【福島原発・東電会長】 東京電力を潰す男、「カミソリ」と呼ばれた東電会長・勝俣恒久
以下、AERA(アエラ)11・5・2-9日号クリップ)
「カミソリ」と呼ばれた男が、安定企業の代表格だった東京電力を創業以来の危機に陥れた。
東京電力の勝俣恒久会長(71)にとって、3月11日は運命を暗転させた忌まわしい日となった。 その日まで勝俣の権勢は揺るぎないものだった。 子飼いの清水正孝を後任社長に抜擢し、3年を迎えようとしていた。 世論の反発が予想されたにもかかわらず、あえて資源エネルギー庁長官だった石田徹を顧問に招き、この天下りを副社長に起用するつもりでいた。 かつて東電を統べた王たち――木川田一隆や平岩外四――と同様に彼の「院政」は長く続きそうだつた。
“凶報”を知ったのは中国・北京でのことである。 現地時間の午後3時前(日本時間の午後4時前)、移動中のバスのなか、前席の元木昌彦・元「週刊現代」編集長からIPADを渡された。 元木はアサヒコムのニュースで大地震を知った。 後ろにいる東電の皷紀男副社長に、かなり大きいよ、とIPADを手渡すと、2人はじっと画面を見つめていたようだつた。
勝俣はこのとき、自身が団長の訪中団を率いていた。 団員はマスコミのOBたちだった。 後に「週刊文春」は「中国ツアー『大手マスコミ接待リスト』を入手!」と報じたが、団員にはその「週刊文春」元編集長の花田紀凱もいた。 花田は「やましいものではない」と言うが、7日間の訪中旅行の「参加費は5万円。 全部まかなえるとは思っていません」とも語る。 団員名簿には、毎日や西日本、信濃毎日各紙のOBや中日新聞相談役ら26人が名を連ねる。 東電はマスコミに気前が良かった。
勝俣と披は携帯電話で連絡を試みたが通じない。 気は焦っただろうが、成田空港は封鎖され、その日のうちに帰れない。 帰国したのは翌12目だった。 その日、福島第一原発1号機は水素爆発した。 瞬く問に人類史に残るチ
ェルノブイリ級の災厄へと広がっていった。
つい1週間前まで勝俣王朝に衰微の兆候は微塵もなかった。 3月4日、エネルギー業界の担当記者OBを集めた懇親会で、あるOB記者が石田の天下り受け入れに疑問を呈すると、勝俣は血相を変えて激高した。
「国家のお金で育て上げた人材をもったいないじゃないか!」
怒髪天を衝く勢いに驚いたOB記者は、南直哉元社長のそばに行き話題を変えた。 すると勝俣は南に向かって、「この人に言っときましたから」と言い放った。 OB記者は勝俣のその後に「倣慢の罪」の報いを見る。
勝俣恒久は1940年、東京に生まれた。 戦時経済体制が進み、国策会社の日本発送電が設立された翌年である。 やがて東電の前身の東京電燈は、日本発送電に強制出資させられて解散し、代わりに規模を小さくした関東配電が誕生した。
父久作は神奈川県箱根の農家の出で、高等小学校卒ながらも旧制麻布中の国語教師の職を得た。 久作は小説家の吉行淳之介にとって恩師と言える人だったが、戦争を賛美する側に回ったことを反省し、戦後教員を突然辞めて事業を始めた。 しかし、慣れぬ事業に失敗し、やがて代々木ゼミナールの副校長に迎えられた。 当時の代々木ゼミ新聞には久作による受験訓や勉強のノウハウが記されている。
GHQによって日本発送電が解体され、51年に東京電力が設立された。 まだ日本中が貧しかった時代で勝俣家もその例に漏れない。 母の早世で一家の苦労に拍車がかかったが、教育熱心な父のおかげで5男1女のきょうだいのうち恒久ら3人が東大に入った。 男児はいずれも出世し、長兄の孝雄は新日本製鉄副社長を経て九州石油社長に、末弟の宣夫は丸紅会長になった(下図参照)。 東大名誉教授の三兄の鎮夫は、「よく碁と将棋をしました」
と往時を懐かしむ。 秀才揃いの勝俣家は、戦後日本の輝けるベスト&ブライテストだった。
勝俣が入社したのは、9電力体制の仕掛け人だった木川田が財界人として精力的に活動していたころである。 木川田は企画や秘書部門の後、労務担当として戦闘的な労組「電産」との交渉を受け持った。 木川田は、自由放任の資本主義を嫌い、「民僚」とでも呼ぶべき官僚的社風や労使協調路線という今の東電の体質を培っている。 勝俣の入社試験の面接も木川田で、身上書の好きなもの欄に「おせんべい」と書いた若造を面白がった。 以来、彼は企画部の主流コースを歩んでゆく。
企画部と総務部。 東電のエリートが輩出したのは、この二つの部署だった。 といっても平岩から荒木浩までの時代は、総務閥が強かった。 迷惑施設である発電所の立地には、さまざまな交渉事が欠かせない。 政治家や自治体対策に長けた総務関が力を得るのは、だからである。 低成長の時代に入って新規立地が不要になり、むしろ自由化を求める通商産業省(現経済産業省)対策が重視されると、省庁対応を担う企画部に光が当たった。 総務系の2人の社長候補――塙章次と山本勝――が病を得た不幸も手伝い、南、勝俣と企画部出身者が社長に就いた。
彼には「カミソリ勝俣」の異名がある。 常務時代の98年、私は彼の勉強会に出席したことがある。 荒木社長(当時)の懐刀だった彼の弁舌は官僚に近い「民僚」に思えた。 あのとき勝俣は、電力は十分に公正な競争を担保し、むしろ独占の悪弊は通信業界にある、と説いた。 当時東電は通信業界に参入し、結局は失敗したものの、ソフトバンクの孫正義社長らと組んでNTTに挑もうとさえした。 10年余たって電力需要に占める新規事業者のシェアは1.9%にすぎない。 ソフトバンクがNTTドコモの牙城を突き崩す通信界とは対照的である。 競争が促進されたのは、電力ではなく通信のほうだつた。
勝俣を一気に押し上げたのは、2002年の原発不祥事である。 経産省の村田成二事務次官は、電力自由化要求と原発トラプル隠しの両面から東電を責め立て、ついに荒木会長と南社長は辞任し、平岩、那須期両相談役も退任させられた。
社内上層部には、勝俣が必要以上に役所に協力的なことに違和感を持つ向きもあった。
「お役人と仕事をすることが好きな人で、スジが通らない足の引っ張られ方をされました」
元幹部はそう振り返る。
山本が急逝した後、後継者は彼しかいなかった。 南が後継を打診すると勝俣は二つ返事で引き受けたという。 原発トラブル隠しの社内調査委員会の委員長を務めた勝俣は、社長に就くと、この調査をもとに「しない風土させない仕組み」という企業倫理の確立を訴えた。 一見改革者の振る舞いに見えるが、当時の幹部によると、調査を実質的に担ったのは総務部の部長代理だった。 追及を受けた原子力部門は35人が処分され、総務部への恨み節も漏れた。 企画部の対抗勢力だった総務部門は、次第に力を失っていった。
4人の先輩社長が一斉に身を退いた権力の空白は、誇り高き男の謙抑さを次第に失わせていった。 直近こそ約6千億円だが、かつては毎年1兆円以上の設備投資をしてきた東電はNTTと並ぶ巨大調達企業である。 新日鉄など製鉄メーカーも、東芝、日立製作所など電機メーカーも、ゼネコンも総合商社もひざまずく。 社債の引き受けや融資で証券界も金融界も頭が上がらない。 つまり経団選の中では、常に上座の席が用意されるのである。 勝俣もまた経団連の副会長に就いた。
勝俣が企画部長時代、企画部TQC推進室副室長だったのが清水だった。 総務でも企画でもない資材畑出身の清水を社長に選んだのは、コスト削減の手腕を期待してだが、気心が知れた部下という面もあるだろう。
歴代の社長経験者の中には、次は清水にしたいという勝俣の申し出に再考を促す者もいた。
「世間に、特にお役所関係に全然知られていない人なので、1年待ちなさい、それで評価が定まったら、と」(元首脳)
1年たって、やはり清水をという勝俣の申し出を、もはや拒む者は東電にいなかった。
おとなしい清水は社長の体をなさない。 部下が報告や判断を仰ぐと、「会長の了解をとってくれ」「会長にも説明して」と答え、社員を呆れさせている。
地震発生後、原発事故が拡大し、菅直人首相に官邸に呼びつけられた清水は内幸町の東電本店に戻るや否や、「いまから総理が来る。会長を呼んで」と取り乱した。 3月15日午前5ごろのことである。 東電本庖2階で、このあと菅が罵声を浴びせた。
「このままでは日本が滅亡する。 命がけでやれ。 東電は逃げたら100%潰れる」
室外に響く怒声だった。 清水はその翌日倒れ、本店内で点滴を打つ日々を過ごし、29日夜には緊急入院している。「ふらふらだった」と目撃者は語る。
「そういう司令官を選んだのが良かったのか、そういうことになりますよね。任命責任がある」 元首脳はうなだれた。
東電の実力者は依然として勝俣である。 それなのに病臥に伏す清水に代わることを避け、本店内に詰める海江田万里経産相らへの説明役に回った。 企画部以来の手慣れた役回りである。
なぜ清水にとって代わらないのか記者会見で尋ねられると、「私も統合本部にいて、発電所や官邸とのやりとりにかかわっていました」と、はぐらかした。
それをかつての部下は「清水社長に譲った業務執行に口を出すのはタブーと考えたからでしょう」と酪酌するが、資源エネルギー庁の課長として東電とやり合った官僚は「矢面に立ちたくないんだろう」と見た。
産業技術総合研究所の専門家が09年、869年の貞観地震並みの地震が再来すると指摘するなど、福島第一原発の危うさへの警告はあった。 だが、勝俣も清水もその対応を怠ってきた。
勝俣は3月30日、震災後初めて姿を見せた記者会見で、初動の遅れを関われると、「ベストを尽ミしたと思います」
と言った。
その後、復調した清水は記者会見や国会で関われると、同じセリフ「ベストを尽くした」を繰り返している。
勝俣は4月17日の2目の記者会見で、「経営責任は感じています。 退く方向で検討をしております」と、引責辞任に言及した。
「これだけ難しい対応をするために誰を残すか考えて判断したいが、原則は株主総会で全員かどうかわかりませんが退任するということでございます」
勝俣が経営責任を感じるのは当然である。 しかし、辞めることを、残される東電の社員たちは「無責任」と見る。 清水では心許なく、ここは勝俣が十字架を背負うべきだろう。
その一方で、次代にむけた布石と見られる動きがある。 統合本部の事務局長には4月1日付で西沢俊夫常務が就いた。 勝俣――藤原万喜夫副社長――西沢のラインは、生粋の企画閥といわれ、西沢も元企画部長だ。 6月の株主総会で上層部が退陣後、子飼いの部下が登板する。 そんな憶測がしきりである。
戦後エリートの典型の勝俣は、高級官僚と同じように切れ味はカミソリのように鋭かったが、カミソリのように薄くもある。
思い切った胆力に乏しい。
「カミソリであって、日本万ではないんだな」(元幹部)
エリートの限界でもあった。
(文中敬称略)
日本型ベスト&プライテストの絶頂と限界
東京電力を潰す男
「カミソリ」と呼ばれた男が、安定企業の代表格だった東京電力を創業以来の危機に陥れた。
輝けるエリートは、守勢に回ると弱かった。 (編集部 大鹿靖明)
東京電力の勝俣恒久会長(71)にとって、3月11日は運命を暗転させた忌まわしい日となった。 その日まで勝俣の権勢は揺るぎないものだった。 子飼いの清水正孝を後任社長に抜擢し、3年を迎えようとしていた。 世論の反発が予想されたにもかかわらず、あえて資源エネルギー庁長官だった石田徹を顧問に招き、この天下りを副社長に起用するつもりでいた。 かつて東電を統べた王たち――木川田一隆や平岩外四――と同様に彼の「院政」は長く続きそうだつた。
“凶報”を知ったのは中国・北京でのことである。 現地時間の午後3時前(日本時間の午後4時前)、移動中のバスのなか、前席の元木昌彦・元「週刊現代」編集長からIPADを渡された。 元木はアサヒコムのニュースで大地震を知った。 後ろにいる東電の皷紀男副社長に、かなり大きいよ、とIPADを手渡すと、2人はじっと画面を見つめていたようだつた。
■ 天下り指摘に激高
勝俣はこのとき、自身が団長の訪中団を率いていた。 団員はマスコミのOBたちだった。 後に「週刊文春」は「中国ツアー『大手マスコミ接待リスト』を入手!」と報じたが、団員にはその「週刊文春」元編集長の花田紀凱もいた。 花田は「やましいものではない」と言うが、7日間の訪中旅行の「参加費は5万円。 全部まかなえるとは思っていません」とも語る。 団員名簿には、毎日や西日本、信濃毎日各紙のOBや中日新聞相談役ら26人が名を連ねる。 東電はマスコミに気前が良かった。
勝俣と披は携帯電話で連絡を試みたが通じない。 気は焦っただろうが、成田空港は封鎖され、その日のうちに帰れない。 帰国したのは翌12目だった。 その日、福島第一原発1号機は水素爆発した。 瞬く問に人類史に残るチ
ェルノブイリ級の災厄へと広がっていった。
つい1週間前まで勝俣王朝に衰微の兆候は微塵もなかった。 3月4日、エネルギー業界の担当記者OBを集めた懇親会で、あるOB記者が石田の天下り受け入れに疑問を呈すると、勝俣は血相を変えて激高した。
「国家のお金で育て上げた人材をもったいないじゃないか!」
怒髪天を衝く勢いに驚いたOB記者は、南直哉元社長のそばに行き話題を変えた。 すると勝俣は南に向かって、「この人に言っときましたから」と言い放った。 OB記者は勝俣のその後に「倣慢の罪」の報いを見る。
勝俣恒久は1940年、東京に生まれた。 戦時経済体制が進み、国策会社の日本発送電が設立された翌年である。 やがて東電の前身の東京電燈は、日本発送電に強制出資させられて解散し、代わりに規模を小さくした関東配電が誕生した。
■ 身上書に「おせんべい」
父久作は神奈川県箱根の農家の出で、高等小学校卒ながらも旧制麻布中の国語教師の職を得た。 久作は小説家の吉行淳之介にとって恩師と言える人だったが、戦争を賛美する側に回ったことを反省し、戦後教員を突然辞めて事業を始めた。 しかし、慣れぬ事業に失敗し、やがて代々木ゼミナールの副校長に迎えられた。 当時の代々木ゼミ新聞には久作による受験訓や勉強のノウハウが記されている。
GHQによって日本発送電が解体され、51年に東京電力が設立された。 まだ日本中が貧しかった時代で勝俣家もその例に漏れない。 母の早世で一家の苦労に拍車がかかったが、教育熱心な父のおかげで5男1女のきょうだいのうち恒久ら3人が東大に入った。 男児はいずれも出世し、長兄の孝雄は新日本製鉄副社長を経て九州石油社長に、末弟の宣夫は丸紅会長になった(下図参照)。 東大名誉教授の三兄の鎮夫は、「よく碁と将棋をしました」
と往時を懐かしむ。 秀才揃いの勝俣家は、戦後日本の輝けるベスト&ブライテストだった。
勝俣が入社したのは、9電力体制の仕掛け人だった木川田が財界人として精力的に活動していたころである。 木川田は企画や秘書部門の後、労務担当として戦闘的な労組「電産」との交渉を受け持った。 木川田は、自由放任の資本主義を嫌い、「民僚」とでも呼ぶべき官僚的社風や労使協調路線という今の東電の体質を培っている。 勝俣の入社試験の面接も木川田で、身上書の好きなもの欄に「おせんべい」と書いた若造を面白がった。 以来、彼は企画部の主流コースを歩んでゆく。
■ 不祥事調査は総務任せ
企画部と総務部。 東電のエリートが輩出したのは、この二つの部署だった。 といっても平岩から荒木浩までの時代は、総務閥が強かった。 迷惑施設である発電所の立地には、さまざまな交渉事が欠かせない。 政治家や自治体対策に長けた総務関が力を得るのは、だからである。 低成長の時代に入って新規立地が不要になり、むしろ自由化を求める通商産業省(現経済産業省)対策が重視されると、省庁対応を担う企画部に光が当たった。 総務系の2人の社長候補――塙章次と山本勝――が病を得た不幸も手伝い、南、勝俣と企画部出身者が社長に就いた。
彼には「カミソリ勝俣」の異名がある。 常務時代の98年、私は彼の勉強会に出席したことがある。 荒木社長(当時)の懐刀だった彼の弁舌は官僚に近い「民僚」に思えた。 あのとき勝俣は、電力は十分に公正な競争を担保し、むしろ独占の悪弊は通信業界にある、と説いた。 当時東電は通信業界に参入し、結局は失敗したものの、ソフトバンクの孫正義社長らと組んでNTTに挑もうとさえした。 10年余たって電力需要に占める新規事業者のシェアは1.9%にすぎない。 ソフトバンクがNTTドコモの牙城を突き崩す通信界とは対照的である。 競争が促進されたのは、電力ではなく通信のほうだつた。
勝俣を一気に押し上げたのは、2002年の原発不祥事である。 経産省の村田成二事務次官は、電力自由化要求と原発トラプル隠しの両面から東電を責め立て、ついに荒木会長と南社長は辞任し、平岩、那須期両相談役も退任させられた。
社内上層部には、勝俣が必要以上に役所に協力的なことに違和感を持つ向きもあった。
「お役人と仕事をすることが好きな人で、スジが通らない足の引っ張られ方をされました」
元幹部はそう振り返る。
山本が急逝した後、後継者は彼しかいなかった。 南が後継を打診すると勝俣は二つ返事で引き受けたという。 原発トラブル隠しの社内調査委員会の委員長を務めた勝俣は、社長に就くと、この調査をもとに「しない風土させない仕組み」という企業倫理の確立を訴えた。 一見改革者の振る舞いに見えるが、当時の幹部によると、調査を実質的に担ったのは総務部の部長代理だった。 追及を受けた原子力部門は35人が処分され、総務部への恨み節も漏れた。 企画部の対抗勢力だった総務部門は、次第に力を失っていった。
■ 子飼いを社長に登用
4人の先輩社長が一斉に身を退いた権力の空白は、誇り高き男の謙抑さを次第に失わせていった。 直近こそ約6千億円だが、かつては毎年1兆円以上の設備投資をしてきた東電はNTTと並ぶ巨大調達企業である。 新日鉄など製鉄メーカーも、東芝、日立製作所など電機メーカーも、ゼネコンも総合商社もひざまずく。 社債の引き受けや融資で証券界も金融界も頭が上がらない。 つまり経団選の中では、常に上座の席が用意されるのである。 勝俣もまた経団連の副会長に就いた。
勝俣が企画部長時代、企画部TQC推進室副室長だったのが清水だった。 総務でも企画でもない資材畑出身の清水を社長に選んだのは、コスト削減の手腕を期待してだが、気心が知れた部下という面もあるだろう。
歴代の社長経験者の中には、次は清水にしたいという勝俣の申し出に再考を促す者もいた。
「世間に、特にお役所関係に全然知られていない人なので、1年待ちなさい、それで評価が定まったら、と」(元首脳)
1年たって、やはり清水をという勝俣の申し出を、もはや拒む者は東電にいなかった。
おとなしい清水は社長の体をなさない。 部下が報告や判断を仰ぐと、「会長の了解をとってくれ」「会長にも説明して」と答え、社員を呆れさせている。
■ 「矢面に立ちたくない」
地震発生後、原発事故が拡大し、菅直人首相に官邸に呼びつけられた清水は内幸町の東電本店に戻るや否や、「いまから総理が来る。会長を呼んで」と取り乱した。 3月15日午前5ごろのことである。 東電本庖2階で、このあと菅が罵声を浴びせた。
「このままでは日本が滅亡する。 命がけでやれ。 東電は逃げたら100%潰れる」
室外に響く怒声だった。 清水はその翌日倒れ、本店内で点滴を打つ日々を過ごし、29日夜には緊急入院している。「ふらふらだった」と目撃者は語る。
「そういう司令官を選んだのが良かったのか、そういうことになりますよね。任命責任がある」 元首脳はうなだれた。
東電の実力者は依然として勝俣である。 それなのに病臥に伏す清水に代わることを避け、本店内に詰める海江田万里経産相らへの説明役に回った。 企画部以来の手慣れた役回りである。
なぜ清水にとって代わらないのか記者会見で尋ねられると、「私も統合本部にいて、発電所や官邸とのやりとりにかかわっていました」と、はぐらかした。
それをかつての部下は「清水社長に譲った業務執行に口を出すのはタブーと考えたからでしょう」と酪酌するが、資源エネルギー庁の課長として東電とやり合った官僚は「矢面に立ちたくないんだろう」と見た。
産業技術総合研究所の専門家が09年、869年の貞観地震並みの地震が再来すると指摘するなど、福島第一原発の危うさへの警告はあった。 だが、勝俣も清水もその対応を怠ってきた。
■ 辞任と後継への布石
勝俣は3月30日、震災後初めて姿を見せた記者会見で、初動の遅れを関われると、「ベストを尽ミしたと思います」
と言った。
その後、復調した清水は記者会見や国会で関われると、同じセリフ「ベストを尽くした」を繰り返している。
勝俣は4月17日の2目の記者会見で、「経営責任は感じています。 退く方向で検討をしております」と、引責辞任に言及した。
「これだけ難しい対応をするために誰を残すか考えて判断したいが、原則は株主総会で全員かどうかわかりませんが退任するということでございます」
勝俣が経営責任を感じるのは当然である。 しかし、辞めることを、残される東電の社員たちは「無責任」と見る。 清水では心許なく、ここは勝俣が十字架を背負うべきだろう。
その一方で、次代にむけた布石と見られる動きがある。 統合本部の事務局長には4月1日付で西沢俊夫常務が就いた。 勝俣――藤原万喜夫副社長――西沢のラインは、生粋の企画閥といわれ、西沢も元企画部長だ。 6月の株主総会で上層部が退陣後、子飼いの部下が登板する。 そんな憶測がしきりである。
戦後エリートの典型の勝俣は、高級官僚と同じように切れ味はカミソリのように鋭かったが、カミソリのように薄くもある。
思い切った胆力に乏しい。
「カミソリであって、日本万ではないんだな」(元幹部)
エリートの限界でもあった。
(文中敬称略)
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