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八月つごもり 〜第二百二十七段

 八月つごもり、太秦(うづまさ)に詣(まう)づとて見れば、穂(ほ)にいでたる田を人いと多く見騒ぐは、稲刈るなりけり。早苗(さなへ)とりしかいつのまに、まことにさいつころ賀茂(かも)へ詣づとて見しが、あはれにもなりにけるかな。これは男どもの、いと赤き稲の本(もと)ぞ青きを持たりて刈る。何にかあらむして本を切るさまぞ、やすげに、せまほしげに見ゆるや。いかでさすらむ。穂をうち敷きて並みをるもをかし。庵(いほ)のさまなど。

【現代語訳】

 八月(陰暦)八月の末、太秦に参詣するというので出かけてみると、稲穂が実った田を大勢の人が見て騒いでいるのは、稲刈りをするところだった。ついこの前早苗を取ったのに、いつの間に、ほんとうについこの前賀茂を参詣するときに見た田が、何ともう収穫の時期になってしまった。今度は男たちが、とても赤い稲の根元だけ青いのをつかんで刈っている。何か分からない道具で根元を刈るようすは、簡単そうで、いかにも自分もやってみたくなる。どうしてそうするのか、刈り取った穂を地面に並べ置くのも興味深い。番小屋のようすも。

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よくたきしめたる薫物の 〜第二百三十一段

 よくたきしめたる薫物(たきもの)の、昨日、一昨日、今日などは忘れたるに、ひきあげたるに、煙の残りたるは、ただいまの香よりもめでたし。

【現代語訳】

 衣服によくたきしめた香が、昨日、一昨日も、そして今日も忘れていたので、取り上げたところ、余香が今もほんのりと残っているのは、たった今たきしめた香よりもすばらしい。

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月のいと明きに 〜第二百三十二段

 月のいと明(あか)きに、川を渡れば、牛のあゆむままに、水晶(すいさう)などのわれたるやうに、水の散りたるこそをかしけれ。

【現代語訳】

 月がとても明るい夜に、牛車で川を渡ると、牛が歩くにつれて、水晶などがくだけたように、水が飛び散った。それは、心ひかれる美しさだった。

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御乳母の大輔の命婦 〜第二百四十段

 御乳母(めのと)の大輔(たいふ)の命婦(みやうぶ)、日向(ひうが)へ下るに、賜はする扇どもの中に、片つかたは日いとうららかにさしたるゐなかの館(たち)など多くして、いま片つかたは京のさるべき所にて、雨いみじう降りたるに、
  あかねさす日に向かひて思ひいでよ
  都は晴れぬながめすらむと
御手にて書かせたまへる、いみじうあはれなり。さる君を見おき奉りてこそえ行くまじけれ。

【現代語訳】

 中宮定子様の御乳母の大輔の命婦が、日向の国(今の宮崎県)へ下ることとなり、中宮様からお餞別として御下賜になったいくつかの扇の中に、片面には日光がとてもうららかにさした田舎の官舎などが多く描かれ、もう片方の面には京のさるべき所で雨がひどく降っている絵が描かれていた。それに中宮様が、
 < そなたが日向の国に着いたら、東から上る日に向かって思い出してほしい。そなたがいなくなった都では、この絵の雨のように、私が晴れない心で物思いに沈んでいるだろうことを。 >
御自筆でお書きになっているのが、とても心を打ちしみじみとする。そのようなお情け深い風雅な主君をお残し申し上げたまま、とても行けるものではないだろう。

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文ことばなめき人こそ 〜第二百六十二段

 文ことばなめき人こそいとどにくけれ。世をなのめに書き流したることばのにくさこそ。さるまじき人のもとに、あまりかしこまりたるも、げにわろきことぞ。されど、わが得たらむはことわり、人のもとなるさへにくくぞある。

 おほかた、さし向かひてもなめきは、などかく言ふらむと、かたはらいたし。まして、よき人などをさ申す者は、さるは、をこにて、いとにくし。

 男主などわろく言ふ、いとわろし。わが使ふ者など、「おはする」「のたまふ」など言ひたる、いとにくし。ここもとに「侍り」といふ文字をあらせばやと、聞くことこそ多かれ。「愛敬な。などことばは、なめき」など言へば、言はるる人も笑ふ。かくおぼゆればにや、「あまり嘲弄(てうろう)する」など言はるるまであるも、人わろきなるべし。

 殿上人、宰相などを、ただ名のる名を、いささかつつましげならず言ふは、いとかたはなるを、けぎよくさ言はず、女房の局なる人をさへ、「あの御前」「君」など言へば、めづらかにうれしと思ひて、ほむることぞいみじき。

 殿上人、君達を、御前よりほかにては、宮(つかさ)をのみ言ふ。また、御前にて物を言ふとも、聞こしめさむには、などてかは「まろが」など言はむ。さ言はざらむにくし。かく言はむには、などてわろかるべきことかは。

【現代語訳】

 手紙の言葉が無礼な人はとてもにくらしい。世間をいい加減に書き流してある言葉のにくたらしさといったらない。大したことのない人のところに、あまりかしこまるのも実に不適当だ。しかし、自分がもらったときは当然とし、人のところに来たものさえにくたらしいものだ。

 だいたい、会話においても無礼なのは、なぜそのように言うのだろうかと、いたたまれなくなる。まして、立派な人などをそのように申す者は、実は、愚かで、とてもにくらしい。

 男主人などを失礼に言うのは、とてもよくない。自分の使用人を「いらっしゃる」「おっしゃる」などと言うのも、とてもにくらしい。ここで、「います」という文字を使いたいと思って、聞くことが多い。「まあ何と可愛げがないこと。どうして言葉が無礼なのか」などと言うと、言われる人も笑う。このように感じるからだろうか、「あまり人をばかにしている」などと人から言われる場合まであるのも、体裁が悪いに違いない。

 殿上人、宰相などを、ただその実名を、少しも遠慮せず言うのは、とても聞き苦しいが、素直にそう言わずに、女房の部屋にいる召使にさえ、「あのお方」「君」などと言うと、めったにない嬉しさと思い、その誉め方は尋常ではない。

 殿上人、公達を、御前以外では、役職名だけで呼ぶ。また、御前で何かを言っても、お聞ききになるときは、どうして「まろが」などと言おうか。そんなふうに役職名を言わないのはにくらしい。そう役職名を言うのに、どうして悪かろうか。

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男こそ、なほありがたく 〜第二百六十八段

 男こそ、なほいとありがたくあやしきここちしたるものはあれ。いと清げなる人を捨てて、憎げなる人を持たるもあやしかし。公(おほやけ)所に入り立ちする男、家の子などは、あるが中によからむをこそは、選(え)りて思ひたまはめ。及ぶまじからむきはをだに、めでたしと思はむを、死ぬばかりも思ひかかれかし。人の娘、まだ見ぬ人などをも、よしと聞くをこそは、いかでとも思ふなれ。かつ女の目にもわろしと思ふを思ふは、いかなることにかあらむ。

 かたちいとよく、心もをかしき人の、手もよう書き、歌もあはれによみて、恨みおこせなどするを、返りごとはさかしらにうちするものから、寄りつかず、らうたげにうち嘆きてゐたるを、見捨てて行きなどするは、あさましう、公腹(おほやけばら)立ちて、見証(けんそ)のここちも心憂く見ゆべけれど、身の上にては、つゆ心苦しさを思ひ知らぬよ。

【現代語訳】

 男というものは、何とも類なき奇妙な心を持っている。たいそう美しい女を捨てて、醜い女を妻としているのもおかしなことだ。朝廷に出入りする男やその一族などは、数多くある女の中からとくに美しい女を選んで愛されたらよいのに。相手が自分には及びもつかない高貴な身分の女であっても、すばらしいと思うのなら命を懸けても強く懸想するのがよい。どこかの息女とか、まだ見たこともない未婚の女などでも、美しいと聞けば、どうにかしてわがものにしたいと思うものだ。それなのに、女の目から見てもよくないと思う女を愛するのは、どういうわけなのだろう。

 顔かたちがとてもよく、気立てもよい女の人で、字もきれいに書き、歌も趣豊かに詠み、手紙などで恨み言を言ってきても、男は、その返事はうまくするものの女の許へは寄りつきもせず、女がいじらしく嘆いていても、見捨てて他の女の所に行ったりするのは、あまりのひどさにあきれて、人ごとながら腹が立ち、傍目にもわびしく見えるのに、男は自分自身のふるまいについて、少しも相手の女の辛さなど意識していないものよ。

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うれしきもの 〜第二百七十六段

(一)
 うれしきもの。まだ見ぬ物語の一を見て、いみじうゆかしとのみ思ふが、残り見いでたる。さて、心劣りするやうもありかし。

 人の破(や)り捨てたる文(ふみ)を継ぎて見るに、同じ続きをあまたくだり見続けたる。いかならむと思ふ夢を見て、恐ろしと胸つぶるるに、ことにもあらず合はせなしたる、いとうれし。

 よき人の御(お)前に、人々あまたさぶらふをり、昔ありけることにもあれ、今聞こしめし、世に言ひけることにもあれ、語らせたまふを、われに御覧じ合はせてのたまはせたる、いとうれし。

 遠き所はさらなり、同じ都の内ながらも隔たりて、身にやむごとなく思ふ人の悩むを聞きて、いかにいかにと、おぼつかなきことを嘆くに、おこたりたる由、消息(せうそこ)聞くも、いとうれし。

【現代語訳】

 うれしいもの。まだ読んだことのない物語の一の巻を読み、その先を読みたいとばかり思っていたところ、残りの巻が見つかったとき。それでいて、読んでみたら案外がっかりすることもある。

 人が破り捨てた手紙をつなぎ合わせて読んでいて、同じ文章の続きを何行も見続けることができたとき。どうなることかと不安な夢を見て、恐ろしいと胸がつぶれそうになったものの、大したこともなく夢判断をきちんとしてくれたのは、とてもうれしい。

 高貴な方の御前に女房たちが大勢お仕えしていて、昔あったことにせよ、現在お聞きになった世間での評判にせよ、その高貴な方がお話になるのに、私に目を合わされて仰られるのはとてもうれしい。

 遠い所にいる場合は言うまでもなく、同じ都の中でも離れていて、自分が大切に思う人が患っていると聞き、どうなんだろう、どんな具合なのだろうと不安で嘆いているときに、全快したとの便りを得るのもとてもうれしい。

(二)
 思ふ人の人にほめられ、やむごとなき人などの、口惜しからぬ者におぼしのたまふ。もののをり、もしは、人と言ひかはしたる歌の聞こえて、打ち聞きなどに書き入れらるる。自らの上にはまだ知らぬことなれと、なほ思ひやるよ。

 いたううち解けぬ人の言ひたる古き言(こと)の、知らぬを聞きいでたるもうれし。のちに物の中などにて見いでたるは、ただをかしう、これにこそありけれと、かの言ひたりし人ぞをかしき。

 陸奥国(みちのくに)紙、ただのも、よき得たる。恥づかしき人の、歌の本末(もとすゑ)問ひたるに、ふと覚えたる、われながらうれし。常に覚えたることも、また人の問ふに、清う忘れてやみぬるをりぞ多かる。とみにて求むる物見いでたる。

【現代語訳】

 思いを寄せている人が人にほめられたり、身分の高い人などが彼を感心な者だと思っておっしゃるとき。何かの折に、自分の歌や人と贈答した歌がよい評価を得て、覚え書きなどに書き入れられるとき。私自身はその経験はないが、さぞかしうれしいだろうと思う。

 それほど懇意でない人が言った古い詩歌で、自分が知らないのを聞いて知ったときもうれしい。あとで書物の中などで見つけると、ただただおもしろく、ああ、この詩歌だったのだなと、それを言った人が興味深く立派に思われる。

 陸奥国紙、またふつうの紙であっても、よいものを手に入れたとき。気後れするような立派な人が、歌の上の句や下の句を尋ね、すぐに思い出せたときは、我ながらうれしい。ふだん覚えていることも、あらたまって人が尋ねると、きれいに忘れてしまって思い出せないままになる場合が多いものだ。急な用で捜す物を見つけたときもうれしい。

(三)
 物合はせ、なにくれといどむことに勝ちたる、いかでかうれしからざらむ。また、われはなど思ひてしたり顔なる人はかり得たる。女どちよりも、男はまさりてうれし。これが答
(たふ)は必ずせむと思ふらむと、常に心づかひせらるるもをかしきに、いとつれなく、なにとも思ひたらぬさまにてたゆめ過ぐすも、またをかし。憎き者のあしき目見るも、罪や得らむと思ひながら、またうれし。

 もののをりに衣(きぬ)打たせにやりて、いかならむと思ふに、清らにて得たる。さしぐしすらせたるに、をかしげなるもまたうれし。またも多かるものを。

 日ごろ、月ごろ、しるきことありて、悩みわたるが、おこたりぬるもうれし。思ふ人の上は、わが身よりもまさりてうれし。

 御前(おまへ)に人々所もなくゐたるに、今上りたるは、少し遠き柱もとなどにゐたるを、とく御覧じつけて、「こち」と仰せらるれば、道あけて、いと近う召し入れられたるこそうれしけれ。

【現代語訳】

 物合わせなど、何やかんやと競争することに勝つのは、どうしてうれしくないことがあろうか。また、我こそはと得意顔になっている人をだますことができた場合はうれしい。女どうしよりも、男をだますことができたら一段とうれしい。相手がきっと仕返ししようとするのが思われて、常に注意を払っているのもおもしろいが、相手がそっけなく何も思っていないようすでこちらを油断させながら過ごしていくも、またおもしろい。憎たらしい人が辛い目にあうのも、そう考えるのは罰が当たると思うものの、やはりうれしい。

 何かの折に、つやを出すために衣を打たせやって、どんなふうになるかしらと思ううちに、美しく出来上がってきたのはうれしい。さし櫛を磨きに出して、すばらしく出来上がったときもうれしい。このような例はたくさんある。

 幾日も、幾月も、はっきりした兆候があって患い続けていて、すっかりよくなったときもうれしい。自分が慕っている人の身のときは、自分自身のこと以上にうれしい。

 中宮様の御前に女房たちがすきまもなく座っているところに、遅れて参上した自分が、少し離れた柱のそばなどに座っていると、中宮様がすぐにお見つけになり、「こちらへ」と仰られて、女房たちが道を開けて、すぐお近くまで召し入れられたのは、それこそうれしい。

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御前にて人々とも 〜第二百七十七段

 御前(おまへ)にて人々とも、またもの仰せらるるついでなどにも、「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙の、いと白う清げなるに、よき筆、白き色紙、陸奥紙(みちのくにがみ)など得つれば、こよなう慰みて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかめり、となむおぼゆる。また、高麗縁(かうらいばし)のむしろ、青うこまやかに厚きが、縁(へり)の紋いと鮮やかに、黒う白う見えたるを引き広げて見れば、何か、なほこの世はさらにさらにえ思ひ捨つまじと、命さへ惜しくなむなる」と申せば、「いみじくはかなきことにも慰むなるかな。姨捨(をばすて)山の月は、いかなる人の見けるにか」など笑はせたまふ。候(さぶら)ふ人も「いみじう安き息災の祈りななり」など言ふ。

 さて後、ほど経て、心から思ひ乱るることありて、里にあるころ、めでたき紙二十を包みて賜(たま)はせたり。仰せ言には、「とく参れ」などのたまはせて、「これは、きこしめしおきたることのありしかばなむ。わろかめれば寿命経(ずみやうきやう)もえ書くまじげにこそ」と仰せられたる、いみじうをかし。思ひ忘れたりつることを、思(おぼ)しおかせたまへりけるは、なほ、ただ人にてだにをかしかべし。まいて、おろかなるべきことにぞあらぬや。心も乱れて、啓すべき方もなければ、ただ、  「かけまくもかしこき神のしるしには鶴の齢(よはひ)となりぬべきかなあまりにや、と啓せさせたまへ」とて参らせつ。台盤所の雑仕(ざふし)ぞ御使ひには来たる。青き綾(あや)の単(ひとへ)とらせなどして、まことに、この紙を草子に作りなど、持て騒ぐに、むつかしきことも紛るる心地して、をかしと心の内にもおぼゆ。

【現代語訳】

 中宮様(定子)の御前でほかの女房たちと、また中宮様が何かおっしゃられるときなど、私が、「世の中が腹立たしく、煩わしくて、わずかな間も生きられそうにない心地がして、ただもうどこへなりとも行ってしまいたいと思うようなとき、普通の紙ながら、たいそう白くてきれいで、上等の筆、白い色紙、陸奥紙などを手に入れると、この上なく心が晴れ、ままよ、こうしてしばらく生きられそうだ、と思われてきます。また、高麗縁のむしろの、青々としてきめ細かな厚手のもので、縁の紋がとても鮮やかに黒く白く見えているのを引き広げて見ると、どうしてどうして、やはりこの世は思い捨てられないと、命さえ惜しくなってきます」と申し上げると、「とてもたわいないことにも慰められるものね。月を見ても心が慰められないという姥捨山の月は、いったいどんな人が見たのだろうか」などとお笑いになる。お側にお仕えしている女房も、「とても手軽な災難よけの祈りのようですね」などと言う。

 さてその後しばらくして、心の底から思い悩むことがあり、宮中を離れて実家にいるころに、中宮様が、すばらしい紙を二十ばかり包んで私に下さった。仰せごととして、「早く参上せよ」などとおっしゃって、「これは、聞き覚えていたことがあったから。ただ、この紙は上等ではなさそうなので、延命を祈るお経も書けそうもないようだが」とおっしゃったのがとてもおもしろい。私が忘れていたことを覚えておられたのは、やはり普通の人の場合でも情趣があるものだ。まして中宮様なのだから、ふつうのことと思ってよいのだろう。心も乱れて、中宮様に申し上げる方法もないので、ただ、「口に出すのも恐れ多い神(紙)の効果で、千年も生きる鶴の寿命となってしまいそうなほどです。あまりに大げさでございましょうが、と申し上げてください」と言って参上させた。台盤所の召使がお使いとして来たのだった。使いの者に青い綾織りの単衣を与えたりして、この紙を草子に作るなどして大騒ぎしていると、まったく煩わしいことも紛れる気持ちがして、おもしろいものだと心の中で感じられる。

(注)陸奥紙 ・・・ 陸奥産の、厚手で細かなしわのある上質紙。
(注)台盤所 ・・・ 女房の詰め所。

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香炉峰の雪 〜第二百九十九段

 雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などして集りさぶらふに、「小納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪いかならむ」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾(みす)を高くあげたれば、笑はせ給ふ。

 人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この宮の人には、さべきなめり」といふ。

【現代語訳】

 雪がとても高く降り積もったのに、いつも違い御格子を下ろして、角火鉢に火をおこして、よもやま話などして伺候していると、中宮様が「少納言よ、香炉峰の雪はどうであろう」と仰ったので、御格子を上げさせて、御簾を高く上げてごらんに入れたところ、中宮様はお笑いになられた。

 他の女房たちも、「そういうことは私たちも知っているし、歌などにも歌うけれど、全然思いつきませんでした。あなたはやはり中宮様にはふさわしい人です」と言った。

(注)陸奥紙 ・・・ 陸奥産の、厚手で細かなしわのある上質紙。
(注)台盤所 ・・・ 女房の詰め所。

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跋文 〜第三百十九段

 この草子(さうし)、目に見え心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居(さとゐ)のほどに書き集めたるを、あいなう、人のために便(びん)なき言ひ過ぐもしつべきところどころもあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏(も)りいでにけれ。

 宮の御前に、内の大臣(おとど)の奉りたまへりけるを、「これに何を書かまし。上の御前には史記といふ書(ふみ)をなむ書かせたまへる」などのたまはせしを、「枕にこそははべらめ」と申ししかば、「さば、得てよ」とて賜はせたりしを、あやしきを、こよやなにやと、尽きせず多かる紙を、書き尽くさむとせしに、いと物覚えぬことぞ多かるや。

 おほかたこれは、世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべき、なほ選りいでて、歌などをも、木・草・鳥・虫をも、言ひだしたらばこそ、「思ふほどよりはわろし。心見えなり」とそしられめ、ただ心一つに、おのづから思ふことを、たはぶれに書きつけたれば、ものに立ちまじり、人並み並みなるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、「恥づかしき」なんどもぞ、見る人はしたまふなれば、いとあやしうあるや。げに、そもことわり、人の憎むをよしと言ひ、ほむるをもあしと言ふ人は、心のほどこそ推し量らるれ。ただ、人に見えけむぞねたき。

 左中将、まだ伊勢守(いせのかみ)と聞こえし時、里におはしたりしに、端のかたなりし畳(たたみ)さしいでしものは、この草子載りていでにけり。惑ひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ返りたりし。それよりありきそめたるなめり。とぞほんに。

【現代語訳】

 この草子は、私の目に見え、心に思うことを、まさか他人が見ようとすることはなかろうと思い、退屈な里住まいをしていたころに書き集めたのを、あいにく、他人にとって具合の悪い言い過ぎをしたにちがいない箇所もあるため、うまく隠していたと思っていたのに、心ならずも世間にもれ出てしまった。

 実は、中宮様に内大臣様(藤原伊周)が献上された草子の料紙を、中宮様が「これに何を書こうかしら。上の御前(一条天皇)は史記という書物をお書きになりました」とおっしゃられたので、私が「枕でございましょう」と申し上げたところ、「それなら、あなたが取りなさい」とおっしゃられて御下賜になられたのだが、つまらないことを何やかんやと、限りなくたくさんある料紙に全部書き尽くそうとしたものの、とてもつじつまの合わないことが多くなってしまった。

 そもそもこの草子は、世の中のおもしろいことや、人がすばらしいと思いそうなことを選んで、歌であったり、木や草や鳥や虫のことなどを言っているのであれば、「予想したほどよくない。作者の才能の程度が知れる」と批判もされようが、これはただ自分ひとりに、心に自然に浮かんだことをたわむれに書きつけたのだから、世間の立派な書物と片を並べて、同じような評判を聞けるはずもないと思っていたのに、「敬服しました」などと読んだ人がおっしゃるのは不思議でしようがない。しかし考えてみれば、なるほどそうほめてくれるのも道理、人が憎むことをよいと言い、ほめることを悪いと言う心が大いに察せられる。ただ、これが人に見られたことがしゃくだ。

 左中将(源経房)が、まだ伊勢守と申し上げていた時、私の家にいらっしゃった折に、端のほうに置いてあった畳を差し出したところ、何とこの草子がそれに乗って出てしまった。あわてて戻したが、中将はそのまま持っていらっしゃり、ずいぶん長らく経って返ってきた。それからこの草子が世間に流布し始めたようだ。と、元の草子に書かれている。

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【枕草子について】

 11世紀初めに、清少納言によって書かれた随筆。跋(ばつ)文と300段前後からなる(伝本によって章段数が異なる)。『枕草子』の命名は、おそらく後人が跋文の「枕にこそは侍らめ」から命名したものと考えられ、「枕草子」が普通名詞となった経緯から、『清少納言枕草子』が正しい呼称とされる。

 内容は類聚(るいじゅう)章段・日記的章段・随想的章段の3つに分けられる。さらに類聚章段は「山は」「木の花は」などの「は型」と、「めでたきもの」「うつくしきもの」などの「もの型」に分けられ、ともに当時の和歌的な美意識には収まりきれない新鮮な発想がみられる。日記的章段はおもに作者の約10年間の宮仕えを中心とする生活の記録で、主人の中宮定子をはじめ多くの人々との交流が生き生きと描かれている。和歌や漢詩の高い知識をふまえた機知に富んだやりとりが特徴的で、定子のサロンの文化水準の高さを物語っている。定子の父道隆の死後、中宮の周辺には不幸な出来事が続き、自ら明るくふるまうことで雰囲気を盛り立てていこうとする作者の姿が痛々しい。随想的章段は、日常生活や自然についての感想をつづったエッセー風のもので、冒頭の「春は曙(あけぼの)」の段などがふくまれる。

 作品をつらぬくのは、明るく理知的な「をかし」の精神であり、同時代の「源氏物語」が「あはれ」の文学であったのと対比される。後代の随筆文学、とりわけ吉田兼好の「徒然草」に大きな影響をあたえた。

【中宮定子について】

 中宮(皇后)定子は、中関白と称せられた藤原道隆を父とし、漢詩人として名高い貴子を母として誕生。正暦元年(990年)に一条天皇の後宮に入内し、中宮となった。清少納言が始めて出仕したとされる正暦4年のころは、中関白家が栄華を極めていた時期で、定子の宮廷生活も華やかに賑わい立つ日々だった。定子は生来のすぐれた資質に加え、父の明るい性格や母の学才を受けついで、周囲の人間をひきつけずにはおかない人柄だった。その並びない才色で、一条天皇の寵愛を一身に受けた。

 しかし、長徳元年(995年)に道隆が死去すると、その栄華は一転した。政権を掌握した道長の圧迫を受けて、兄の伊周や弟の隆家は失脚させられた。伊周が大宰権師として京を下るに際し、定子はみずから髪を下ろして尼となった。さらにその年に母も亡くなり、身辺は失意と悲しみに包まれた。それでも天皇のご寵愛は続き、内親王と親王を出産した。長保2年に皇后となったが、内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去した。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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