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調査・検証

検証・バブル

《尾上縫》 大阪の女将に逆ざや融資 指弾された興銀

 昭和の日本を支えた日本興業銀行は、大阪・ミナミの女将に新時代の生き残り戦略を描いた。彼女が逮捕された日、興銀グループの融資残高は2295億円。彼女から不正に取り上げた財産は100億円超。興銀の背信が問われた裁判は21世紀まで続いた。そして興銀は解散した。

(奥山俊宏、村山治)

 ●官報

 2002年6月10日付の官報の片隅に、尾上縫に関する小さな記事が掲載された。

 主文 本件破産を終結する
 決定年月日 平成14年5月28日

 3175億円に上る尾上の負債のうち9割余りは損に消えた。それでも債権者に274億円を返せたのは、10年の歳月をかけて、日本興業銀行の悪事の一部を法廷で立証できたからだった。

 尾上の破産管財人が興銀やそのグループ企業の責任を追及した3件の民事訴訟のうち、2件で勝訴し、01年12月、最終的に興銀側から計170億円を回収した。裁判所は「その背信性には極めて重大で著しいものがある」と述べ、興銀側を加害者と名指しして非難した。

 興銀との長い訴訟が終わったことがきっかけとなって、02年春、大阪・ミナミの千日前で木造3階建ての古びた店の軒先から、黒地に白抜きで「大黒や」と縦に記された丸い看板が取り外された。91年8月に「お盆休み」に入ってから10年半、「所有者尾上縫」のこの店はシャッターを下ろし、来客を拒み続けた。02年1月、店は売却され、4月、取り壊された。

 同じ4月、興銀は、みずほコーポレート銀行に合併して解散した。日本興業銀行法に基づく特殊法人として1902(明治35)年3月に設立されてから100年と5日。「大黒や」に前後して興銀もまた、なくなった。

 

 ●有力者

 尾上は1930(昭和5)年2月22日、奈良県で農家の次女に生まれた。戦中に高等小学校を卒業した。

 結婚して1女を得たが離婚し、25歳のころ大阪・ミナミのすき焼き店「いろは」の仲居になった。10年間、ほとんど休まず働いたという。経済界の有力者とみられるこの店の客とやがて親しくなり、援助を受けるようになった。

 65年、「三楽」という名の旅館だった建物を購入し、料亭「恵川」を開いた。改装の手配や従業員の募集といった準備はすべて、その有力者が整えてくれた。

 以後、尾上は、周囲に土地を買い足し、ビルを建てて、スナックや麻雀店を開いた。恵川は新築のビルに移り、その跡は上割烹「大黒や」とした。

 店の経営は放漫で、赤字続きだった。が、不足した資金は必要なときに必要なだけ調達された。有力者から受け継いだ「何億とも知れない」という現金が尾上の手元にあった。それはまるで、「天から降ってきた」ように見えた。

 

 ●借り入れ

 「大黒や」を興銀の難波支店長が飛び込みで訪れたとき、尾上は「日本興業銀行」の名前さえよく知らなかった。が、店を何度も訪ねてきてくれるその支店長への義理で、興銀の割引金融債ワリコー10億円分を購入することにした。87年3月13日、こうして尾上と興銀の取引は始まった。

 同じころ、興銀大阪支店の資金部長に、アメリカ帰りの男が着任した。歓迎会が尾上の店で開かれた。彼は尾上について、「ざっくばらんな女将」という印象を持った。

 その年の5月20日、興銀は25億円を尾上に貸した。興銀から尾上への初めての融資で、担保はワリコーだった。行内で「マル担融資」と呼ばれ、銀行にとっては、焦げ付きのリスクがまったくない、うまみのある取引だ。

 尾上は後に法廷で25億円の借り入れの理由を「あれだけせっせとお越しいただいているし」と説明。使途については「ちょっとわからないんです」と供述した。

 この25億円は半年後に返済されるが、翌年3月に興銀は改めて50億円を尾上に融資した。担保は興銀への預金だった。さらに5月に50億円、6月に70億円と融資を追加し、融資残高はこの年の暮れに180億円に、翌89年の末には586億円に増えた。

 だれの目から見ても、一個人への融資としては常識外れだった。しかも、預金やワリコーを担保に興銀から融資を受ければ、尾上にとっては、支払利息と受取利息が「逆ざや」になり、損を出すばかり。興銀だけが一方的に儲ける。

 彼が妻と一緒に「大黒や」を訪れたとき、尾上は妻にネックレスをプレゼントした。後に尾上は法廷で弁護人に問われて、こう供述している。

 ――どのくらいの値打ちのやつ?

 「恥ずかしい話なんですが、値札つけたままやった」

 ――いくら?

 「250万でした」

 ――モノは何ですか。

 「ルビーです」

 ――何であげたんですか。

 「ご主人によくしてもらってるから。おすしを買うて渡したり。いろいろ人によって違いますけどね」

 ――しかし、会席1人3万円かどうか知らんけど、250万のネックレスなんか贈ったら、何回来てもらっても割が合わんのじゃないですか?

 「そういう計算ができないんですね。心でいきますからね。うれしさとか感謝の念を持つから。私の気持ちが、しといたら気がすむんです」

 

 ●株取引

 尾上の株取引は87年4月ごろ始まった。

 日曜日の夕方には、「行」という宗教的な儀式があった、と証券マンたちは供述している。特定の銘柄を挙げて株価の見通しを尋ねると、神がかり状態の尾上が「上がるぞよー」とか「まだ早いぞよー」とか答えたという。

 どの銘柄の株を買うか、まっとうな見通しがあって決めていたわけではなかった。勧誘されるままに、あるいは、自分の株占いの結果に基づいて売買した。

 興銀幹部である彼は検事に、「尾上を担当していくうち、尾上は、金融知識のみならず、株取引に関する知識も皆無に近いとわかってきました」と供述している。「尾上の資産運用は、素人の思いつきであり、危惧の念をもって付き合っている状況でした」。

 

 ●頭取

 89年5月、彼は興銀大阪支店の副支店長に昇進した。このころ興銀は尾上に不動産投資も勧めるようになった。

 当時、金融の自由化が進むにつれて、銀行は、競争が激しくなり、融資先の開拓に苦労するようになった。大企業は資本市場から直に資金を調達するようになり、興銀など長期信用銀行は存在意義さえ問われていた。興銀が活路を見いだそうとしたのが、中小企業や個人との取引だった。特に、お金持ちの個人顧客の資産管理を総合的に手伝う「プライベートバンキング」は目玉の一つだった。

 89年、90年に尾上は、興銀などの勧めで、大阪市中央区の不動産5物件を総額137億円余りで購入した。

 「シナプス心斎橋ビル」。ゼネコンの長谷工コーポレーションが89年に建てたが、予定の収益は上がっていなかった。興銀の系列不動産会社の仲介で、尾上はそのビルを38億円で買った。代金は興銀から借りており、当初から年間2億円の損失が出る計算だった。42億円で購入した「オーエヌ第一ビル」も興銀への利払いを考えれば、採算の合わないことは明らかだった。

 尾上の資産を管理する法人として、興銀の手ほどきで株式会社オー・エヌ・インターナショナルが90年8月に設立された。設立発起人の一人には彼の妻の義兄も名前を連ねた。

 興銀頭取だった黒沢洋がこのころ何度か尾上に会っている。頭取就任披露パーティーに招いた。90年8月の夏休みには家族で尾上の店に顔を出した。興銀の生き残り戦略に尾上は位置づけられていた。

 黒沢の部下、大阪支店副支店長だった彼は当時、51歳。肩たたきされ他社へ出向する年頃にさしかかりつつあった。供述によれば、彼には「事業会社へ出向してサラリーマンを続けるより、自分の意思と自分のペースで動ける仕事をしたい」という気持ちがあった。

 尾上の相談に応じているうち、90年秋には、彼の気持ちは、「オー・エヌ・インターナショナルの経営を任されるのなら、それに応じて自分の第二の人生をかけてもいい」と傾いていった。支店長や人事部長に「尾上の資産管理会社をやってもいい」と言い、その意思は頭取にも伝わっていた。

 「尾上は、私の気持ちを知って、『いずれビルを建てて、その一部を社長宅として提供するからそこに住んでほしい』などと私にオー・エヌ・インターナショナルの経営を任すようなことを言っていた。その一方で、『本当に決心してくれるの』などと、今思えば私の決心を止めるような言葉つきをすることもありました」と彼は後に供述している。

 

 ●債務超過

 尾上の金融資産の総額は89年末に6182億円に達した。90年の年明けに株価が急落を始め、その年の末、2650億円の金融資産を保有する一方で、負債も7271億円に膨らんでいた。借入金の金利負担が1日あたり1億7173万円にも上っていた。

 資金繰りは火の車になった。延べ累計額でみると、89年の1年間で1兆1975億円を借り入れて、6821億円を返済し、270億円の利息を支払った。

 債務超過をひそかに穴埋めするため、尾上は、長年の付き合いのある東洋信用金庫の支店長に頼み込み、定期預金証書を偽造してもらって、その証書をほかの銀行に担保に差し入れていた。

 91年8月上旬、興銀の彼にだけ、尾上は、東洋信金の架空証書を担保に入れていた事実を打ち明けた。

 「これはえらいことや。東洋信金の親会社の三和銀行と興銀のトップ同士で話をしてもらって解決するしかない。私が話をしてくる」

 尾上の供述によれば、彼はそう言って、銀行に戻ったという。待っていると、彼から尾上に電話があった。

 「とてもやないが話にならん。『もう顔を出すな。話をしてもいかん』と怒られた」

 その夏、尾上の不正をまだ知らない他の金融機関を出し抜いて、手のひらを返すように、興銀は尾上との縁切りに動いた。無担保状態だと判明した自行の債権33億円分を売り抜けて、33億円を回収した。

 お盆の8月13日朝、尾上は大阪地検に逮捕された。

 

 ●実刑

 2000(平成12)年3月23日、大阪高裁1003号法廷。両手に手錠をはめられ、腰ひもをつけられて、尾上は法廷に姿を現した。こざっぱりと髪を切り、後ろは刈り上げられていた。色香の失せた小柄なおばさんに尾上縫はなっていた。

 86(昭和61)年以降、逮捕されるまでの尾上の借入金の延べ累計額は2兆7736億円。逮捕当日の残高は4691億円で、うち295億円は興銀グループだった。

 92年3月、尾上は保釈され、6月12日、大阪地裁で破産宣告を受けた。98年3月、大阪地裁で詐欺、背任などで懲役12年の実刑判決を受け、再び勾留された。

 その間、興銀は数々の経済事件に登場し、元役員が相次ぎ逮捕された。日本の産業を引っ張った興銀の雄姿はもはやなく、存在そのものが時代遅れになろうとしていた。その予兆であり、象徴となったのが尾上の事件だった。

 大阪高裁は尾上に控訴棄却の判決を言い渡した。

 「大阪の一料亭の女将であった被告人が、いわゆるバブル景気の最中、その資力をはるかに超えて、融資金を利用して取得した割引債や株券、定期預金をさらに担保に入れて借り入れを繰り返し、いわゆる逆ざやを生んで日々、大きな損失を生ずる不合理な巨額の金融取引を行う中で、その資金繰りに窮した揚げ句に行った犯罪である」

 興銀大阪支店の副支店長だった彼は今、興銀から離れて、「次のステップを自分なりに歩んでいる」と言う。彼の話によれば、受け取ったルビーは偽物で、値札の確認はしておらず、また、尾上から犯罪の告白を受けた際、彼は、尾上供述のような具体的なことは口に出さず、「銀行に帰って相談してみる」と言っただけだったという。その後は接触を止められて連絡もしていない。当時、彼の下には別に担当者がいた。一方、融資などの取引は本部にも上げ、役員の了承を得ていた。要するに、彼だけでなく興銀が組織としてやったことだった。

 事件発覚当時を彼は振り返って言う。「私の身で全部を背負ったわけです。私より上の役職者で地検に呼ばれた人は一人もいません」。彼は今、自分に言い聞かせる。「過去の教訓としてこれから生かすということでいいじゃないか」。

 2003年4月21日、最高裁は尾上の上告を棄却した。懲役12年の判決は確定した。

 「不合理な取引」による「逆ざや」の最大の受益者が興銀だった。

 

 ■カネさえ儲かればいいという風潮だった

 尾上縫の破産管財人として日本興業銀行側から170億円を回収した滝井繁男氏に聞いた。

 ――事件についてどんな感想をお持ちですか。

 「当時、管財人として、尾上本人には被害者の側面もあったという印象を持った。金融機関や証券会社に食い物にされた面があったことは否定できない。興銀に抱いていた、戦後日本経済を支えた格の高い金融機関というイメージが壊れた。金額もさることながら、融資先の企業を育てず利息が入れば何でもいいという貸し方。しかも融資の担保を取るのに興銀のワリコーを買わせれば、逆ざやになって融資先が損をするのはわかりきったことなのに長期にわたって続けた。秀才が集まっているはずの興銀で、そのおかしさに気づかなかったのか疑問だ」

 ――逆ざや分の損害賠償を興銀に求めた訴訟は画期的でした。

 「町の金融業者が同じことをしたら、おそらく不法行為責任を問われただろうが、それを大銀行に問うのは難しいという現実があった。日本の司法に、金融機関の融資が不法行為の対象になりうるということの理解を得ることは難しかった。その後広がった貸手責任論も当時、日本ではやっと話題になり始めたばかり。管財人でないと、ああいう訴訟は起こせない。普通の人はそれだけのカネも、力もない。実験という面もあった。敗訴はしたが、しばらくしたら違う考え方が出てくるかもしれないとの思いがあった」

 ――頭取が尾上の店に顔を出したことも疑惑を呼びました。

 「当時の頭取の肩を持つわけではないが、本当は行きたくなかったのではないか。現場の行員から『大収益源だから会ってくれ』と頼まれたのではないか。頭取が通うような高級料亭ではなかった。尾上の話では、株を買った会社の社長らも現場から『大株主ですから』と言われて行った。頭取、社長クラスの名刺がいっぱいあった。尾上の料亭は儲かっていないが、企業トップの来訪は嬉しい。虚栄心だったのではないか」

 ――興銀のコンプライアンスはなぜ働かなかったのでしょう。

 「当時は、カネさえ儲かればいいという風潮があった。興銀は、従来の顧客だった大企業が直接金融で資金調達するようになり、プライベートバンキングに力を入れた。尾上はモデルケースだったが、やりすぎた。あのころは、ビルの一棟買いを持ちかけられた弁護士さえもいた。クレージーな時代だったということではないか」

(敬称略)

 ▽この記事は2004年11月26日発行の週刊朝日に掲載されたものです。

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