童夢
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鮒子田 寛 HISTORY
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May.08.2006
大串 信さんの記事(Racing On)を読みながら、ふとつぶやいたこと。
 
         
     

大串君とは、ずいぶんと長い付き合いである。確か、技術分野からモータースポーツ・ジャーナリストに転じたと聞いたが、その割には、日本型モータースポーツ容認論者のようで、時々、とても違和感を感じる記事を眼にすることがある。しかし、長年に亘り、彼は彼なりに、童夢という会社に並々ならぬ関心を持って観ていてくれたと思っているし、数少ない理解者、と言うか、理解しょうと努力してくれている人であると思っている。
だから、大串君からこの取材の話があったとき、大串君の視点というよりは、日本のレース界が、一体、童夢をどう見ているんだろうということに興味があってお願いすることにした。出来上がった記事は、おおむね想像通りというか、的確な取材が成されていると感心しているが、ところどころ、こう表現してほしかった、というところはある。
そこで私なりに、ちょっと赤ペンを入れてみたいと思う。ただし、これはあくまでも、ジャーナリストが取材したデータを元に、自分の観点からの評論を行っているものであり、その内容についてクレームをつけるという趣旨ではなく、私がこの記事を読みながら、ひとりぶつぶつつぶやく独り言だと思ってほしい。
本文は、「ぶつぶつ」の部分のみ引用している。

 林みのるさんの取材にはルールがある。林さんが口にする京都弁での発言は、すべて標準語に直したうえで原稿化しなければならないのだ。 標準語に「翻訳」してしまえば元々のニュアンスは伝わらない。といって忠実に音声を再現したところで活字にしたら同じことだ。林さんは活字にした京都弁がニュアンスとして伝わらないことが許せないらしい。
−関東圏のジャーナリストが聞きかじりの関西弁を文章化すると、とんでもない言葉になってしまう。また、テープから正確に起こしたとしても、イントネーションで微妙な表現の機微を伝える関西弁を文章化することは関西人にしか出来ない。しかも、大阪の人では駄目だ。京都弁と大阪弁は大きく違うし、両者とも、確たるプライドを持っているから、京都の人間は、大阪弁的表現を許さない。つまり、京都のジャーナリストしか無理だということだ。

 こういう事情があるせいか、ファンの動向を眺めると、林みのる=童夢に対するファンの思いは極端に分かれるように思う。「国内唯一の世界的レベルで戦うハイレベルな技術を持ったレーシングカーコンストラクターであり、その可能性には期待したい」という者がいる一方、「大きなことばかり言ってそのたびに実現できず、そのわりには偉そうな言い訳を繰り返す」という者がいる。正直なところ、ファンの感想としてはどちらも納得ができる。
−「大きなことばかり言って、そのたびに実現できずに」とは、どのことを言うのだろう?F1の事を言っているのなら、生沢 徹も、舘 信秀も、由良 拓也も、高岡 祥郎もF1参戦を宣言して果たせていないが、スケールモデルを発表する程度なら大きなこと言っていることにはならずに、実車を完成させてテストまで行うと、「大きなことばかり言う」ことになるのか? 静かにフェードアウトすれば忘れてもらえて、理由をきっちり説明すると、「偉そうな言い訳を繰り返す」ということになるのか? ロードスポーツカーの市販の事を言っているのなら、確かに、市販したスポーツカーは一台もない。しかし、童夢-零はレーシングカーが作れないから仕方なく作ったと言っている。これが、「大きなことばかり言う」ことになるのか? 開発を中断したのも、ルマン参戦と天秤にかけて捨て去ったのが事実であり、そのように公言もしている。これが、「偉そうな言い訳」になるのか? CASPITAも、主要クライアントである自動車メーカーが途中でギブアップしたけれども、せっかくだから最後までやり遂げようというワコールの好意で日本のナンバー取得まではがんばったが、これもそのように発表しているし、「偉そうな言い訳を繰り返した」憶えはない。ルマン参戦についてのことならば、最近は、目標は優勝だと公言しているので、「大きなことばかり言う」ことになるかも知れないが、現在も、優勝を目指して16回目の挑戦を続けている我々が優勝を目標にすることが、「大きなことばかり言う」ことになるのか? 優勝を逸したたびに理由を説明することを、、「偉そうな言い訳を繰り返す」と言われる筋合いはないように思うが?
というようなことを言うことを、「偉そうなことを言う」と感じる人が多いという事実を知るべきだと言うことですな。
そもそも、絶対に実現できる計画など夢とは言わないと思うし、夢を語ることを「大きなことを言う」と断じてしまっては、夢も冒険も嘘つきの所業となってしまう。また、もとより、私が夢に挑戦することに、なんらの助けにもならない一介の傍観者たちに、へりくだった言い訳をしなくてはいけない義理も義務も無い。それ以前に、私としては、自分の夢の大半は実現してきたつもりだし、現実の推移の中で、夢が夢で無くなってしまったことまで、一旦、口に出したことだから、何が何でも実現すべきと責められる理由も理解できない。
私は、私に向かって、「大きなことばかり言ってそのたびに実現できず、そのわりには偉そうな言い訳を繰り返す」というようなことを思える人の頭の中を見てみたいものだ。きっと、コタツの中からオリンピックの中継を観ながら、銅メダルを獲得した日本人選手に向かって、「ちえっ、期待させやがって。夜中まで起きていた電気代返せ」とか言っている人種だろう。


外から見る童夢は、まるで他人の追跡を振り切ろうとしているかのように思わぬ方向へ頻繁に向きを変え、突進するからだ。そのたびに、童夢に注目していた一般ファンの期待は裏切られ、はぐらかされてきた。
−身近な人たちからは、「よく飽きもせず同じことばかりやっていられるな」と言われるが、レース界の人たちからはジグザグ走行のように見えるんだ?
また、一般ファンという人たちは、何を期待して何に失望しているんだろう? 
私は、もの心ついた時からずっと一貫して趣味に没頭して生きてきた。
目先の欲望の処理に汲々とする日々の連続で、長期の大計など考える余裕もなかった。15歳のころの見果てぬ夢は、ポンコツでいいから自分の車がほしいという夢だったし、16歳のころの夢は本当の夢で、寝ている間中、頭の中でレーシングカーが走り回っていた。
しかし、14歳のとき、モトクロスレースに出るようになってからは、レースに反対する親から月額5000円のおこずかいさえ止められていた時期で、その情熱の塊の大きさと現実との絶望的なギャップに押しつぶされそうになっていた。
そして、小さなチャンスが訪れたとき、借金の経験もないのに、親しくなった塗料屋さんからいろいろな材料を仕入れた。この店のおじさんが、どこの馬の骨とも判らない10代のガキンチョに掛売りしてくれなかったら、「カラス」は誕生していないし、童夢も無かっただろう。案の定、月末までにその付けは払えなかったが、幸いにも、次のマシンを造れと言うオーダーが舞い込み、その支度金で清算することが出来た。童夢を創業したときも、私には、スタートするだけの資金しかなかった。しかし、「童夢-零」を完成させるに充分な資金を準備していたとしたら、いつまで経ってもスタートすら出来なかっただろう。
父親の土地があったハヤシレーシングの一部で開発を開始したが、たまたま、私の輸入した、レグランド社のパーツの中にあったホイールをコピーして売り出したハヤシレーシングが、たちまち、年商50億円に達すると言う奇跡的な成長時期と重なったために、もともと車造りの大好きな従兄弟の林 将一ものめり込んできて、資金の心配は要らなくなった。たまたまである。
79年に、初めてルマンに参戦したときも、童夢のラジコンなどを売っていたおもちゃ屋さんからのリクエストでレーシングカーを造ることになったが、もともとは、P-2を一台改造して見せ掛けだけの童夢-零のレーシングバージョンを造ってくれと言う話だった。予算は、よく憶えていないが、たぶん2〜3000万円というところだったろう。当時はハヤシレーシングとの共同経営のような形になっていたので、私は、6000万円あればルマン挑戦が可能になるという嘘八百の企画書を作り、足りない分はスポンサー収入で補えると説明してGOさせた。
結果的に、予算は1億2000万円をオーバーし、スポンサー収入は1000万円に満たなかったが、これは、計画が狂ったのではなく、計画通り計画が狂う計画だったのだ。おかげで、私も林 将一も憧れのルマンに行けたのである。
このように、私のやってきたことは、計画性とは程遠いギャンブルのようなことばかりで、そのいちいちが偶然と奇跡の積み重ねである。こずかいも無いようなガキンチョが夢を実現させるために、そんなに一貫性や計画性を求められなければならなかったのか? また、そんなに結果に責任を持たなくてはならなかったのか? 自分の求める夢が夢であるほど厳しいギャンブルとなるのは当然で、安定したプロセスや予定通りの結果などは、人の金を運用して儲けようとする実業家にこそ架せられる義務であり、ギャンブラーの私とは無縁の世界だ。私のやっていることは事業ではなく冒険だ。理解できるかな
? 

もちろん林さんが一般ファンに対する悪意を持っているわけではない。林さんはただ自分の好きなことを好きなようにやり続けてきただけで、残念ながら観客席に詰めかける客を喜ばせようとか、自分たちの活動に一般的な理解を得ようなどとは考えてはいないだけなのだ。少なくとも、理解を得、できるだけ高い評価をしてもらうために自分たちを良く見せようなどという気はありそうもない。ファンが極端に分化してしまうのも当然といえば当然なのだ。
−この部分は、今まで言及されなかったところで、この表現は、かなり的を射たものだと思っている。ただし、ファンに対して無関心と言うよりは、無力な存在だと無視している。もちろん、童夢を見学したいと言うレースファンが居ればウェルカムであるが、それは、同好の志としてのシンパシィというようなフラットな感覚であり、ファンを大切にすると言う気持ちとは程遠い。
私は、サーキットに来て、うれしそうにマシンを眺めている人が居たら、「あんたもお好きですなー」という感覚で見ているし、同じ場所から竿を出している見知らぬ釣り師同士のように思っている。つまり、レースに興味を持った個人としてのレースファンは仲間だが、「レースファン」という集合体に関しては、力が無さ過ぎて利用価値もないと思っている。その存在が認められるとしたら、その人たちをPR対象として一般企業がスポンサーに参入するとか、TV局が視聴率を狙ってレース中継をライブで中継するとか、そのくらいの存在感を示してからの話だろう。
こう言うと、また、ファンを無視したとか言われそうだが、私としては、「じゃ、関心を持ってあげたら何をしてくれるの?」と聞きたい。

 今回の特集も、なんとか林さんを含む関係諸氏の言葉を活字にしながら童夢という技術者集団の真の姿を描き、その目指す未来の姿を探り出して多くの読者に伝えようと取材を開始したが、まずこうした林さんあるいは童夢の二面性を説明することが、童夢を語るためには避けて通れない条件であることに気付いて、こうして長々とした前書きを置いた。
−断じて言うが、最も二面性とは縁遠い存在だ。極端な価値観の違いを理解しきれない部分が、見る人の解釈によって異なった姿に写ることを二面性と言うならば、それは、単に理解力不足という問題だ。シンプル極まりない本性さえ見抜いてしまえば、後は、「水戸黄門」を観るより解りやすいだろう。

 「童夢は利益を追求する通常の企業ではない。童夢は自動車造りを楽しむ会社である」と林さんは言い続けてきた。林さんの目的をひとことで表現するならば、ただ「自分の作りたいレーシングカーを造りレースで走らせてその性能を確かめる」ことにある。最終的なレース結果として思い通りの成績が得られれば林さんは満足して祇園へ帰るし、期待はずれの結果に終われば落胆して祇園へ帰る。−最近は、先斗町が多いが。 敢えて言うならば林さんはそういう暮らしに幸福を感じてきたのであって、他人にとやかく言われる筋合いはないと思っているはずだ。 そんな林さんの姿を遠巻きに眺めながらおもしろがれる者は童夢に好意を持つし、「そこに何の意味があるのか」と首をひねる者は童夢を理解できないまま落胆する。
− 自動車レース自体に社会的意義を感じていないので、その世界の端くれでちょろちょろ遊んでいる童夢にも、もとより、もちろん意味も意義もないが、今回の大串君のメインテーマとなっている、童夢が第三者に与える落胆や反感や失望などと言うものはどこから湧いて出てくる感情なんだろう。通常、期待や好意あっての落胆や反感だと思うが、童夢に興味を持っている人が居るとしたら、こつこつと着実に一歩づつ成長していくのを期待しているのだろうか?自分に出来る範囲の枠の中で、着実な結果を残していくことを望まれているのだろうか? 30年くらい前になろうか、旧本社の近くでラーメン屋の「天下一品」が誕生したが、今や大成長して全国チェーンとなっている。着実な成長振りだが、私は別にファンではない。ラーメンは好きだが。


 裕福な家庭に生まれた林さんは、画家であり発明家でもあった父親の影響を受けたためか、物心着いたときからモノ造りが好きだったという。
− 確かに、何人ものお手伝いさんや運転手さんが居たし、大きなビュイックのリムジンに乗っていたり、父親は真っ赤なインディアンというバイクを乗り回していたり、いろいろお金持ち的な雰囲気はあったが、父親が何年もヨーロッパに絵描き旅行に出かけたりしている間は、母親は、お米屋さんの支払いを待ってもらったり、私達の服もつぎはぎだったり、超貧乏的雰囲気にも満ち溢れていて、よく解らない家だった。父は、例の「お年玉つき年賀はがき」の発案者だが、無理矢理企画を実施させた郵政省がギブアップしないように、かなりの財産を処分して、初年度の大量の売れ残りを買い取ったおかげで大きな土地等を失った。その後、手回しの再生装置付きの「声の郵便」の開発に没頭し、またひと財産失って、普通の生活から超貧乏に落ちぶれたようだ。貧乏はいいが、子供の時から、この手回しの不安定な再生音を聞き続けているうちに、私はすっかりと音痴になってしまい、昨今のカラオケブームでは大変に割を食っている

 こうして創立されたのが童夢という会社である。童夢創立時点で、すでに林さんの心の中にはレーシングカー製造が将来ビジネスになって成立して花開くなどという夢物語は描かれていなかった。ただレーシングカーを造るための金をひねりだすために、資金を稼ぐ出す仕組みを作りたかった。そして最初に思いついたのが少しでも金になりそうなロードゴーイングカーの開発と販売であった。
− 26歳のときにPANICを作って借金を抱え込んだときに、もうこんなことやってられないとレーシングカー造りを断念した。その後は、人生あてどもなく放蕩三昧の生活が続いたが、知り合いの会社から、時々、デザインや試作の仕事をもらうだけで楽に暮らすことが出来た。
この時、レーシングカーを作らない人生って何て楽ちんなんだ、レーシングカーさえ作らなければ、世の中、なんて楽しく過ごせるんだと感激した。
それほどレーシングカーを造ることが大変であることを知り、また、レーシングカーさえ忘れれば、自分は結構まともに生きられるんだという自信にもつながった。この時の経験が、いつでもリセットできるという自信となり、その後の冒険を容易にしたと思っている。


 それだけに、敢えて言うならば童夢は日本のレース界にあって自由奔放に育ってきた。自分たちでやりたいことを自分たちの力で実現できるのだから当然と言えば当然だ。童夢の総帥たる林さんの言動は皮肉と挑発に満ちていたが、それは自分が為していることに対する自信の証明でもあった。
− 童夢の技術は、日本の自動車レースを改革するに必要不可欠な存在となるだろうと思っていたし、いずれ、ヨーロッパの技術ともまともに闘えるようになると思っていたが、かなり早い時期から、日本の自動車レースにとって、レーシングカーの開発技術は不必要というばかりではなく、かなり疎ましい存在ですらあるということが解って来て、とりあえず、自分自身の立脚する場所探しから始めなくてはならない状態だったから、もとより、力を発揮する場所も無かったし、必要とされていないのだから自信の持ちようも無かった。居場所の無い空しさ、居場所から作らないといけない徒労感、それらの努力が空回りする苛立ちから、口汚くもなってくる。

だが問題はその自信を日本のレース界が十分に受け止められなかったことだ。林さんは傲慢な会社経営者であり、童夢はスキさえ見せればその技術力を武器に仕事をさらい、国内レース界に流れるわずかばかりの金を独占しかねない危険な集団だと思われることも少なくはなかった。
− なるほど、そのように思われていたのか。納得。私は、童夢の存在は日本のレース界にとって、とても有益だと思っていたし、レース界に与えるメリットは沢山あるけれど、得るものはほとんどないと思っていたから、お互いのスタンスは大きくずれていたんだね。

林さんは「好きなことを偉そうに」語る資格を持っていた。なにしろ、誰の助けも借りることなく自分で金を稼いで自分の好きなことをやってきただけなのだから。ただしその姿勢を外部の人間が皆理解するとは限らなかったから、林さんの想いは決して林さんの思い通りに実現しなかった。その結果起きた成功と絶望の繰り返しが童夢の歴史だったのではないか。
− 大串君の記述には、私の偉そうさを表現する部分が多いが、特に彼に対して偉そうにしているのか、それとも、いつでも偉そうなのか、どうなんだろうと考えている。しかし、我が家での私の地位は息子より少し上だが待遇は息子のほうがかなり良い。下から二番目では偉そうにもしていられないし、友達連中からもそんな感想は聞いたこともない。たぶん、レース界の連中をバカにしているんだろうな。というようなことを言うことを偉そうと言うんだろうな。

 特に気になったのは童夢カーボンマジックの新工場の壁面に設けられたシャッターのサイズだ。明らかにそれは自動車を意識した大きさではない。童夢は一体何をここから運び出すつもりなのか。つまりは中で一体何を製造するつもりなのか。
− 残念ながらこのサイズは運び出すためではなく、オートクレーブを搬入するための大きさでした。残念!!
ここまでのことをやって、空振りすれば今度はただでは済むまい。
日本の制度上、資産を超える債務を抱えた倒産は、100万円でも1000億円でも同じだから、ただでは済まないのは以前から一緒。

■童夢誕生
■思いがけない大ヒット
■童夢分裂
 ここで童夢に大きな転機が訪れる。1981年、創立メンバーであった入交、小野、三村が童夢を抜け、別会社である東京R&Dを設立するのだ。東京R&Dは、それまで童夢が請け負っていた設計・試作等の仕事の多くを持ち出した。林にとっては、許し難い裏切り行為ではあった。しかし林は京都に残り、我が道を進んだ。 童夢を飛び出した人々にはそれぞれの思いがあっただろう。林は、「童夢はレーシングカーを作るために金を稼ぐ仕組みだった。でもその仕組みがうまく働き始めたら、レーシングカーを作らなければ金が残って儲かる会社になるじゃないかと考え始めた結果だろう」と断ずる。
基本的に、私は、面倒な会社経営は他人に任せて、レーシングカー造りに没頭していたい方だから、経営的な片腕をほしがる傾向にある。いままでも、何人かそういう人を招き入れたが、その人たちが経営内容を理解し始めると、必ず、いらないことに浪費しなければこの会社は儲かるという発想を持つようになる。事実、一部の人がクライアントと仕事のパイプを作ってから辞めてしまったが、根幹を成す技術力がレースから得られたものであることを忘れると童夢の真似は出来なくなる。つまり、浪費と利益がセットになってしまっているから、いいとこ取りは出来ないと言うことだ。
また、バブル崩壊のころ、自動車メーカーの仕事が激減して、一気に売り上げが三分の一に落ち込んでしまった。それまでも余裕がなかったのに、一気に三分の一では、当然、倒産するものと思って、家内を部屋に呼んで、「近々、会社は倒産するから覚悟をしておけ」と言ったら、「ははは、そんなことくらいで倒産なんかするかいな」と取り合いもしない。なんか気が抜けてしまって、その後もずるずると過ごしていても、なかなか倒産しない。そんな状態だから、もちろんほとんどのレース活動は中止していたら、収入も激減したが支出も激減するので、なんとなくやり過ごしてしまった。
つまり、レースにさえ関わらなければ、けっこう優良な会社なんだけれど、
残念ながら、レースをやっていないと、売り物の技術力も維持できないという関係にもあるから、いつまで経っても左うちわにはならない宿命ではある。
この造反グループの首謀者達は、それぞれ大きな借金を背負っていたから、童夢の薄給ではいつまで経っても解決しない。いずれ何かをしなければならない運命にあり、彼らは一人の友達を失ったが、問題は解決し生活も安定した。理解も許しもしないが、彼らにとっては唯一のチャンスだったんだろうと思っている。


■カーボンファイバーと風洞
奥はHRCから二輪車用レーシングエンジンをもらい受けた。それを見た林は、85年の鈴鹿8耐参戦を決意し、奥になんと「オールカーボンファイバーコンポジットのフレームを作れ」と命じた。
もちろん、主題はカーボンコンポジットモノコックの開発なんだけれど、バイクを選んだ理由は、前年の鈴鹿8耐に、生沢、本田、由良の三人が組んで、「ホワイト・ブル」というバイクを投入した。そんなに楽しそうなプロジェクトに声もかからなかった私は頭にきて、対抗上、「ブラック・バッファロー」というバイクを開発して参戦することにした。見れば解るように、これは、「ホワイト・ブル」に対して「ブラック・バッファロー」というジョークのつもりだったのだが、いわゆる、ファンと言う人たちからの抗議が殺到し、曰く、「名前が似ていてオリジナリティが無い」だの、「由良さんの真似をして恥ずかしくないのですか」など、数千万円を投じたジョークは落ちなかった。

■フォーミュラ路線
 紆余曲折を経て結局F1進出計画は断念されることになり、童夢F1デビューは実現しなかった。
 各方面から集めようとしたF1チーム運営費用が集めきれなかったから、というのが表向きの理由ではある。だが林に言わせれば若干ニュアンスは変わる。当時林は「せっかく国産のF1を開発するだけの技術があることを証明したのに、その技術を評価して必要とする人が出てこなかったことに絶望した」ということになるのだ。紆余曲折を経て結局林はF1参戦を全面的にあきらめる。
第一期のルマンはトヨタの都合で参戦への途は絶たれた。F3000はDUNLOPワークスとして参戦していたが、DUNLOPが阪神大震災を理由にレースから撤退したのでお終い。CASPITAもタイアップ先の自動車メーカーがギブアップして終了。それぞれ確たる理由がある。F1もその当時の周辺状況を観察していれば、なんとなく原因がつかめると思うのだが、同じく、確たる理由があって中止のやむなきに至った。前述したように、私にとってはそれぞれが冒険であり、結果を約束する筋合いのものとは思っていないが、巷間言われる、「資金が集まらず」というのは、私にとっては大変に不愉快な理由だ。それぞれにそれなりの理由があるが、言えることと言えないことがあるのだから、誰か一人くらいは核心を突いた記事を書いてくれると期待していたけれど、どこまで行っても「資金が集まらず」ではがっかりだ。

 実は林は、F1プロトタイプに着手する前に、95年からF3000から新しい運営体制に生まれ変わろうとしていた国内トップフォーミュラの在り方について、提案を行っている。 ル・マンの次の目標と定めたF1に、その間近まで近づきながら出場できず、国内ではせっかくチャンピオンまで獲得して証明した童夢の技術が正しく評価されず相変わらず輸入車に頼る仕組みから脱却しようとしない国内レース界の改革も空振りに終わった林の心中は察するに余りあるが、絶望しながらも一線を越えない。ここに林独特の冷静さ、慎重さが見てとれる。
 F1進出計画を断念した童夢は次の目標に向けて動き出す。MLと呼ばれたF3000クラスのシャシーや、SRS-F(鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラ)およびフォーミュラドリームのために作られたワンメイクシャシーなど、童夢はまるでF1に行けなかった鬱憤を晴らすかのように矢継ぎ早の開発を行う。
 しかしこの頃から童夢の動き、すなわちレーシングカーを造るために資金を稼ぐ、という基本方針に変化が見え始めた。その根底には、様々な形で林を襲った絶望が働いているようにも見えた。
FNのシャーシ、トヨタ、ホンダ両社のF1活動、第二期トヨタ、ニツサンのルマン参戦、ジュニア・フォーミュラのシャーシ、とにかく、ホンダのGT以外の全てのプロジェクトからお呼びは無かったから、絶望というより何かが違うという感じだった。一生懸命口説いていた女がオカマだと判った時のような落胆というかショックはあった。

■コンストラクター
 童夢は時代の要求に応えるため2000年、米原の工業団地内に世界トップレベルに比類する50%風洞実験設備、風流舎を建設した。
 建設費に数十億円、
正確には、投資額は約12億円、ただし、設計やムービングベルトの製作やかなりの内作部品なども含め、社内で消化した部分も含めると、建造原価は、約16〜7億円と試算している。

林は常に「レーシングカーを造ってそれを売って収益を上げるレーシングコンストクターが産業として成立する天国」を夢見ていた。
−だって、いままで、湯水のようにお金をつぎ込まないと出来なかったことが利益を伴うというんだから、そりゃ、天国だよ。
だが、相変わらず国内自動車メーカーはシャシー開発を海外コンストラクターへ発注して名前ばかりの「国産マシン」を生み出していた。さらに国内新フォーミュラ案が無視され、F1進出を断念し、ジュニア・フォーミュラも、自信作のFDを無視されて、外国製のワンメイク・シャーシに決まり、少なくともその天国は日本国内には成り立たない、いくら技術を磨き上げても国内ではそれを使おうとする者がいないことを悟った林は、海外へ想いの矛先を向ける。童夢は、海外を市場としたコンストラクタービジネスを目指すと宣言するのだ。
 
 還暦を間近にした林を脳梗塞が襲う。本来ならば生命すら危ぶまれる状況だった。もし万が一このとき奇跡が起きていなければ、童夢の歴史はひとつの節目で途切れていたのかも知れない。ところが林は奇跡的に後遺症もないまま生還した。
−半分、意識が朦朧としたまま、家内と先生の会話を聞いていると、「これだけの損傷で、何も障害が無いと言うことは考えられませんので、覚悟はしておいてください」 その後、喋れる、右腕OK、足OK、日に日に回復していって、障害らしきものを感じない。先生も、あらゆるテストを重ねながら首をかしげている。そのままついに退院のときを迎えたが、「病院で確認していない一箇所を除き、まったく後遺症は確認できません」とのこと。その部分についても、その後のテストで作動確認が取れたので報告し、無事、無障害が認定された。

童夢の未来
 では童夢あるいは林さんはレーシングカー開発から手を引いてしまうつもりなのか。その問いを林さんは言下に否定した。「もともとレーシングカー造りは好きだからね。好きなクルマを造って遊ぶためにこの会社を作ったはずなのに、知らないうちに奥が好きなレーシングカーを造って遊ぶためにオレが働くという構造になってしまっていた。今回の新社屋は、その構造を逆転させて、本来オレが目指していた『社長が好きなことをやって遊ぶための資金を社員が稼ぐ』ために建設したんだ。そうなったときの最終目標? それは、やはりル・マン24時間レース優勝だな」本音が聞けた。
−私の友達連中には、なぜか大きな企業のトップなんかが多い。しかし、その連中の中で私は異質の存在だ。通常、その人たちの間での価値基準は、年商であったり従業員数であったり資本金の額であったりするが、そういう基準を持ってすれば、私なんかは相手にしてもらえないのかも知れない。たまたま、若いころから一緒に遊んでいたから続いているだけで、実は、私がどんなことをしているかも、詳しくは知らないのだろう。
政治家やスポーツ選手の励ます会なんかにはよく呼ばれるが、私は一度も励ましてもらったことはない。「俺も戦っているんだから、一度くらいは励ませ」と言うと、「林さんて、何で戦ってんの?」と聞かれるくらいだ。
どう思われているのかは知らないが、いままであまり年商など聞かれたこともないが、米原に移転を始めてからは、よくその類の質問をされるようになった。
銀行の人たちも、尋ねてくる人が偉くなったような気がする。
いままで、何の関心もなかったことでも、一旦、そういう眼で見られ始めると、私もなんとなく気になり始める。
まだ、だからどうってことは無いが、事業規模というものを意識し始めたということはある。だからどうしていいかは解らないが。


■由良拓也
 敢えて言うなら趣味の悪い水玉模様のカラーリングだけが林さんっぽかったりする(笑)。あれ、裸の王様状態で、誰も文句を言えなかったんじゃないのかなあ。みんな、「なんだよ、このカラーリング!」「しーっ、社長がやったんだよっ」とかなんとかやっていたんじゃないかと、それが心配ですよ。
−趣味の悪いカラーリング? JIM GAINERの田中が、どうしても日の丸をテーマにしたいと言うので、どうしても日の丸を取り入れたくなかった私との最高の折衷案だ。文句あるか?
それに、裸の王様だ? もとより、社員の意見なんか尊重していたら、とっくに御殿場の零細企業になってるよ。裸の王様じゃなく、素っ裸でのし歩く大王様だ。

■奥明栄
 今回の事業拡張については、やっぱり今の状況で考えると、かなり無謀な領域もありますよ。ここまでせんでもええやろと思えるようなね。それがあるけれども、今までの童夢の歴史を鑑みると、やはり時代の先取りということなんじゃないかなあという気はしていますけどね。
−計画段階で役員の提出してきた計画案はもっと豪華な内容だった。ふたつ返事でOKすると追加の提案が出てきた。また、ふたつ返事でOKすると、ちょっといぶかしがって、「大丈夫ですかね?」と聞いてくるので、「どうせ借金で作るのだし、2年や3年で返済できるものでもないのだから、返すのは君達で、私には関係ない」と答えると、計画は大幅に縮小された。

社長がこのへんで抑えておいたらいいやろと目標を定める。それをぼくらがなんとか実現する。すると社長はまたその先に目標を定めるわけです。それをまた実現してきた。これがいつまで続くのかね。「やっぱりできませんでした」という日がくるのかもしれないしね(笑)。
−などと言いつつ、奥はすでに、もっと設備投資が必要と言い出している。私は、どうしても奥に操られているのではないかと言う被害妄想から抜けきれないが、お互いが、ある部分の責任転嫁をしあって、少し楽になっているということはあるかもしれない。