月例会報告

3月例会報告 −「サロン2002in岡山」−報告(全体編)

  • 【日 時】2008年3月29日(土)19:10〜21:55
           (その後高知市内で懇親会〜0:00頃/若手(?)はもう1軒〜2:30頃)
  • 【会 場】南国市立スポーツセンター研修室(高知県南国市)
  • 【テーマ】成田十次郎先生にきく−高知・日本・ドイツのサッカーとトリムカップ
  • 【語り手】成田十次郎((財)高知県サッカー協会会長)
  • 【参加者(会員)】牛木素吉郎(ビバ!サッカー研究会) 浦和俊介(株式会社フォーレックス) 高橋正紀(岐阜経済大学) 中塚義実(筑波大学附属高校/サロン2002理事長) 西村祥央(高知県FA事務局次長) 吉村修(高知県FA副会長)
  • 【参加(未会員)名】大塚正洋(南国高知ブランコバレイア) 川原永光(バルドラール浦安) 北村悦子(高知県FA) 窪田英一郎(RKC高知放送) 竹下誠一(RKC高知放送) 武市晃尚(高知県FAフットサル委員長) 谷脇守(高知新聞社) 成田十次郎(高知県FA会長) 野口奈穂実(潟Lュー) 松本一雄(高知商業高校) 山本英作(高知学園短期大学) 傍士和好(自営業) 村上秀人(高知県FA広報委員長) 村上秀二(明徳義塾高校サッカー部コーチ) 森木育悟(鞄本トリム)
  • 【懇親会からの参加者】福川元多賀(高知県FA専務理事)
  • 【報告書作成者】山本英作(高知学園短期大学)
  • 【報告書編集者】中塚義実(サロン2002理事長)
  • 注)参加者は所属や肩書を離れた個人の責任でこの会に参加しています。括弧内の肩書きはあくまでもコミュニケーションを促進するため便宜的に書き記したものであり、参加者の立場を規定するものではありません。

 

成田十次郎先生にきく
−高知・日本・ドイツのサッカーとトリムカップ−
成田十次郎(高知県サッカー協会会長)

<目次>
I.これまで”のあゆみの中から
1.高校時代〜サッカーとの出会い
2.大学時代〜関東リーグ戦優勝、日本代表候補
3.ドイツ留学(その1)〜デットマール・クラマー招聘に際して係
4.ドイツ留学(その2)〜日本蹴球協会改革案(秘話)
5.読売クラブ創設の経緯〜読売、日テレ、サッカー協会、東京教育大
6.高校サッカー選手権大会の首都圏開催〜読売、日テレ、高知人脈〜
II.“これから”の見通し(構想)の中から
1.トリムカップ・レディースフットサル大会の意義と今後の展望
2.日本のサッカーへの提言〜戦術論・組織論・トレーニング論
※月例会の内容・ニュアンスを正確に伝えるため、ほぼ話し言葉で表現してあります。ご了解ください。

“これまで”のあゆみの中から

中塚
ではここから成田先生にいろいろお聞きしていきたいと思います。資料の1枚目をご覧ください。今回は大きく2部構成です。まずは「T.“これまで”のあゆみの中から」というところで、「資料3. 成田十次郎先生略歴」に沿っていろいろとお聞きしたい。後半は「U.“これから”の見通し(構想)の中から」ということで、トリムカップのこと、先生からの問題提起といったことをお聞きしたい。ディスカッションは間にところどころ混ぜながら、あとは場所を変え、水分補給をしながらディスカッション・・・とそんなふうに考えています。一応ここは9時過ぎぐらいを目処にと考えています。
では1枚めくってください。「略歴」のところです。成田先生の歩みを追いながら、ところどころお聞きしたいのですが、1933年1月1日生まれ、高知県の池川町(今は仁淀町)で育ち、池川国民学校を出てから、12歳のときに県立城東中学校(学制がかわって追手前高校)入学ということです。1951年、18歳のときに追手前高校を卒業され、東京教育大学体育学部に入学、その前年に土佐高校サッカー部の創設にご尽力いただいたということです。
まずここで、軽い質問その1です。先生とサッカーの出会いはどういったところなのでしょうか?

1.高校時代 〜サッカーとの出会い〜

成田
はい。これからいろいろ私は裸にされるようですが、牛木さんもおられるし、高知新聞の方々もおられるし、今日私がお話しすることは、こういう場では初めてです。クラマーさんについては中条さんに1対1でお話をしたことがありますが、こういう公的な席でお話しすることは初めてなものですから、できるだけ正確にお話をしたいと思って、これまで外には出さなかった資料などをもってお話をさせていただきたいと思います。くれぐれも、お話をすることには間違いがあるかもしれないし、思い違いがあるかもしれませんから、あまり簡単には外に出さないで、このサロンのほうでコントロールしていただきたいなと思っています。

私は終戦の年、昭和20年(1945年)に旧制中学に入りました。もちろん兵隊、軍人、将校になろうという目的で入りましたから、8月に戦争に負け、勉強意欲を一切失いまして、完全に、今で言う登校拒否児童でありました。ただ、わりあい運動能力はあったものですから、戦争中はもちろん剣道部だったのですが、終戦後はバレーボール部に入りまして、高知県では私たち城東中学はいつでも優勝していました。城東中学というのは、旧制高校がなくなったあとは新制高知高校に変わりましたが、そこでも高知県ではずっと優勝していたのです。
高等学校1年のとき、新制高等学校の第1回サッカー大会が開かれたとき、正選手の3年生が、試合の日と卒業試験が重なって出られないと。それで「お前サッカーの試合に出ろ」と。バレーボール部だったのですが、まあ、当時は非常にのどかなようで、私たちバレーの者もサッカーの者も一緒に遊んでいましたから。サッカーの選手になって第1回新制高等学校大会に私、ウイングで出ました。

中塚
それは高知県の大会ですか?

成田
はい。高知県の第1回大会です。バレーボール部からエキストラで入って、練習を4、5日した記憶があるのですが、そのとき優勝したのです。私が優勝戦で1点入れました。それがきっかけでサッカーを始めました。そのときの写真を今、私は持っているのですよ。私のユニフォームは選手のユニフォームと違います、似ているのですが。エキストラですからユニフォームがないのです。ユニフォームに似たセーターを着て優勝しました。それがきっかけで高等学校1年のときにサッカーを始めました。

中塚
それまではサッカーとは縁もゆかりもなかったのですか?

成田
あのね、僕たち旧制中学の時代はね、クラブはもちろんそれぞれありましたけど、暇なときにはサッカー部の連中と一緒にサッカーのボールを蹴ったり、サッカー部の連中が来て一緒にバレーボールをしたりという状況でしたから、サッカー部の選手とボールを蹴っていました。ときどき。それでたぶん私は上手かったのでしょうね、蹴り方が。それで同級生から「おい、お前エキストラで出ろ」と言われたのがきっかけです。そのくだりは確か、追手前高等学校サッカー50周年記念史か何かに、写真と一緒に報告しています。

中塚
ありがとうございます。この話だけでももっともっと突っ込んでいきたいのですが、そのペースでやっていると絶対に終らないので、略歴に戻ります。

2.大学時代 〜関東リーグ戦優勝、日本代表候補〜

中塚
サッカーと出会い、成田先生は上京されるわけです。1951年、18歳で東京教育大学に入学。そして53年ですから成田先生が3年生のときですか、関東リーグで優勝(28年ぶり、通算2回目)。その翌年、1954年7月に日本代表選手候補。1954年ということはつまりW杯スイス大会の予選で、この年の3月に初めて日本と韓国の試合があり、スイス大会の予選で負け、そういう意味では日本代表も代替わりになったようなタイミングなのでしょうか。
この頃の日本代表のエピソードをお聞かせいただければと思います。

成田
私が教育大へ入った時には、さっき申したようにサッカーを本当にやろうという気持ちはまったくなかったのです。それで、入ったときに私の伯父(母の従兄弟)が体育学部長をやっていまして、大学で部に入るのならサッカー部か体操部に入れと、こう言われたのです。体操はその伯父が、あの小野喬とか、あの連中のいる体操部の部長だったので、自分の部に入れということだったのです。ところが当時、永嶋正俊(後の日本サッカー協会審判部=日大教授)というキャプテンと偶然廊下でばったりぶつかりまして、怖い顔をして「お前は山中っていうんだろう。サッカー部へ来い!」と言うのです。5月じゃなかったかと思うのですが、びっくりしまして。それからサッカー部に行ったら、サッカー部に入れということになったのです。それでいきなり私はね、秋のリーグ戦に出たのです。

中塚
それは1年生のときですか?

成田
1年生のときです、どういうわけか。監督は松浦さん。その時の新聞記録を私は全部持っています。こう書いてあります。たしか東大に1勝だけしたんですね、あとは全部負けたのですがね。教育大は攻めても攻めてもフォワードで「山中弱くまとまらず」と書いてあります。私、山中(笑)。もう朝日新聞にちゃんと出ています。私はその記録を今でも全部持っています。辛うじて1勝だけしたのです。東大はたぶん1勝1分か、2勝くらいしていました。私たちが1年のとき、東京工業大学と入れ替え戦をやったのです。私は半分泣いていましたね。私のところへ来ると入らないんです、新聞に書かれるくらい。それから私はもう猛練習をしました。もう夜も昼もね。
この間、幡ヶ谷寮の記念誌『幡ヶ谷の青春』というものの中に文学部の先輩が書いてあったのですが、僕はその寮に入っておりまして、「・・・山中っていうのがいて、帰ってきたら寮の梁(はり)へボールを吊るして、いつもボールを蹴っていた。あれが後年「成田」となって監督になって優勝した人物かな・・・」とか書いてあったのです。
牛木さんはご存知でしょう、福原という上手いのが僕の1級下に広島から入ってきまして。それが寮に入っていたものですから、夜になると彼を幡ヶ谷寮のグラウンドへ引っ張り出しましてね。夜の練習。昼、ひまがあるとボールを吊るしておいて蹴るのをやって。それで私は対人プレーは下手なものですから、コーナーキックの練習ばっかりしたのです。

中塚
それは蹴るほうですか?

成田
ええ、コーナーキックの蹴るほう。それで優勝した時は、これは新聞に記録がありますけど、「コーナーキックに小細工をして」と書いてあります、新聞にね。それで福原がヘディングをする。私がノータッチで入れたりね。中央大学との優勝戦の時はノータッチでした。

中塚
小細工というのは、インフロントでひっかけてボールを曲げる、ということですか?

成田
そう、曲げてね。それともうひとつは、センターフォワードとかインナーが「おとりとび」するのです、本命は福原なんです。それで福原がボカーンと打つ。大半はそれで点を入れて、優勝して。
あなたが言ったように、あのとき、私は日本代表候補に選ばれたのですが、長沼さん、岡野さんと僕は同じ部屋じゃなかったかと思うのです。すごい選手だなぁと思いましたが・・・しかしね・・・合宿は私の目から見るとあまり立派なものではなかった(笑)。私の目から見てですよ。私としては「これが全日本で将来の日本を背負うのか」という印象で・・・
「サッカー選手をやるべきかどうか」というのは、この合宿で迷いました。まあ、同じ部屋には岡野さんとか長沼さんですから、もう実に上手いし、尊敬もしましたが、私のようなへたの出る幕ではないとも思いました。オリンピックにも行きたいという気持ちは持っていましたけどね、教育大に入ったのですから・・・でも、これで自分の一生をサッカー選手に打ち込むべきかどうかというのは、実はこのときも迷ったのです。

中塚
それはどのあたりですか? これでいいのかっていう疑問を感じたのは。

成田
どうですかね。大学2年の終わりに研究室に入った頃からでしょうか。サッカーが下手だったから。
さっきちょっとお話したことですが、たとえば教育大学で私はウイングをやっていましてね、福原が飛び込んできますとそれに合わせてパッとこう蹴るわけです。それは非常にいいコンビだったのですよ、寮でも一緒に蹴っていましたしね。そうすると先輩に怒られるのですよ。「選手の動きを見てボールを蹴るのは誰だってできる、見ないで蹴れ!」というわけです。戦争中は柔道部か剣道部か、そういうふうな人たちが、終戦後は新制大学ができたから入ってきた、そんな人たちが上にいましたから。何を言っているのだろう、何で私が叱られるのだろうと思ってね、ちゃんと点は入っているのに。
当時のサッカーに対して私は非常に疑問を持っていたし、全日本の合宿を見て、こんなことをやっていてこれで自分は一生サッカーで生きていくのか、打ち込めるのだろうか、どうもちょっと違うなぁという印象を持ちました。
(編集者注:「ドイツのサッカーを見て実にはっきり、自分の頭の中に、体の中にはっきりしてきた」と述べられた(p.10)ように、この頃の悩みや疑問の根源はドイツ留学後にはっきりしてくるが、当時はまだ漠然としたものであったようだ。なお、このくだりについては「こういうところであまり言ってはいけないことですが」と慎重に、言葉を選んで話をされたことを付記しておく)

中塚
さて、ここまでのところで何か補足もしくはお聞きしたいことはありますでしょうか。牛木さんもその頃の年代で、東京大学でサッカーをなさっていたのですよね。

牛木
そうです。今、成田さんは謙遜しておっしゃったのだろうと思うのですけど、成田さんは名選手でした。
当時は旧制中学に入って、途中で新制高校になってという年代。旧制中学から入ってきた東大でもレギュラーになるような人たちは、皆、サッカーの名門中学から入ってきたのです。例えば、浦和中学/浦和高校、あるいは湘南中学/湘南高校、教育大附属中学/教育大附属高校というふうなところから入ってきたのですが、山中さん(成田さん)はそうではなくて、サッカーの名門中学出身ではなかった。高校になってからサッカーを始めてあんなに上手くなったのだからお前らも下手(?)だけどしっかり練習しろ、と(笑)。見本にされていたんですよ。
僕が4年生のときに成田さんが東大の大学院に入って来られた。それで、浅見というのがキャプテンだったのですが、「山中さんが東大へ来たのだからコーチをしてもらおう」と言うんで御殿下グラウンドへ来てもらったことがあるんですけど、あまりにも下手なレベルで(?)あきれてもうやめられてしまった。(笑)

成田
それはありえない、それはない(笑)。当時の東大はね、私が試合をしたのは東大LB。日本の黄金時代、早稲田WMW、東大LB、慶応BRB、この三つが御三家でした。私たちが入ったときにはもう東大にはそうそうたる全日本の、今でも覚えていますね、大野さん、岡野さんなど名選手がいまして、東大LBは非常に強かった。中条さんもメンバーでした。中条さんも旧制高校で優勝した経歴をもった方でした。

牛木
そうです。大野さんというのは旧制の水戸高校出身でした。それで中条さんは旧制の広島高校出身で、旧制の最後のインターハイで広島が2年連続優勝したころのセンターフォワードです。当時のセンターフォワードは、今と違ってほとんど固定しているポジションでした。

成田
今申しましたとおり東大LBは非常に上手でした。(さきほどの牛木さんのお話こそ)ご謙遜です(笑)

3.ドイツ留学(その1) 〜デットマール・クラマー招聘に際して〜

中塚
はい、ありがとうございました。略歴のほうに戻ります。今、牛木さんからフォローしていただいたところが1955年の、大学を卒業されて東京大学大学院に入学されたというそのくだりです。その後、博士課程のほうに移られ、そして成田十次郎となられ、1960年の博士課程満期退学の後の4月から第1回海外研修。・・・これは全部、成田先生の退官記念の本から略歴を引用させてもらっているのですが、・・・いよいよここで海外、ケルン体育大学というよりケルン・スポーツ大学でしょうか、ウィーン大学留学、そして西ドイツ・サッカー教師養成課程、ここで日本蹴球協会の仕事を担い、デットマール・クラマーさんへのアプローチということになるわけです。では、この前後のことをお願いします。

成田
はい。多勢の前で話すのは初めてですから、ある程度の資料を持ってまいりました。私が行くきっかけは、大学院の最後の年に、1964年の東京オリンピック開催が決まったものですから、ドイツからカール・ディームという、1936年ベルリン・オリンピックの事務局長、聖火リレーの実施者、戦後のケルン・スポーツ大学の創立者、まあスポーツマンとしては非常に著名なその方が日本へ来られまして、東大の大学院でならっていた加藤橘夫さんが「今度来るぞ。お茶の水で話をするから行け」というふうに言われまして。

中塚
お茶の水女子大ですか?

成田
お茶の水女子大です。それで終ったときに、これが私の本当にもう恥ずかしいところなのですが、単身でカール・ディームさんのところへ行きまして、「実は私はドイツ体育史を勉強しているのだ、招待してくれ」と。招待してもらわなければ行けませんでしたからね、当時は。招待してくれないかと言うと、その場で「よし。奨学金をやるからぜひ来い」というふうに言われました。
そして、間もなく招待状が届きまして、それを持ってドイツ大使館に行き、5〜6人のドイツ大使館館員の前でドイツ語の試験を受けました。全部ドイツ語ですよ、もう全部ドイツ語だったのですがね。私はちょうどそのとき三笠宮殿下とご一緒に軽井沢で、ドイツ帰りの日本婦人でしたけど、全部ドイツ語で生活をするというひと夏を過ごしていたものですから。三笠宮殿下は国際オリエント学会の会長で、ドイツで会議があるからドイツ語で演説をするっていうので、そこへ勉強に。それで二人で一緒に、身振りを交えてドイツ語を。だって日本語を使えないんですから。そんなことをやっていたものですから、まあ何とか受け答えができて、「行ってよい」と。
で、ドイツへ体育史の勉強に行くということを決めて準備をしていたら、直前(・・・4月に私は行ったので、4月3日に出て4日に着いたのですが・・・その直前)に小長谷亮策理事が(・・・これはもうお話をしましたから、中条さんが多少書いていると思うのですが・・・)「原宿にある南国酒家に来るように。」と、ただそれだけです。「話はそこでする。」ということで私、3月だったと思うのですが、南国酒家へ行きましたら、竹腰理事長さんが居られました。加藤橘夫さんは怖かったけれど、竹腰さんどうでしたかね。

牛木
竹腰さんは、その頃は大分やわらかくなっていました。(笑)

成田
竹腰理事長さん、小野卓爾専務理事・・・中央大学のね、それから農業大学の見目理事に、小長谷理事と、みんな常務理事です。理事長が竹腰さんで。それで「ああ、よく来た」と。いきなり竹腰さんがですね、「ドイツへ行くそうだが。ドイツに行ってサッカーの勉強をするのなら、協会で費用を持つよ」と。「応分の費用を持つよ」、と言われました。「助かる」と思ったのですが、残念ながら私はもう体育史の勉強でディームさんのところへ行くというふうになっておりましたので、「私、体育史で行きます」と。「そうか、いやわかった。それでは、ひとつドイツへ行ったらコーチを招いてくれ」と言って渡されたのがこの・・・名鉄航空サービスというこの紙切れに、竹腰さんが「こういう人を呼んできてくれ、条件はこうだ」ということを書いて私に渡しました。

○JFA専属。主としてナショナル・チーム、アマチュア。ユース・ナショナル、アマチュア。その他、単独のチームのトレーニングをする。
○契約は2年+1+1+・・・2ないし5年。
○芝生のフィールド無し。
○自分でも模範を示す活動力。年齢的に若いトレーナー。
○英語を多少ともわかる人が望ましい。
○人柄。
○俸給1ヶ月約20万(500ドル以下)。独身5万円/月・・・独身の場合、1人で来れば5万円であれば日本で生活できる、という意味です。2人であれば7万円と。
これだけの条件を書いて、私にこれを説明したときにですね、特に2つのことを加えられました、1つは、日本の代表選手と一緒に走り回れるような、「選手上がり」と言ったのかもしれません。ま、選手と一緒に走れて自分が手本を示せるような若い、活動力のあるトレーナーと。これはここにはっきりこう書いています。「年齢的に若い」、それで「自分でも模範を示す活動力」のある「年齢的に若い」という、そういう人を呼んでくれと。2つ目は、クリスマスの帰国する費用を協会がもつということでした。

中塚
先生、このメモはそのときのメモなのですか?

成田
そうそう、南国酒家で私が手渡されたもの。私はこれを持ってドイツへ行ってドイツ協会事務局長のパスラックさんという人に会いましたから、まさにこれはノコさんの字です。ノコさんってご存知? 竹腰先生のことです。私は竹腰先生から手紙をもらっていますから。竹腰さんの字です。名鉄航空サービスが、この当時はサッカー協会の旅行を手伝っていたと聞いています。

牛木
いやぁ、それはわかりません。

成田
中条さんがそう言っていました。

牛木
ああ、そうですか。

成田
「あ、これ名鉄航空サービスへ書いたの、わかるよ」と。中条さんはそのとき、日本チームと一緒にマネージャーで来られていましたから。そういうこれをもらってですね、で、ドイツへ行ったんです。
それで加藤先生からご説明も聞いていたのですが、当時日本の体育家は、アメリカへ行く人はいたけどドイツへ行く人はいなかったのです、当時は。ましてやスポーツ関係者では。だから、「ケルンに行かないと勉強はできないよ」というふうに言われてケルンのディームさんのところへ行ったのですが・・・。なかなかね、チャンスがなかったのですよ、サッカー協会へ行くチャンスが。だってお金がかかりますからね、フランクフルトまで行けば。あの頃は割り当てのお金をもらわないと、ドルは買えませんでしたからね。とてもそんな、もうお金がないので「困ったなぁ」と思っていたし、ケルン体育大学のカリキュラムを見たら「サッカー教師養成課程」があるじゃないですか。びっくりしましてね。「これはしめた」と思ってそれに申し込み、授業を受けた。いろんな学ぶことはありましたけれど・・・。ひとつ間違って書かれているところがあるのです。私は最後の試験は受けていません。「資格を取れ」というふうに言われたけどね、むこうで。もらわなかった。
あの、これはちょっとキザな言い方ですけれど、私は全体としてですね、あまりサッカーに深入りをしておりません。きっかけは私、ずいぶん頼まれたことはやったのですがね。理由は、ひとつ大きいのは、私はあっちこっちやると自分の能力がないということがわかっていますから、体育史の勉強をやるのでも精一杯なのに、そのうえにサッカーをやるというのはもう、大学の3年の頃から、東大の大学院へ行くということを決めたときから「六分四分の両立論」というのを作って、・・・ま、今思うと残念なことをしたと思うのですけどね、・・・サッカーを優先順位1位でやるということはできない。これがひとつの理由。もうひとつの理由は、教育大学には、ご存知のようにサッカーの専門家が何人もいるのです。筑波にも3人か4人いますが、幡ヶ谷にはもちろん球技研究室というのがあって、サッカーの専門家は多和先生、そして助手とかいましたから、私はあまりサッカーにタッチするとあまりよくないのです、人間関係がね。ですから、サッカーにはあまりタッチしないで来ました。
まあ、とにかく若いときは勉強なんぞしないでサッカーばかりやっていたのですから。「大学時代、一番時間をかけたのは何か?」と言われたら、やっぱりサッカーです。率直に申しまして。高等学校2年生からはね、ずっと。だからサッカーというのはありましたが・・・職業上は、私は体育史の研究室ですからね。サッカーは専門の先生がいますから、邪魔になるでしょ、私がいろいろとやるとね。そのこともありました。それから自分の能力からいって「2つをこなすということはできん」という妙な意地を張りましてね。
中条さんにお話をしましたが、私はその前年に日独陸上競技相互交流が始まって第1回の西ドイツ陸上競技団が来たのです。私は鈴木良徳さんという陸上競技協会の方に頼まれて通訳をね、ずっとやりまして。高知にも来ましたよ、チームを連れて。ずっと一緒にやった。その団長がゲルト・ホルンバーガー、かつての名ジャンパーなのです、ドイツの。その方が、僕がドイツへ行く前に手紙をくれて、「ぜひイースターのときに遊びに来い」というふうに言われまして、それでイースターのときにずっと南のフランスとの国境のヴァルトフィッシュバッハへ行って、それでそのときふと、向こうの協会の役員ですから、「実はこういうことで私はドイツからコーチを呼ぶことを依頼されている」と言うと、「それはいい!」というわけで、西ドイツ・サッカー協会の事務局長、パスラック氏にサッと電話をして「何月何日に連れて行くよ」という約束を全部してくれた。その日の朝、メルセデス・ベンツというのに初めて乗りましてね、フランクフルトまでそこからパッと。それでパスラック氏に会って・・・。この間の記録はですね、私は野津会長に全部報告をしておりまして。野津会長から詳しい手紙が、・・・今残っているものはこれだけです、・・・あの方はもう本当に丹念にね、これ自筆です、これ全部。もう頭が下がりますけどね、全部自筆で。
そのうちに、ミュージアムにでも入れなきゃいけないと思います。

牛木
ぜひお願いします。

中塚
これは、ものすごい記録ですね。

成田
詳しい手紙が来て、私も詳しい手紙を出しました。竹腰先生からは「チームを連れて行くから・・・」という手紙が来て、竹腰先生も細かい手紙をくれました。それから、「岡野さんが勉強に行くから世話をするように」とかね、詳しい手紙が一杯来まして。実は、私は母にですね、日記の代わりに毎日の自分の行動を全部送っていたのです。そうすると母は、明治生まれのお茶の水の教授ですから、また丹念に私の手紙を全部写しているのです、大学ノートへ。もちろん私の手紙も残してありますよ。だけど全部写してありますから、これを見ると私が何月何日に西ドイツのあそこへ行って、パスラック氏に会って、で、そこでお弁当を作ってもらってケルンへ帰ってきたというのが全部書いてあります。ですから、割りあい正確に当時の記録が残っておりますので、ま、ゆっくり、もし必要な場合には確認をしたほうがいいというふうに思っております。
それで、野津さんからの手紙にも書いてありますが、私は逐一報告をしていたのですが、野津さんがクラマーに対して、クラマーの件を私が報告して、それに対して返事が来たのが5月27日の手紙で、初めてクラマーという名前を野津さんが手紙に書いてきました。「5月13日付けであなたの手紙を拝見しました。貴君の云々・・・」というのをずっと書いてあります。前々から、ドイツのサッカーの指導者養成の仕組みとかそういうことをしっかり勉強して報告をしてくれということをずっと書いてあったのですが、それで自分は今度ローマに行く、と。それから、日本チームをドイツへ送りたい、と。その世話をしなさい、というふうなことが全部書いてあります。で、野津会長は、私の手紙は全部理事会に報告しておりますと書いてあります。
ここにはハッキリとは書いていないのですが、あとで聞くところによると、私が報告したこのクラマーの経歴を見て、日本協会はあまり賛成ではなかった。そりゃそうです、竹腰さんから頂いたこれとはあまり合っていないのですよ。第一、年が35歳でしょ。背は低いでしょ。かつての名門チームにはいないでしょ、あのクラマーさんという人は。だからこの条件にあまり合っていないのです。だから私は「ま、おそらく反対・・・」ということを思った。
私自身はこのとき初めて、日本代表候補として合宿をしたり日本の教育大学でサッカーをしていたときの自分の疑問というものが、ドイツのサッカーを見て実にはっきり、自分の頭の中に、体の中にはっきりしてきたのです。要するに、「古い経験で日本はやっている」ということなのですね。先輩たちは皆、上手いんだけれど。ドイツの講習会に参加したり、クラマーの本を読んだりして、実によくわかるのです。実に合理的なのですね。そして非常に学習意欲が旺盛なのです。これは、ゆっくり話せば限りがありませんけれど・・・。西ドイツの合宿に私は行ったのですが、非常にビジネス・ライクでね。非常に合理的なやり方をするし。
それから、とくにドイツへ行って体育教員養成とかサッカー指導者養成で一番驚いたのは何かというと、「日本の体育やスポーツの世界には、体育の理論(科学理論)と実技実習というのはあるけれども、方法論がない」ということなのです。これは教育大などもまさにそうですよね。生理学は教えます。サッカーのインステップキックはこうだと教えます。でも、そのインステップをどう教えるかという方法論がない、私は一度も習ったことがない。で、向こう(ドイツ)は全然逆なのです。体育学科でも、サッカーの指導者養成でも。例えばパーセンテージから言いますと、半分以上は方法論なのですよ。理論と実技をつなぐのが方法論で、これが大事だと言う。これは体育教員養成課程がそうなのです。
私が参加したサッカーの講習会(担当)はヘルベルガーからバイスバイラーに移ったときでした。ヘルベルガーはまだ僕がいたときにはナショナル・チームのコーチをしていました、その合宿にも出席しましたが、ヘルムト・シェーンが副監督でね。ケルン大学のサッカー指導者養成課程では・・・ここを通らないと指導者にはなれませんからね、向こうでは。プロチームの監督にはなれない・・・。
私はこういうテーマを出されたのです。「ここに6歳から7歳の男の子が10人余りいます。初心者です。彼らにヘッディングを教える。あなたならどうやって教えますか」というのが課題なのです。ヘッディングのやり方はこうですよ、というのは日本ではある程度習います。でも、実際の初心者にヘッディングをどう教えますか、ということは、私は教育大学では習わなかった。もちろん、サッカー部なんてところで習うことはない。ところが向こうでは授業の大半が、教員養成課程でもサッカー課程でも、方法論なのですよ。私はもう「これだ!」と。自分でモヤモヤしていたのは、日本の指導者は技術を教えるが、指導者はどう教えればその人が上手くなるかなんてことは少しも考えていない・・・というのが、どうも私にはね。私のほうも教師根性ですから。
それで私は、「こういう人が今の日本には必要ではないか」と野津さんには繰り返して、「指導者は方法論を持っていなければいけない、哲学を持っていなければ」と。ま、私も20代でしたから。・・・牛木さん、お笑い下さい・・・。まだ若かったですから。それで、こういう人こそやっぱり日本のサッカーにとって実は重要だということを本当に切々と書き送ったのです。その返事は全部来ていますけどね。「よくわかった。君の言うクラマーでいい」と手紙には書いてあります。「だけど、決定は僕が行ってやる、ということにしましょう。そのような準備をして下さい」というふうに野津さんは私に書いておりました。
それで、野津さんはローマ・オリンピックへ行く前にアジアの国際会議に寄ってそのまま(ドイツへ)来まして、私は(野津さんと)日本チームが来る前に4日間一緒にいて、クラマーを紹介して会うわけですが。その劇的なあれはもう、皆さんご存知だと思うのですが、「見るのは目じゃない」とか、「聞くのは耳じゃない。心なのだ、精神なのだ」と書かれた額がシュポルトシューレにあった。野津さんはそれをひと目見て「これだ!」と言いましたね。「これなんだ!」というようなことを言いました。私は今でもよく覚えています。
野津さんを私はもう非常に尊敬しているのです。純粋で、実に外交的手腕がありました。私はローマへ行ってびっくりしたのですが、野津さんが行くともう皆が敬意を表しましたね。あんな人はもういなかったですよ。あの時分に海外へ行って、尊敬されている日本のスポーツ代表なんていなかったですよ。だけど、野津さんは非常に尊敬されていました。ドイツではもちろんですよ。ペコ・バウベンという、・・・戦前FIFAの重要な役割をした審判、FIFA国際委員をした人で、戦後には西ドイツ・サッカー協会の会長になりましたが、・・・呼ばれて私は野津さんと一緒に食事(の招待)を受けるのですが、非常に尊敬をしておりました。野津さんは、東洋的だったのですかねぇ。ハーバード大学ですよね、勉強は。ハーバード大学医学部ですよ、東大の医学部を出て。だけど何か経絡とか東洋医学とかに興味を持っていて、おそらく東洋哲学みたいなものに関心を持っていたのではないでしょうか。それで、デュイスブルクのあれを見て「これだ!」と即決ですよね。「決めた、任せとけ!」と・・・そんな汚い言葉では言いませんよ。「理事会へ帰って彼を招くようにします。君はそのつもりでクラマーさんに、日本チームの指導をしてもらうように、準備やその他をしておいてくれ」というふうなことでクラマーさんに決まったという、ここだけのお話ですけどね。

4.ドイツ留学(その2) 〜日本蹴球協会改革案(秘話)〜

成田
これは誰も書いていないでしょうけどね・・・私のね・・・「日本蹴球協会改革案」というのをね(笑)。
協会改革の主張というのを野津先生に送ったのです。もうね、これはまだ私はよう出さんですけどね、個人名まで書いてあるし。要するに、日本チームがクラマーさんのところにいる間、僕はずっと通訳をしていましたが、「こんな恥ずかしいことはない」という、・・・ここだけですよ!(笑)・・・中条さんはそのことを知っていますけどね、これは僕、野津会長さんに手紙に書いたのです。「日本の監督は、団長である方といつも喧嘩をしている。こんな協会では、日本は将来まったくダメだ」と。で、「私ははっきりとお書きします」とありましてね、「1、日本のサッカー指導者を一新しないとダメですよ」、ということを書いてあります。「2、日本のサッカーの指導者は他に学ぶという謙虚な気持ちを持っておられるのだろうか、と疑問に思います」と書いています。要するに、指導者をもう全部替えないとダメです、ということを書きました。「3、技術指導に関しては、日本は非常に遅れてしまった感がいたします。ヨーロッパでは日々進歩するサッカーのレベルをうなずける優れた指導が十分研究され、指導されています。ヨーロッパ大陸では国際的なゲームや研究会や指導者講習会がしばしば行われている関係で、相互に深い類似性が見られ、日本ももっと統一的な指導体制、いや、技術の指導システムを作らなければなりません」。それで、こんなことも書いてあります。「まず、コンディショニング・トレーニングが十分に行われ、サッカーに必要な基本的身体を作らないとダメですよ」と。「これは技術と同様に、十分今後研究されなければいけません」。それから技術指導に関しては、「基礎的な一般技術と、各ポジションの特殊な技術、それとコンビネーションの技術指導をきちっと作らなければならない」(笑)・・・。ま、そういうことで、私は今こそ日本のサッカーが立ち上がる好機会だと思います。そのためには何よりも協会の役員方は、単に役員のみでなく在野の方々、関西や地方の方々を集め、膝を交えて協会の組織と人に関して語り合うべきですとかね(笑)、そして十分に見通しの立つ組織と信頼できる人とを配置して、謙虚に協力し合うことが大事である。それ以外に日本の協会を救う道はないと思いますとかね。それから、技術・経験のある人々、あるいは今の代表選手などと謙虚に技術の問題を話し合って、日本に適した技術指導のバイブルを作り上げるように努力しないといけません。最後に、謙虚に話し合い、他人を尊敬し合って協力する以外に大事なことはないと思います。そのような場所と機会を野津先生がぜひ作られますことを切望しております(笑)。
私はまだ20代でしたからね、こんな大それた・・・。

中塚
これは1960年(の手紙)ですか。

成田
60年です。この返事が10月13日に野津さんから来ています。返事を見ると、「君の言うことはよくわかった。」と書いてあります。岡野さんや浅見さんをドイツへ送って勉強してもらう、ということを考えています。通訳がサッカーを知らん、ではダメだから、ということです。本当の指導者を皆の力で出さなければなりませんが、それには井の中の蛙の小競り合いをしていてはダメです。協力的な雰囲気を作り出すことをしなければいけませんとかね、私が手紙で書いたことに対しての返事を10月13日付けで書いてくれまして。
その後の手紙にもですね、「とにかく早く帰って来い。帰って来たらクラマーと一緒に日本協会を改革してくれ」というふうな手紙が何回かやり取りされています。私の就職まで、野津さんはずいぶん竹腰先生に相談したり、日体大の栗本学長に相談したりしてくれています。ま、詳しい話は別として・・・。
私が何か貢献したことがあるとすれば、・・・やっぱりあのクラマーさんに固執したのは「教師根性」だったんですね。今の日本のサッカーには、協会が呼びたいというような、選手上がりの若い、選手と一緒に走るような人物ではない、と。「指導力とサッカーに対する哲学をしっかり持った人を招かないといけない」という私の思いは、結果として、クラマーさんで成功したのではないかと。ま、ちょっと年をとったので若干、私としては嬉しいなというふうに思っております。日本チームに対するクラマーさんの指導に対して、高橋さんの対応には、通訳として困りました。あの日立の高橋さん、それはもう無理もないことだと思いますけどね。協会は高橋さんをヘッドにその下でコーチをしてくれるような若い人、模範を示すようなね、そういう気持ちだったと思うのですね。「クラマーのやっていることなんか、われわれはとっくにもうやっているんだ。そんなことはわかっているんだ。そんなこと必要ないって言え!」というのですよ、それってどうやって通訳しますか。もう、この通訳は胃が痛かったですね。でもね、クラマーはもう全部わかっていたんです。中条さんのに書いてあるように、「私を嫌いなようですね」と。試合前に私を呼んでね、「君は監督じゃないから選手にこういうことは言えないかもしれないけれど、こういう気持ちをクラマーが持っているということを選手には伝えてくれ」と言うのです。僕は伝えられないでしょ、監督がいるのだから。もう、大変でした。それが、さっき言った日本チームが帰った後、野津さんに「協会を抜本的に変えないと日本はどうしようもありませんよ」という手紙についついなったのだと思います。
で、中条さんも・・・私、非常にウマが合ったのですが、・・・彼も私に手紙をくれて、私の改革案というものに当時賛成していますよ。なかなか中条さんも改革については、「日本のサッカーがなかなか脱皮できないのはここらあたりに問題があると思います。また、このような古臭い奴らをクビにしない限り、日本のサッカーは強くなりません」と(笑)、なかなか中条さんも激しい。何日付けかな、ちょっと調べればわかります。11月14日付けです。
ま、そういうわけで、クラマーさんをお呼びすると(いう運びになりました)。

中塚
今、成田先生にお話しいただいた中にところどころ出ていますけど、元朝日新聞の中条一雄さんがクラマーさんにもインタビューされ成田先生にもインタビューされたものが、牛木さんが主宰されている「ビバ!サッカー研究会」のホームページにかなり長い連載で紹介されています。お手元の資料には5ページのところから「成田十次郎氏の努力」ということで掲載してあります。あとであわせて目を通していただければと思います。
牛木さん、ここまでで何か補足がありましたらお願いします。

牛木
私のホームページに中条さんに連載していただいたのは50何回で完結しまして、そしてまたそれを印刷物の本にする作業を今、私のところの事務所で・・・私のところの事務所は編集プロダクションなのですが・・・やっております。6月中には出版したいというふうに書いてあります。ただ、中条さんが全部書き直したのですが、あれをまた全部書き直したので、もう僕はハラハラしてました。できるのかどうなのかな、と思って。でも、原稿はもう脱稿しましたから、あとは編集作業ということになっております。
(編集者注:中条一雄著『デットマール・クラマー−日本サッカー改革論』がベースボール・マガジン社から、2008年8月18日に発刊されました)
今のお話で、ちょっと僕も補足したいのですが。これは非常に貴重な話でして、今は名前を出せないものもあるのかもしれないけれど、資料はどうかお捨てにならないでサッカーミュージアムへ寄付していただきたい。今日のサロンの報告のほうにも、こういう海外からの手紙を出したとかそういう事実は書いておいてもらうようにすれば、後世の人がこういうのもあるんじゃないかと調べる手掛かりにもなりますから、非常に貴重な話だったと思う。
で、僕の個人的な印象を言えば、日本がローマ・オリンピック予選で負けて、外国人のコーチを呼ぼうという動きがあって、それは相当、協会のほうでは賛成しない動きだった。協会の一部で強い反対意見があったようです。そのころ関西の新聞記者の岩谷さん、大谷さんは外国人コーチを呼ぶべきだという意見でした。これはもう皆さんからするとひどい話だと思われるでしょうが、ローマ・オリンピック予選で負けた後、新聞記者は総評というのを当時は書くのですが、そのときに大阪朝日の大谷さんが、東京読売のぼく(牛木)に電話をかけてきて「外国人のコーチを招くべきだという内容を総評の中に入れろ」と。他の新聞社の記者に対して指示しているわけですよ。それで、たぶんお読みになったらわかると思いますが、岩谷さんも大谷さんもその当時、外国人コーチを呼ぶべきだと書いている。僕は非常に曖昧にしか書いていない。協会の中で反対する人がいたわけです。誰が反対していたのかというと、それは一番強硬だったのは川本泰三さんで、そして竹腰さんだったと推測しています。

成田
あ、そう・・・

牛木
賛成していたのは、野津さんと小野卓爾さんです。だけど今、成田さんがおっしゃった南国酒家の会には竹腰さんは出て来られたから、そこのところではもう野津さんに説得されて推進派のほうに回ったのだろうと思います。川本さんだけが頑張っていたのだろう、と僕はその当時は思っていたのです。
ところが今のお話を聞いているとですね、やっぱりその条件というのはね、成田さんに渡した条件のようなものは竹腰さんにしてみれば「自分たちでもやれるけど、お手本は示せないから、お手本を出来る奴をよこせ」というようなもので、自分たちが主導権を持とうという意図が残っているのではないか、と思うのです。野津さんは非常に単純純粋なかたですから、もう外国のコーチを呼ぼうということを言ったときに自分でドイツに決めているのですよ。いろいろな意見があるのですよ。日本人は英語のほうが達者だし、とくにイングランドはサッカーの母国だから「英国から呼ぶべきだ」という意見もあったし、ブラジルは当時世界で一番強いわけですから「まあ、ブラジルから呼ぶべきだ」という意見もあったのです。だけど、もう野津さんは一番最初から・・・昔のお医者さんというのは、皆ドイツ語をやるのですよ・・・だからそれもあって、それからベルリン・オリンピックとかそういう思い出もあって、もうドイツに決めちゃってる。
クラマーさんたちから僕らが聞いた話と成田さんから聞いている話とでは、時間的にうまく合わない話があるのです。それはなぜか、・・・僕の考えですよ、それはなぜかというと、野津さんは、ノコさんなんかが反対するから自分で勝手にドイツへ手紙を出しているのです。ドイツのサッカー協会会長宛に手紙を出して、その手紙がヘルベルガーのところへ行って、ヘルベルガーは自分の弟子のヘルムト・シェーンとバイスバイラーとデットマール・クラマーの3人の中で「クラマーが一番向いている」と言って、もうクラマーに決めているのですよね。だから、ドイツのほうでクラマーを決めた時点と、クラマーがいいと言って野津さんや成田さんが日本協会を説得しようとした時点との間では、うまく辻褄が合わない。辻褄が合わないのだけれども、それは別々にやっているからなのですよ。それで結局、クラマーさんが来ることになって、それは成田さんがおっしゃったように非常に、野津さんや成田さんや、それからお金の面では小野さんが頑張ったところで、「日本のサッカーは救われた」と言ってもいいと思います。それが、ひとつの問題。
もうひとつは、今の「日本蹴球協会の改革案」というのはまったくもっともなことで、実は1970年代に、・・・これはまたあらためてこういう会で話してもいいのですが・・・簡単に言えば、ベルリン世代の人たちを追っ払うためのクーデター計画みたいなものをやったのですよ。それで、・・・またそのことを言うと「新聞記者は何をやっているのか」と言われるのかもしれないけど、新聞記者の分際でありながら(私は)クーデター計画に加担していたわけです。

成田
1970年ごろ?

牛木
1970年代。それはね、・・・これはクラマーさんなのです。クラマーさんが「日本サッカーへの提案」というのを書いて、あの人は協会で発表したり選手たちに言ったりしたわけではなくて、クラマーさんが僕のところへ「新聞記者を集めろ」と言って来るのです、僕は幹事役だから。で、集めてそこでまたやったわけです。「今のサッカー協会ではダメだ」という、もう成田さんに先見の明があって、クラマーさんが提案する前にもう同じことを書いているということを聞いて、これはすごいなと思いました。
そのクラマーさんの提案を受けて、歴史的に見れば実業団、日本リーグの人たちが主として改革を推進して、・・・一番の黒幕は重松良典さんだったのではないかと、ぼくは推測しています。

成田
慶應の?

牛木
それで結局、1972年に日本サッカー協会が法人化される。法人化されるときに「古い人たちは皆辞めさせよう」という話になったのだけれども、そのまま居残ったのですね。それで、76年の次の改選期に今の岡野・長沼体制に変わった。今のお話はそういう、・・・10年遅れたな、と。成田さんの手紙のときにすぐやっていればよかったんじゃないか、と。だけどクラマーさんが来たのは非常に幸いだったと思います。

成田
ちょっと、ひとつコメントね。あのね、今でこそここで言いますけれどね、平木さんと高橋さんが(ドイツに)残ったのですよ。それで私が2人を連れてずっとドイツのサッカー、全ドイツ・サッカーの合宿とかずっと全部周ってシュポルトシューレとか見たのです。で、別れるときに平木さんに、・・・高橋さんが横にいるからコソッと行って、・・・「私はクラマーさんに、『日本の協会を変えなきゃいけないと思っているから、日本へ行ったらまず古河電工の長沼さんのところへ行ってくれ』というふうに言ってありますよ」と。・・・そりゃ、高橋さんには言いようがないので・・・「平木さんにだけはこのことを言っておきますから。クラマーが日本へ行ったら古河電工の長沼さんを訪ねるから、そのときはよろしく頼みますよ」と、そういうことを私ははっきり言ったのです。それをもう平木さんは覚えているかどうかね・・・。

牛木
平木さんは、たぶん覚えています。ただ、残念ながら平木さんは・・・倒れて、今ちょっと・・・記憶がもうないと思います。

成田
ああ、そう。・・・私はね、その時「長沼・岡野・平木体制というのが私は一番、これからは日本では望ましいと思います」とクラマーさんにはそう言ってありました。だから、「平木さんにはそのことだけは頭に入れておいてほしい」と。「クラマーさんがそのように動くと思いますから、行ったらよろしく頼みます」と、そういうことを言ったのです。

牛木
これも成田さんのほうはクラマー自身よりも、・・・クラマーは日本を知らないから仕方がないけれど・・・2年くらい早いです。クラマーが僕に「長沼をちゃんと使うべきだ」と言ったのは、新潟で実業団選手権があって古河電工が優勝したときなのです。長沼さんが決勝の1点を入れたのですけど、「ああいう人が必要なんだ。上手くないかもしれないけれど、人を惹きつける力がある」ということを僕に新潟のスタジアムの所でガンガン言いましたよ。成田さんはそれより1年前に言っているわけですね。

成田
全日本の合宿をしたとき、長沼・岡野さんと僕は同じ部屋だったと思うのです。平木さんはもともと名プレーヤーで、私は左のウイングで彼は右のフルバックだからしょっちゅう当たっていますから、平木さんの人間性というのは非常によく知っていました。「長沼・岡野さんは、たぶん、これからの日本を背負うんじゃないかな」と僕は直感的に思って、それが延いては「私が出る幕じゃないよ」と、私みたいな経験のないチンピラが・・・。若干、それが影響しているのです。だから、野津さんからもノコさんからも「(ドイツへ)行ってサッカーの勉強をして来い」と、「帰ったら日本のサッカーを頼むよ」というふうなことを言われたけれども、私はもう全然。私の頭の中にあるのは、長沼・岡野・平木体制。それはクラマーに言ったのです。

牛木
クラマーさんは陰でそういうことを言っていて、結局、長沼・岡野・平木体制になったのは、それから2年後のアジア競技大会で日本代表チームが完敗したあとです。それで高橋さんが辞めて、長沼・岡野になった。
また僕が聞いた別の話もあってですね、それは選手たちがもうついて行かなくなっていて、そして選手たちがアジア大会の後、羽田に着いて降りてきたときに、古河電工の西村章一さん(古河電工サッカー部長)が迎えに行ったら、そこへもう亡くなった渡辺正が降りてきて「ロクさん(高橋さんのあだ名)じゃダメですよ、代えて下さい。長沼さんしかありませんよ」と言ったというのですよ。だから、・・・まあ、ひとつの流れがだんだん今のお話で非常にわかってきた。
ただ、ちょっとここで初めて聞く方々のために申し上げておくと、じゃあロクさんが非常にダメな指導者だったか、あるいは不勉強な指導者だったかというと、そうじゃなくて、非常に勉強熱心で、そして一生懸命にレポートも書く方だったのです。出身校の早稲田の工藤さんからもそれほどのサポートをされていなかったにもかかわらず竹腰さんが自分の後継者に選んでいたのです。東京の第3回アジア競技大会で敗れたあと、川本泰三さんが監督を辞めたあとです。
そのころの僕の印象では、竹腰さんは「平木を将来、日本の指導者の中心にしよう」という気持ちだったと思います。

成田
私は、若干それはこの手紙から推察しました。「ロクさんと、平木さんを残す」と、「ドイツで勉強させてくる」と(書いてあります)。僕はもうはっきり「ロクさんじゃダメ」ということを野津さんには書いていたのですけれど、「なかなか難しい問題がありましてね」と書いてあります、野津さんからの手紙に。

中塚
ありがとうございます。成田先生のあゆみを探るシリーズ・・・まだ成田先生は20代のお話です(笑)。
ですけど本当に、当時の方々が早熟なのか、われわれが幼すぎるのか、20代後半の頃にあれだけの提言を書かれるというのは、やはりすごいなというのをあらためて感じました。

5.読売クラブ創設の経緯 〜読売、日テレ、サッカー協会、東京教育大〜

中塚
また成田先生の略歴のほうに戻りますと、・・・実は、今の凝縮された話は1960年から61年のわずか1年の間の出来事で、成田先生は61年に帰国され、・・・たぶん、これにまつわってもいろいろあるとは思いますが、ちょっとそこは省略させてください・・・母校に帰られ、そして学問の道を進まれるのですが、1968年、東京教育大学の蹴球部の監督に就任され、そしてリーグ戦で優勝する、と。
15年ぶりの優勝というのは、つまり成田先生がプレーヤーのときに優勝して以来の優勝。さらにその翌年も2連覇。この68年、69年のあたりというのは、ご存知のとおりクラマーの成果がひとつ実り、メキシコ・オリンピック銅メダル。・・・最初のサッカー・ブームというのでしょうか。そしてそこで、読売サッカークラブ設立に成田先生が参加され、初代監督を務められている、と。
このあたりまではとりあえず紐解いておきたいと思いますので、せっかく資料も用意していますし(笑)。
お配りした資料の一番後(資料5)が、おそらくその頃ではないかと思うのですが、読売サッカークラブのメンバー表で、黒縁眼鏡の成田先生が・・・ちょっと写りが悪いのですけど・・・写っています。
このあたりの経緯を。ちょうど牛木さんもこのあたりには深く関わられていると思いますので。

成田
高校サッカー選手権についても「読売」と「日本テレビ」の関係があったし、ここでも読売と日本テレビの関係があるのですが、ちょうど牛木さんがおられるからお聞きしたいし、私の話もしたいと思います。
私に対して来た話をそのまま申します。裏で何があったのかというようなことは、坂田さんのこれ(サロン2002月例会報告−2008年1月「高校サッカーと民放テレビ」)を見ていると「ああ、私にはそう言ったけれど、こんな裏があったのかな」というふうなことがずいぶんわかります。
私がこの読売サッカークラブを創るということを決断したのは、野津会長から私に直接はっきりこう申されていました。「正力松太郎さんが『野球の次はサッカーだ』というふうに考えている」と。この資料を見ると、野津さんが正力さんへ話を持っていったというふうに坂田さんは書いていますね。しかし、私はそれを一切知りません。私に野津さんが直接言ったのは、「正力松太郎さんが『野球の次はサッカーだ』と、『将来、サッカーの時代が来る』と。つまり、プロのサッカーの時代が来るということを意味するのですがと言っている。ついては、成田君はヨーロッパのプロやスポーツクラブのことをよく知っているだろうから、これから読売新聞と日本テレビがバックアップをするから、そこへヨーロッパ的なクラブを作って、それをプロへつなげるという仕事をして下さい」と。そういう、野津さんからの直接のお話だった。これは記憶に間違いはございません。それはたぶん第1回目の優勝、・・・つまり私が再びサッカーの世界へノコノコ出てきて、・・・牛木さんがサッカーマガジンに私のことを書いているのを今でも覚えておりますがね。それで、出てきて優勝したときに、そういうお話が野津さんからありました。で、翌年、それからまもなく笹浪永光さんの、・・・正式な名前は笹浪永光?

牛木
笹浪昭平さんで、どういうわけか名前を途中で変えて「永光」に。

成田
私のところへ来たときには、「日本テレビから来ました、私は笹波永光です。実は、お話があったと思うのですが、よみうりランドに3面のグラウンドを造ってクラブハウスを造ります。そして、1面は芝生にします。それで、クラブチームを作ってくれないか。」というのが一つ。それからもう一つは、「できるだけ早く上のほうへ上がりたいので、教育大学で優勝した選手を連れてきて読売クラブを作ってくれないか」。こういう二つのお話がありました。
余談ですが、「お金はどうしましょうか?」と言ったから、「私は交通費もコーチ代も一切要りません。条件が一つあります。・・・ゴルフをやらせて下さい」(笑)。あの頃はゴルフをやるというのは大変でしたから。すると、「ああ、易しいことです」と言われて、練習に行くたびによみうりランドで指導者をつけて周らせてくれました。今にして思えば、人から言われるのですが、「なんだお前、正力さんに株券の一つでも貰っておけばよかったのに」とね、いつも言われるのです。私はそんな会員権があるということも全然知らなかったものですから、当時は。とにかく、そういうことで行きました。それは東京教育大学が連続優勝して、その次の年に私は選手を連れて読売クラブを作りました。それがこれです(資料5)。実にありがたい。今日、初めて見たのですがね。
柴田というのが第1回優勝のときのキャプテン。浦和の卒業生で、怖いような男でした。彼はユースで日本代表になった選手でしたね。教育大にこんないい選手がなんで来たのかと思うくらい上手い、しっかりした選手でした。それから次の年に布浦というのがキャプテンでした。柴田が第1回目に優勝したときのキャプテン、布浦が第2回目のときのキャプテン。・・・高田静夫、田村修、それから大貫・・・等々が次の時代です。1回目の優勝メンバーは柴田だけですね。2回目がこの連中です。で、その連中を連れて読売に行って「早く上げてくれ」ということで、このチームを作りました。

中塚
そのときはまず、どこのリーグから始まったのですか?

成田
正確な記憶がないのですけどね、・・・東京都リーグ・・・東京都の下でした。

牛木
東京都リーグの2部か3部だと思います。

成田
3部? そう3部。

牛木
それはサッカークラブを作るというときにですね、3部からいくと当時は日本リーグまで行くのには東京リーグの1部へ上がって、それから関東リーグへ上がらなければならならない・・・と非常に時間がかかるわけですよ。それで小野さんが「仙台で作ろう」と言ったのです。仙台で作ると、すぐに宮城県では優勝しちゃうから、東京より早く上がれると。
僕は強硬に反対しまして、「東京のチームとして作りたいのだから、東京の下部から行こうじゃないか」と言って、東京都リーグの1番下だったのですが、そこに日本テレビの社員の遊びのチームが入っていたのです。それを名義変更といいますかね、名前を読売サッカークラブに変えてスタートした。だから最初は坂田君なんかは選手ですよ。もともと坂田君たちがやっていたチームだったのです(その後、坂田さんから聞いたところでは、クラブができた時に備えて、社員チームを作って加盟したのだという)。

参加者A
これは坂田さんが入った年ですよね。昭和43年だから2年くらいやっているはずです。

牛木
なるほど。読売サッカークラブができたのは、・・・後に坂田君が社長になったときに名称変更して「東京ヴェルディ1969」としました。1969年にできた読売クラブが、ヴェルディのもとだという主張です。坂田さんが社長を辞めたら、また1969をはずされちゃったけど・・・。

成田
そうですね。1969年の3月31日にこの連中は卒業していますからね、2期のやつらはね。その卒業生を連れて、私・・・。3部、確かに。それで読売を作って、そこで練習を始めたのです。笹浪さんがもう大変な苦労をしてましてね、あそこに運動用具の工場を造って、そこで選手たちを働かせたりしながら立ち上げをした、というふうに思っています。私はそのことは一切、関係しませんでした。

中塚
すると柴田さんや布浦さんは・・・布浦さんが大学を出られたときに読売クラブのメンバーになったわけですよね・・・その工場で働いているような身分だったのですか?

成田
いや、彼らは全然違います。教育大の卒業生は教員をやったりなんかしていましたから、そうじゃなくて。

牛木
専任で来たのは柴田さんが最初で、それから田村さんが専任で来たのです。教育大の人脈は強いなと思ったのは、何年か経って、成田さんだったか誰だったか忘れたけど連絡してきて「そろそろ帰せ」と言って帰されたのです。それで柴田は埼玉県の教育委員会に行って、田村は福岡大学に行ったのです。

成田
僕はね、もう大変失礼だったのですがね、筑波へ換わったのです。

牛木
ああ、そうですか。

成田
だから間もなく、本当に作って1、2年やったかやらないかで私は筑波へ行って。あとは柴田君。

牛木
そうです。それは、柴田君は非常に苦労していました。最初、選手を集める前には少年サッカースクールから始めたのです。そうすると4年生くらいの子どもが小さな弟を連れてくるのです。その小さな弟を肩車しながら、笛を吹いていました。

成田
非常に苦労をしたと思います。私は本当に作っただけね。

牛木
実は僕はちょっと記憶しているのですけど、成田先生のところへ「選手を下さい」と頼みに目白へ伺ったことがあるのです。(笑)

中塚
これはすごいな。

成田
申し訳ございませんでした。

牛木
いやいや。この話もちょっとまたあらためて突っ込んでしたいと思うのですけれど、・・・これもいろいろと複雑な事情があって出来たのですが、・・・1968年の12月にサッカー協会の野津会長と小野さんと、日本テレビの笹浪さんと、読売の事業本部にいた村上さんという人が、有楽町に読売会館というのがあってそこの上に正力さんの事務所があったのですが、そこへ行って「サッカークラブを作りたい。将来のプロのために」ということを頼んだのです。

成田
野津さんが頼んだのだよね。

牛木
その4人で行って、話をしたのが野津さんなのです。野津さんが頼んで、そしたら正力さんがですね、・・・もう亡くなる前の年で、相当、ご高齢だったわけです。だけど何かの拍子にピンとするのですよね・・・。それで正力さんはわりとサッカーに理解があったのです、もともと。「じゃあ一体、何が欲しいのだ?」と言ったら、「まず何よりもグラウンドが欲しい」と野津さんが言った。すると「サッカーのグラウンドって、いくつぐらいあればいいのか?」と言ったときに、たまたまイングランドFA百年史の写真集があって、それを開いたところの表紙の裏側が見開きなのですが、そこのところにロンドン郊外の110何面のサッカー場がある写真が載っていたのです。で、「これは110面あります」と言ったのです。そうしたら、正力さんという人は何でも世界一じゃないとダメなので、そばにいたよみうりランドの社長に「120面造りなさい」とこう言ったのです。そうしたら、その社長は・・・正力さんの娘婿なのですが・・・「とんでもない。土地がありません」と言ったら、「買いたまえ!」と。
もちろん当時、もうよみうりランドのところの土地は非常に高くなっていますから買えっこないのですが、正力さんがあの土地を買ったときは1坪3円だったということです、もともと。昔の記憶しかないわけです。「坪3円くらいだったら買えるじゃないか」と。それでも結局、あのサッカー場として4面とれるだけの広さの土地と・・・それは丘陵ですから、それを平らにしてグラウンドを造るためのお金がですね・・・僕はちょっと覚えていないのですが・・・1億円近くじゃなかったかと。

成田
私は3,000万円と聞きました。これは毎年の運営費だったかもしれません。

牛木
3,000万円でしたか。それで、それをくれてグラウンドだけはできたのです。グラウンドだけはできたのですがクラブハウスがないから、ゴルフ場のキャディーハウスを事務所にして、とにかくスタートして少年サッカースクールから始めました。柴田君が非常に苦労して、東京都リーグで、はじめは日本テレビの選手でも何とかやれたけれどそれでは勝てない。柴田君なんかが出たりして勝てるようになったのだけれど、1部あたりからちょっと苦しんだのです。

成田
もう一つ、ぜひお伺いしておきたいのですが。あるとき私はドイツのゲルト・アーベルベックというオリンピック協会(オリンピック推進団体)事務局長、・・・彼が日本のスポーツに非常に関心を持って、とくに東京オリンピック宣伝のために『日本のスポーツ』という映画を作って、これがもう大ヒットしたのです、向こうでは・・・。そのお世話をしたのです。そのかたが、これはもう正確にはわからないのですが、「よみうりレジャーランドを見たい。」というふうに私に言ってきたのです。それで連絡をしたら、正力 力(つとむ)さんが来られまして、何かあの時分に水槽があって中で泳ぎながらレビューをやる・・・あそこのよみうりランドで、それからもう一つ、グラススキー・・・ありましたね。

参加者A
グラススキーは少しあとじゃないですか?

牛木
ジャンプ台です。冬じゃなくて、夏にやるプラスティックのジャンプ台。

成田
そういうのを見学に行ったときに、正力 力(つとむ)さんでしょうか、「実はよみうりランドに鉄筋の宿泊所みたいなのがありまして、そこの宿泊所を造ったのだけれど利用価値がない。何とか成田君、方法はないですか」というふうなことを聞かれまして。そのときに私は「子どものサッカーをやりなさい、ここで。そうすると、きっと親がついて来て子どもと一緒にこの宿舎を使えるようになるだろう。子どものサッカーを始めたらどうだ?」というふうに言って、たしかよみうりで子どものサッカーが始まったような気がしているのですが・・・。

牛木
それは半分正しくて、半分はちょっと記憶違いだと思います。少年サッカー大会というのを始めたのはなかなか複雑な事情があったのですが、最初は本栖湖でやったのです。それでよみうりランドにサッカー場ができたので、よみうりランドでやることになったのだけれど、最初泥んこでできなくて、たしか町田でやったと思います、第2回は。それで、よみうりランドでやるようになったときに、そのスキー場の下のところが簡単な蚕棚の宿泊施設になっていて、そこのところに子どもたちを泊めました。ランドホテルという、ゴルフに来る人たちが泊まるホテルは別にあって、そこにお父さんお母さん、主としてお母さんたちが争って予約して泊まったのです。そして、来て子どもたちのシャツの洗濯をしてやったりなんかするから「それは困る」と言って、一切お母さんたちは泊めないことにした。それでも調布あたりのホテルに泊まって通って子どもたちの面倒をみたりして、非常に困ったことになりました。(笑)

成田
そうですか。正力 力さんにね、「子どものサッカーをよみうりで始めたらどうですか」という話をね・・・。

牛木
そのときにそういう「日本のスポーツ」という映画があって、それを作った人っていうのは何という・・・?

成田
ゲルト・アーベルベックといって、とても有名なのですよ。ご存知でしょう、あの西ドイツの「黄金計画(ゴールデンプラン)」を作った人です。ゴールデンプランって15年計画ね、1960年から75年までの間にドイツに施設をこれだけ造ると。そのプランを綿密に。お金は半分は州が出す、あとの5分の3を地域が出して、あとの5分の2を国が出すといいうあれを決めて、それを日本にも私はずいぶん紹介したのですが、それを作ったのがアーベルベックだったのです。
ドイツへ行って知り合いになりまして。東京オリンピック開催は、僕が行ったときにはもう決まっていましたから。ローマ・オリンピックの年ですから。それで日本を紹介するスポーツをやって・・・剣道とか柔道とか流鏑馬とかね。・・・その日本のやつを全部アレンジして、それから学習院に福岡さんというドイツ語の先生がいらして、彼と2人で『日進月歩』という日本語のタイトルでね。ドイツで公開されました、東京オリンピックの前に。もうベスト・・・なんとかで、ものすごく。今でもオリンピック協会に・・・オリンピック協会というのは、オリンピック推進施設団体なのです。オリンピック委員会じゃないですよ、オリンピック協会。オペルの社長が会長で、事務局長はアーゲルベックという人で、フランクフルトの郊外にいました・・・。その人のあれで作った日本紹介のスポーツ映画、今でもあると思いますよ。私のところへは送ってこなかったのですがね、出来上がったものを・・・。
それで、小学校のサッカーはよみうりで、たしかね・・・。

牛木
あれは今でもやっている少年大会のもとなのですけど、これを最初はサッカー協会がやったのです。読売は、グラウンドを提供したりして協力した。で、第10回になって、そのときの優勝チームの6年生が長谷川健太ですよ。それで、その第10回まで「サッカースポーツ少年団大会」という名前でやった。なぜかというと、小学校の対抗競技というのは禁止されていたから、それでスポーツ少年団というかたちでやって。第11回になるときに、読売の広告局に末広さんという人がいて、それがサッカー好きで「これは読売でやろう。」ということになった。第一広告という会社と組んでスポンサーをつけて。そして、「初めてこういうことやるんだ、ということじゃないとスポンサーは食いつかない」ということで、第11回を第1回にしちゃったんです。だから今の大会の回数は、本当はプラス10しなくちゃいけない。

成田
なるほどね。いや、いろいろと面白い。

牛木
よみうりランドを見に来るときにですね、よみうりランドを何で見に来たいと言ったのですか?

成田
「日本のレジャースポーツの根拠地を見たい」というふうに言われたから。僕、読売にあれがありましたからね、「それはよみうりランドがいいですよ」と言って、その水中レビューとかね、それからあのジャンプ台のグラスの夏でも滑れるという、そういうのとか・・・。

牛木
だから皆、その・・・正力松太郎さんの世界一の・・・当時、正力さんが言うと、とにかくサッカー場でも何でも造らざるを得ないのですよ、読売は。何しろ権威とすごい腕力ですから。それで水族館はですね、世界で一番高いところにある水族館(笑)。ジャンプ台も世界で初めてと、・・・これはウソらしいんだけど。山口さんという早稲田のスキー部の先輩だった読売の記者が正力さんに言ったら「それ造れ」って言ったらできちゃったんだけど、もう持て余しちゃってですね(笑)。

参加者A
スケート場もありましたよね?

牛木
スケート場は今でもあります。スケート場は営業的に成り立つので。それから夏はプールでこう、ずっと・・・。プールったって競泳用のプールじゃないですから、遊びのプールですから。それはレジャーランドとしていいのですよ。そのジャンプのスキーなんてね、競技人口が少なくて、遊びにったって・・・あれは本当にね・・・。

成田
そういうことなのです。

6.高校サッカー選手権大会の首都圏開催 〜読売、日テレ、高知人脈〜

中塚
ありがとうございます。9時を過ぎてしまいましたが、もう成田先生は30代になっていますよね(笑)。
「読売・日テレ」グループの話の続きで言うと、今回のサロンは高知県でやっているので、これは史実として押さえておかなければいないと思うのですけれど、関西圏で長いことやっていた高校サッカーの大会を首都圏へ持っていくという話になったときに、実は、高知県の鍋島さんという電通のかたが成田先生にアドバイスをもらいに来た・・・というくだりがある。そこの部分だけちょっと確認しておきたいのですが。

成田
これも読売や日テレに関係しているのですが、これも正確にお伝えしておきたい。たしか昭和45年、1970年前後だったというふうに思うのですが、発端は、高知放送に宮村君というのがいました。土佐高のサッカー部出で同窓会の会長をやっていた宮村剛というのがいましてね、 彼は高知放送で東京の支局へそのときに出ていたわけです。彼の紹介で、電通の日テレ担当・・・そういうのがある?

牛木
あります。電通のラジオ・テレビ局というのがあって、そのラジオ・テレビ局のなかにまた部があって、そのなかに日本テレビを担当する部があるわけです。それの部長さんだったのです、鍋島さんは。

成田
鍋島さん、これも土佐高のバスケットボール部のOBです。宮村氏が知っているものですからね、それで鍋島さんを紹介して、鍋島さんが私の家に来ました。これだけはね、これまで書かれていることと若干違うのですが、鍋島さんは私にこう言われました、「甲子園野球に匹敵するようなスポーツ・イベントを創りたいのだ」と、電通は。「そのためには億単位のお金を準備します。ひとつ考えて下さい」と、こういうふうに言われました。最初からサッカーじゃないのです。これだけは、はっきりしています。「甲子園野球に匹敵するようなスポーツ・イベントを考えて下さい。電通は億単位のお金を準備します」。それで「じゃあ、何がいいのだろう」ということを、そこで鍋島さんと話し合いました。私、そこらあたりははっきりとした記憶はないのですが、ただ、決してサッカーをやるということではなかったのです。当時もうスタートしていたママさんバレーか、ママさんテニスとかね、それからもちろんイギリスのオックス・ブリッジの大学のイベントとか。ま、主として婦人のイベント、子どものイベント、そういう・・・つまりこれまであまりやられていないけれども盛り上がりそうなものについて、いろいろと話し合いました。
それでその結論は、どうも帯に短し、たすきに長しで、どれも話し合いのなかで通じないわけです。「甲子園の野球、あれの魅力は何だ?」という話になりまして、それはやっぱり「ひたむきさ」だろうと。スポーツに対するひたむきなところが人の心を打つのだろうと。決して技術だけじゃないよ、と。もう一つは「郷土愛」だろう、と。日本人のうんと好きなね、郷土愛というふうなものが、やっぱりイベントをやるためには必要だろう。しかし、スポーツであれば「技術」が下手じゃ、いかん。ある程度のレベルの技術が伴わないと「やっぱり面白い」と言って惹きつけるものにはならないのだろう、と。そう言って、ひたむきさと郷土愛と適切な技術というふうなものを中心にして「ないか?」ということをあれこれ話して、結論はやっぱり高校だなぁ、と。そうすると、ま、私としては高校サッカーだなぁ、というのが落ち着きなのです。だからずいぶんあれこれあれこれ探したのですが、結論はそういうサッカー・・・この3つの問題です。ひたむきさと、郷土愛と、それでスポーツの技というふうなもの・・・今だったら、「国際ゲーム」ということを言ったかもしれませんね。今のほら、トヨタカップみたいな。でも、その時はまだ国際ゲームなんてまったく考えられないような時代でしたから。それで結局は、やっぱり高校段階のスポーツだなぁ、じゃぁサッカーだなぁ・・・という話になって、「じゃ、サッカーをやろうじゃないか」ということになった。
そのとき私は条件を3つ出したのです。これははっきりしております。第1条件は・・・「これからそれじゃ私はサッカー協会に働きかけます、その実現のために3つの条件があります」という、・・・1つは、東京でやること。しかも国立競技場を高校サッカーのメッカにしよう、と。これが第1の条件。東京の国立競技場ということをメッカにすれば、甲子園に匹敵するんじゃないか、あるいは甲子園を上まわるぞ、と。そういう「甲子園を上まわらなければいけない」という意識が私のなかにはありました。第2番目は当然テレビだ、と。今の時代、テレビで放送しないかぎりイベントの成功はないよ、ということ。テレビ。第3は、優勝チームをヨーロッパに遠征させること。優勝チームでした、私の提案では。「高校野球はハワイじゃないか。しかし、サッカーはヨーロッパへ行けるぞ」というふうに言えば、これはやっぱり甲子園に匹敵する、あるいは上回るじゃないか、と。「この3つを電通が飲むか、やるか?」と言ったら、鍋島さんが「やります!それは十分できます」って言うんですね。パッとそう言いましたよ。トラブルがあるとは私、全然知りませんでしたけどね。私ももうあまりそんな、これまでの経緯とかはそんなことは考えないで、純粋に「甲子園に匹敵するイベントを、しかも億単位の金で。金の準備はいくらでもします」と言ったから、「国立競技場をメッカにしろ」と。
当時、私の頭には、関西の高校サッカーを東京へもって来るという発想など全くなく、純粋に「新しい高校サッカーのイベント」をつくることのみを考えていたのです。

牛木
それは何年ですか、鍋島さんとの話し合いは。

成田
昭和45年、1970年前後じゃないかと思うのですが・・・これは宮村君にもうちょっと確認をしないと。宮村君が高知放送から出張して東京の支社にいたときですからね。それと最近鍋島さんに会ったのですが、僕、このあいだ。残念なのが、こんなことになるとは思わないから、年をはっきりしなかったのです。

牛木
鍋島さんはね、手帳に細かくつけているようです。

成田
そうでしょう。

牛木
だから鍋島さんに聞けば調べられるはずです。

成田
ええ、情報があるはずです。だから、私の話をそういうふうにご記憶ください。クラマーの件だけはきちっと詰めました。しかし、この件は詰めておりません。だけど今言ったようなかたちですから、そこを押さえれば、きちっと。
それで、すぐにこれをやると言いましたからね、日本テレビにとってみると、読売ですから・・・読売と組むと言いましたよ。日本テレビだったら全国放送で、優勝チームはヨーロッパへ連れて行きます、ということで。それで、私はすぐにその場で高体連部長の松浦さんに電話をしました。そして、こうこうこういうことで「ぜひ成功させたい」と。すると「よくわかりました」と・・・。松浦さんは、僕が(大学)1年、2年のときの監督なのです、サッカーの。浦和師範で全国優勝して、サッカー界ではわりあい通じていたんですね・・・。「わかりました」ということで。で、私はもう以後一切関係しておりません。
後年、ごく最近ですね、長沼さんに何かの関係でこの話が出たおりに「なんだ君か、関東へもって来いと頑張ったのは」、と。そりゃ、関西でもやっているとは知らないからね、そんな深い事情は。しかも、毎日だったのですってね。「いや、あのときはもう大変だったのだよ」と長沼さん。関西の・・・賀川さんか誰かともめて大変だったんだよ、と。だけど松浦さんのやり方が非常によかった。全国の高体連に「関西でやるほうがいいか、関東でやるほうがいいか?」と聞いたんですって。そうしたら圧倒的に「東京で」というふうに全国の高等学校の方々が言ったから、それを松浦さんがもとにして出されたわけで、筋が通った。「松浦さんは賢明だったよ」とごく最近、長沼さんに聞いたのです。
で、これはやっぱり高知県がみな絡んでいるのです。それで、日テレの部長クラスにも土佐高の出身者がいたのです、日テレ関係にも。これは宮村君に聞けばすぐわかる。ま、そういうことで、高等学校のサッカーを高知県の二人のご紹介で・・・発端は、そういうこと。あとは牛木さんたち、坂田さんたちがよくご存知だと思います。

参加者B
その当時、その鍋島さんとか宮村さんは東京で土佐高のOBチームか何かをつくってやっていませんでしたか?

成田
ええ。教育大へ来て、試合をやりましたよ。

参加者A
ああ、その話は聞いたことがあります。

成田
「日テレ」チーム。日テレのチームで宮村君がそれを連れて、土佐高OBが何人か。土佐高のOBが入っていたから、それを連れて来て、教育大の幡ヶ谷グラウンドでサッカーの試合をしたことがあります。

参加者B
たしか宮村さんがそうおっしゃっていました。

成田
もう一つ、土佐高出はとてもいいことをやっています。ベースボールマガジン社の『サッカーマガジン』、あれは誰だったかな。

牛木
堀内征一。2代目の編集長です。

成田
堀内さん。彼が献身的に、まだサッカーがあまりポピュラーじゃないときに、十分努力をされました。

牛木
彼は去年ベースボール・マガジン社を定年退職しました。

中塚
サッカー界のいろいろなところに土佐高人脈が・・・。(笑)

成田
あのころ牛木さんはずいぶん健筆を揮っておられましたね、『サッカーマガジン』に。

中塚
今、話をしていただいた高校サッカーの一連の動きは、また別の角度から、サロンの月例会でも話していただいています。1月に坂田さん、牛木さんにもお話しいただいたものがホームページで公開されていいますので、それとあわせて確認していただきたいと思います。

 

II.“これから”の見通し(構想)の中から

1.トリムカップの今後 〜全国大会化、国際化に向けて〜

中塚
高校サッカーがそういうことなのですけど、同じようにおととし始まったこの大会ですね、「トリムカップ」の今後についても大きな動きがあります。まだ確定的でない部分もあるのですが、成田会長からそのあたりを。確定していることを中心にお願いします。

成田
はい。トリムカップのスタートはちょっとご紹介しておきたいと思います。私が追手前高校3年のときに、土佐高にサッカー部を創るという仕事を手伝ったわけですが、そのときに紅顔の美少年がおりました。中学1年くらいの、紅顔の美少年。それが実は彼(中塚さん)の親父さんだったのです(笑)。
その後、今や・・・もう何ていうんですかね、猛者になっておりますが。私は走り回されておりますが。・・・彼がその、私が高知県サッカー協会の会長に、なんか化石みたいな人間がなったということで、「成田が在職中に何か高知でつかってやれ」というふうなことで、トリムの社長に。トリムの会社は大阪ですから、彼は大阪の財界とつながっていて、それから県の出張所とつながっているものですから、トリムのほうにお金を出させて「高知でサッカーの何かをやれ」と。それも最初は「何か」だったのです。で、まぁ、いろいろと考えていたのですが、たぶん息子さんが東京のほうで情報を持っているから・・・「もし、高知でやるとすれば、女性のこういうレディース・フットサルがいいんじゃないか」という話になりました。
実はですね、私は高知女子大の学長をしていたのですが、高知女子大学には、日本で50年間一番を続けている看護学部・・・東大よりも古いのです、・・・4年制の看護学部がありまして、現在、世界看護協会の会長、日本看護協会の会長の2人とも高知女子大の出身なのです。つまりですね、物理とかそんなことを高知でやったら、とてもさんにもかかりませんが、いち早く「看護」という、当時は恵まれていなかった領域に目をつけたから、50数年の間、現在まで日本のトップを守ってきているのです、今も。それで今、私は高知学園にいるのですが、そこにリハビリテーション専門学校というのがあるのです。このリハビリのなかの理学療法というのは、これは今、日本で一番古いのです。国立の二つがなくなったものですから、今や。それで全国にも優れたリハビリの指導者を出して、全国の大学や専門学校に。
私はそのことが頭にあってですね、高知で何かを永続的に成功させるというのは、中央と競争しても負けないようなものをやらなきゃいけない、同じようなものに手をつけたんじゃあ、とても中央にはね。まだ誰も手をつけていない女性のフットサル。しかも、高知のようなところではできる、・・・施設もまぁ・・・協会としても、指導陣はそんなに沢山いませんから。ちっちゃいもんです、日本で一番ちっちゃいですから。日本で一番お金のない県ですから。ま、そういう条件を考えた場合に、トリムのフットサルというその中塚君の提案はいいな、ということで「やろう」と。で、トリムのほうに話をしました、「いいんじゃないか」と。
それで、「全国大会にしたい」というのがトリムの希望だったのです。でも私たちは「ちょっとそれは無理だ」と。高知の実力に合わせてね、「まず何年間かは準備をさせてくれ」と。ノウハウを積んで、そして全国大会をやろう、ということで1年目をやって、「やれるじゃないか」という気持ちが武市君たちに出てきて、それで2年目をやった。これが大成功だった。その段階で私は「これはいけるな。これを定期的にやろう」、と。しかし、何か特色を出したい。それで国際性ということを出して。今でも韓国やアジアには教え子たちが沢山いますから、「招いて国際性を加味することはできるな」というふうに思ったものですから、まずは西日本の大会を。しかもですね、日本のフットサルのレベルを上げるためには「選抜が一番いいだろう」というのが、中塚さんを含めてわれわれの考え方なのです。選抜というのは、各県とかそういうところから選りすぐった人が集まってきて、またチームへ帰って行きますからね。1チーム代表を呼ぶよりも選抜チームを呼ぶほうがいいんじゃないか。そうすれば日本に対する影響力というふうな、フットサルに関して言えばそれが一番いいんじゃないか、ということで選抜にしよう。しかし、どう選抜するかは、現段階では各地域にお任せしましょう。こういう予備選をやって、こういう代表チームを出してください、という段階ではまだないだろうという判断で、ま、今年やって。もし、今年成功したら、来年からは高知の中央で全国大会をもっていく、と。そして、ことによっては優勝チームを海外に派遣したり、あるいは、優勝チームとか選抜チームと、アジアのチームを一つ呼んでまずやってみたりして、少しずつ国際性を帯びさせていくのがいいんじゃないか。まぁ、将来の遠い遠い希望としては「アジアのメッカにしたい」と・・・それは夢でありますが・・・現実論としては、高知が口火を切って日本の選抜レディース・フットサルの大会を始めよう、と。若干の国際性を帯びさせようじゃないか、というのが今の考えで、その点については、トリムの社長もですね、この間、知事さんにそういう発言をして高知新聞にも出ていますから、そういう方向でいけるんじゃないか、と。
日本協会の大仁さんがフットサル連盟の会長になっているということが私にとっては非常に幸運で・・・。ずっと旧い付き合いで、私が監督のときの代表選手なのです。大学のときの、慶應の・・・。わりあいざっくばらんに話ができるので、いいんじゃないかな。で、あとはこういう気持ちを斟酌して、5月、6月の協会のフットサルの理事会がありますから、そこで決めていただけるのではないか、という期待をもっております。以上です。

2.日本サッカーへの提言 〜戦術論、組織論、トレーニング論〜

中塚
ありがとうございます。時間がだいぶ押してしまいました。そしてまた、まさにそのトリムカップの競技運営ですごくご尽力いただいている、今日遅れて来られた方々が皆さんそうなのですが、明日の大会準備とかいろいろあると思いますので、そろそろお開きにしたいと思うのですけれども。
最後に成田先生には、日本のサッカーについての問題提起を何か・・・いろいろ実はそれも用意していただいているのですが。

成田
いや、これはもう20代に私はし尽くしましたから、もう今さらないのですが。
実は、今、私は『ドイツ・スポーツ史』というのを3巻まで出したのですが、第4巻目は「ドイツの競技スポーツの発展とドイツ体育の改革」というのが第4巻目の仮の題なのです。その中でドイツの競技スポーツの歴史を書かなければいけないものですから・・・どうしようかと思って・・・まぁとにかくサッカーからやってみようと思って、第2次大戦前までのドイツのサッカーを書きまして。そして、そのなかで非常に興味のある問題が沢山出てまいりまして、日本との関係でね、それで調べ始めたらそれが面白くて、こっちの主の原稿が全然進まない。「日本におけるドイツ・サッカー」あるいは「日本における外国サッカーの導入」、「吸収」といいますか「摂取」といいますか、その歴史を書いてみると面白いなぁというふうに思ったのです。
というのはですね、ドイツで1936年にオリンピック大会が開かれて、日本はスウェーデンに1勝して「奇跡だ」というふうに言われているのですが、私には若干・・・それは奇跡は奇跡なのですよ・・・だけど若干考えるべき問題があるな、というふうに実は思ったのです。と言うのは、ドイツにサッカーが入ってきたのは1800年代半ば以降なのですが、最初、ラグビーとサッカーの混合のようなものがイギリスからドイツの中等学校へ入って、そこから拡がっていく。最初の本は1875年、明治8年に出ているのです。それ以後、サッカーが、地域の末端にまでもう網の目のように拡がってゆく。体育クラブを学びながら、あるいは喧嘩しながら、サッカー協会というものが1920年にできていくわけでありますが、本格的に国際舞台に乗り出して行くのはドイツも非常に遅いのです。最初に国際試合を代表チームがやるのは1908年、スイスと。もちろん負けておりますが、非常に遅いのです。それは何かというと、一番大きい問題は、ドイツでは地域から体育・スポーツは全部仕上がっていきますから、体育連盟に倣って地域にスポーツクラブができる、あるいは体育連盟のなかにスポーツ部ができるわけで、地域がこう先に・・・西部ドイツ連盟とかですね、今のあの西側の基本になる南ドイツ連盟とか、東南ドイツ・サッカー連盟、そういうのがいっぱいできて、その力がものすごく強いものですから、代表チームができないのですね。できても、全部自分のチームから「これを送る」と言って、極端に言えばフォワードばかりになったり、バックばかりになったり、同じポジションが2人も3人も5人も来て、チームができないのですね。それでナショナル・トレーナーを付けるということにも大変反対するのです。その地域連盟が力をもっていますから。ま、そんなことがあるのですが、やっぱり国際試合を始めるとドイツは負けてばかりいるのです。
これではいかん、というふうなことで、一つは指導者養成というのを始めます。それも非常に遅いのです。1920年にドイツ体育大学というのがベルリンにできます。これは私立です、非常に珍しいですね。私立の体育大学。そこで初めて各種目の著名な指導者が、種目の指導者を養成する、というのが本格的に始まる。1920年です。1920 年っていうと大正9年ですかね、あまり早くないです。そこで、サッカーの専門家がサッカーの専門の指導者を養成する、というのが始まった。それ以前は戸外遊戯促進運動というのがあって、遊戯としての一つの種目として指導者を養成する、という講習会が沢山あります。でも、サッカーの指導者養成を、というのは一切ないのです。遊戯の一種目として、サッカーも、テニスも教えるというのは講習会がありますけれども、1900年代に入りますとね。でも、サッカーの指導者というのをまともに養成する、というのは1920年なのです。それで、そのときに最初にサッカーを教える先生が、サッカーのある程度上手い選手であったり、となっています。ドイツ最初の指導書というふうなものができるのは1908年。1900年にドイツ・サッカー連盟ができまして、1908年に最初の教本というようなものができます。しかし、それもあまり大したことはないのですが。
その体育大で第4代目のサッカー担当者がオットー・ネルツという有名な・・・初代ドイツのブンデス・トレーナー、ナショナル・チームのトレーナーは彼がなるのですが・・・彼は体育大学でサッカーの指導者養成というのを始めるまでは生粋のイギリス・サッカーのファンで、イギリスへ行って勉強して帰ってくる。その人が1926年から1928年にかけて8分冊の本、1つが50ページくらいですかね、8分冊の本を出します。それが、私はもう最初のドイツの本ではないかというふうに思います。その第1部が「戦術」、第2部が「ゴールキーパー」、第3部が「フルバック」、第4部が「ハーフ」というのであります。第5部が「フォワード」、第6部が「技術」の1、第7部が「技術」の2、第8部が「トレーニング」という8分冊の本を出します。それが1926年から28年にかけてです。
で、実はもう、私は本当に驚いたのですが、慶應義塾の初代のサッカーの監督になった・・・ミワさんっていったかな・・・そのかたがこの本を取り寄せて、自分が全部翻訳して、口述筆記させて、それを仲間が筆記して、それに基づいて慶應が練習を始めた。やがて早稲田がそれに基づいて練習をしてオリンピックに行く、と。そういう記述があります。1928年ですから、8分冊が完成するのは。そしてなんとそのかたが翻訳したものを第2代のキャプテン、島田晋というかたがこれを翻訳して出しているのです。冒頭に書いてあるのですが、「この本はオットー・ネルツの本から書いたのだけれども、日本に合うように書いた」、冒頭は「慶応義塾体育会ソッカー部の若き部員諸君にこの書を贈る」と書いてあります。そういうふうな本が1931年に出ております。だから、おそるべきスピードでドイツの本を取り寄せています。
で、実はドイツはですね、このオットー・ネルツというのは1934年イタリアのW杯で、「このときに初めてあのWMシステムをテストした」と書いています。WMというのをイギリスから取り入れたのがオットー・ネルツであって。で、彼は1934年のイタリアW杯に向けて40人の精鋭を集めて練習をして、その練習の課題は二つ。一つは、イタリアの暑さに慣れること。もう一つは、勉強したばかりのWMフォーメーションをいかにしてものにするかということ。1934年です。ですから、31年にすでにネルツの理論というのを、慶應の人たちはちゃんと頭では理解して、ポジショニングというふうなことは勉強して、それで、ベルリン・オリンピックへ早稲田の連中もそれを勉強して行っているわけで。
だから、ノコさんが戦後でしたかね、たしか「自分たちは本では知っていたけれど、実際にWMのフォーメーションを見たのはベルリン大会の練習試合が初めてだった」というふうに書いてありますが、ドイツでも1934年に本格的にWMシステムの練習を始めているのです。そんなに違わないのです。私は、「日本の選手は非常に頭が良かった」と・・・昔は頭が良かったから、理論として勉強したことが実地にはわからなかったけれど、実地に見てすぐにそれに対応できた、と・・・私は考えています。それが、スウェーデンの試合に勝った理由ではないか、と。つまり、理論的には、・・・ノコさんも書いているのですけどね、・・・頭ではわかっていたのだけれども、肉には付いていなかった。しかし、向こうへ行って、練習試合をやってわかった、と。つまり1925年にオフサイド・ルールが変わって、フォワードがこう前に出てきます。それを迎えるために、ハーフバック・センターがこう、後ろに下がる。つまりWM になっていくのですね。それが1925年にイギリスあたりからだんだん出たのだと思うのですが、ドイツでさえ本当に身に付けたのは1934年、ということ。で、この1931年の本で、すでに日本は頭では世界の変化というものを勉強したけれども・・・。
私が非常に興味があるというのはですね、この訳本と原本を比べて、非常に大きい違いがある。それは日本に合うように書いていますからね。もちろん、日本のサッカーの歴史を書くとかね、そういうことはあるのですが、抜かしている部分があるのですね。それに私は非常に興味があるのです。抜かしている一つは、「組織論」が抜けています。つまり、当時の慶應の選手にしてみれば「西部地区にこういう協会がある」とかね、そんな組織がどうなんてことはあまり意味がないでしょうね。だから、組織論が抜けている。
もう一つ抜けているのは、「トレーニング論」。私ね、これをもうしみじみと、なるほど日本の状況からすればそれは抜かしたのだろうなぁ、と。私たちも大学でトレーニングの理論というものは習いませんでしたよね。フィジカル・フィットネスというものを高めていくために、指示のもとにどういうふうなことをやるのかとか、どういう栄養を摂るのかとか、どういう生活をやるかとか、試合の後はどういうふうに身体を保養するかとか、そういうトレーニングの理論というものをまったく知らなかった。生活法方式というものがトレーニングには入っているのですね。日常生活のトレーニングとして生活をどういうふうに組み立てていくのか。それはこれにないのですね、翻訳に。ああ、この差が・・・これは当然なことだけれども・・・この差がずいぶん大きくなったなと、日本では。それが1点。
もう一つは、やっぱりこの「理屈」だけでは・・・やっぱり「体験」をしないと、スポーツでは身に付かないな、というのが第2点。今後の問題だろう、と。それからベルリン大会では、面白いことに、A、Bチームに、・・・参加者は16チームかな・・・を分けているのですね。Aというのは強いチーム、Bというのは弱いチーム、と考えられていたものが並んでいるのです。それで第1回戦はAとBを全部組ませているのです。もちろんAが全部勝っています、1回戦は。唯一、日本だけなのです。日本だけがBに入っておりながらAを食った、と。だから、これはドイツにしては、ヨーロッパにしては大変な出来事だったのだろう、と。だから「奇跡」というふうに言われたのは、実は私にはよくわかりますけどね。しかし反面、私はね、ドイツと日本とはそんなに、・・・イギリスの方式を取り入れるのは・・・そんなに違っていない。ただ違っている大きい問題は、やっぱり組織論とトレーニング論のように思うが、それが基本的に違っていた、と。つまり、全国に総合型地域スポーツクラブのサッカー、そのなかでサッカーが一番大きいとありますよね、あるいは単独のサッカークラブという、そういう組織が網の目のようにドイツの場合はできている、そこから地域協会ができ、その地域協会からサッカー協会ができたという、この組織論を勉強することはなかった。
それから、やっぱり技術論は実に正確に書いてあります。むしろ、この本(原本)よりもっといいぐらいにね、翻訳をされているのですが、技術論は。でもやっぱり戦術論は、本当にWMというものを捉えてはいないですね。そういったところが戦後、日本の・・・1936年から戦争になりますから、ドイツもストップします、世界中がね・・・戦後いち早く、各国はシステム論を展開します。ところで、ドイツのこのオットー・ネルツが1934年にWMを入れて、1936年にシステム論というのを出しているのです。『ドイツ・サッカーの改革論』というのを出しているのです。で、その論文の冒頭がね、とっても面白いのです。冒頭にこう書いてあります。「ドイツのサッカー選手は全般的に理論的な考えの持ち主ではない。」と、そこから始まっているのですね。だから根本的に変えなければいけない、というのを書いて。だから彼は、ナチの体制を非常に喜んでいるのです。なぜかというと、地域主義がなくなりますからね。上から命令でバン!といきますから、自分の思うようなチームができるわけです。だから、やっているのですが、この段階でシステム論を徹底的にやっているわけです。システムの誕生、スコットランド方式とかイングランド方式とかね、アーセナル方式とかね。そういうシステムの研究をずっとやってね、それは1936年当時のこと。

中塚
成田先生…
注)実は予定の21:00をすでに1時間オーバー、22:00には警備の関係で退出せねばならず、何度かサインを送っていたところであった。このくだりは成田先生が最も話されたがっていたところであったが中断せざる得なかったことをお詫びするとともに、改めて機会を設けさせていただきたい(中塚)。

成田
はい、終わりですね。

中塚
非常に興味深いところなのですが、・・・実はここ10時に閉めなければいけない状況でして・・・申し訳ございません。

成田
と、いうふうなことです。お話をする機会を与えていただいて、大変ありがとうございました。(拍手)

以上