最終更新日:2005年03月16日

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人間に戻った元将兵たちの声を聴け

梶村太一郎


 ■この原稿は、『週刊金曜日』 1997年7月18日(No.179)号に掲載されたものです。当WEBへの転載を快諾していただいた梶村太一郎氏、『週刊金曜日』に心から感謝いたします。

 元日本軍将兵たちは、中国全土で「奪い尽くし、焼きつくし、殺し尽くす」三光作戦を展開した。敗戦後、その将兵たちが拘束された撫順日本人戦犯管理所のなかで、殺人鬼から元の人間へと奇跡の回復を果たした中国帰還者がいまに伝えるものはなにか。

監獄の年明け

 今年の正月元旦、私が熟睡から日を覚ましたのは一風変わった場所でした。洗いざらしの清潔なシーツの寝具のなかで、ウンと伸びをしてから起き上がった私は、枕元のカーテンを引き、予期せぬ光景に驚きました。窓の外は吹雪です。温室のように床まで届くガラス窓の外側には、吹き溜った雪が内側のベッドの枕元の高さまで達しています。「今年は元旦から嵐か」とつぶやきました。

 ところで、この防寒用の二重の窓ガラスの間には鉄格子が嵌(は)められており、広い中庭の林檎とおぼしき樹の向こうには、降雪のなかに黒ぐろと聳える煉瓦造りの頑丈な塀が見られます。その上には高圧電線が張り巡らされています。この部屋は監獄の一室だったのです。新年早々の天候異変に溜息をついた私は、再び寝床に潜り込み、白い高い天井を眺めて物思いにふけりはじめたのです。

 日本帝国の傀儡(かいらい)、「満州帝国」司法部が中国東北地方最大の炭鉱の街、撫順市郊外に「抗日分子」を拘禁するために、この監獄を建設したのは1936年のことです。同じ年にナチスはベルリン郊外にザクセンハウゼン強制収容所を建設しています。歴史の結果から観れば、当時は日独の両勢力が全面的な侵略戦争に突入する前夜に当たります。来たるべき総力戦の準備段階であったと言えます。しかし、日本は日露戦争で手に入れた南満州鉄道の権益を守るため、関東軍を南満州鉄道株式会社附属地に配置し、それまでもずっと侵略状態を続けていたのです。

生命線としての撫順

 ここ撫順でも日本軍の姿は日露の奉天会戦以来、第二次大戦の敗北まで、40年間も消えることはなかったのです。日露戦争の戦費の約6割を米英での外債、すなわち借金で賄っていた日本にとっては、満鉄附属地の資源開発は焦眉の課題でした。地質研究所を設置した満鉄は、それまでわずかに採鉱をしていた撫順炭田の地下に、層厚100メートルもの世界屈指の大炭層を発見し、さらに1909年には露天掘地域の炭層の上部に、50億トンを超える油母頁岩(ゆぼけつがん=オイルシュール)の大鉱床を発見します。これに含まれる油を乾溜(かんりゅう)して重油生産に成功するのは1929年です。それ以来この戦争遂行の最重要資源の供給工場は絶え間なく拡張され、1945年の敗戦時には年産50万トンの世界最大の乾溜工場となっていました。

 30年代には「満蒙は日本の生命線」と宣伝されましたが、ならば「撫順は満蒙の生命線」であったのです。この炭田はいまでも良質の石炭などを豊富に供給する東洋最大の規模です。撫順駅から南へ坂を上っていくと西露天堀鉱が突然視界を覆います。眼下の広がりがあまりに巨大であるため、空が狭くなったように錯覚します。東西6キロ、南北2キロ、探さ300メートルの大きさです。

 日本はここの資源の「開発」、すなわち略奪のためにはあらゆる手段を厭(いと)いませんでした。特に1928年の張作霖(ちょうさくりん)謀殺あたりからは、謀略とむき出しの暴力が完全に主導します。そして、31年の柳条湖満鉄爆破事件を契機にした全満州の侵略で日本は完全に自制力を失ってしまいます。テロは内側にも向かい、翌32年5月には関東軍がむりやり建国した「満州国」の承認を渋る犬養首相が暗殺されます。同9月15日には日本国が「満州国」を独立国として正式承認する日満議定書の調印式が行なわれ、ここに関東軍の傀儡の偽「満州国」が完成しますが、この日の深夜に撫順炭田が2000人ほどの抗日ゲリラに襲われます。事務所や社宅に火が放たれ、日本人職員とその家族の5人が死亡し、6人が重傷を負いました。駆けつけた日本軍守備隊の火器によって、ゲリラ側は50人もの死者を残して撤退しましたが、大惨劇がその後に起こされます。

平頂山の大虐殺

 夜が明けてから、日本軍はゲリラ部隊が攻撃に際して通過した平項山村の400世帯の住民全員を、写真を撮ると騙して、部落前の谷間に集め、包囲したうえで機関銃の一斉射撃をあびせて皆殺しにしたのです。火を放たれた家々が燃えさかる中での大量虐殺でした。大量の遺体に重油をかけて焼却しようとして失敗した日本軍は、ついには谷の崖を爆破して埋めてしまいました。

 1969年になって発掘調査が行なわれ、犠牲者は3000人にもおよぶと推定されています。発掘現場には殉難同胞遺骨館が建設され、発掘時のままの状態で保存されている約800体の遺骨が見えます。私が訪れたのは年末の休館日でしたが、若い朝鮮人の館長、金花順さんは親切に入館を許してくださいました。彼女の説明によると、発掘後時間も経ったので、保存状態を改善する大規模な工事が間もなく始められるとのことでした。お礼を述べてから、平頂山上の大きな殉難同胞記念碑の側まで登ってみました。先の露天鉱が北側に見えます。ここから見ると、この巨大な穴は近代日本の侵略が中国に与えて、永遠に消えない巨大な傷口であることがよく解ります。そして、いわれなく惨殺され、ここで生産された重油をかけられて遺体を焼かれ、埋められた平頂山の人々は、軍事暴力から生まれた偽「満州国」の痛ましい最初の生贅(いけにえ)であったことに気付きます。
「撫順日本人戦犯管理所」の一部。ここで日本人戦犯たちは人間として生まれ変わった。筆者は左端の部屋に滞在した。
(写真提供/筆者)
 当時の日本の生命線維持がかくも残忍だったことを、ここの人たちが忘れることはありえないことです。隠蔽された犯罪が発掘で白日の下に曝されてから数年後に、「マラッカ海峡は日本の生命線だ」と日本の総理大臣の発言がありました。他国の領土領域を自国の生命線であると勝手に決めつける近代日本の政治風土はいささかも変わっていないのです。これが侵略思想であることに中曽根康弘氏は気づかないのです。

 いずれにせよ、ここ撫順の平頂山上に立ってみると、ドイツでナチスが政権を奪取する前夜に、すでに日本軍は「奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽くす」三光作戦を実行したことが確認できます。この面で日本は後に欧州東部戦線で焦土作戦を行なったドイツ軍の先輩でした。平頂山事件は、始まったばかりの一五年戦争での三光作戦の嚆矢(こうし)でした。 また抗日ゲリラ襲撃を大きく報道し、日本側の被害を伝えた現地の日本語の新聞は、直後の大量虐殺については一行も触れていません。この自国民の被害のみを強調し、加害を無視する日本のマスコミの風土は検閲制度がない現在でも生き続け、最近では一部で極端になっています。その典型が「慰安婦」や三光作戦を無視しようとする歴史改竄(かいざん)主義者たちを煽る一部マスコミです。彼らの主張はアジアの被害諸国の人々にとっては、居直り強盗の説教の類で、許しがたいものです。彼らの言動を国賊行為と私は呼んでいます。

奇跡の人間回復

 ところで撫順には、三光の加害の現場だけでなく、実は世界史でも稀な出来事の現場があります。私が年越しをした旧監獄がそこです。元旦を迎えたのは、実は「奇跡」のあった現場の一室でした。
戦犯管理所内の「向抗日殉難烈士謝罪碑」。1988年、中国帰還者連絡会はこの碑を建立して謝罪の意を新たにした。
(写真提供/新井利男)
 1950年7月、前年に成立したばかりの新中国政府にソ連邦から抑留中の日本人捕虜、969人が引き渡されました。彼らの大半は旧日本軍の中将から二等兵までの軍人でしたが、旧「満州国」の政府高官・憲兵・警察官もかなり含まれていました。すでに5年近くシベリアでの強制労働に従事させられた人々は、「撫順日本人戦犯管理所」と改称され、突貫工事で改善新装されたばかりの旧監獄に収容されます。日本時代には反満抗日の中国人が投獄され、拷問テロで多くの人命が失われた同じ場所で、彼らを待ち受けていたのは、想像だにつかない新中国の徹底した人道的な待遇だったのです。私のような後の世代の者でも間違いなく言えるのは、周恩来以下の当時の中国共産党中央が「戦犯といえども皆人間である。人間である以上、人格を尊重しなければならない」という原則を貫き、「そうすれば殺人鬼であろうとも、必ず罪を自覚し人間の良心を回復する」との信念を実行したということです。そしてこの人間に対する根本的な信頼が正しいことが、やがて証明されています。管理所職員の人道的な処遇のなかで、人々は次第に鬼から元の人間へと回帰していったのです。

 戦犯たちは4年ほど経つうちに、決して自白を強要しようとはしない管理教育科の職員の前で、自発的に自らの罪行を懺悔し、それを供述書に記すまでになっていました。多くは満足できる供述書が出来るまで何度も書き直しました。むしろ懺悔録といったほうがふさわしい記録を完成するためには、自分との壮絶な内心での闘いが不可避だったはずです。私も保管されているいくつかの記録を読む機会を得ましたが、その多くがやはり単なる供述書ではないのです。

 命令下で行なったものであれ、およそ人間の行為とは思えないような犯罪事実に対し、戦犯たちは自分個人にまず責任があると自覚しています。略奪も、放火も、殺人もほかならぬ自分の手で実現が可能であったという認識です。このように犯罪事実を直視できるようになったのは、彼らが被害者の立場と心情を次第に理解できるようになっていたからです。
 認罪の最終段階では、元の身分や階級とは無関係に、ひとりの人間として被害者の気持を代弁するような凄まじい加害の自己告発が公開の場で次々となされました。このようにして、かつては戦場での殺人が快楽にまでなつていたような殺人鬼から人間へと復帰することができたのです。

犯罪事実を語り継ぐ

 このような日本人戦犯の変化を観察する特別な戦犯の一団がそこにはいました。清朝の最後の皇帝で、満州でも日本の傀儡皇帝であった溥儀を中心とする人たちです。「かつては戦争の狂人であった日本戦犯を、反戦平和のために闘う人間に変え、偽『満州国』皇帝とその閣僚連中を一般市民に変転させたことは、まことに人間の奇跡と言えるであろう」と書いたのは溥儀とともにいた弟の溥傑(ふけつ)です。

 ここにもあるように、鬼から人間となった日本人戦犯は1956年に大半が起訴を免除され帰国しました。45人だけが起訴され八年から最高20年の刑の判決がありましたが、64年までに全員が釈放され帰国しました。中国側の慎重な調査によれば、ここ撫順の戦犯たちによって虐殺された農民・市民・捕虜は85万7000人に達しているとのことです。これほどの膨大な犠牲に対する報復の気配は、ついにいささかも無かったのです。

 帰国してから彼らは中国帰還者連絡会(中帰連)を結成して、40年の長きに渡って一貫して日中友好と反戦平和に尽力を続けています。今では若い会員でも70歳代半ばに達し、存命会員も200余人になっていますが、何とその彼らが最近になって、「若い世代に戦争の真実を語り継ごう」と季刊誌『中帰連』の発刊を始めました。この創刊号に寄せられた報告には息を呑みます。彼らの記憶が年を経てますます鮮明になっているのではないかと思えるからです。

 ある会員は、犯罪告白の中でも最も恥ずかしく、死ぬほど難しい強姦殺人について「撫順で、ある曹長は認罪し、『私は中国人の女性を私の部屋に監禁し、数日間なぶり物にした挙げ句に、これを殺し、その上、当時食料不足であったので、中隊の者に食肉であると嘘をついて、これを切り刻んで食べさせました』と大声で暴露した。それは溶鉱炉の中に、自らを投げ込んで行く、捨て身の姿であった」と書き、「我々は、被害者の血まみれの恨みの手で、魂を掴まれてしまった。被害者が味わった、地獄の底を見てしまったのである。しかし不思議なことに、そこに恐怖心も嫌悪感も浮かんでこない。深い共感があるだけだ」、そして「もう日本人でも中国人でもない、『人間そのもの』が残されていた」と続けています。他にも、体験者のみに可能な、年月を経た燻(いぶ)し銀のような報告が載っています。創刊号は歴史授業の参考書として、教育関係者から注文が多く寄せられているとのことです。

 日本の侵略者が造り、中国の愛国者の地獄であった撫順の監獄は、よりによって日本人の鬼を人間へと復帰させるという奇跡をもたらす、人間精神復活の温室となったのです。このような史実は世界史にも例はありません。私の住むドイツの戦後史にもありません。人類にとっても貴重な体験です。中国にはこの歴史を記録した未公開の一次資料が鉄道貨車で二車両分もあると聞きました。戦犯たちの供述を慎重に裏付けた膨大な調査や証拠の書類などです。

 今年は日本が中国に対して全面的な侵略戦争に突入した盧溝橋事件、その延長線上で起きた南京大虐殺の60周年にあたります。歴史の記憶を固めるため資料の開示が行なわれる時期といえます。

 元旦、戦犯たちが過ごした部屋の格子窓から外の吹雪を眺めながら、この温室の太陽は人間を信頼した中国の人々の心そのものなのだと実感したのです。

(七・七盧溝橋事件60周年紀念日に)


かじむら たいちろう・1974年以来、ベルリン在住。87年から公益法人日独平和フォーラムのベルリン代表の一人。

●このサイトでは、梶村太一郎氏の以下の文章も読むことができます。
 「撫順」は続く世代に何でありうるか (『季刊中帰連』第2号)

表紙 > 人間に戻った元将兵たちの声を聴け

 

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