森川信英の世界

講演での話?A


アニメーターになるには、一秒 24 コマの動きをキャッチする目、描いたものに命を吹き込むトリック技術や、アクションペーパー、日本でいう「パラパラ漫岡」の原理を応用した技術が必要です。
採用した画家たちは男女ともに素質、個性の目立つ人たちです。彼らは動く原理を知っていましたが、映闘になる工程や、一枚の絵に数名が仕上げるマニュアルは、現場でなくては学べないのです。家を新築するにも、設計から土台や配線など、組み立てる頃が必要です。各持ち場のグループを選定し、集ったアニメーターの卵たちで分担作業がスタートしました。ところが日本誌は厳禁です。一流大学の講師を通訳としてつけてくれましたが一つひとつ のトリックは上の空ですから、上手く伝わりません。ですから私自身が身振り手振り、表情や感じを織り交ぜて教義するのです。それに私はドジで、ボンクラな気質なので、先生 のはずが、みんなと同級生のような気分で通じ合って、結局、通訳は不要となりました。
毎日、目と口と線の強弱を練習させ、時々は外へ出て、人の動きや車の速さを 広げた指の聞から見ては遠近を描写したり、動物園へ行って各動物のクセや動きをスケッチさせました。生徒たちの目が真剣になりました。もともと彼らの 絵は一級なので、互いに演技を交わしスケッチさせ、どんどん上達していきまし た。生活の中の少しの動作にも一秒 24 コマを念頭におくよう習慣づけさせまし た。例えば、食事をする時は 7,200 コマとか、あらゆる動きは小声で、口の中で数 えます。欠伸は何コマ、小便は何コマと記憶、させます。それを鏡を見ながらス ケッチします。食欲なまでに理解し、自らのものにしようとするのです。彼ら 全員の心の中には、いつか自国のこどもたちに素晴らしいアニメ映画をみせた いと願う夢と希望と、また新たな国の文化を背負ってゆくのだ、という誇りと気概がいつも溢れていました。

そして翌年の夏ごろになって、ようやく彼らの技術がアニメ製作を行えるようになりました。日本へ帰国すると、「第一動画」という製作プロダクションが 結束しており、私はいつのまにかその取締役、製作部長の肩書です。「第一動画 」は、「第一企画」が、アニメ製作のため独立させた会社で、社長は境直哉さんが 兼務されてましたが、実質の会社経営は専務の浅井孝長さんが取り仕切っていました。そして常務の庵原和夫さんは、若い頃、同じ釜の飯を食ったアニメー ターで、「鉄人 28 号」 や「エイトマン」 の監督をした人でした。その手腕を買 われて、数名のアニメーターを引き連れて「第一動画」に移籍してきたのです。
さて、では何をやろうかということになったとき、夜、が紙芝居を作っていた 時の友人、加太こうじさんを思い出したのです。加太さんは「黄金バット」の 作者の一人で、「黄金パット」 といえば、紙芝居最大のヒーローです。日本と韓 国が共に手を取り合い最初に製作するアニメには、この日本が産んだ最初のス一パーヒーローがぴったりのように思ったのです。早速、私は加太さんに連絡を取り、奄原さんに紹介ししました。私は韓国に戻り、暫らくして、「黄金バット」テレビ化の知らせが届きます。
ここからは、大変多忙な日々が待っていました。第一動聞から、色つけを担当する木村和夫さんがまず赴任し、その後、又野龍也さんや野田卓維さんといっ た若いアニメータ ) たちも駆けつけ、私と共に指導にあたるようになりました。中でも又野さんは、私が日本へ行って不在のときは、代役を勤めてくれました。
( 図書館の玄関に展示しである「動画辞典」は、このとき使ったマニュアルをコピーしたものです。 )
当時の基本的な日韓の役割は、日本で、作った脚本や絵コンテを空輸してもらい、韓国側は中割、トレース、色づけ、背景といった一連の仕上げを行います。こうして仕上げたセル画が再び東京に空輸され、日本のスタップにより、修正やチェックされ、撮影が行われたのです。日本側のスタップには、「東映動画 」や「TCJ」という動画プロダクションから優秀な人材が集っていました。
演出のベテラン、若林忠、生さんを始め、背景チーフには草野和郎さんがして、この方の弟子には今最大のアニメ作家、宮崎駿さんもいました。一方の韓国側は、私の思ったほど進歩せず、やはりアニメの難しさを痛感しました。「黄金パット」のオープニングを作らせたら、全く良くない。しかし、もう各社を集めて行う試写の日取りまで少ないので、私は一人東京のスタジオにこもり、セル画を主題歌とシンクロさせるよう手直しし、どうにか公開に間に合わせました。台詞とともに音楽は、動画に大切な要素であります。
また国民性の違いから、絵の中にも韓国色が度々、出て描き直させました。 例えば、ソウルの空は、濁って汚れているのが普通ですから、日本晴れの色が理解できないのです。「黄金パット」と「妖怪人間ベム」 が、どこか他と絵が違う のは、その秘密はここにあったのです。でも無国籍風のあの絵に魅力があった からこそ、今でもこの作品は多くの人の支持に支えられているのですから、何が幸いするか判らないものです。
「黄金パット」は、その後日本テレビ系で放送され、人気も上々 で1 年間に 52 本の作品が製作されました。続いて製作に入った「妖怪人間ベム」では、韓国の人たちも、かなり複雑な動作もアニメート出来るように進歩していました。
8O 人の韓国スタップの中にたった一人、 16 歳の少年がいました。最年少でしたが、この少年も、驚くほど上手くなっていました。彼には、子どもの妖怪 人間"ベロ " を描く担当にしました。 3 人の妖怪人間の中でも、特にベロに豊かな表情と、躍動感あふれる動きがあるのは、この子の感性に負うところが大きかったのです。






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