誰か昭和を想わざる
 
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 大正元年〜15年【昭和前夜】
 
 昭和の草創期を知るには明治から昭和への転換点にあたる大正時代を知らねばならない。昭和の戦後期において大正ロマンなどという言葉と共に「古き良き時代」と懐古された大正時代ではあるが、病弱だった大正天皇がその統治の任にあったのは実はごくわずかで、大正4年にはすでに一人での階段の昇り降りも不自由で、大正10年からは後の昭和天皇(当時は皇太子)が摂政としてその任にあった。三越デパート、東京駅、中等野球(後の高校野球)、新聞夕刊、資格試験、箱根駅伝、メーデー、明治神宮、飛行機の海外渡航、週刊誌、文藝春秋、丸ビル、競馬、築地魚河岸、甲子園球場、東大安田講堂、ラジオ放送、六大学野球、山手線環状運転、ダイヤル式電話、普通選挙、神宮球場、いずれも大正時代に生まれ、また大正時代より本格化していったものである。大正時代には後の昭和とは違い、まだ明治の元勲というのは存命であった。藩閥政治と政党政治の狭間で爆発したのが桂内閣を倒した護憲運動と呼ばれる大衆暴動である。これ以外でも米騒動は寺内内閣を倒すに至り、大正後期には労働争議が頻発するなど大正デモクラシー(戦後昭和期の造語)には前世紀における一揆のような側面もあった。また大正時代は軍人の肩身の狭い時代でもあった。戦争の危機が去った平時に軍人が尊敬されないのはやむない事ではあるが、大正期における学生や一般人による軍人への嘲弄は度を超しており、それが昭和期において大きな反動を生む。海外では欧州大戦(第1次世界大戦)により英独仏といった列強の力が低下、ハプスブルク王朝やオスマントルコなどが滅亡、その一方で戦火を免れたアメリカの地位が相対的に向上する。イタリアではムッソリーニ率いるファシスト党が、ロシアでは革命によりレーニン率いる共産党がそれぞれ台頭していく。日本国内においても社会主義者の出現は社会不安を増幅、関東大震災においては甘粕事件などの形で熾烈な弾圧にさらされる事になった。そして2大政党による汚職と政争の嵐の中、大正時代は幕を閉じる。
 

大正元年
(1912年)
大正2年
(1913年)
大正3年
(1914年)
大正4年
(1915年)
大正5年
(1916年)
大正6年
(1917年)
大正7年
(1918年)
大正8年
(1919年)
大正9年
(1920年)
大正10年
(1921年)
大正11年
(1922年)
大正12年
(1923年)
大正13年
(1924年)
大正14年
(1925年)
大正15年
(1926年)
 昭和元年〜5年【震災後の時代】
 
 戦前という語は無論、昭和20年の終戦以降に使われるようになった言葉であり、それまでは震災前、震災後と関東大震災を区分とした言葉が使われていた。関東大震災は江戸の街並みを破壊し尽くし、大正デモクラシーは江戸、明治の風習や生活意識を壊したとされる。昭和の初めは不況であった。この不況は大正9年より続いており、昭和になっていきなり景気が悪くなった訳ではない。都市には大正デモクラシーの行き着くところまで行き着いたモダンガール、モダンボーイの一群が跋扈し、それまで美徳とされた忠孝の道は古びて学生の間にはマルキシズムがもてはやされた。昭和の初めは大正デモクラシーの熟しに熟しきった空気もあった。昭和に入って初めて実施された普通選挙は議会の腐敗をもたらし、国民の議会不信を募らせる事となる。この時期、まだ中国との戦争は始まっていない。日本の中国における利権確保はアメリカ、イギリスなどと同等で突出はしていなかった。
 

昭和元/2年
(1926/27年)
昭和3年
(1928年)
昭和4年
(1929年)
昭和5年
(1930年)
   
 
 昭和6年〜14年【戦争は繁栄の特効薬だった】
 
 不況の特効薬は戦争である。戦争によって植民地などからの資源確保と広範な経済圏が確保されればその国は繁栄する。日本が満州でのなし崩しで事後承諾の軍事行動を開始するのは昭和6年。これに最も敏感に反応したのは自らも中国利権を確保したいと願っていた米英であった。対して肝心の中国はいまだ軍閥が割拠し、その最大のものである国民党と共産党は同士討ちを繰り返し、昭和12年になって国共合作が成立した。この昭和12年は日本が南京を占領したものの、中国側は降伏も和議も申し出ず徹底抗戦に転じて、終わりなき戦争に突入した年でもあった。それまでの中国側が折りよいところで和議を申し出て、日本の中国における利権が増えて戦争は停止する、というパターンが通用しなくなるのである。日本が中国での戦線を拡大していったのは、国内不況の打破のためである。事実、都市部では軍需景気で沸きに沸いた。ただこの好景気の恩恵を受けない人たちがいた。その際たるものが東北の農村である。農村は疲弊し、娘の身売りが相次ぎ、輸入音楽やチャップリン映画に浮かれる都市住民との生活の落差は拡大するばかり。この狭間で爆発したのが五・一五事件であり、二・二六事件である。特に二・二六事件は完全に失敗に終わり、事件を口実にかえって陸軍による官僚的な政府支配を強め、腐敗に満ちた議会政治に終止符を打っただけであった。この時代は、自分がどこに住んでいてどういう職業だったかによって、世界が明るく見えたり暗く見えたりする。戦前を「明るい」と言う人もいて、「暗い」という人もいるのは、どちらも嘘ではない。国民の間で生活の落差の激しい時代だったからである。例えば学歴差別がない徹底した平等社会、能力主義の社会だった陸軍についても、対米英戦末期になって召集された学生などプライドの高い知識人にとっては、職工あがりの古参兵などにいじめられるのは耐え難く、逆に職工などには「学士さまも社長も軍隊ではみな同じ」と軍隊生活を懐かしがる人が多かったという。
 

昭和6年
(1931年)
昭和7年
(1932年)
昭和8年
(1933年)
昭和9年
(1934年)
昭和10年
(1935年)
昭和11年
(1936年)
昭和12年
(1937年)
昭和13年
(1938年)
昭和14年
(1939年)
 
 
 昭和15年〜20年【破局への道】
 
 近衛首相の新体制運動とは耳障りのいい言葉で、まるで清新な政治改革の推進のように聴こえたが、実際には挙国一致の総動員体制の完成にほかならず、陸軍の専横、時局便乗の報国団体の乱立、愛国婦人会や隣組による私生活干渉などを起こした。中国戦線は日本の勝利が続いてはいたものの、停戦のタイミングを逸してしまい、いつになったら終わるのかが見えない。そして欧州で破竹の快進撃を続けるドイツと手を結んだ日本は、アメリカの経済制裁による国内経済破綻打破のためには、さらなる領土拡張と自前の広範な経済圏確保を図る必要に迫られる。選択肢は2つ。北進でソ連と対決してシベリア入りをするか、南進して欧米の植民地であった東南アジア入りをするか、である。日本は南進を選ぶ。昭和16年、対米英戦開戦。米英への抜きがたい劣等意識、強大なアメリカとよもや戦争はしまい、という大方の予想を裏切り、開戦ばかりかまさかの日本の連戦連勝に国内は沸きに沸いた。それは国民の不満をすべて吹き飛ばすものだった。知識人は競って日本軍賛美の作品やコメントを書き、時の指導者、東條首相人気は爆発した。日本の連勝が止まるのは昭和17年6月のミッドウェー海戦の大敗北だが、事実は公表されなかった。大本営発表は戦勝の筈なのに、ガダルカナル転進、山本五十六長官戦死など明らかに矛盾する情報が報じられる昭和18年には学徒出陣、学徒動員が始まり、戦時色が実生活にも及んでくる。東京への本格的なアメリカ軍の空襲は昭和19年11月。しかし軍需工場中心の爆撃で、当初は恐怖していた一般国民も、自分達を襲わないと知るや「お客さん」とアメリカ軍機を呼んでひとごとのような気分だった。昭和20年3月、東京大空襲。下町一帯を襲ったこの無差別空爆以降、都市部の一般国民は空襲の恐怖に脅える事となる。
 

昭和15年
(1940年)
昭和16年
(1941年)
昭和17年
(1942年)
昭和18年
(1943年)
昭和19/20年
(1944/45年)
 昭和20年〜29年【米占領下、戦前以下の生活】
 
 米軍による都市への無差別空爆で日本は焦土と化した。国内インフラは破壊され、国民生活水準は昭和史上最悪となった。軍隊消滅と外地からの復員で失業者があふれ、多くの植民地を失った事による経済的な打撃も致命的だった。この時期、都市部の窮状とは裏腹に「我が世の春」を迎えていたのは農村部である。食糧が何よりも先に最も価値があった時代、都市部から物々交換で食糧を分けて貰おうと農村部に人が殺到したのである。しかし農村部にも大きな変化があった。米軍の進駐以降、日本の戦前全否定と欧米流民主主義の浸透のために農地改革が行われ、不在地主などの制度が撤廃されて小作人が自作農となったのである。この進駐軍の施策では財閥も解体、それまで政府中枢にいた人々は公職追放され、憲法も変わり、荒療治が行われていった。とはいったものの日本人の意識の多くは保守的であり、進駐軍の顔色をうかがいながらの手探りの民主化が進められた。米占領下の日本でいちばん偉い存在だったのはGHQであった。やがて米ソ対立の激化、国共内戦での国民党敗北、朝鮮戦争の勃発などで共産主義の攻勢が強まる中、アメリカの日本統治政策も変化していく。レッドパージにより地下潜伏した共産党は暴力革命路線に転じ、やがて国民の支持を失った。そして日本は朝鮮戦争による軍需景気で一息ついたものの、本格的な経済回復にはなお遠く、国民の生活水準は戦前以下であった。昭和27年、日本独立、しかし国際社会への復帰はまだ認められないままだった。またようやく国民の間にもレジャーを楽しむ余裕が生まれてきたものの、国内インフラの整備は旧態然としたままであり、その落差から国内各地で大事故が頻発した。
 

昭和20/21年
(1945/46年)
昭和22年
(1947年)
昭和23年
(1948年)
昭和24年
(1949年)
昭和25年
(1950年)
昭和26年
(1951年)
昭和27年
(1952年)
昭和28年
(1953年)
昭和29年
(1954年)
 
 
 昭和30年〜39年【三丁目の夕日の頃】
 
 「もはや戦後ではない」。高度成長時代への突入である。それはまた、日本が敗戦の疲弊からの完全復興を意味するばかりでなく、戦前の生活水準を上回る事も意味していた。ここに現実の生活苦から来る戦前懐古の気分は霧消する事となった。神武景気、なべ底不況、岩戸景気、いざなぎ景気とほぼコンスタントに日本は経済成長を遂げ、開発こそ善の思想が一般国民の間では当然と思われた。原子力は希望の灯であり、工場の煙突は明日の生活の豊かさの象徴でもあった。国連への加盟により国際復帰を果たした日本は、その総決算である昭和39年の東京オリンピックへ向けて邁進する。海外からの観光客を迎えるための国内インフラの整備によって東京の街並みは完全にかつての姿を失い、国民の生活感覚もつましいものから、次第に消費優先のものへとシフトしていく。昨今、昭和ブームなどで描かれる「三丁目の夕日」然とした漠然とした懐かしい生活のイメージはこの頃のものである。これ以前になると貧窮など思い出すのも辛く、とても懐かしいどころの生活ではないし、これ以降になると街の姿も人情もいま現在のそれと余り大差がなくなってくるからである。この時代は政治の季節でもあった。60年安保である。この60年安保は後の70年安保とは違い、一般国民の間にまでその裾野が広がった大規模な政治運動であった。しかしあえなく挫折、盛り上がっただけに失敗に終わった後の失望も強く、60年安保以降、国民的規模の政治運動というのは遂に起こらなかった。国民の関心は政治から経済へと向かうのである。
 

昭和30年
(1955年)
昭和31年
(1956年)
昭和32年
(1957年)
昭和33年
(1958年)
昭和34年
(1959年)
昭和35年
(1960年)
昭和36年
(1961年)
昭和37年
(1962年)
昭和38年
(1963年)
昭和39年
(1964年)
 昭和40年〜47年【高度経済成長のひずみ】
 
 昭和39年の東京オリンピックまでの国内インフラ整備で旧来の生活スタイルは激変、国民意識も変化して現在へと続く消費社会の幕開けとなった。開発は善で、生活をよりよくするための手段という明治以来の概念は、公害が看過できないまでになってくると、自然や国民の健康を犠牲にしてまでの開発は必要ないという考えとなる。東京でいえば墨田川は悪臭を放ち、夢の島には蝿が大量発生し、光化学スモッグや車の排気ガスによる地域住民への健康被害が挙げられる。地方自治体に革新首長が次々に登場したのは、公害を防ぐには保守系の首長では不可能だ、という事もあった。しかし国政は自民党の佐藤栄作首相の長期政権となり、高度経済成長はなお続いていた。この時期、70年安保というものがあった。これは60年安保とは違って一般国民が主体でなく、学生の独壇場であった。この学生の政治活動は次第に少数先鋭化し、最後は連合赤軍による凄惨な同士討ちの連続リンチ殺人で幕を下ろす。閉鎖的な集団でしか通用しない論理で仲間内での殺人を繰り返す、こんな事で支持と理解が広がる訳もなかった。遂にキャンパスからも政治の季節は去ったのである。
 

昭和40年
(1965年)
昭和41年
(1966年)
昭和42年
(1967年)
昭和43年
(1968年)
昭和44年
(1969年)
昭和45年
(1970年)
昭和46年
(1971年)
昭和47年
(1972年)
 
 
 
 
 昭和48年〜54年【安定成長の時代】
 
 円に変動相場制の導入、石油ショックなどにより物価が高騰、高度経済成長の時代は終焉を迎えた。資源エネルギーの価格高騰は重工業から加工業主体への産業構造の変化をもたらし、結果として第3次産業従事者の割合を増加させる事となった。超高層ビルの林立などは顕著な例である。その一方で田中角栄政権は国内開発推進の日本列島改造論を引っ提げ、土地バブルと土建屋優遇による露骨な金権政治がスタート。ロッキード汚職以降も田中派はその集金力から自民党最大派閥の座を揺るがす事はなかった。海外では中国の長かった文化大革命が終焉、国際社会は中国共産党政権を正統な中国として受け入れ、日本もこれに準じた。国内的には成熟した消費社会を実現し、安定成長の地歩を固めて経済大国として国際社会に地位を確立した日本だが、政治大国としては先進諸国に太刀打ち出来る術もなく、軽んじられる扱いは相変わらずであった。
 

昭和48年
(1973年)
昭和49年
(1974年)
昭和50年
(1975年)
昭和51年
(1976年)
昭和52年
(1977年)
昭和53年
(1978年)
昭和54年
(1979年)
 
 
 
 
 
 
 昭和55年〜64年【軽薄時代からバブルへ】
 
 アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本では中曽根政権、80年代の幕開けは主要先進国での世界的な保守派の巻き返しで始まった。ソ連を代表する共産主義陣営に対する資本主義陣営の優位は疑うべくもなかった。キャンパスで政治を語った若者らは、80年代には大量消費社会の担い手として、テレビ、アニメ、ゲームなどを中心としたサブカルチャーへと、その嗜好を拡散させていく。集団で何かをするという事はそぐわなくなってきていた。個室育ちの個性尊重の時代である。それはまたフジテレビ主導の80年代軽薄時代の幕開けでもあった。「面白さ」「笑い」を至上の価値とする若者の感覚は、学芸会をテレビに持ち込んだと批判されて「面白くなければテレビじゃない」と開き直ったフジテレビによってもたらされたものであった。そして昭和60年、先進5カ国のドル高円安協調、いわゆるプラザ合意が後のバブル経済の導火線となった。株価は2万円台突破、昭和最後の日々というのは、日本経済栄華の頂点の時期でもあった。世界史上にもかつてない破局へとなだれ込んだ昭和初めの20年の歴史、そして世界史上にもかつてない繁栄へと登りつめたその後の昭和の44年の歴史。昭和史には今後、日本人が体験するであろうあらゆる出来事へのノウハウが蓄積されている。この時期、リクルート汚職と消費税導入のダブルパンチで自民党安定多数に崩壊の予兆が見え始めた頃でもある。そして政治、経済共に停滞と空白の90年代を迎えるが、それは平成の物語である。
 

昭和55年
(1980年)
昭和56年
(1981年)
昭和57年
(1982年)
昭和58年
(1983年)
昭和59年
(1984年)
昭和60年
(1985年)
昭和61年
(1986年)
昭和62年
(1987年)
昭和63/64年
(1988/89年)
   
 
  【昭和20年〜39年】戦後点鬼簿?          【平成元年〜12年】平成点鬼簿?
  【昭和40年〜54年】戦後点鬼簿?          【平成13年〜  】平成点鬼簿?
  【昭和55年〜64年】戦後点鬼簿?             





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