25歳って最高に楽しい!



わたしは12月末で24歳から25歳になり、今で早3ヶ月が経ちました。

あっという間に過ぎた3か月。時が過ぎるのはとても早いものです。
特に、年を取れば取るほどそれは早く感じるようになった気がします。


そして『3』つながりになりますが、わたしももう社会人になって3年目。
基本、自堕落に生きているわたしですが、欲しいものも頑張れば手に入れることができるし、美味しい物だって食べたいときに食べれる。
男断ちしている身であるものの、デートする相手だってちゃんといる。
25歳って、自分史上最高に楽しい!



あまり上手に書けませんが、25歳になって、生きてきたこれまでで一番楽しい生活をできていると感じています。



そこでふと振り返ったときに、25歳の誕生日の際に日頃から良くしていただいているお姉様から、こんなメールを貰ったのを思い出しました。


『25歳は奇しくも生きるステージが変わる節目に近いように思えます。
普通でない生き方は人に羨ましがられることを強いられ、時にはしんどいかもしれませんが、どうか良い一年になりますように。』



25歳になって、まるで生き急いでいるかのように嬉しい出来事や素敵な出会いがたて続けに起こっていて、
のんきに「あ〜楽しいな幸せだな、もういつ死んでもええわぁ」と思っているこの頃。

むしろそんな人生を、よく思わない人もいるかもしれない。
でもどんなに人様に嫉まれ、僻まれ、嫉まれようとも、正直言ってどうでも良いと思っています。

でも、確実に年をとっていくなかで、次第に「常に“去年の自分よりも楽しくて幸せだ”と思える自分でいられるのか。」「これ以上の幸せはあるのだろうか」と思うようになりました。


そのように考えていると、ひょっとしたら、今の自分の生活を羨ましく感じたり、楽しくて幸せだと思いながらもどことなくしんどいと感じているのは、
他の誰でもない、もう一人の自分なのかもしれないと思ったのです。



25歳って絶妙。
あくまでで四捨五入して30なだけで、アラサーでもない。

人生の妙味を味わいつつ、珍味へと熟成させたいと願うばびろんであった。





ば び ろ ん  まつこ

昔の恋人と逢ってきたときのはなし。 ―ヴェルタースオリジナルの想いで




会えばかつては愛し合い、憎しみ合って別れたふたりのはなし。



もう二度と会うまいと心に誓ったあの日から早数年。
ひょんなことをきっかけに、かつての恋人と逢う機会があった。



久しぶりの再会で積もる話はたくさんあって、話は尽きるところがない。

お互いのことをよく理解していたからこそ分かる話もたくさんあって、
話はさらに深度を増し、やっぱり私たちって時こそ過ぎれど変わってないよねなんて話になりながら、
時間はあっという間に過ぎていく。


話しながら、当時は恥ずかしくて言えなかったことや、昔の関係についてネタのように笑いあったりできるのってすごく素敵な関係だと思った。


懸命に話す彼を見ていると、ああ、この顔のここが私ってたまらなく好きだったのよね。だとか、
彼の仕草にさりげなく懐かしさを憶えたりと。
まさに過去の思い出の縁取りをなぞる作業。


きっと、世にはびこる復縁やちょっとの気の迷いで昔の恋人とワンナイト、なんて、きっとこんな流れで進んでいくのよね。




そして同時に感じたのは、しばらく会わずに離れていたのに、
ずっと一緒にいたかのような感覚に陥りそうになったこと。
それはまるで袂を分かち合ったかつての兄弟のようで、すごく愛おしくて、懐かしい。

でも、不思議と当時の好きだった気持ちとはまたひとつ違う。

だったらなんでわたしたちって別れてしまったんだろう。そんな気持ちにさえ陥りそうになる。

でも、わたしたちは付き合うような関係ではなかった。だから別れたのであって。



そしてそれは、私は恋愛において、目の前の彼のような「なんでも分かり合える関係」を求めてないからではないだろうかと思った。


違いを楽しめるのが、恋愛の美味しいところだと思うから。



兄弟はクセや相手のことが手に取るようにわかるから、ずっと一緒にいて落ち着くのだろう。

彼はわたしの心から愛せる兄弟であり、特別な存在なのである。
まさにヴェルタースオリジナルのような。
(ちなみにわたしはおじいちゃん役がいいな)

でもそれは、温かくて守るべき家族として存在しているだけで、
やっぱり恋愛において私の求めるところではないのだ。



もしくは、市井の人が恋人に求める、いわゆる "安心感”、“癒し”、“安らぎ”、といったものが、
私にはまだ必要としない、極度の恋愛未熟者なのではないか。


これだと私が生まれてこのかた同棲というものをしたことがなくて、
今後も恋人ができたとしても同棲することはもとよりマンションに上げることすら抵抗があり、
これまで未だかつて行ったことがないのも頷ける。
(それについてはまた追々。)



目の前の元恋人をこれまで通り愛せるかどうかというのは別として、失恋を無理に忘れようとしたりするのではなく、
そのときの自分と向き合い、好きだった気持ちを大切にする女性は美しく、また素敵な恋愛をするのだと思う。


私は、彼と再会できて、悲しくなったり、胸を締め付けられたりするのではなく、当時の純粋に誰かを好きになる気持ちを取り戻せそうな気がして、とても幸せで満たされた機会であった。


そして私は恋愛になにを必要としていて、それが他人が求めるであろうものとは違うことも分かった気がした。



自分の心の棚卸しをするためにも、昔の恋人に会うのは決して悪いことではないのではないだろうか。



それでもし昔の恋人と会って心が痛んだら、もうしばしパス付きZipファイルに圧縮して名前を付けて保存しておけばいい。




わたしはいつだってデスクトップに名前を付けて保存したのち、まとめてゴミ箱行きなのであった。








ば び ろ ん まつこ


昔の恋人と逢ってきたときのはなし。 ―ヴェルタースオリジナルの想いで




会えばかつては愛し合い、憎しみ合って別れたふたりのはなし。



もう二度と会うまいと心に誓ったあの日から早数年。
ひょんなことをきっかけに、かつての恋人と逢う機会があった。



久しぶりの再会で積もる話はたくさんあって、話は尽きるところがない。

お互いのことをよく理解していたからこそ分かる話もたくさんあって、
話はさらに深度を増し、やっぱり私たちって時こそ過ぎれど変わってないよねなんて話になりながら、
時間はあっという間に過ぎていく。


話しながら、当時は恥ずかしくて言えなかったことや、昔の関係についてネタのように笑いあったりできるのってすごく素敵な関係だと思った。


懸命に話す彼を見ていると、ああ、この顔のここが私ってたまらなく好きだったのよね。だとか、
彼の仕草にさりげなく懐かしさを憶えたりと。
まさに過去の思い出の縁取りをなぞる作業。


きっと、世にはびこる復縁やちょっとの気の迷いで昔の恋人とワンナイト、なんて、きっとこんな流れで進んでいくのよね。




そして同時に感じたのは、しばらく会わずに離れていたのに、
ずっと一緒にいたかのような感覚に陥りそうになったこと。
それはまるで袂を分かち合ったかつての兄弟のようで、すごく愛おしくて、懐かしい。

でも、不思議と当時の好きだった気持ちとはまたひとつ違う。

だったらなんでわたしたちって別れてしまったんだろう。そんな気持ちにさえ陥りそうになる。

でも、わたしたちは付き合うような関係ではなかった。だから別れたのであって。



そしてそれは、私は恋愛において、目の前の彼のような「なんでも分かり合える関係」を求めてないからではないだろうかと思った。


違いを楽しめるのが、恋愛の美味しいところだと思うから。



兄弟はクセや相手のことが手に取るようにわかるから、ずっと一緒にいて落ち着くのだろう。

彼はわたしの心から愛せる兄弟であり、特別な存在なのである。
まさにヴェルタースオリジナルのような。
(ちなみにわたしはおじいちゃん役がいいな)

でもそれは、温かくて守るべき家族として存在しているだけで、
やっぱり恋愛において私の求めるところではないのだ。



もしくは、市井の人が恋人に求める、いわゆる "安心感”、“癒し”、“安らぎ”、といったものが、
私にはまだ必要としない、極度の恋愛未熟者なのではないか。


これだと私が生まれてこのかた同棲というものをしたことがなくて、
今後も恋人ができたとしても同棲することはもとよりマンションに上げることすら抵抗があり、
これまで未だかつて行ったことがないのも頷ける。
(それについてはまた追々。)



目の前の元恋人をこれまで通り愛せるかどうかというのは別として、失恋を無理に忘れようとしたりするのではなく、
そのときの自分と向き合い、好きだった気持ちを大切にする女性は美しく、また素敵な恋愛をするのだと思う。


私は、彼と再会できて、悲しくなったり、胸を締め付けられたりするのではなく、当時の純粋に誰かを好きになる気持ちを取り戻せそうな気がして、とても幸せで満たされた機会であった。


そして私は恋愛になにを必要としていて、それが他人が求めるであろうものとは違うことも分かった気がした。



自分の心の棚卸しをするためにも、昔の恋人に会うのは決して悪いことではないのではないだろうか。



それでもし昔の恋人と会って心が痛んだら、もうしばしパス付きZipファイルに圧縮して名前を付けて保存しておけばいい。




わたしはいつだってデスクトップに名前を付けて保存したのち、まとめてゴミ箱行きなのであった。








ば び ろ ん まつこ


ゆきふるよるに ―誰かと閉じ込められている感覚の恋しさについて想いを馳せてみる

 
 
 
都内は大雪です。
 
 
私は災害が多い場所で育ったこともあり、雪だけではなく台風がくる夜などは
家の大人は皆大騒ぎしているのをよそに、とくに愉しいことがあるわけではないのによく大はしゃぎしたものです。
 
あの頃の無駄に高まった高揚感は、一体何だったのでしょうか。
 
 
 
そう言えば私が高校生のときに、もう誰の何という本かは忘れましたが、
とても印象に残っている情景があります。
 
 
まだセックスをしたことのない初々しいカップルが、嵐の日におうちデートしていて、
これからなにが始まるか分からないなか、ふと女が
「このままこの家に二人だけ、二人だけの世界に閉じこもってしまえば良いのに」
と思ったってだけの内容の本を読んでいたのですが、
その本の内容が恋愛における泡沫感を残しつつも、わたしがこれまで感じていた、あの嵐の日の夜の高揚感を上手く表現していて、とても好きになったのを思い出しました。
 
 
 
 
その本を読んでから、付き合っていた男の子の家に遊びに行った際に、同じようなことがありました。
 
その日は夜になったわけではないのに急に辺りが暗くなってきて、いきなり大雨が降ってきました。
 
これじゃあしばらくは帰れそうにないねーなどと言いながら、
まだ高校生だった私たちは隣同士で座ってディズニー映画を観ていたのですが、
もう内容が頭に入らないくらい、この後の展開にドキドキしていました。
でも、このドキドキがどこか心地よい。
 
この大きなお家に、小さな若い二人が閉じ込められていて、
それこそ先の小説ではないけれど、この一瞬を永遠にできたら。
 
目の前のディズニーの映像が、これほどまでに価値を見いだせなかったことはありませんでした。
 
 
 
 
 
そんな経験を経て、この大雪です。
 
さっきまで一人で部屋に閉じこもっていると、むしょうに誰かと閉じ込められている感覚がとても恋しくなってきます。
そのときの気持ちを思い出しては、わたしも随分と遠いところまで来てしまったものだわ、なんてしみじみとしていたところでした。
 
 
 
 
 
ゆきふるよるに、誰かと閉じ込められた世界にふたりきり。
 
あの頃に戻りたい、と思ってしまったよるでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ば び ろ ん まつこ
 
 
 
 

このままの関係のどこがだめなの?ーセックスソウルメイトについて



今回は(も)超長文駄文散文よろしくねん♡



食べ物の趣味も合うし、話していて話題も尽きない。
前世とかそういった類いの話は信じないけれど、前世は兄弟だったんじゃないかってくらいに仲が良い。
当然セックスだってする。
それもまるで互いの疲れを癒やすマッサージをするかのように、ごく自然に。


そういった関係の男性がわたしにもかつていました。


相手の愛を疑わないし、端的に言ったら「好き」だけれども、きっと世に一般に言う「好き」とは違うと確信できる。
だって、そこらの女の子のようにちょっとやそっとのことで傷ついたり、泣いたりなどの嫉妬愛憎の感情が湧かないから。
相手から「好き」という言葉がなくても、何となくそれは感じることができる。
ってより、それを求めていない自分がいる。

仮に彼から「彼女ができました」と言われたとしても、「あら!それはそれは良かった!」と祝福できるだろうってくらいに。


お互い「付き合う」という縛られ方をなによりも嫌がり、「付き合う」ということへの野暮ったさを互いに感じつつも、この関係を担保するものって、実際のところ何もない。
だから世の男女は、免罪符のように「付き合おう」という言葉を口にするのではないかとさえ思う。


この関係については本当に何とも言えないところがあるが、そこを解せるのがわたしたちソウルメイトなのであると思っていた。

でもそれって結局要するにセフレでしょ?と言われると何も言えないが、むしろフレンドというよりソウルメイトに近い関係と信じたい。
まさにセックスソウルメイト。
略すものならセソメ。


もっとも、口下手な私が好んで選んだ道が、このセソメだったのだ。







所詮セソメはセソメ




でも、だからと言った方が良いのか、当然とても虚しくなることだってある。
いくらソウルメイトだと言っても、所詮はひとりの男とひとりの女がたまたま重なっただけで、免罪符もなにもない、危うく不安定な関係なのだから。
しかしそれらの悩みは、市井のカップルとて同じこと。
一般的な「付き合う」と、「セソメ」と何が違うんだろう?


それこそ先述の例で出した、彼からの「彼女ができました」発言に対する「良かったね」も、実はちょっと上から目線だったりするのである。

その彼女を名乗る女も、流石にに私と彼の関係ほどまでに分かり合えまい、まあせいぜい短い間だけでも恋人ごっこを楽しむが良い!みたいな。


やっぱりこの関係は負け惜しみなのである。
彼が「彼女」という隠しコマンドを持っていたことを、そしてその隠しコマンドを私へ使わなかったことを、私は「負け」として正々堂々認めるべきなのである。

また、例え彼がその隠しコマンドを持ちあわせていなくとも、自分が敢えて自らセソメを選んだとしても、どんなに正々堂々とセソメを主張したって、負けは負けなのだ。


その、「負け」とするところって、結局自分のプライドだったり他者からの承認欲求だったりするのだけれども。



セックスソウルメイトの関係は良好であれば良好であるほど、後にくるダメージは大きい気がする。
お互いに何かしらに負けて、疲れて、フェードアウトしてしまう。


じゃあちゃんとした恋愛をしたら?ってことで男絶ち。



かくして私の男絶ちは続く…。


カモメはカモメ、じゃないけど、セソメはセソメ。





ば び ろ ん まつこ

貴方は恋人に自分の恥部を見せれるか?  ―死に際して考えたこと

 

人は死に際で何を想う

 
 
先日、銀座にある超高級鉄板焼き屋さんで食事を済ませたあと、タクシーで夜の銀座をあとにしているときに事件は起こりました。
 
 
店を出る前からなんとなく食べたものが胃につっかえるものがあったので、念のためリバース袋を用意していたのですが、タクシーに乗った途端に急激にリバース欲に見舞われ、その後は記憶がありません。
 
 
それから救急病院に運ばれたのですが、急性胃腸炎だったようです。
急性胃腸炎で大袈裟な、と思う方もいらっしゃるかと思いますが、これまで大病という大病をしたことがない私にとっては、もう本当に苦しい体験でした。
 
 
病院で点滴を打って、帰宅した後も上から下から蟻の門渡り責めは夜通し続き、朦朧とする意識のなかでひとりでおいおいと泣いていました。
なぜ自分はひとりで苦しんでいるのか、このまま自分はひとり苦しみながら死んでしまうのか、と。
 
とてもじゃないけど他人には見せれないこの醜態を、頭上のもうひとつの意識で感じながら、ふと思ったことがありました。
 
それは、この悶え苦しんでいる様子や吐瀉物といった、いわば自分の「恥部」を恋人に見せれるかってことです。
 
 
たとえば恋人との生活の延長に結婚というものがあるとすれば、いまの恋人にその恥部を貴方は見せることができますか?
結婚って、生活を一にすることが前提としてあるから、いま結婚している皆さんはそういった恥部も共有されているんでしょうか?
 
 
わたしは、朦朧とする意識のなかで、それは断固としてできないわ!と考えていたわけです。
その前に恋人すらいないのですが。
 
 
それで、そのあとベッドに横たわって、遠のく意識のなかで、これまで付き合ってきた男性が頭の上で走馬灯のように通り過ぎていくのです。
 
みんな幸せそうに笑いながら、悶え苦しんでいる私を尻目に、誰一人私の前で足を止めようとしません。
でも、そうであっても、苦しい私は悲しい気持ちにはこれっぽちもならないのです。
なぜなら、実際の彼らにわたしの「恥部」を見せずに済んだと思えるから。
 
 
うごめく胃腸に悩まされつつも、やっぱり私は誰にも自分の恥部を見せずに孤独な道を自ら選びたいわ、あーひとりでよかった、そう思えたのでした。
 
 
 
 
 
 
 

そしてひとり恥部晒しは続く…

 
 
 
また、病床に伏しているときは、決まって気遣いの連絡がくるものです。
 
大丈夫?ちゃんと食べれてる?なんか買ってこようか?などなど。
 
 
そうやって身内でも恋人でもないのに、心配してくれるのは本当に有り難いのです。
 
がしかし、ひねくれ者のわたしは、“そうやって家に忍び込もうとしてるのね!なんて下心のあるやつなんだ!” などと思うヒドい自惚れ女なのです。
 
ついでに暴露しますが、私はましてや自分の家でさえも、「恥部」としていることがあって、これまでの恋人も誰一人家にあげたことがないんですよね。
 
なので、同棲とか、部屋に泊めたとかいう話って、私にとっては本当に身の毛もよだつホラーなんですよ。
 
 
って、少しお熱があるせいか、話がそれてきましたね、それについてはまた追々書くとしましょう。
 
 
 
 
ノロや胃腸炎、本当に流行っているみたいですから皆さんお気をつけなさってくださいね。
 
 
 
 
 
ば び ろ ん まつこ
 
 

恋をしたければ新しい下着を買えば良い―脱・上下セット3,000円

 
 

恋をしたければ新しい下着を買えば良い

 
 
 
私も別に毎日男のひとを取っ替え引っ替えしているわけでもないし、特に恋愛体質でもない。
実際、いまは男絶ちをしている身でもあるし。
 
でも、いったい人様はどう思っているんだか、会う人会う人には
 
「どうやったらそんなに素敵な人に出会えるのですか?」
 
と言われます。
 
私が出会う人が皆揃って素敵な人な訳でもないのですが、そう言っていただくのはありがたいことでもあります。
確かに出会うなかで素敵な人ももちろんいますが。
 
 
このような質問に対して、明確なアドバイスはできないのですが、
そんな私が今日これだけは胸を張って言いたい!ということがあります。
 
 
それは、「恋をしたければ新しい下着を買えば良い!」ということです。
 
 
 
 
 
 

まずはTバックを買うことから

 
 
 
本当に科学的な根拠はないのですが、新しい下着を身につけることへのパワーは、計り知れません。
少なくとも縁結びの神社に願掛けに行くよりは効果があると思っています。
 
 
ただ、新しい下着と言っても、条件があります。
それは、
いつも使っている下着よりもより上質なものや、高価なものであること、もしくは、スケベなものであること
です。
 
 
良い下着を身につけるということは、言わば言いようのない“体験”です。
 
紐やレースが肌に触れるとき、肌を締め付けるとき、その感覚すべてが非日常な体験なのです。
 
そして、すけべな下着は、身につけるほどに脱がせられることに思いを馳せれます。
 
その特別な気持ちで外に出れば、それは自然と自分への自信に変わるのだと思うのです。
 
 
私ってこんなにスケベな下着を着ているのよ、とたくらみを秘めた身体はよくシナりますし、
上質の生地に包まれた身体は自然としぐさも女性らしくなってきます。
 
これは、そこらの縁結びの神社に行ったところでは得られないものだと思いませんか?
 
 
 
まあ百聞は一見に如かず、騙されたと思って、まずはTバックを買うことから始めて欲しいのです。
上下セットで3,000円の下着しか買えないようであれば、Tバックを一枚買いましょう。
初心者なら総レースのTバックから始めると付け心地も良くて良いです。
 
もしTバックを持っているのであれば、いつも買う下着屋ブランドの高級ラインに手を出したり、
少し高いブラジャーやビスチェを買うのもよし。
 
とにかく、いつもの自分のラインナップから外れることです。
 
 
私は、繊細なレース使いのペルラや、程よい締め付け感で綺麗なボディラインを演出するオーバドゥを好んで買います。そういったブランドもすごくおすすめです。
私はこれまで、より胸を大きく魅せれる下着を好んで着ていたのですが、こういった高級下着に出会ってからというもの、いかに綺麗に肉感を出せるか、というところも視野に入れれるようになりました。
 
 
 
さぁ、貴方も新しい下着を買って、まだ見ぬ誰かに胸をときめかせてみようではありませんか。
ときめきにまかせたら、胸も自然と大きくなるかも?
 
 
 
 
 
 
 
 
ば び ろ ん まつこ