森川信英の世界

講演での話?B


しかし、同時に制作費を抑えるため、セルの枚数や絵の具の使用量に対して 厳しく制限が加わるようになってきました。また、テレビアニメは、一週間に一度放送されてゆくわけですから時間への制約も大変です。「ベム」の頃になる と、放送前に、何点か場面を想定し絵のストックをしたり、また一度使ったセル を全く別の日の のシーンで再度使用したりもしました。これも放送に間にあわせ、経費を節減するため苦肉の策でした。
また、当時はアニメを海外で製作するということがなかった時代ですから、大 切な仕上げの原画が空輸中に没収や紛失、傷つけられるという事件が度々おきていたのです。そのたび「第一動画 」から揃き直しの指令が届き、そこからは 何日も徹夜の日が続きました。何日もかけてやっと仕上げたものを、もう一度 同じ形に描きなおすのですから、これは精神的にもキツイ作業です。
しかし、そんな時でも韓国の人たちは、寝食も忘れ、私の指示にも答え、黙々と作業を続けてくれるのです。今でも思い出すのは、あの時の韓国の人たちの、まさに献身的な仕事と向き合う姿なのであります。

「黄金バット」の勢いをかつて製作された「ベム 」でしたが、当時は期待に反して人気の方は今ひとつでした。やはり、当時としてはモダンな絵柄や、不思議な物語は、まだ早すぎたのかもしれません。当初は一年間放送する予定だったものが、テレビ局側のお達しで、半年の 26 本で打ち切りが決定したのです。
第一動画からの電話では、韓国との提携は打ち切るので、すぐ帰国するようにとのことでした。
当初、韓国との文化交流として始まった私の渡韓ですが、何時の間にか企業の論理にすり替わって私もその歯車に組み入れられていたのです。
アニメの製作には大変な入手が必要です。その制作費の 6 割は人件費です。 当時、日本でもアニメ製作における人件費の高騰や、人手不足がすでに始まっていたのです。日韓両国の繁栄とは名ばかり、つまるところは、韓国の安い人 件費と人手を確保するための下請けに過ぎなかったのです。
私は、何とか東洋放送との提携を続けるよう会社に掛け合いました。が、第 一動画では、既に日本国内に新たな下請けの製作スタジオを確保する計闘が進んでいて、私はそこへ出向が内定しているとのことでした。結局、 2 年間の韓国との共同製作は、空輸にかかる経費や度重なるセル画の紛失など、思ったほどに 製作費用が浮かないという判断が会社にはあったのです。
最後には「森川さん、あなたも第一動画の役員なんですから、韓国のことより、まずは第一動画のことを考えてください。」と突き放されてしまいました。
その後、どうにもならなくなった私は 4 年間過ごした韓国を後にしました。第一動画の非情な決定を知ったあとも韓国のスタップたちは、全員が、空港に私を見送りに来てくれました。別れの日、私は彼らを守れなかったどころか、む しろ会社の手先になって裏切ってしまったという思いから、彼らの顔がまともに見られませんでした。日本人の私に家族のように接してくれた韓国の方たち

 
との思い出が、脳裏を駆け巡り機悔したのです…。
帰国後、暫らくして、東洋放送の重役の方が来日され、浅井専務に物凄い剣幕で怒鳴り込んできたそうです。その方は「森川を出せ」とのことでしたが、会 社では、私は帰国後体調を崩して秋田に入院していると嘘までついたそうです。
でも、きっと当時の浅井専務や庵原常務さんは会社を守るため、私以上に必死だったと思います。 「黄金バット」も「ベム 」の、あの素晴らしい主題歌や、「早く人間になりたしリという有名なフレーズを考えたのは浅井専務です。それ以外にも企画の殆どで、その卓越したアイディアは数知れません。彼も、「パ ット」と「ベム」の生みの親であり、また大変な功労者だったのです。
さて「東北新社」 といえば、当時「風とともに去りぬ 」を輸入した大手広告 代理店です。ここと、第一動画が提携して、秋問県本荘市に韓国同様の下請けの動画製作スタジオが建設してあり、すでに50 人ほどのスタッフが揃っていました。
日本海の波しぶきが雪と混ざって吹きたてる毎日でした。そして、スタッフも何となく集った人の様でありました。それでも、いつもの私なら娘気強く教えられたですが、当時の私は韓国への鞍惚の想いから、意欲を失い、このスタッフは、使い物にならないと報告をし、ひとつの作品も作らずスタジオを閉鎖してしまったのです。その責任を取る形で、私は第一動画を去りました。
その為、東北新社との提携も白紙に戻り、第一動画には、多大の負債だけが残ってしまいました。今思うと、この私のスタジオ経営反対も会社にとっては、 かなりの痛手になってしまったと思います。その後も 「第一動画」に残った庵原さんや、草野さんたちのご苦労は、大変だったと思います。でも、彼らの惜しみない熱意が、この作品を守り、度重なる再放送が今もファンを増やしております。
その後、 3O 数年、私は二度と韓国の地を踏むことはありませんでした。あの 空港での別れの日以来、苦楽を共にした韓国の人たちとも、音信不通のままです。 ただ、唯一救いがあるとすれば、「妖怪人間ベム」 と「黄金バット」は当時の日本の子どもたちの心には確実に届いていて、今も生き続けているということであります。板、が皆さまに伝えたいのは、あのふたつの番組は、皆さんの知らない名もなき韓国の方々が、それこそ血の惨むような努力を重ねて、作ってくれた ということなのです。もしかしたら仇であったかもしれない、日本の子どもたちに喜んでもらおうと、ひたすら描き綴った事実をお伝えしたかったのです。

来年には日本と韓国がひとつになって、サッカーの国際大会が聞かれます。
これからは国籍が違うとか、言葉が通じないなんて何でもないんです。私たちの 世代は挫折してしまいましたが、これからの時代を背負って生きる皆さまは、どうぞ二度と過ちを犯さないでください。
差別をなくして、世界中の人たちと仲良くしてください。 今日は私の拙し話にお付き合い頁き、有難うございました。





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