戦室に勤務していた野村実氏の著述に在る。

考え得る唯一の期待として、基地航空部隊が我々に呼応し、タイミングよく有効な打撃を加えて、敵を混乱に陥れてくれれば、一太刀浴びせる機会が、生まれるかも知れない。

然し、敵空母の数が味方の駆逐艦より多いという、桁外れの兵力差を考えれば、勝算とは言いがたく、結局は湊川や四條畷の合戦と同じく、奮戦の末斬り死にする覚悟が、暗黙の内に交わされていたように私には思える。

この日、第2航空艦隊はサンベル海峡東方に、計200機の攻撃隊を繰り出したが、空(から)撃ちに終わった。ハルゼー艦隊の高速空母はもっと北に、そしてキンケイド艦隊の護送空母はそこより南にいた。

甚だ虫のよい想定だが、若しこの2航艦の200機がもっと南に向かい、それまで我々の攻撃や1航艦の神風特攻を免れていた、「タフィ2」に取っ付けば、ハルゼー艦隊より遥かに劣弱な防空能力では阻止し切れず、マッケーン中将の高速空母部隊が来着する迄の数時間、この海域に無傷の米空母は皆無という空白状態が生まれて、難題のスルアン水道突破と、それに続くレイテ湾内での米戦艦戦隊との対決が、実現したかも知れない。

尚、この一連の戦闘でのタフィ3群の戦死者は約1,200人、負傷者は800人、飛行機の損失は100機で、予想以上に多い。又、沈没した「ガンビアベイ」他3隻の乗員救助は、何と2昼夜後の27日になったと言うから、米側にとっても相当しんどい勝利だったようである。

 

その3

 反転北上の動機と(ねら)

早朝来の水上戦闘終結後、レイテ湾への進撃を再開していた栗田艦隊が、1217分から開始された戦雷爆連合70機というこの日初めての大規模空襲が去った直後の1310分、北方に転針した事は前号で述べたが、その聯合艦隊への報告電報は251236番電(25は日付)、即ち約40分続いたこの対空戦闘の真只中、1236分に逸早く起案されていた。尤も案文の決済を受け、通信指揮室で暗号化という費消時を加えると、電波に乗ったのは、実際に北に定針した13時過ぎと大差なかったかも知れない。

この事は、栗田長官以下の艦隊首脳が、北方数10浬の地点ヤキ1カに9時45分出現と伝えられた、新手の空母群に最大の関心を払い、この敵に対する味方の航空攻撃の成否が、レイテ湾突入の可否を決する鍵になると、予め考えていた事を示()する。味方航空部隊が、空母撃沈などという派手な戦果ではなくても、相当な混戦状態に持ち込み、こちらへの空襲を阻害してくれれば、その虚を衝いてレイテ湾に雪崩(なだ)れこむ機会窺える。

しかし、現実に正午過ぎ早々このような大空襲を浴びたとなると、午前中の航空攻撃は不発と考えるほかなく、以後この至近距離にいる無(きず)の空母群から続々と空襲の波が押し寄せ、輪形陣を一時崩す必要のある湾口突破などは成算が立たない。

このまま洋上で空襲に耐えながら、午後の航空攻撃の成果を待つ位なら、寧ろそれに策応して、敵情が今ひとつ不鮮明なレイテ行きは放棄し、自らこの機動部隊に突撃という途を選んだのであろう。

戦後史家の中には、「水上部隊が空母に追い付けぬことは、この朝経験したばかりの筈」といった批判が多いが、この場合は独力で漫然と追跡するのではなく、現に2航艦が繰り出している相当数の攻撃隊との連携に、血路を求めているのだから、一概に合理性を欠く判断とはいえない。

元々捷号作戦は、マリアナ海戦で空母の飛行機隊が壊滅し、洋上決戦能力を失った日本海軍が、艦隊を基地航空部隊の傘の下で運用し、海空協同して敵艦隊を撃破するという構想なのだから、寧ろその本旨に適った選択ともいえる。

勿論、それが不成功、もしくは部分的成功に終わり、敵になお豊富な持ち駒が残った場合、2万の艦隊将兵全員が、重囲の中で斬り死にすることは覚悟の上であったろう。

 

 広まっていた誤断

ただ、現実にヤキ1カの敵は存在しなかった。誤断の根本原因は結局、前号で述べた3次元対2次元という、彼我の情報格差によるとしか言い様がない。機動部隊の幕僚として長い閲歴を持つ奥宮正武氏は、このときの栗田艦隊の行動を、「視力を失ったボクサーが、死力を振るってここぞと思う方向に突き出した拳の先に、敵がいなかった丈のことだ」と評しているが、蓋し至言といえよう。

種々の記録を通覧すると、我々のみならず在フィリピンの航空部隊や南西方面艦隊司令部、さらに聯合艦隊、軍令部作戦室までが、サンベル海峡の北東から南東にわたる海域に、有力な敵部隊在りと見ていた事が窺われる。

呉在泊の第6艦隊旗艦筑紫丸には、空母を含む大部隊が9時0分、問題のヤキ1カに近い地点ヤンメ55を南下中との偵察情報が入り、1137分に配下12隻の潜水艦宛打電しているところを見ると、これに類する電報は矢張り存在し、「大和」にも着いていたかも知れぬが、私の記憶には残っていない。

弁解めくが、蜂の巣を突いたような実戦現場で9隻もの空母を目撃し、敵主力陣のど真ん中に踏み込んだと感じていた若年士官が、少し離れた地点に別の空母がいると聞いても、さほど緊張を覚えなかったのは、無理からぬ面がある。

この前後「大和」の艦橋では、水平線上にマストという見張報告がしきりになされたが、資料サイドから見ると殆んどが幻影であった。目を皿のようにして敵艦を捜し求めている空気が見張員にも伝染し、一種の戦場心理を生んだのかも知れない。

宇垣中将の「戦藻録」にも「20度方向水平線の彼方に飛行機の発着運動を認め、敵空母の存在を略知せり」とあるがこれも錯覚で、雲一つないべた()ぎの日は別としても、海上における視界の頼りなさを示す一例であろう。

飛行偵察でも似た話があり、雲の影を敵艦と見誤るとか、逆に断雲が多いと海面に生じる黒い斑点模様のため、目標を見落とす事がよくあった。こうした失敗はアメリカ側にも結構生じた筈だが、圧倒的に優勢な兵力と、一日の長のあった飛行機通信システムに支えられて、大過無きを得たのであろうか。

 

 25日午後の戦闘経過

艦隊司令部が北方の新手の機動部隊からの攻撃と考え、反転北上の契機となった正午過ぎの大空襲は、実は朝の海戦で南東水平線上に一部望見され、「榛名」が遠距離砲撃を加えた、無(きず)の護送空母群「タフィ2」が、午前の戦闘から戻った自群と、(ねぐら)を失って着艦した「タフィ3」所属の機を併せ再編成した、第5次攻撃隊70機によるものであった。

1217分から40分余にわたったこの空襲が漸く去り、北への転針を終えた直後の1311分、早くも北東に大編隊がレーダー探知され、10分後には計100機が来襲して、午後に入って2度目の激しい対空戦闘が1410分頃まで続いた。

この相次ぐ大空襲は、反転北上・敵主力に挑戦という司令部の選択の妥当性を裏付けたかに見えたが、後者は遠く北東洋上で燃料補給中の、38機動部隊第1群(TG381)マッケイン隊の高速空母が、「タフィ」群救援のため作業を打ち切り、南東に急ぎ1030分に放った第1波で、米海軍では太平洋戦争中最大、片道335浬という遠距離航空攻撃であった。

 これら2回の空襲で「利根」に1弾が命中、一時人力操舵を余儀なくされたが間もなく復旧し、その他至近弾の被害が出たが、落伍艦は皆無であった。艦橋のすぐ上の防空指揮所で回避運動を指揮していた森下艦長の、「さあ、運の強い奴ばかり残ったから、もうやられんぞ」という声が、伝声管を通して私の耳にも届き、思わず(ほお)を緩ませたことを今も覚えている。

敵も「タフィ2」のパイロットたちは朝から不休の戦闘、マッケイン隊の搭乗員は台湾沖航空戦以来ずっと海上に在った上、3時間もの長時間飛行で、共に疲労して矛先が鈍っていたことは否めない。

その後1時間余り、レーダーはかなりの大編隊を含む標的を何度か探知したが、敵襲はなかった。15時近くには天山艦攻2機を見張りが発見しており、探知した標的に味方の索敵機や攻撃隊が混じっていた可能性もある。

マッケイン隊の高速空母群を1255分に発進した第2波の47機が、320浬離れた我々の上空に現れたのは1545分であった。30分近く続いた攻撃は1612分に終息し、「大和」が相当数の至近弾を受けたものの、致命傷を負った艦は1隻もなかった。

この空襲が終わった直後の1616分、北方に60機以上の味方機の大編隊が望見された。基地航空部隊も矢張りこの海域に敵主力在りと踏み、懸命に探し回っていたのである。

一方、南東136浬にいた「タフィ2」からは、15時8分に発進した第6次攻撃隊50機が1645分に来襲した。1710分頃まで続いた。この日最後の空襲でも重大な損害はなく、至近弾による故障で一時停止した「早霜」もやがて自力で修復し、サンベルナルジノ海峡に先行した。

次いで1740分ごろ、左舷上空に西進する99艦爆32機を認め、「攻撃せしや」と発光信号で尋ねたところ、「敵を発見せず」との応答で、司令部も反転北上が結局空振りに終わり、敵空母は我々の東方視界外を南下して、レイテ湾方面に去ったものと判断した。宇垣中将も「戦藻録」に同様な認識を記している。

この前後、味方の艦爆の1機が「利根」を誤爆するという一幕があったが、「大和」の戦闘記録には記載がない。艦隊は既にサンベル海峡の東70浬という、燃料面からもやり直しの効かぬ位置に来ており、念のため暫時東進して情況を窺った後、西に回頭し海峡東口に向かった。

殆んど100%の死を覚悟していた我々が、ここで袋の鼠にならずに済んだ理由は何とも不可解だったが、ハルゼー大将がまさかサンベル海峡沖をがら空きにして3群,62隻の機動部隊を残らず引き連れ、ルソン島北端近くまで突進してしまうとは、日本側の各司令部は勿論、彼のパートナーだった第7艦隊のキンケード中将や、太平洋艦隊総指揮官のニミッツ大将の司令部も全く予想せず、「TG34 は何処に在りや、全世界は知らんと欲す」という、聞き様によってはやや角の立つ、問い合わせ電報を送った程の意外事だったのだから、運命の差配というほかない。

尤も、この電文の後半は暗号担当者が付け加えた遊びの一句で、敵に傍受でもされた時に、解読を多少とも混乱させようという狙いなのか〈余り有効とも思えぬが〉、兎に角米海軍では許されていたらしい。ハルゼーは烈火の如く怒り、電報を床に叩き付けたということだが、真偽の程はさだかでない。

 why来襲267機、損失艦ゼロ

この日、栗田艦隊に差し向けられた敵機の数は、午前中が「タフィ2」の123機と「タフィ3」の95機を合わせ218機、午後が「タフィ2」120機、38機動部隊第1群147機の計267機、両者合計487機という途方もない規模に達した。

特にに午後4回、267機による組織的空襲で、16隻の栗田艦隊が1隻も失わず、血路を開き得た理由は、先に述べた敵のパイロットの疲労もあっただろうが、こちらもリンガ泊地3ヶ月余の訓練に加え、前日来の厳しい実戦体験で艦隊全員が「歴戦の勇士」となり、術力を高めていたことを挙げてよいだろう。

もう一つのポイントは敵の飛行機隊の構成で、「タフィ」隊3群の搭載機は戦闘機が概算6割(主にグラマンF4F)、攻撃機が同4割(グラマンTBM)で、艦爆は皆無だったことである。この為同隊の攻撃には、前日シブヤン海で我々を散々苦しめたカーチスSB2Cの急降下爆撃がなく、緩降下爆撃と雷撃の二本立てであった。

急降下爆撃は高い錬度を要し、搭乗員数にも限りがあって、護送空母には配員されなかったのであろう。他方、正規の機動部隊であるTG381は急降下、雷撃双方の機種を全て揃えていたが、この日は330浬の遠距離攻撃で燃料増載の必要から、アヴェンジャーが魚雷を携行できず、雷撃隊を欠いた編成にせざるを得なかった。

高空から縦に斬り込んで来る急降下爆撃と、低空で横腹を衝いて来る雷撃は、対艦船攻撃の2つの柱だが、この日午後4回の空襲にはその何れか一方が欠けていた。今思うと、前日のシブヤン海に比べ、毎回の来襲機数は寧ろ多かったが、こちらが一番困る両者の同時攻撃がなかった分、相対的にやや対処し易い面はあったような気がしている。

少し細かいことをいうと、「タフィ2」から来た第1回と第4回の空襲で、彼らが一番狙うはずの「大和」の魚雷回避は、それぞれ1度ずつで案外少ない。午前中の記録を調べると、「タフィ3」が急遽発進させた96機のうち、たった1機の雷装機は燃料を35ガロンしか積めなかった。爆弾を携行し損ねた機もあり、当初の攻撃が微弱だったのは頷けるが、砲撃圏外にいた「タフィ2」からは、8時半頃までに79機が逐次発艦し、49本の魚雷を発射したとある。雷撃戦が本務でないこの隊の魚雷の備蓄はそう潤沢ではなく、午後の攻撃では雷装を多少控えたのかも知れない。

 

 小澤艦隊との通信連絡

この問題に入る前に、海軍の通信システムの仕組みを、ごく大雑把に述べて置く。海軍の通信は、大気圏外の電離層と地表との反復反射で、遠方まで届く短波を主用するが、洋上に出た艦隊は敵の無線方位測定を避けるため、言わば耳の聞こえる唖となり、原則として電波を発射しない。

相互の交信には、打ちたい電文を行動海域(通信区)の中継局、フィリピン方面ならマニラの第31通信隊に、遠達性の低い周波数で打ち込み、通信隊はそれを丸ごと広域短波放送にかける。受信はその逆で、今の場合マニラ放送に聞き耳を立てておればよい。海戦中は当然電報が輻(そう)するが、放送の仕方は当該通信隊の戦務処理に委ねられ、特定の電報が優先されることもある。

こういう放送系を介した通信方式は米軍側も同じで、25日朝の第7艦隊からハルゼー艦隊宛の幾つかの救援要請電は、平文にも関わらず到達に1時間前後を要しており、情報がリアル・タイムで伝わる昨今とは、まるで情報環境が異なっていた。

なお、電報番号で表示される発信日時が、電波に乗る前の起案」時刻であることは既述したが、受信日時は電信員がその暗号電報を取り終わった、いわば「着電」時刻であり、どちらも字義どおりの効能を持つ迄に、相当のタイムラグがあることも知って置くべきだろう。

A 9通の電報(1)

小沢艦隊が戦場に到達した24日以降発した電報は、半藤一利氏によると8通で、92号の左近允論文もそれを参照しているから、ここでもそれを中心に話を進めることにする。ただ半藤氏は電報を一つ見落としており、それを途中に入れて番号を順送りすると、比較対照が煩わしくなるので、BAという記号を設け、都合9通を時系列順に検討して見よう。

まず、241148分発信の @「フシニカの敵を攻撃す」は、1241分に入電した。この攻撃隊の一部が1330分ごろ、ハルゼー艦隊第3群のシャーマン隊を襲い、命中弾はなかったものの、その混乱で我々への次の空襲が中止となったらしいが、この時点でそういった戦況は不明であった。

 同日1436分発信の A「日向」「伊勢」を中心とする前衛の進出通報は16時3分に入電している。この2通がトップに届けられなかったかのように書いている史家もいるが、艦橋の電報綴を管理する私がどちらも確かに見ているのだから、そんなことはあり得ない。

Aと関連して、翌25日朝東の水平線上にマストを発見した時、「4航戦(日向、伊勢)じゃないか」と呟いた参謀がいたことも、記憶にはっきり残っている。

1645分発信の B 敵偵察機飛来の報は、「大和」戦闘詳報に記載がなく、私もその着否を確言できない。ただ、戦闘詳報の令達報告欄は別に発着信簿ではなく、説明は略するが、戦史では重要な電報でも不記載ということはあり得る。当時の送信、受信(つづり)が入手出来ぬ今となっては、真相はもう判らない。

その次が半藤氏の見落とした2137分発信の BA、「大和」は2213分に傍受した。栗田艦隊の進撃の遅れを見て、前衛に北方への反転離脱を指示した電報である。

25日に入って、8時15分に発信された C 敵艦上機触接開始の通報もBと同様、「大和」戦闘詳報に載っておらず、私も記憶していない。ところが、1999年にこの2通が東京通信隊の受信記録に在ることを知った半藤氏が、不達の原因を「瑞鶴」の通信機の故障と考えていた旧説はこれで崩れ、「大和」に着信していた筈だとして、栗田司令部の処理の仕方に疑いの目を向けた。

然し、これらを軍令部作戦室が承知していたことは、1980年刊の野村実氏の著書に既に書かれており、別段目新しい話ではなかった。私としては、それが「大和」に入電したか否かは、Bと同じく不明と答えるほかない。

 B  9通の電報(2)

 この先は私の所見だが、軍事史家を標榜(ひょうぼう)する人々は、戦闘詳報のチャンバラ場面ばかりでなく、後半の各科の戦訓の部にも目を通すべきだろう。

というのは、半藤氏はこの海戦中「大和」の通信機器の被害はなかったとしているが、実はこの3日間、敵機の爆撃と味方の対空射撃による空中線(アンテナ)の切断落下は受信、隊内電話、送信の3部門の大半、計60本にも及び、当面応急空中線に切り替えた後、空襲の合間を縫って決死の張り替え複旧作業を行い、辛うじて通信を維持する有様であった。

張替え終わっても、落下した空中線が、電磁誘導や浮遊容量による雑音をよく引き起こすので、今後空中線には絶縁被覆銅線を用い、誘導索に()るすのではなく艦体に沿って張れば、(性能はやや落ちても)深刻な被害は減らせるといった提言もある。

又、この作戦で艦隊用一般短波に指定された7910KCは、マニラの気象放送7907.5KCと余りにも近く、混信のため24日は31通信隊との通信が殆んど杜絶した。

また、上甲板中央に在った第1受信室は,対空射撃による轟音と受信機や真空管の激しい振動により、戦闘中の受信は不能であった。建造時両舷12門の高角砲が、その後の改装で24門に倍増したことが響いたのかも知れない。

一方、電信員の数は一応定員を満たしていたが、速成教育を受けただけで、当直を任せられない新兵が多いため、戦闘中でも最低2直交代という原則を1直半にせざるを得ず、その上切断空中線の復旧といった応急作業が頻繁に飛び込み、古参兵は疲労困(ぱい)の極に達したとある。

電信関係は、超ベテランの2人の特務士官、田中大尉と村岡中尉が取り仕切っていたが、改めてこれらの記録を読み直してみると、この海戦での「大和」の通信が如何に困難を極め、部下達が如何に苛烈な任務に耐えたかを思い知らされる。

優秀な電信員はモールス符号を言語同然に解し、激しい雑音や四囲の騒音の中のほんの微かなシグナルでも、聞き分ける技能の持ち主だが、対空戦闘中の第1受信室などではどうしようもなかった。

放送は、他の中継局も含め、多少の時隔を置いて複数回流されるから、戦闘の合間の受信で概ね補いはつくが、3日間引っ切り無しの空襲という、それまで何処の国の艦隊も経験したことのないこの異常な海戦で、不眠不休で服務していた彼らが、仮に電報B、Cを取りそびれたとしても、責任も問うことは出来ない。小春日和の内地でレシーバーを被っていた東京通信隊とは、条件が丸で違うのである。

敵の空襲開始と「瑞鶴」その他の被害を伝えて来たD、Eは8時15分と9時37分に起案され、「瑞鳳」を中継して送信されたというのだが、31通信隊の放送には乗らず、他隊には全く届かなかった。

1147分発信のFは「大淀」への旗艦変更通報で、「大和」への着電は1215分、艦橋に届いた時刻は不鮮明だが、受電直後の1217分から開始された、「タフィ2」所属の70機によるこの日最初の大規模空襲、及び引き続き来襲したマッケイン隊100機との、計2時間に及ぶわたり合い(戦闘の事)の最中であったことは疑いない。

唯その時点では、これら2つの空襲は、我々が懸命に追い求めている北方の敵機動部隊からの、先制パンチと受け取られていたし、且つB,C、D、Eが不着では、「瑞鶴」に何かトラブルが発生し、小沢中将が通信能力の高い「大淀」に将旗を移したという事以外知る由がなかった。左近允論文も指摘しているように、旗艦変更はそう珍しいことではなく、3ヶ月前のマリアナ海戦では、敵機より先に潜水艦に襲われ、小澤長官が旗艦「大鳳」から「羽黒」に移乗した事例もあった。

1221分に発信されたGは、敵機100機の来襲と「秋月」の沈没、「多摩」の落伍を伝えた電報で、受電したのは、前記 マッケイン隊の第1波100機の空襲が終わった直後の1441分、北方でも大きな海空戦が起きつつあることを、初めて知った電報であった。

それでも、ほぼ同兵力の我々が、つい先刻浴びたばかりの空襲と同規模だし、この一報だけで、ハルゼー艦隊が全部北方に引き寄せられていると、直ちに結論するのは無理であった

総じて小沢艦隊との連絡は、戦況が苛烈で「瑞鶴」が早々と損傷し、旗艦変更に手間取って通信指揮が混乱した為か、栗田艦隊ばかりでなく他の部隊でも不如意だったらしい。野村実氏の著述にも、兎に角報告が乏しく、軍令部はずっと空母4隻は健在と考え、及川総長の27日朝の戦況奏上でもその旨申し上げていた処、28日の奄美大島帰着後初めて事実が判ったとある。戦争は錯誤の連続で、所詮そんなものと言えばそれまでだが。

 

 一つの思考実験

栗田艦隊が、ともすればミスの起き勝ちな飛行機情報の一つに、安易に飛びついたのは確かに誤りだが、さりとて飛行偵察を使わぬ近代海戦はあり得ない。問題はその評価と選択の適否ということになろうが、2年前の南太平洋海戦のように「空母見ゆ」の報が出るとすぐ、周りの偵察機、触接機が続々と集まって、この敵を取り囲むといった、正統的な手順を踏める情況でなかったことも参酌すべきだろう。

歴史の過程に濫りにifを持ち込むのは禁物だが、ここでは栗田艦隊16隻がヤキ1カの敵には目もくれず、午後も一路レイテ湾に向け突き進んだ場合に付いて、手前勝手な憶測や期待を一切除いた「思考実験」を試みるとしよう。

先ず、当面の敵は「タフィ」3群の護送空母部隊だが、今朝方の水上戦闘と神風攻撃で16隻のうち2隻が沈没、6隻が大中破したので可動空母は半減し、無疵の「タフィ2」の6隻に「タフィ1」の残存2隻を合わせた計8隻、搭載機は約220機で、エセックス級の大型空母なら3隻分に当たる。砲撃に曝された「タフィ3」を緊急発艦した約100機は、大半タクロバン飛行場に不時着したが、艦船攻撃用の魚雷や徹甲弾の供給は不能でも、陸用爆弾装備の攻撃参加は出来たかも知れない。

北上中、現実に経験した午後4回の空襲は、南進というこの想定場面でもそのまま起きたであろうが、時間と距離から推算すると、最初の2回が終わった15時ごろには湾口に到達出来よう。

この辺りから情況はとみに厳しさを加える。というのは、空母搭載の220機は飛び上がればすぐ日本艦隊が見える、50から100キロメートル程度の間合いを保ちながら、入れ替わり立ち代り、息も継がせぬアウトレンジ攻撃を加えることが出来る。

在タクロバンの100機も、片道30分以内の近距離だから、何らかの爆装をすれば、車(かか)りの反復攻撃が可能である。つまり、攻撃頻度の面では、この300機は通常の洋上航空戦における600機以上の威力を発揮する。

一方、330浬離れたマッケイン隊からは、往復6時間も掛かるため、搭載機の半数が1回攻撃出来るだけで、以後翌朝まではまだこちらへの脅威にならない。

こういう状況での湾口スルアン水道突破は極度に難しい。サンベル海峡のように長い水路ではないから、仮に何とか湾内に入れたとしても、今度は等速直線運動を基本とする水上戦闘と、頻繁な回避運動を必要とする対空戦闘の同時遂行という,二律背反の苦行に直面する。

敵の水上部隊はまともな対決はせず、湾口すれすれまで近づいた空母からの、圧倒的な航空攻撃で損傷した落伍艦を、虱潰しにする手に出るだろう。度々引用した野村実氏の表現を借りれば、こちらはまともに隊形を組むことすら出来ぬ恐れさえあった。

私は終戦後の翌年の10月、ダバオ在住邦人の帰国輸送の途次レイテ湾に寄港したが、湾に入っても四周が大半水平線という広大な海湾で、奥のタクロバン泊地までは飛行機なら一飛びだが、船は20ノットでも3時間近くかかる。

艦隊が直行しても着くのは日没30分前、下手をすると何の戦果もないまま1隻も敵船団に辿り着かず全滅という、半年後の「大和特攻」を前倒しした結末にしかならない。少数の駆逐艦等がスリガオ海峡から脱去出来ても油切れとなり、やがて敵機の追撃でなぶり殺しという、悲惨な運命に陥ったであろう。

問題の根は我々の関心が、ハルゼー艦隊の高速空母群搭載の900機に専ら向けられ、キンケード艦隊の護送空母部隊の戦力に対する、認識を欠いたところに在った。

左近允の教示によれば、「タフィ」3群16隻の空母の搭載機数は総計446機、マリアナ海戦時の日本の機動部隊の全力に匹敵する規模であった。24日のシブヤン海で散々傷つき、エアカバーも持たぬ栗田艦隊には、それで十分対処出来るはずだとして、一路北上したハルゼーの判断にも、それなりの根拠があったことを、上記の「思考実験」の結果は示している。

ここで一つだけifを追加して、25日午前に2航艦が繰り出した攻撃隊がもう少し南向きに進撃し、「タフィ2」を捕捉した場合を考えて見る。

昭和18年秋のブーゲンビル沖航空戦以来、米機動部隊の防空態勢は、レーダーと電話通信を活用した、上空直衛戦闘機の統御システムや、VT信管装備の対空射撃によって鉄壁と化し、こちらの飛行機隊は歯が立たぬ情況になっていた。

一方、護送空母群の防空力は甚だ脆弱で、つけ込む隙が多く、現に1航艦の神風攻撃は、少数機にも関わらず全て的中している。

従って、もし「タフィ2」の空母群が、この「大編隊攻撃」で撃破されると、12時過ぎの栗田艦隊への空襲は行われず、またレイテ湾への進撃、突入に対する空からの障害もほぼ除かれ、初めての日米戦艦戦隊の対決という場面が実現したであろう。

ただ、当初400隻を算した米輸送船団は既に大半が立ち去り、残っているのは揚塔未済の資材を積んだ、数十隻に留まっていたから、挙げ得る戦果も以後の進攻を阻止出来る程ではなかったであろう。なお、米戦艦群が早暁のスリガオ海峡海戦で砲弾を撃ちつくし、困却していたという話は、何らの根拠もない全くの風説である。

 

 栗田中将への毀誉褒貶

反転北上の経緯を、指揮官としての栗田中将の闘志不足と断じ、「逃げた」とでも言いたげな議論が,旧海軍部内にも多くあるし、それに感染したらしい部外の軍事史家達にもよく見られる。ミッドウェー海戦などでの栗田7戦隊司令官の指揮振りが、よく引き合いに出されるが、それをいうのなら3戦隊司令官として、ガダルカナル飛行場への夜間挺身砲撃で収めた戦功も語らねば、均衡を失するだろうし、そもそも歴史は、史実の正確な把握と相関を解明する学問分野で、個人の人柄や心情の洞察は対象ではないはずだ。

「逃げた」という推論は、この場合北に向かう方がより安全という条件がなければ成り立たない。ところが、反転北上電が軍令部に入った時、伊藤整一軍令部次長は即座に「それは却って危険だ」とコメントしたと言うから、話は全くあべこべである。

この時点でイメージされていたのは、敵空母は北、中央、南の3群に分かれ、南方群が明け方栗田艦隊と交戦、中央群は南方群救援のため南下を開始、昼過ぎから栗田艦隊に攻撃を加えており、また中央群から分かれた北方群が、小沢艦隊に向かいつつあるという構図であった。

この通りであったら、サンベル海峡への退路には敵が幾重にも立ちはだかり、我々は全滅のほかなかったわけだが、こちらが中央群からとばかり考えていた空襲は、実は南方群の「タフィ2」と、はるか北東洋上のTG381マッケイン隊の攻撃であったことが、艦隊2万の将兵の命を救う、幸運な食い違いとなったのである。

栗田中将は開戦以来、終始実戦部隊に在職した歴戦の提督だから、先の「思考実験」が示す、優勢な敵空母群に背を曝したまま強行されるこの突撃行の、悲惨な結末を或いは見通していたかも知れない。

指揮官が部下を死地に伴わねばならぬ場合、その死を栄光ある死とすることも重要な責務であろう。とすれば、みすみす結末の見えている陰(うつ)な徒死よりは、すぐ間近に迫っている(と思われた)主敵の敵機動部隊に挑んで、部下将兵が死に花を咲かせる場を作為しようとした選択は、それはそれで判る気がする。

2万人は大変な数である。この一戦で艦隊をすり潰す覚悟といっても、ただ全員が死にさえすれば、よいというものではないだろう。

栗田中将の艦隊指揮に浴びせられた数々の非難は、いずれも正当な根拠を欠き、詰まる処奧宮正武氏の「視力を失ったボクサー」の(たと)えが、最も的を衝いた評言のように私には思える。

 

 エピローグ

1830分、早朝から日没まで丸12時間の死闘を終え、帰路についた艦隊は2135分、単縦陣を組んでサンベル海峡に入り、2250分シブヤン海に出て、長い油の尾を引きつつ更に西進、翌26日未明タブラス海峡北口に達した。

ここから一路南下し、敵潜の伏在が予想されるミンドロ海峡を避けて、パネイ島沖のスルー海に入った8時30分頃、約80機が二手に分かれて来襲し、9時近くまで続いた攻撃で「大和」が前甲板に2発被弾したほか、「能代」が被雷し後落した。

この空襲は、早暁5時サンベル沖で洋上会同した、TG38.1 マッケイン隊と、TG38.2 ボーガン隊の高速空母8隻を、6時に発進した第1次攻撃隊113機によるもので、密雲のため各個に進撃し、約半数が栗田艦隊主隊に来襲、他は途中で損傷避退中の「熊野」と、前日沈没した「鈴谷」の乗員を乗せ独航中の「沖波」を見つけ攻撃したが、両艦ともよく凌いで、無事給油地コロン湾に入泊した。

その後暫く攻撃は途絶えたが、1035分から始まった空母機35機の攻撃とほぼ同時に、モロタイ島の基地から47機の大型爆撃機リベレーターB-24が飛来し、1機当たり3個,計141個の500キロ爆弾を投下した。直撃弾はなかったが至近弾の爆発は凄まじく、反跳した弾片で艦橋にいた小柳参謀長が負傷した。

ただ、等速度で直進する大型機は対空射撃の好目標でもあり、「大和」の三式弾で5機が編隊ごと墜落し、海上に落ちた後も爆発、炎上し続ける有様が望見された。

これらの空母機は、同じくサンベル沖のマッケイン隊、ボーガン隊が8時10分に放った第2次攻撃隊90機で、35機は前述の通りBー24と協同して主隊に来襲、残り55機は落伍した「能代」に攻撃を集中し、同艦は1137分に沈没した。

第3次攻撃隊は発艦が午後になったため、彼我の距離が開いて到達せず、3日間続いた空襲も漸く終わりを告げた。

艦隊はここで北西に針路をとり、燃料が底をついた「島風」以下5隻の駆逐艦を、給油のためコロンに向かわせた。主隊は夕刻パラワン島北東端の狭隘水道を通過し南シナ海に出たが、潜水艦を避けるためそのまま直進して、新南群島(現在の南沙諸島)水域に入る大迂回航路を採り,27日午後 随伴の「磯風」「雪風」に「長門」「榛名」からそれぞれ曳航給油を行った後、28日夜21時、全航程3,000浬に及ぶ長征を終えて、ブルネイ湾に帰り着いた。

「大和」は左舷前部の大破孔からの浸水が3,000dに達し、右舷に2,000dを注水して釣り合いをとった為、艦首がやや沈降し,航行中は破孔を出入する波の音が、艦内からも聞き取れる程だった。

この作戦行動で受けた空襲は、艦ごとに数え方の相違が多少あるが、「大和」を中心とする主隊の場合は3日間で延19回、950機以上という、それまで誰一人経験したことのない、桁外れの大海空戦であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

(なにわ会ニュース97〜99号 平成19年9月〜20年9月掲載) 

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