いけばなの歴史
正風体の普及と投入・盛花の成立

政治体制を一挙に変えた明治維新は、思想、生活、文化にも大きな盛衰をもたらしました。京、大坂、江戸の三都は戦乱に巻きこまれて人々が離散し、武士は生活の根拠を失いました。これに従って江戸、大坂に基盤をもつものや、武家に依拠していた生花家は大きな打撃をうけて衰微しました。京都も兵火にかかり六角堂も焼亡しましたが、信仰の力と江戸時代以来全国に拡がっていた門弟の力は六角堂復興に大きな力を発揮、いけばなの普及は絶えることなく続けられました。
文久元年(1861)、四十二世となった池坊専正は、明治6年(1873)には大宮御所で催された第2回博覧会に立花を出瓶、以降各地の門弟を選抜して出瓶※8-1をつづけました。明治9年(1876)には、六角堂再建の宿願を果たしました。また、明治12年(1879)以来、京都府立女学校に招かれて女学生にいけばなを教え、また、伝書や制度を整備、明治27年(1894)には家元花席を建設するなど今日の基盤を築きました。いけばなの普及に当たって専正は、習い易く教えやすい花形として正風体を設定、先代専明の作品を採録した『専明挿花集』や自らの作品集である『専正立生花集』※8-2、あるいは各種の『華かがみ』を発行しました。こうして普及した正風体は、明治、大正、昭和を通じて生花の規範となりました。また一方では、文明開化に伴う生活の洋風化に応じるいけばなとして投入・盛花が流行し、明治末年から大正期にかけて新しい流派を称える人々が輩出しました。

※8-1 旧儀装飾十六式図譜
明治36年3月、京都岡崎で催された「古美術展覧会」に池坊専正が出瓶した3瓶1対の真の立花飾りで、この後会期中、専正及び高弟によって行・草の立花飾りが出陳された。

※8-2 専正生花集
池坊専正が、自作を集めて明治30年(1897)に刊行した『専正立生花集』から、明治34年(1901)に生花を分離した自撰集。専正は、新時代に即応していけ花を普及するため、習い易く教えやすい花形として正風体を設定。以後この花形は、明治、大正、昭和を通じて生花の規範とされました。


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