巴里夫のマンガ、ふたたび!【巴里夫ライブラリイ】

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  巴里夫の回顧録

1、貸本「少女マンガ」を描き続けて

  学費稼ぎのバイト感覚から描き始めた貸本マンガだったが、結局、昭和27年(1952年)から昭和41年(1965年)の長きに(ワタ)ってしまった。つまり、「貸本マンガ界」の勃興期(ボッコウキ)から全盛期、そして、終焉期(シュウエンキ)まで付き合ったことになる。この間、一貫して描き続けたのは、少女マンガであった。
 私が、少女マンガを描くことになった、そのきっかけは、マンガの原稿を持って売り込みに行った大阪の出版社『八興』――当時、「日の丸文庫」で有名――の社長が、私の作品を見てくれ、話をした後に、「絵と話、そしてあんたの風貌からして少女マンガ向きや」という評価をもらったからであった。私自身も、常々、殺伐(サツバツ)とした少年マンガよりも、いささかでも生活の(ニオ)いのある少女マンガに興味があったので、「うちで描いてもらいまひょ」とOKを出してくれた社長の意向に沿うことになった。
 こうして、私の少女マンガ修行が始まったのだが、その気になって娯楽の世界を見回すと、社長のいうお涙ちょうだい&ィ語は、満ち溢れていた。例えば、大映映画の母物シリーズは、3倍泣かせます≠フ(ジャク)()もあってか、大当たりをしていたし、ラジオドラマの『君の名』は、悲しいすれ違いの繰り返しが大受けで、放送される時間帯には、銭湯の女湯がガラ空きになるほどであった。そういえば、当時の庶民の娯楽はささやかなもので、ハレの日は映画だが、ケの日はラジオが唯一の楽しみといえた。夜、父親は火鉢を抱えてタバコをくゆらせ、母親は縫物,子等は飯台の上で宿題をこなしながら聴き入ったものだ。
 ()し物の多くは流行歌をはじめ、落語、講談、浪曲等々、〈義理と人情〉をベースにしたもので、いい換えれば、お涙ちょうだい、泣かせ≠家族全員が共有できていた時代ともいえよう。なるほど、泣かせ≠ヘ貸本マンガ界にとっては大事な安全弁だったのだ。
 この状況を踏まえて、私は、安全弁なる「型」から話をつくる勉強を始めたのだが、なかなか馴染(ナジ)むことができなかった。――が、話をどう作れば面白くなるかという「シナリオづくり」の目覚めにつながったことは望外の成果であり、制作に(ハズ)みもつき『母さん泣かないで』をはじめとする一連の泣かせ<}ンガをコンスタントに描いていくことになった。
 昭和31年(1956年)に上京。大学も卒業でき、この際、本格的にマンガ修行を…と思い定めたのだが、これが長いトンネル暮らしの幕開けになろうとは、……。
 東京の貸本マンガ出版の大手であり、そしてまた少女物マンガ主体の『若木書房』に原稿を売り込んだのだが、ここでも求められたのは、やはり、お涙ちょうだい≠ナあった。
 ガックリのパンチは、これだけではなく、もう一発浴びることになった。
 ひょっとしたらイケるかも、と思える試作を、雑誌「少女」に持ち込んだ時のことだ。会ってくれた編集長は、後にベストセラー作りの神様と(ウタ)われた方で、彼の好意的批評はとても温かかったが、続く談話は、またしても「またか」と思える決定的なものであった。
 「少女マンガのストーリーは、吉屋信子の小説の(イキ)を出てはいけない。彼女の作品から徹底的に学びなさい」という訓話であった。
 何事も勉強と、吉屋信子の少女小説の世界を(ノゾ)いてみた。ひそかなレズ、つつましいが強い、貧しくとも知的…等々と登場する少女達は、多彩で話も叙情性に溢れ面白いのだが、私には合わないと、逃げ出してしまった。どうにも作りごとめいて嘘っぽい、と思えたからだ。まだ、お涙ちょうだい≠フ方がいい。作者と読者が共有し合える、そして、手触りのある日常の一瞬がつくり出されるからだ。
 その後の私は、漂流し続けた。名作マンガシリーズの『かぐや姫』、ハウツー物のイラスト等々、様々なものをこなしながら自分(サガ)し=\―何を描きたいのか?――をしていた。
 20代も後半に入った頃、「若木書房」から原稿料値下げの通告を受けた。貸本マンガ業界の悪化を肌で知ることになった。足を洗うべきか、一抹の不安がよぎった。
 転機が訪れた。「若木書房」から、『風車』というタイトルでユーモア物の短編集を出すので、明るいものを描いてほしいという注文がきた。泣かせ≠ノどっぷりの自分に描けるのか? ええい、やってやろう!……と思いっきりのコメディに仕上げたが、これが読者に好評で、この実績から、ごきげんシリーズ¢S26巻の作品を生み出すことになった。
 原稿料は元に戻り、さらにアップされた。マンガで食っていける自信もついた。
 なんのことはない。読者に〈()く道〉を教わったのだ。このシリーズは、私なりの「ホームドラマ」だった。
 あれから幾星霜(イクセイソウ)……。今や少女マンガは大進化を遂げている。描き手は、女性作家の独壇場でもある。新鮮で読み応えのある作品に出会うたび、歌は世に連れ、世は歌に連れをもじった、マンガは世に連れ、世はマンガに連れ……のフレーズを思わずつぶやいている自分がいる。(月刊「彷書」に掲載された寄稿文より引用。一部、補筆)



2、貸本マンガ人生譜―その1

   草川秀雄(ペンネーム:サツキ寛太)    ・今橋聡(ペンネーム:今橋さとし
 ここに挙げた二人は、私が貸本マンガの世界に入る前の助走期間といえる、新聞・雑誌の投稿マンガ欄で知り合い、共にマンガ家を目指した、原点からの仲間である。ちなみに、草川は、1931年、私が1932年、今橋が1933年と、それぞれそれぞれ1歳ずつ違うが、同世代といえる。そして、草川、今橋は、生粋の京都っ子であり、私は、転居間もない田舎者であった。
 草川―。今でいうオタクの先駆けだが、容姿・性格ともに独特な強面(こわもて)で、博覧強記。私にとっては文学の水先案内人であり、ケンカも大切と、人生論の教師でもあった。のちに「八興」に誘ったが、「日の丸文庫」でミステリ作品を数点描き、その後上京。「ひばり書房」に拠り、「サツキ寛太」のペンネームで貸本マンガの世界に入っていくことになる。(2013.6.17 彼の息子さんから逝去の知らせをうけた。葬儀は終えておられた。行年81才。近々、家内とともお悔やみにお伺いする予定にしている)
 今橋は、陶芸家の息子で、知り合った当時は日本画の修行からマンガへと、路線を切り替えた時期であった。絵はうまいし、アイデアの閃き、勘ともに鋭く、四コママンガを得意とした。彼らしいと関心したのは、日の丸文庫のデビュー作にプロレスを取り上げたことだ。“本邦初のスポーツマンガを描いたるで”と、仕上げまで数ヶ月かかったそうだ。なるほど、採算度外視の力作で、彼の原稿をめくりながら、山田社長がおおはしゃぎした様子が思い出される。題して『力剛山物語』―。
 彼はまもなく、それこそさっそうというふうに上京した。『毎日新聞』の学生新聞部のデスクの眼鏡にかない、「今橋さとし」のペンネームで小・中学生の学生新聞に描きまくることになる。四コママンガの連載からイラスト、ルポライターと、なんでもこなせるジャーナリストとしての才も開花させていく。
 さて、三人が語り合い、投稿マンガを競い合った1950年代は、各紙・誌こぞって投稿マンガ欄にページを割いており、その分、われわれマニアも競って応募したものである。
 応募先は地元の『京都新聞』『夕刊京都』に始まって、おおさかの『新関西』『大阪日日新聞』、さらに九州の夕刊各紙、転じて北陸の各紙へと広がっていくばかり。それに加えて週刊・月刊誌へと、カバーしきれない状況であった。
 投稿の魅力は自作の掲載にあったが、目当ては賞金なのだ。入選すると200円から500円くらいまでの賞金を手にすることができた。当時、国鉄の一区間の乗車料金は10円。ラーメンが15円から40円だったから、投稿を始めた高三の私にとっては、とてもありがたいお小遣いになった。
 なかでも『アサヒグラフ』(朝日新聞社)の「マンガ学校」の入選賞金はダントツの1000円なりで、そのころの最高額紙幣が現金書留で送られてきた折は、びっくり仰天したものだ。が、その分、敷居も高く、私の入選率も低く、片手に満たない回数だったと記憶している。古いスクラップをめくると、現在活躍中のマンガ家の名前が散見でき、各氏の戸籍をみているような独特な懐かしさが込み上がってくる。

カバヤ児童文化研究所

 1951年貼る、私は、大阪の某私大の経済学部へ―。本当は美術系に進みたかったのだが、父母・二人の兄の反対に遭い、しぶしぶ路線を変更したのだが…。入学金を工面してくれた長兄から唐突に「あとは自分の力で卒業してくれ」といわれ、なりゆき上、引くに引けなくなってしまった。これまでの投稿マンガでの小遣いでは学費までは賄えない。長兄はそれを見越して、アルバイト先をはやばやと見つけてくれていた。大阪・船場にある織物の輸出会社の「図案部」だった。綿布のデザイン部門である。
 といっても、仕事は雑用係だ。毎朝、デザイナーたちが出勤してくる前にまず、部屋の掃除。次に筆洗い、絵皿、各種の筆と道具を洗い、拭き上げる。そのあと岩絵の具を溶くニカワが固らないようにつねに炭火であたためておく。そして、各部と連絡事項の整理とチェック。以上を済ませてから大学の受講に向かうのが通例だったが、会社の仕事が繁忙になってくると次第に講義を休むことがおおくなっていくのは仕方がないことだった。アルバイト料は1ヶ月で4000えん少々。
 そんなふうに1年がたったかどうかのある朝、新聞の、それも癖になっている職業紹介の3行記事を流し読みしていたら、(漫画家募集―「カバヤ児童文化研究所」)という文字が目に飛び込んできたではないか! 所在地の京都市内にふっとんでいったのはむろんのこと。
 そういえば、当時「カバヤキャラメル」は子供たちに大人気の商品で、それもカバにデザインされた車で各地を回る街頭販売が大受けの主な理由だった。そしてもうひとつ、キャラメルの箱に入っているカードで景品をもらえる仕組みも魅力だったようだ。集めたカードの点数が多ければ多いほど、景品のグレードもアップしていく。これはあとでわかったことだが、その景品のひとつにマンガ本をと会社・研究所が企画したのだ。
 児童文化研究所へ、見本に何を持参したのか記憶にないのだが、わりとすんなり採用され、たしか100ページ前後の作品を依頼されたと思う。判型ほ四六判だったろうか。
 とにもかくにも、乾き切った地に水が一気に染み込んでいくような勢いで、熱中しきって描いていったものだ。都合のいいことに、アルバイト先の会社が不況に陥り、人員整理を始めるとか聞き込み、さっそく退職を願い出、大学の方も休み続け、自宅に与えられた一畳のの板の間をアトリエに、日夜描き継いでいったものだ。
 何ヶ月かたったある夜、カバヤから原稿料の入った現金書留が届いた。父母・長兄夫婦・次兄・私・弟の7人が折り重なるように暮らしているつましい日々にとっては大事件だった。そのあまりの分厚さにおそるおそる封を切ると、千円札で30数枚の紙幣が流れ出てきた。当時、大卒の初任給が7,8千円、10歳と8歳上回る兄たちの給料を合わせてもまだ上回る金額だった。チャブ台のうえに広げられた紙幣を前に家族全員が押し黙った。「マンガなんてしょうもない。(みち)を誤るな」と常々戒めてきた兄たち、そして父母も黙りこくった。そして、それぞれが銭湯へ寝床へと姿を消した。
 それでも翌日、母を連れて大阪へ出、デパートで買い物をし、カレーとステーキの珍妙な取り合わせの食事をした。帰りの電車の中で気づいたことだが、母がいくつかの買い物袋をどこかに置き忘れたのだ。それほど、親子して気分が上ずり舞い上がっていたといえる。
 その後も好転がつづく。私の描いた学園マンガのキャラクターが景品引き換えのカードとして採用されたのだ。子供たち、先生、校長、こづかいさんまでがカードになり、評判が良かったのか、岡山のカバヤ本社まで出向くよう連絡が入った。
 緊張しっぱなしの私は、本社の社長室へと向かった。若いが貫禄のある社長に、あれこれ値踏みされたが、おおむね好意的だった。会見後、秘書に工場を案内され、キャラメルの製造過程を見学させてもらったのだが、大勢の若い女子工員さんの視線に耐えきれず、終始うつむき加減だったのは情けないことだった。


『野良犬』− 黒澤 明
・『漫画大学』− 手塚治虫
・『山から来た河童』− 馬場のぽる


 ここにあげた三作品は、私の少年期から青年期にかけての「聖書」だった。とくにストーリーづくりにとりかかるときには、必ず三作品を思い浮かべ、内容をよくよく反芻したものだ。
 映画『野良犬』 は高二のとき、住んでいた九州の田舎町で封切られた。クラブ活動で「映画部」に在籍していた私は、さっそく鑑賞会のための作品としてとりあげるべく部員たちと計り、顧問の先生の許可をもらい、上映館からもOKが出、学割の入場券をつくり、校内で販売に走り回った。大切なのは鑑賞後かならず研究会を催す―にあった。
『野良犬』 の合評会は、部員全員大讃辞の合唱だった。もちろん私もそのひとりだったが、つい口走ったひとことが仲間のひんしゆくを買い、恥ずかしい思いをした。それは映画のラスト、病院の一室だ。犯人にピストルで撃たれ、入院していた佐藤刑事(志村喬)を相棒の村上刑事(三船敏郎)が見舞っている。いろいろあったなといった風情で村上が手鏡に移した町並みを見渡している様子を凝視するカメラアイ―。その演出について、私は「手鏡を見る村上刑事の姿だけでなく、実際の大きく拡がった風景も見たかったなあ」とつぶやいた。すぐさま、そんな幼稚なシナリオ理解しかできないのか、とさんざんだった。映画を二度見直し、スクリーンを凝視しながら、シナリオ、シナリオと私は繰り返したものだ。そのとき私を言い負かした同級生の部長は後日、日活のプロデューサーになり、赤木圭一郎作品を手がけることになる。 余談だが、鑑賞会でダントツの人気だったのは、今井正の『青い山脈』で、当時小説や主題歌も大当たりとなつた明るく、楽しい学園物語。女、子供で立ち見が出るほどの人気で、当日モギリをしていた私は、ガールフレンドとその仲間を顔=@で入れてやり、おおいに面目をほどこした……。



3、貸本マンガ人生譜―その2

・日の丸文庫(出版社・八興)

 前にも触れたことだが……。
「あんた、少女マンガ描いてンか。うちには少年物を描く人は揃っているけど、少女物が手落ちなんや」と、私が持ち込んだ原稿にざっと目を通した社長の、いきなりの提言に一瞬とまどった私だったが、少女物なら生活感を描けるからと閃き、それもいいかなと思った矢先、「それにあんたは優しそうな顔しとる。少女向けや」とたたみかけられたのは、びつくりした。手荒い人やなあ!
 が、同行の今橋さとしの原稿は「ええ出来や」と社長、弟の専務も大ほめのうえ、「二人とも気張ってや」と高揚感もあおられ、ふわふわ浮き足だった気分のまま、社を辞してしまったのだが…。それにしても倒壊寸前を思わせる木造ビルといい、出版人らしさをまったく感じさせない社長・専務と、すべてがあまりにも想定外だったショックのためか、まるで異界からなんとか生還してきたような浮遊感がしばらく抜けなかったものだ。
 一九五三年だったか、かくして私はせっせと「八興」に出入りするようになつた。つまり、ペンネームは本名の仮名書きいそじましげじ″で、“お涙ちょうだい”“泣かせ”の母物専門の少女マンガ家の誕生である。 描けば学費、家に入れる喰い扶持も賄えるとあって、家人も黙認。楽しくて楽しくて、マンガに没頭していった。約一カ月半で一冊分(百二十数ページ)を描き上げていった。
 何ケ月か過ぎたある夜、専務に連れられ、彼のなじみのバーでゴチになった折り、顔みしりのホステス嬢に肩を叩かれたものだ。「こんど出た本、良かったで。もう泣けて泣けて…」「おおきに」と返したもののカウンターの奥の鏡に映る私の顔は、ちょつぴりゆがんでいたようで…。
 それでも八輿に出向く日は気持ちがはずんだ。マンガ家を目指す若い仲間たちに出会えるからだ。それこそ桃太郎が犬、猿、雉と、大切な仲間に出会っていく説話の祖形通りに私も、才あふれる彼らと次々に巡りあっていったといえる。

・辰巳ヨシヒ口
   辰(タツ)ちゃんは、まったくシャイな少年であった。この彼が、マンガ好きの間で噂になつている“関西に天才的マンガ少年あり”の本人だったとは! 初対面の私は思わず興奮してやたらと話しかけるのだが、そのつど彼ははにかみ、照れて長身を折り曲げる。八輿で彼の作品が本になるごとに、なるほどと彼の才能に納得がいったものだ。例えば……。
 タイトルこそ「七つの顔」「十三の眼」と、社長・専務の意向に沿ってはいるものの、絵、話ともに新鮮で、かつ彼独自の新しさ、ユニークさ、センスが芽吹いていておもしろかった。なるほど、すべてが大づかみの印象は強かったが、その“大づかみさ”が逆に、将来の大成をうかがわせて、辰ちゃん恐るべし! であった。
 余談だが、別掲の写真とイラストを見比べてもらおう。写真は、当時私と、私淑していたマンガ家・藤原せいけん先生とのツーショットである。イラストは辰ちゃんが、そんな異相の私を描いたのだ。「いそやんのおかげで、いいキャラができたデ}とニコニコしながら見せてくれたものだ。その後、このキャラクター、大活躍することになる。

・松本正彦

 松ちゃんは、温和で心根の優しい少年であった。折りにふれ、思いだす光景がある。 ある冬の日の夕暮れ。辰ちゃん、松ちゃん、さいとう氏、そして私の四人が八輿からミナミの盛り場へ向かってそぞろ歩いていたときのこと−。
 ふと気づくと、さいとう氏が数メートルは遅れているのだ。うっむき、なにか鬱屈を抱えているようだ。「どないしてん?」。立ち止まり、さいとう氏を見守る松ちゃん。「ん…」と生返事をしながら横に並ぶのだが、また気づくと、さいとう氏は遅れていて、また松ちゃんが立ち止まり、彼に声をかける。と、同じことを何回か繰り返し、そのたびに松ちゃんがさいとう氏に話しかけ…。思い出すたびに松ちゃんの優しさがより純化され、きれいな記憶になつていく。 そう、彼の作品もまた優しさに満ちていた。
 「サボテンくん」がそうだった。主人公の技のすごさ、殺気さえもほのぼのさに転化されていて、それがまたユニークなおもしろさにもつながり、話にもキャラにも感情移入していけるのだった。
 もうひとつ、彼のつくる画面に引き込まれる理由に、絵づくりのセンスの良さがある。まるで映画における監督、カメラ、美術のすべてを兼ね備えたような創意工夫に満ち満ちていた。

・桜井昌一

 彼が辰ちゃんのお兄さんだと知った時のおどろきといったら…。それにしても兄弟でマンガを目指すのも珍しい。おそらく二人は、マンガを巡ってケンンケンガクガクの議論で火花を散らしたはずだ。
 それが証拠に彼、なかなかの理論家で、私の作品で彼にほめてくれたのは、『お嬢さんに関する12章』の、ただ一作のみであった。

・さいとう・たかを

 さいとう氏は、如才のない大人っぼい少年であった。おそらく早くから社会人として日々練られてきたであろうと思わせる、気配りにも敏感であった。
 それにしても彼の絵は抜群のうまさだった。堂々たる挿絵画家として通用すると思わせるほどの腕前で、先輩・工藤市郎など「あの頃の八興の若い描き手の中で、さいとう君が一番うまかったなア」と今も、折あるごとに語っている。
「さいとう氏は、この仕事をするために生まれてきたのでは⊥と私は脱帽するものの、なぜか彼がライバルとは思えなかった。漠然とだが、彼の目指す方向と私のそれとはまったく異なっている、という予感がつねにあったからだ。

・高橋真琴・佐藤まさあき

 なぜ二人がセットなのか、そのわけは…。それは八興に現れるとき、二人はつねに一緒だったからだ。高橋氏は青年、佐藤ちゃんはまだまだ少年といったところ。きけば二人ともお互い家が近いうえ、佐藤ちゃんが高橋氏に兄事して慕っているからという。口の悪い専務は、金魚のうんことよくからかったものだ。
 さて、高橋氏描く少女像は、すてきなイメージはもちろんだが、その赦密な表現とてテクニックには仰天したものだ。同じ少女物を売りにする小生にとって、彼はライバル以上のとんでもない存在で、彼に対抗するには、生気あふれる少女をどう表現するか、しか手がないと思わされ、落ち込んだり、反撥したりで…。 佐藤ちゃんについては、当時の作品の印象、記憶はとぼしい。が、それよりなにより彼のはずむような生気と挙措が今でも脳裏にしっかり焼き付いている。
 いかにもハイ・ティーンらしい身ごしらえ、小柄だが色白で眉目秀麗、ベレー帽もよく似合って―。その上、今が最高に幸せといった喜びを発散させていた。なんで? と不思議でならなかったが、あとで理由を知り、胸を突かれた。 なんでも彼、家庭の事情で相当つらい目に遭ってきたらしい。それが念願のマンガ家として一本立ちできたのだ。その歓喜の日々が、ちょうどその頃だったようだ。
 −とまあ、記憶を辿ればまだまだ思い出す人々がいるものの、結局三年前後しか八輿にかかわっていない私には、これ以上はきちんと語れない。
                        
・さようなら「八興」

 1956年が明けて早々、私は八輿の社長、専務に上京したい、と告げた。「うまいこといくとはかぎらんへんで」と二人ともしぶったが、続けて作品は描き、会社に送るということで納得してもらった。
 というのも前年の春、追試を受け、なんとか卒業でき、母との約束も果たしたし、自立のチャンスがきたのだ。世間は末曽有の「鍋底不況」に沈んでいて、ぽんくら学生などに就職の口も皆無だし、とごまかし、自立とマンガのため、強引に家族を説得したのだ。本当は、こうして二月のある日、八興に挨拶に寄り、社長、専務、久呂田センセ、経理の内海さん、編集の仲谷さん、とみなさんに感謝し、夜行に乗るべく大阪駅に向かった。うれしかったのは、辰ちゃんと松ちゃんが見送ってくれた事だ。
 ほんとは彼らにしても上京したいのだ。が二人とも家庭の‥しての役目から逃れられない。雑談と笑いでごまかし合い、ちなく別れを告げたものだった。
 東京には盟友の今橋さとしが先行していた。で、彼の住む練馬区に私も居を定めた。不動産屋を巡り、格安の物件を見つけ即入居。素人の学生下宿の三畳間で、朝夕二食付き六千五百円なり。
 さあ、それからの数週間というものは、気だけが高ぶって、どうにも落ち着かず連日ふわふわと歩き回り…。それでもなんとか作品に取り組み、約束通り八興に送ったが、待てど暮らせど稿料は無論のこと、いいわけのハガキ一枚すら届かなかった。手許の軍資金もみるみる減っていくし、たまらず大阪へ向かったのだが…。
 私の強い抗議にも社長は「すまん」の片手拝みでさらりかわす、そのいつもの気楽さに私は「もうアカン、これまでや」と八興との縁を切る決心をし、即刻東京へ舞い戻った。
 ようし、いちから出直し、と東京の貸本マンガ出版社のリストをつくるべく近くの貸本屋に向かい、めぼしいマンガを数冊借り、原稿の持ち込み先をチェックしたのだが、私は世間を甘く軽く見ていたようだ。というのも、まもなく暗い、そして長い長いトンネルをくぐる月日に入っていくことになったからだ。(つづく)


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