《依田勉三略歴》

嘉永6年(1853)黒船到来の年生まれ。大沢の善右衛門(名主)の3男。長男佐二平の
           すぐ下に庄助がいたが早世、実質的に2男。佐二平と年齢差7歳。幼
           名は久良之助。11人兄弟姉妹。
安政6年(1859)土屋三余(那賀・義伯父)の三余塾入門。勉三と改名。(7歳)
文久元年(1860)5男善吾生まれる。久良之助の名を継ぐ。のち晩成社現地副社長。
  3年(1863) 母ぶん没。(11歳)
慶応元年(1865)父善右衛門没。(13歳) 慶応2年(1865)師・三余没。(14歳)
明治3年(1870)横浜か東京へ。(沼津、共慣義塾説あり、研究の余地)(18歳)
  5年(1872)8月江奈の謹申学舎入門(20歳)(会津藩家老西郷頼母が塾長)
  7年(1874)8月慶応義塾入学。(22歳)
  8年(1875)この頃「ケプロン報文」に出合い、北海道開拓を決意。
          同年末?、英国人牧師のワッデル塾入門。洋学を勉強。(ワッデルは7年来日)
          渡辺勝・鈴木銃太郎(ワッデル塾出身)を知る。
     9年(1876)1月31日慶応義塾を正式に退学(理由=語学修業)。
          9月脚気、胃病を理由に伊豆へ帰る(この時渡辺勝同行)。
          (この間、佐二平の命で、富岡で養蚕研究)
  10年(1877)兄佐二平を手伝い豆陽学校(下田北高の前身)の創設に尽力。
  12年(1879)豆陽学校(下田北高の前身)が開校され教諭となる。勝は教頭。
          従妹リク(善六妹)と結婚。
  14年(1881)1月北海道開拓を正式に表明。単身北海道踏査。田内、内田らの十
           勝有望論に出合う。
  15年(1882)晩成社を結社。銃太郎と移住地調査。7.15オベリベリ(帯広)開拓地
          に決定。
  16年(1883)3.14大沢で送別の宴。俊助(2年2ケ月)を義姉ふじに預け、第1陣13
          戸、27人帯広移民。早くも3戸4人逃亡。10月鈴木親長・カネ・弟の文
          三郎入地。9.7俊助死亡。カネ子供達に勉強を教える。この中に南伊
          豆町出身山本金蔵がのち大豆の種を札幌から送り帯広の安定作物と
          なる。野火、蚊・ブヨ・アブ・バッタ、マラリヤ病、長雨・旱魃・冷害、
          輸送等に悩む。
  17年(1884)飢餓、勝“落ちぶれた極度か豚とひとつ鍋”勉三“開墾の始めは豚
          とひとつ鍋”
  18年(1885)6月義姉(佐二平妻)ふじ没。
          リク病気療養(18.9~22.8)のために伊豆に帰る。
  19年(1886)銃太郎晩成社改革を視察中の佐二平に提言、拒否され幹事を辞す。
          銃太郎アイヌの酋長娘コカトアンと結婚(常盤と改名)する。
          勉三・文三郎 当縁村生花苗に牧場。勝・銃太郎は渋更・音更・芽室
          など開墾。
  20年(1887)文三郎伊豆に帰り、翌21年没。22年リク北海道に戻る。      
  23年(1890)佐二平第1回衆議院議員となる。松平毅太郎を勉三の養子とする。
  24年(1891)大豆が安定作物となる。濃尾地震(のち岐阜移民者多くなる)。 
  25年(1892)佐二平・勉三それぞれ緑綬褒章を授章。
  26年(1893)帯広〜大津間囚人道路開通。副社長として善吾が帯広に入地。
  27年(1894)病気を理由にリクと離婚。函館で牛肉店開業。
  28年(1895)函館生まれのサヨと再婚。毅太郎(駿東郡富岡村生・旧姓松平)養子
          解消。十勝監獄開設 受刑者1,300人、職員267人。囚人が道路、産
          業、農業に貢献。御用商人集まり急速に帯広発展。
  29年(1896)千世(ちよ・6.2生〜8.6没)。二宮尊親(尊徳の孫)牛首別に入地、交友。
  31年(1898)29年の十勝植民地貸付解除以来、帯広に移民殺到、晩成社の前途に
          光。だが9月の大洪水で腰砕けとなる。晩成社50年満期に延期。
  32年(1899)途別水田に着手。37年冷害に強い黒毛品種“香(におい)早稲”を発見。
  35年(1903)善吾 帯広を去り伊豆に帰る。依田家改革(佐二平が北海道・勉三
          が大沢)を相談。
大正元年(1912)網走線(鉄道)開通。
  2年(1913)大凶作。姪キクを養女に迎える。
  4年(1915)途別水田の掘建小屋にサヨと住込み造田に従事。(63歳)
  5年(1916)晩成社の株主 善六、佐二平、勉三3人だけとなる。
         八百・キク結婚。
  6年(1917)緑綬褒章飾版加綬(開拓、勉三翁の右に出るものなからん)
  9年(1920)“水田の碑”佐二平伊豆より。“有難し雨の降る日の蓑と笠 錦に勝る
          ことな忘れぞ”途別水田で宴を開く(勝・銃太郎出席)。12人で「送別」
          の詩幅を回章して作る。          
  11年(1922)勝(6.15)没。善吾(12.21)没。
  13年(1924)春より中風に罹る。9.16サヨ看病疲れで没。9月末か11月?リクが
          看病に伊豆より来る。しかし口論をして病室を訪れなくなる。12月
          伊豆へ帰る。10.15佐二平没。
  14年(1925)12.12勉三没(73歳)北海道に45年。リク葬儀に来て広尾に住む没。
昭和7年(1932)12月晩成社解散。
  銃太郎(大正15.6.13)没、リク(昭和10.11.3・73歳)没、カネ(昭和20.12.1・83歳)没
 
馬鈴薯澱粉工場、自家用ビール、鶏・羊・豚・馬・牛繁殖改良、農耕用馬・牛の導入、
牧場を開く、ハロー(西洋鋤)導入、ハム製造、玉蜀黍、養蚕、リンゴ・落葉松・ウルシ
・松・杉植樹、ビート・粟・黍・麦・蕎麦・大豆・水稲、製藍所建設、屠殺場・牛肉店
開業、木工場、薄板製造、測候所に敷地を提供、亜麻製糸工場、大麻耕作、バターと練
乳、牛乳、しいたけ栽培、缶詰工場(牛大和煮・牛味噌・えび等)、藺草栽培(畳表・
編笠の家庭副業奨励)など。架橋・道路・排水溝・築港・教育・神社・アイヌとの交流
などに尽力。
昭和29年勉三北海道開拓神社祭神37柱となる(間宮林蔵・松浦武四郎・忠敬等と合祀)。