いまの季節、「探梅にでかける」と書いたら、俳句好きの方からお叱りをいただくはめになる。さきがけの一輪二輪を、まだ風も冷たい野山に求める探梅は冬の季語だからだ。立春をすぎれば、色香を楽しむ観梅に季語は変わる。日本人の季節感は、実にこまやかだ▼今年の冬は寒い。毎年みごとな近所の寺の紅梅は、ようやく一つ二つ開き始めたばかりだ。駅への道にあるお宅は白梅がちらほら。東京の感覚では、いまが探梅から観梅への、ちょうど移行期らしい▼先日、静岡県熱海市の美術館で尾形光琳の「紅白梅図屏風(びょうぶ)」を見た。色のせいか、右の紅梅の咲き具合が心なしか早いように思われて、蕪村の〈二(ふた)もとの梅に遅速を愛す哉(かな)〉が胸に浮かんだ。光琳の画も蕪村の句も、気品の中をゆったりと時間が流れている▼一転、ユーモラスな梅の句が、これは一茶にある。〈紅梅にほしておく也(なり)洗ひ猫〉。春の泥に汚れた猫だろうか、洗って日なたで乾かしてやる。洗濯物のように猫が干される図を想像し、思わず頬がゆるくなる▼ついこのあいだ年を越したと思ったら、もう2月も半ば、きょうは二十四節気の雨水(うすい)になる。降る雪が雨に変わり、雪が解けて土が潤いだす。しかし北国はまだ冬のさなか、観梅どころか探梅も遠い雪の空が続く▼満開もみごとだが、「一輪ほどのあたたかさ」こそ梅の梅らしさだろう。寒さに向かって開く紅白は、どこか人を励ますところがある。まだ寒々と硬い大地から、春の足音が聞こえてくる。