松 川 事 件

戦後史に残るえん罪事件

   

1949年8月17日早朝、福島県松川町

 敗戦から4年たった1949松川事件(1949.8/17)年8月17日、午前3時9分(当時は米軍占領下でサマータイムが実施されていたため現在時刻にすると午前2時9分)頃、福島県松川町を通過中だった東北本線上り列車が、突如脱線転覆する事件がおこった。松川事件である。この事件による死亡者は3人、いずれも列車を牽引していた蒸気機関車の乗務員で、発足したばかりの日本国有鉄道公社(国鉄、現在のJR)の職員だった。
 事件が起きたのは東北本線松川駅−金谷川駅間のカーブの曲がり鼻地点で 検証の結果、転覆地点付近の線路継目部のボルト・ナットがゆるめられ、継ぎ目板がはずされているのが確認された。さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、25mのレール自体、ほとんどまっすぐなまま13mも移動していた。明らかに何者かによる意図的列車妨害であった。

政府が事件を労働運動弾圧に利用

 当時はまだ戦後の混乱が収まっていない時期だった。激しいインフレが庶民生活におそいかかり、社会不安が広がっていた。このような中で政府は、戦時中にふくれあがった公務員・国鉄職員の大量首切りを発表。また民間企業も占領軍の推奨する「ドッジライン」と呼ばれる超緊縮経済政策によって、大量の人員整理・合理化に着手、これに抵抗する労働争議が各地で激しく闘われていた。松川事件が起こった福島市・松川町周辺でも、国鉄の大量首切りに反対して国鉄労働組合福島支部(国労福島支部)が、そして財閥解体にかかわる東芝松川工場の大量指名解雇に反対して東芝労連松川工場労組(東芝松川労組)が闘争を展開していた。当時の吉田茂内閣は、こうした労働争議を「社会不安をあおるもの」と決めつけ、徹底的に弾圧する姿勢を見せていた。松川事件はこのような騒然たる社会状況の中で起こった。
 松川事件発生直後、まだ本格的調査もおこなわれていない段階で吉田内閣の増田官房長官は、「今回の事件は今までにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流において同じである」という談話を発表した。これは「事件は共産党と、その指導する労働運動がおこした」という露骨な偏見を述べたものである。松川事件の捜査は、この政府中枢の姿勢に完全に拘束されていくことになる。
 捜査当局は、当時解雇反対および工場閉鎖反対等の闘争中であった国労福島支部幹部および東芝松川労組幹部ら(いずれもほとんどが共産党員)に目をつけた。まず9月10日、元国労福島支部組合員で国鉄の第一次整理の際解雇されていた赤間青年(非党員)を別件逮捕し、強引な自白強要の末に嘘の自白・「赤間自白」を引き出す。
 そしてこれに前後して国労福島支部幹部および東芝松川労組幹部等(ほとんどが共産党員)を次々と逮捕、厳しい取り調べ=自白強要の末、さらにいくつかの嘘の自白を引き出したのである。その間、客観的な立場に立って現場と証拠から事実を解明するという本来おこなわれるべき科学的捜査は全くおこなわれなかった。おこなわれたのは被告たちへの連日の厳しい取り調べ=自白強要と、それに付随した「裏付け捜査」だけだった。
 こうして、最初に逮捕された赤間青年の自白を最大の根拠に、合計20人が列車妨害の「謀議」をなし、あるいはその「実行犯」であるとして起訴された。

「無実の者を殺すな」―松川救援運動が広がる

 1951年12月6日、第一審の福島地裁は検察側の主張をほぼ認めた形で5人を「死刑」、5人を「無期懲役」、10人を有期の懲役とし、全員有罪の判決を下した。1953年12月22日、控訴審の仙台高裁は検察側主張の一部を否認し3人の無実を認めたが、他の17人に関しては死刑4人を含む有罪判決であった。
 一方、作家・廣津和郎さんらの呼びかけで多くの文化人も加わった「松川事件救援運動」は裁判の進展とともに次第に盛りあがりを見せ、「無実の者を殺すな」という世論も大きく広がっていった。こうした中1959年8月10日、最高裁は被告たちによる謀議が存在したという検察側主張と下級審の事実認定に疑問を呈し、また重要なアリバイに関するメモ(実行犯の一人とされていた佐藤一さんが、謀議に参加することが不可能であったことを立証する「諏訪メモ」)の証拠価値を認め、原判決を破棄し仙台高裁に差し戻した。

検察によって隠匿された佐藤さんのアリバイ証拠―「諏訪メモ」

 逆転無罪判決の大きな決め手となった証拠に「諏訪メモ」と呼ばれるものの存在があった。これは、「実行犯」として一審・二審で死刑判決を受けた佐藤一さんが、他のメンバーと共に謀議をなしたとされる時間にその場所(国労福島支部組合事務所)に行くことが不可能であったこと、なぜなら謀議がおこなわれていたはずの時刻、佐藤さんは東芝松川工場での労使交渉に出席していたから、という事実を証明するアリバイ証拠であった。労使交渉の相手方である東芝松川工場事務課長補佐・諏訪親一郎さんがその団交の発言等を記録したメモであったので「諏訪メモ」と呼ばれている。同メモには問題の交渉に佐藤さん(当時東芝労連中央オルグであり、松川工場の争議応援のために中央から派遣されていた)が間違いなく参加し、度々発言していたことがその詳細な発言内容とともに記されていた。
 事実究明のために決定的な意味を持つこの重要証拠を、検察は捜査段階から手元に置いて隠匿していた。上告審において弁護側がこのメモの存在を知り提出を要求し、最高裁もまた提出命令を出すが、そのときに至るまで検察内部で隠し続けていたのである。そして、佐藤さんが謀議に参加していなかった(そもそも謀議などなかった)ことを承知の上で、「佐藤さんが謀議に出席し列車妨害の実行犯となったのだ」と主張し続けた。

でっちあげられた物証―「自在スパナ」

 松川事件では、このほかに重要証拠のねつ造までおこなわれていた。仙台高裁での差し戻し審理の中でこのことが発覚する。この証拠は、犯人たちが線路の継目部のボルト・ナットをゆるめる際に使用したとして裁判所に提出されていた「自在スパナ」である。それは殺害事件における凶器に匹敵する最重要物証であった。
 長さ約24cmの鉄製小型工具「自在スパナ」は、事件現場近くに放り出されてあったのを事件直後におこなった捜索で捜査官の誰かが発見押収した(誰が「発見した」のかは分からないというのだが)ということになっていた。警察・検察によれば、この「自在スパナ」は元来松川駅の線路班倉庫に1丁だけあったもので、事件当日これを被告たちが盗み出して現場まで持ち込み、これを使って線路の継目部のボルト・ナットをゆるめ、犬釘を抜いて列車を転覆させたということになっていた。しかし、証拠として提出されていた「自在スパナ」は新品同様で、ボルト・ナットをゆるめたときに印されるはずの使用痕や傷跡が全くなかった。また、そもそもこんな小型工具では現場のボルト・ナットをゆるめること自体が不可能だった。
 重要物証「自在スパナ」に対する疑問が大きくなる中、差し戻し審の法廷で驚くべきことがおこる。
 最高裁の差し戻し決定を受けた仙台高裁での審理において、検察側が突如として、証拠として提出されていたものとは別の「小型自在スパナ」を法廷に持ち出した。そして、この新たに提出した「自在スパナ」は「事件直後に捜査員が松川駅の線路班倉庫から『引きあげ』、金谷川駐在所に保管していたまま忘れていたものである」と説明した。
 これはつまりこういうことを意味した。これまで証拠品として提出してきた「自在スパナ」は偽物で、こっちが本物の「自在スパナ」であると。しかも、被告たちが盗み出して犯行に用い、現場近くに放り出してあったはずの「自在スパナ」は、実際には事件当時まちがいなく倉庫の中にあって誰にも使われておらず、これが持ち出されたのは事件発生後、捜査官の手によってであった、と。さらに推論すると、検察当局としては本来この忘れていた「自在スパナ」を重要証拠として裁判に提出する予定であったが、いざ裁判が始まる段になってそれをどこに保管したか忘れてしまった。しかたがないからどこかでよく似た「自在スパナ」を調達し、「これが実際に犯行に使われたものである」といつわって裁判所に提出してしまったのだ、と。
 仙台高裁も、後から検察が提出した「自在スパナ」こそ本来松川駅線路班倉庫に1丁だけあったもので、第一審以来裁判所に証拠として提出されていた「自在スパナ」は事件と関係ないものであると認定した。そしてこれらのことから、そもそも「自在スパナ」を使って犯行をおこなった事実はなく、自白は信用できない。よって被告人たちは無罪であると認定した。

検察は信用できない―裁判長すら怒りを感じる実態

 最後に、元被告の佐藤一さんから直接うかがったエピソードを一つ紹介しよう。
 差し戻し審の審理が全て終了し、後は判決申し渡しを残すだけとなったとき、仙台高裁の裁判長は検察官と弁護人に判決公判の日取りを伝えた。裁判長が示した日程は8月8日、有名な仙台七夕の当日である。「予想される混乱と警備の都合」を理由に、検察官はこの日程の延期を強く求めた。しかし裁判長は、断固たる態度で検察側主張を却下したのである。「検察官の言うことは全く信用できない、『諏訪メモ』『自在スパナ』の真実を突きつけられた裁判長は、最後には検察の犯罪行為に怒りさえ覚えたのではないか」(佐藤さん談)。
 1961年8月8日、仙台高裁は被告全員に無罪判決を言い渡した。検察側は、激しい世論の非難にもかかわらず、なおも再上告を強行する。しかし1963年9月19日、最高裁は検察側の上告を棄却。こうして被告全員の完全無罪が確定したのである。実に事件発生から14年、佐藤さんら4人にとっては、まさに死刑台からの生還であった。

   

松川事件年表

1949

08/17
3:09、東北本線松川駅−金谷川駅間のカーブの曲がり鼻地点で上り列車が脱線転覆し、蒸気機関車の乗務員3人が死亡

09/10
赤間勝美さん逮捕される(容疑は別件の傷害罪)

09/19
菊池武さん逮捕される(後日一旦釈放)

09/22
「赤間自白」によって、鈴木信さん・本田昇さん・佐藤一さん・阿部市次さん・二宮豊さん・高橋晴雄さん・浜崎二雄さん逮捕される

10/04
杉浦三郎さん・太田省次さん・佐藤代治さん・小林源三郎さん・大内昭三さん逮捕される

10/08
菊池武さん再逮捕される

10/17
二階堂武夫さん・二階堂園子さん逮捕される

10/21
武田久さん・斉藤千さん・岡田十良松さん・加藤謙三さん逮捕される

1951

12/06
第一審判決(福島地裁)・・・ 全員有罪

1953

12/22
控訴審判決(仙台高裁)・・・ 17名有罪

1959

08/10
上告審判決(最高裁) ・・・ 高裁へ差し戻し

1961

08/08
差戻審判決(仙台高裁) ・・・ 全員無罪

1963

09/19
第2次上告審判決(最高裁)・・・ 検察側の上告を棄却

    

個人別判決詳細

お名前

第一審判決

控訴審判決

差戻審判決

鈴木 信 さん

死刑

死刑

無罪

本田 昇 さん

死刑

死刑

無罪

杉浦三郎 さん

死刑

死刑

無罪

佐藤 一 さん

死刑

死刑

無罪

阿部市次 さん

死刑

無期懲役

無罪

二宮 豊 さん

無期懲役

無期懲役

無罪

高橋晴雄 さん

無期懲役

懲役15年

無罪

太田省次 さん

無期懲役

懲役15年

無罪

赤間勝美 さん

無期懲役

懲役13年

無罪

武田 久 さん

無期懲役

無罪

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斎藤 千 さん

懲役15年

無罪

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岡田十良松さん

懲役12年

無罪

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浜崎二雄 さん

懲役12年

懲役10年

無罪

加藤謙三 さん

懲役12年

懲役10年

無罪

佐藤代治 さん

懲役10年

懲役10年

無罪

二階堂武夫さん

懲役10年

懲役7年

無罪

小林源三郎さん

懲役7年

懲役7年

無罪

菊池 武 さん

懲役7年

懲役7年

無罪

大内昭三 さん

懲役7年

懲役7年

無罪

二階堂園子さん

懲役3年6月

懲役3年6月

無罪

(この文章は2001年2月に、浦本誉至史が佐藤一さんのご協力を得て作成したものです)

《追記》

 厳しい社会情勢の中で、なお真実を訴え、不屈の意志をもって無罪を勝ち取った全ての被告の皆さん、そして、それを支えた全ての方々に対し、主義主張を越えて深甚なる敬意ををあらわします。再び困難の時代を迎えようとする今、2005年8月17日、松川事件56年目の夏に(浦本)

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