「大日本教育会・帝国教育会東京府会員ファイル20」
東京府会員
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後藤 牧太 (ごとう まきた)
(写真出典:東京文理科大学・東京高等師範学校編『創立六十年』東京文理科大学、1931年)
大日本教育会・帝国教育会東京府会員。明治16(1883)年の大日本教育会結成以来の古参会員である。明治17(1884)年に審査員、明治21(1888)年に議員に選出されている。明治25(1892)年以後は評議員(常議員)に連続して当選し、大正12(1923)年まで歴任した。32年間という評議員歴は、多田房之輔や丹所啓行などと並んでトップクラスの長さであり、帝国教育会の重鎮であったといってもよい。後藤は、会務運営だけでなく、研究調査などの事業にも積極的に参加している。明治17年2月には、大日本教育会から西村貞・中川謙二郎とともに四谷区講習会に派遣され、以後しばらく同講習会講師を務めている。明治27(1894)年2月からは光学講義を開き(明治28(1895)年3月まで)、2月4日の第1回目の講義には500余名の参加者を集めたという。また、明治27年には、理科教授法研究組合と児童研究組合に所属し、同テーマの研究に従事している。明治32(1899)年に学制調査部・国字改良部といった研究組織が設置されると、その委員としても研究調査に従事した。教育研究に関わる様々な委員を数多く務め、例えば明治34(1901)年から36(1903)年にかけては、帝国教育会編集の『公徳養成唱歌』や『公徳養成』の編纂に深く関与した。大正3(1914)年5月に名誉会員となり、没するまで会員であり続けたと思われる。
嘉永6(1853)年生〜昭和5(1930)年没。高等師範学校教授。三河国寶飯郡の医家に生まれる。慶応3年、江戸に出て、藤堂藩の学者の子・石川義一郎について英学を学ぶ。明治元(1868)年、根岸に住む医者・坪井某の家塾において英学を学んだ後、慶應義塾に入塾した。明治2(1869)年6月、慶應義塾を一旦退塾、官立医学校英語科補助教師に就いた。明治3(1870)年2月、再び慶應義塾に入塾、英学を本格的に学んだ。理科学を好んだため、慶應ではイギリスの数学・物理学を独習し、かつスペンサーやミルを好んで読んだという。さらに、英語・数学の教師も務め、明治初期の慶應義塾教育の一端を担った。
明治10(1877)年8月、東京師範学校雇教師となった。同年9月、同校訓導となり、物理・天文・地文・算術・代数・幾何・植物学・生理学・英語などを教授したという。明治14(1881)年9月に同校教諭に任じられた。このころ、開発主義の立場から簡易器械を使った実物・実験による物理教育を提唱している。明治17(1884)年には、自作の簡易器械をロンドン衛生万国博覧会に出品し、金牌を授章した。明治18(1885)年、教え子である瀧沢菊太郎・篠田利英ら群馬県師範学校の物理学教員とともに、簡易器械を用いた実験を中心に『小学校生徒用物理書』をまとめた。この年、一時、同校教頭勤務を務めたという。また、国字改良にも興味を示し、新仮名遣い(表音的仮名遣い)を支持した。「文検」の物理科試験委員にもなって、少なくとも明治30年代前半まで洋行中を除いて毎回務め続けた。明治20(1887)年、イギリス留学を命じられ、マンチェスターのオーウェンス大学、グラスゴー大学で物理学を学んだ。
後藤は、「手工教育の開拓者」ともいわれている。明治19(1886)年、「小学校ノ学科及其程度」において小学校の随意科目として手工科が加わると、後藤は東京師範学校で手工科の指導を始めた。さらに明治21(1888)年8月、文部省の命によりスウェーデンのネース手工師範学校に行き、スロイド・システム(民芸品の製作を通して手先の器用さを向上させ、形態感覚・美的感覚を身につけさせる形式陶冶的な手工教育制度)を調査した。その後再びイギリスに戻って留学を続けた後、明治23(1890)年帰国して高等師範学校教授となり、物理学と手工科の教授を担当した。また、東京工業学校でも手工科教授法の教育を担当した。上原六四郎や岡山秀吉とともに、文部省中等学校手工科検定試験委員も務めた。後藤の創案による物理簡易実験法と手工技術を応用した簡易物理器械の製作は、手工教育上、特筆すべき業績とされている。
明治23年6月には文部省で教則取調を兼務し、明治30(1897)年2月には尋常中学校教科細目調査委員を務めた。明治32(1899)年8月、一ヶ月ほど高等師範学校長事務取扱を命じられた。明治33(1900)年12月にも、約一ヶ月間、同校長心得を務めた。このころ、国字改良とくに漢字について意見を発表し、趣味的な使用を批判して文字の実用性を主張している。明治35(1902)年1月には、東京高等師範学校の勅任教授となった。明治40年代になると、単著としてを出版している。大正3(1914)年6月、文部省直轄学校名誉教授に関する件が定められたのを受けて、初めて東京高等師範学校名誉教授を授けられた。またこの年、を編纂した。さらに、昭和5(1930)年に没するまで、講師を務めている。
なお、後藤は多くの書物に関わった。単著(講義録も含む)には、『幻燈写影講義』(明治13年)、『誰にもできる物理の実験』(明治44年)がある。物理学実験の結果を『東洋学芸雑誌』などに掲載している。また、明治26(1893)年には文部省大臣官房図書課を兼勤しただけでなく、多くの教科書に関わった。共著・編集したもの(閲覧は除く)だけでも、『物理学初歩』(共著・明治31年)、『物理学教科書』(共著・明治31年)、『理化示教』(共編・明治32年)、『物理学教科書問題集』(共著・明治34年)、『中等物理学』(共編・明治35年)、『新編物理学教科書』(編集・大正3年)、『物理学課本』(中国の中学堂・師範学堂用、単著・明治40年)などがある。
後藤は、物理教育へ開発主義教授法や簡易器械実験を導入し、スロイド・システムを取り入れた手工教育を日本に導入・普及させる一方で、実用的な文字を求めて国字改良にも興味を持っていた。東京高師や東京工業学校では、多くの教員志望者に物理・手工を教えた。大日本教育会や帝国教育会では、学術講義の講師を務めて通俗教育に従事し、かつ様々な立場・職業の者と学制・国語・道徳教育などの共同研究を行った。『日本之小学教師』によれば、後藤の小伝をまとめる際にインタビューしたところ、勲位官等の経歴についてまったく記憶しておらず、いちいち辞令を見なくてはならなかったという。後藤の人柄は、「温厚篤実の君子にして、諄々人を導きて毫も飾らず、人を誨へて倦まず」ということである。後藤の教育・研究活動は、自らの名誉のためではなく、ただただ、ひたすら教育内容・方法を改良し、教員を育てるためだったのではないかと思われる。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』
「高等師範学校教授後藤牧太先生小伝」『日本之小学教師』第1巻第2号、42〜43頁。
唐澤富太郎編『図説教育人物辞典』ぎょうせい、1984年、862〜863頁。
赤羽明・高橋浩・玉置豊美「後藤牧太と簡易理化器械の開発―群馬県師範学校との関わりからの一考察」『埼玉医科大学医学基礎部門紀要』第11号、2005 年、1〜9頁。
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