いけばなの歴史 池坊のいけばな 六角堂と池坊 交通とアクセス 華道家元四十五世 池坊専永からのメッセージ 次期家元 池坊由紀からのメッセージ

いけばなが記録に登場するのは五百余年前のこと

室町時代の中頃、挿花の名手池坊専慶を出し、室町後期には専応が現在に伝わる花伝書「池坊専応口伝」をあらわして、いけばなの理念を確立しました。 それは、従来の挿花のように単に美しい花を鑑賞するばかりではなく、草木の生命、風興を基とすることを説き、花をいけることによって、悟りへ至ることができるいけばなの成立となりました。こうした先達の教えを守り伝えながら、過去から未来へつながる一筋の道を池坊は歩み続けています。



いけばなのあゆみ

室町時代以前
1,飛鳥時代

六角堂建立の縁起

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いけばな発祥の地とされる六角堂の創建は、聖徳太子が用明天皇2年(587)四天王寺建立のための用材を求めてこの地に至られた時、霊夢によってここに六角の御堂を建て、自らの護持仏を安置されたと伝えられています。六角堂の北面は、太子が沐浴された池の跡と伝えるところで、この池のほとりに小野妹子を始祖と伝える僧侶の住坊があったので「池坊」と呼ばれるようになりました。池坊の祖先は、朝夕宝前に花を供えてきましたが、ついには代々いけばなの名手として知られるようになりました。

鳥獣戯画スケッチ

鳥獣戯画スケッチ

鳥獣戯画スケッチ

鳥獣戯画スケッチ

鳥獣戯画スケッチ

2, 平安時代〜南北朝時代

いけばなの芽生え

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平安時代になると浄土信仰とともに供花が一般化されますが、その形式は、平家納経の見返しや鳥獣戯画※の供花の図によって知ることができます。また貴族の邸宅である寝殿造では、花合せの遊びが行われ、草花の贈答につれて草花を瓶にさしてながめるようになりました。

室町時代
3. 室町時代

初期のいけばな

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14世紀から15世紀に移る頃には、新しい住宅様式─書院造が生まれ、いけばなの起源となる挿花が現れ、わたくしたちが軸をかけ、花を飾る床の間の原型と言われる押板が、つくられるようになりました。このころ池坊専慶が挿した挿花を人々が競ってみた、あるいは、京都御所で池坊がたびたび花を立てたという記録が残されています。

安土・桃山
4. 室町時代〜安土桃山時代

いけばなの成立

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応仁の乱によって京都は焼土となり、戦乱は全国へとひろがりました。このころ、六角堂は観音信仰と太子信仰によって益々人々の尊崇をあつめ、多数の人々が参集しました。こうして専慶以来、ひたすらに工夫を重ねてきたいけばなが世に知られるようになりました。16世紀の前半、池坊専応※によって、新たな発展がもたらされます。専応を継承した池坊専栄※自筆の伝書には、当時の立花の具体的な骨法図がみられます。

5. 安土桃山時代〜江戸時代(前期)

立花の大成

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長い戦乱の末に漸く統一の気運を迎えた安土桃山時代は、城郭建築で代表されるように雄大で豪華絢爛な文化が展開します。池坊では専栄に続いて31世池坊専好が活躍、文禄3年(1594)、専好が前田邸の大広間の4間床に立てた大砂物は、時代にふさわしい雄大なスケールをみせ「池坊一代の出来物」と称賛される見事なものでした。この安土桃山時代に花を開いた立花を更に大成したのは、その跡を嗣いだ32世池坊専好です。

6. 江戸時代(前期〜中期)

立花の普及と生花の成立

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立花の普及に伴い『立花大全』※などの理論書が、相次いで刊行された。その後、華やかな元禄文化の終焉を告げるかのように、宝永5年(1708)京都の町は大火に見舞われ、六角堂も焼失。享保13年(1728)に再建された六角堂を中心に、池坊の立花が、全国へ普及してゆきます。このころ、町家の床の間にも飾れる抛入花への関心がひろがり、池坊では18世紀の前半、元文・寛保(1736〜1742)の頃、ほぼ今日の生花(しょうか)としての形が定着しました。

7. 江戸時代(中期〜後期)

幹作り立花の成立と生花の流行

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はじめて、遠州流、源氏流などといけ花の流儀をとなえる人々が現われ、生花(しょうか)または生花(せいか)と呼ばれるいけばながもてはやされました。一方、伝授形態が次第に整備されて、いわゆる家元制度が成立しました。こうした伝授形態の整備にともなって、立花は次第に定型化し、理想的な樹形を作る幹作りの手法が考案されました。

近代
8. 明治〜昭和初期

正風体の普及と投入・盛花の成立

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いけばなの普及に当たって42世池坊専正は、習い易く教えやすい花形として正風体を設定、自らの作品集を発行しました。こうして普及した正風体は、明治、大正、昭和を通じて生花の規範となりました。一方では、文明開化に伴う生活の洋風化に応じるいけばなとして投入・盛花が流行し、明治末年から大正期にかけて新しい流派を称える人々が輩出されました。

9. 未来へ

今日のいけばな

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長い戦争による疲弊と敗戦の打撃に打ちひしがれていた敗戦直後、池坊はいち早く全国へ向け文化国家再建をめざして活動を開始しました。現池坊専永宗匠※は昭和20年(1945)、先代の急逝により幼くして45世を継承、早くから新時代のいけばなを探究、年来の研鑽(けんさん)をもととして、昭和52年(1977)生花新風体を発表しました。また引き続き平成11年(1999)には立花新風体を発表。常に、時代に適応した新しい様式の展開を研究し続けています。

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