映画監督 新藤兼人さん(1912年〜)


<12> 散骨 三原沖に眠る乙羽さん

2009年9月4日

「裸の島」の舞台になった宿弥島(三原市)

 乙羽信子さん(1994年、70歳で死去)が息を引き取る前に言った言葉が、「手を引いてあげようと思ったのに」でしたよ。僕は目が悪いので、いずれ失明するんじゃないかと思っていた。そうなったら私(乙羽さん)が手を引いてあげましょうという意味です。そんなことがあるかどうか分からないけれど、そういうふうに思い込んでいた人です。
 (乙羽さんは実の親との家庭生活に恵まれず)里子に出されて、その後、宝塚に入って義理の親に随分尽くしてね。最後は新藤家の籍になりたいというのでその通りにしました。正月や誕生日には僕の息子夫婦や孫たちともだんらんして、家族的な雰囲気の中で過ごしていました。
 乙羽さんの墓は京都市右京区の妙心寺の塔頭(たっちゅう)の1つ、衡梅(こうばい)院に新藤さんが建てた。同院は乙羽さんの宝塚時代の同級生の婚家。墓の正面には「天」の1文字だけ。側面に新藤さんと乙羽さんの名前が彫ってある。
 骨の半分をとっておいて、乙羽さんが亡くなって4、5年たってから三原市の宿弥島の沖でまきました。モーターボートでぐるぐる回りながら1番因縁が深いなあと思って。そこは映画「裸の島」(60年)を撮ったところなんです。乙羽さんにとっても「裸の島」は代表作だったと思いますよ。この映画が有名になってたびたび三原に行くことになって、地元の人とも親しくなった。
 まあ、生きている限りは乙羽さんのおかげで生きている。いまでもそうですね。僕は乙羽さんが先に亡くなってよかったと思っている、本当に。乙羽さんが90歳を過ぎて1人でいたら、しわしわになって仕事も収入もないし、困っているんじゃないですか。僕には耐えられない。
 新藤さんは乙羽さんと住んでいた東京都港区赤坂のマンションで暮らす。本を読み、ラジオの外国語放送を音楽を聴くように楽しみ、シナリオを書いているという。
 僕は部屋は小さくてもいいという考え方なんですよ、乙羽さんと一緒に住んでいるときからね。いずれどっちかが1人になるから。そのとき大きな部屋に住んでいたら家賃は高いし、そうじもたいへんだし。乙羽さんと2人のときは狭かった。だけど今はちょうどよくなった。
 来年、映画を撮りたいと思っている。あと1本で終わりかもしれないけどね、まだ10本ばかりあるんだなあ、(映画にしたい)シナリオが。