森川信英の世界

講演での話?@


こんにちは、森川信英と申します。本日は、妖怪人間になれなかったアニメーターたちのお話しです。
「黄金バット j 「妖怪人間ベム 」 の作者は誰なのか。写楽斉的ミステリーの話題を追って、私が答えることになりました。皆傑もご不審な点があれば、お答 えいたしますのでご質問ください。私は 82 才ゆえ、塩爺さんのように「忘れました」とは云えませんので。

昭和 40 年 (1965 年 ) 、政府筋のお偉方から、韓悶へわたってアニメ技術を教え てくれ、との依頼が、私の元に届きました。私はその頃、東京銀座の三越と松屋 の中間にアニメの撮影スタジオを設備して大忙しの毎日でした。丁度、前の年に
「日韓国交回復条約」が締結され、両国間の交流を何にするか話しあって、当時既に日本が世界に誇る産業に成長していたアニメーションが良いということ になり、技術を提出す石約束があったのです。布、は戦時中、甘粕正彦氏の国策 会社、満州映画協会で動画技術を現地の人たち ( 満州族 ) に教えた経歴がありま したので、私に白羽の矢がたったのだと思います。
私も戦争を体験し、日本人が韓国人の財産や、人としての誇りを奪いとった卑劣な行為を知っていました。私も日本人の一人として、韓国の文化にお役に立てるならと、渡韓証明証を手に行くことにしました。費用は自腹でしたが、日本の大手広告代理応「第一企画」の重役と後に一緒に「ベム 」や「パット」を創ることになる浅井孝長さんが同行でありました。韓国に行って驚いたのは、アニメーション映画作りへの国を挙げての力の入 れようでした。ソウルにある東洋放送と中央日報は、 N H K と朝日新聞を併せ たような国内最大のマスコミ機関でありました。まず顔合わせをして、友好をふかめ、日韓共同のアニメ映画作りを約束しました。
局長には、国務大臣が、動画部長は韓国財界の雄・三星物産の元参事が加わり、大それた顔ぶれでありました。ただ、当時の韓国は、今では考えられないほどの反日感情が渦巻いていました。戦時中に我々日本人が彼らに行った数々の残虐な行為を考えれば、それは ひどく当然のことなのですが、その憎悪の凄まじさは私の想像を越えていまし た。日本人はソウルの街を歩くだけで、殺されても文句はいえないという状況 だったのです。

ひとり韓国にとどまった私は、アニメ製作に使う「作樹スタンド」や日本 から送ってくる用度を納めるロッカーや棚を置く場所を東洋放送最上階の 1O 階、ワンフロア全てを「動画製作部」 にしました。その後、マスコミを使って公 募された採用試験では、8O 人の定員枠に対し、美大生や一流のマンガ家が実に 900人を超える若者が全国から集まりました。





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