首都圏ネットワーク

2013年8月12日放送
戦争の記憶をたどる(1)特攻隊員 最期の姿

NHK長野 清木 まりあ
NHK長野
清木 まりあ

太平洋戦争末期の昭和18年に「学徒動員令」が公布されてからことしで70年。
戦争に巻き込まれた若者の姿を中心に、各地に残る戦争の記憶をたどります。
1回目は「特攻隊の最期の姿」です。
太平洋戦争末期、長野県松本市にある浅間温泉に出撃する直前の特攻隊員たちが滞在し、東京から疎開してきた子どもたちと共に生活していました。
人生の最期を過ごす彼らの姿は子どもたちの目にどのようにうつったのでしょうか。

写真

昭和20年、終戦の年に長野県松本市で撮影された写真です。
彼らはみな特攻隊員として出撃し、戦死しました。
出撃直前、松本の飛行場で訓練を行い浅間温泉に滞在していました。
しかし当時の記録はほとんど残っていません。

写真

東京・世田谷区に住む松本明美さん。
戦時中、小学生だった松本さんは浅間温泉に学童疎開していました。

写真

当時、浅間温泉にあった旅館です。
松本さんたちは一時、特攻隊員と同じ、この旅館に滞在していました。
「先生から、この兵隊さんがしばらくここに滞在するから仲よくしようねって紹介されて。夜になると勉強見てもらって宿題教えてもらったりして。女の子たちはハンサムな兵隊さんがいたのでお散歩と称して両腕ぶら下がって街の中歩いたり」と当時を語る松本さん。

写真

彼らは、自分たちが特攻隊員だということを子どもたちに言わずに過ごしていました。
そして2週間後、沖縄などに向けて飛び立っていきました。

写真

出撃の直前、松本さんのもとに特攻隊員から手紙が届きます。
『皆さんと一緒に楽しく過ごした浅間でのことをなつかしく思い出しています』。
手紙の消印の6日後、彼らは戦死しました。

写真

松本さんは「亡くなる直前でもわずかな期間でもいい時期があった。
みなさんが楽しかったっていうことを言ってらっしゃるのを見るとそれだけでも本当に救いだと思います」と話します。

写真

松本さんはこの夏、久しぶりに浅間温泉を訪れました。
はじめに向かったのは疎開していた旅館の跡地です。
「変わりましたね。そりゃそうね、67年も8年もたてばね」と松本さん。
この日、浅間温泉に当時、疎開していた人など関係者が集まりました。

写真

松本さんは、特攻隊員の遺族に初めて会いました。
特攻隊員の妹、樫見喜代子さんです。

写真

松本さんが持ってきた写真から兄を見つけました。
樫見さんの兄の出戸栄吉軍曹は20歳の時に戦死しました。
「穏やかな性格でしたね。私は3人の兄の中で一番慕ってきました。また私をかわいがってくれました」と話す樫見さんに、松本さんも当時を振り返って「統率力がすごくあって、遊びの時でも“これしよう”って言ってくれて、みんなそれに従って一緒に遊びました」と話します。

写真

樫見さんが兄に最後に会ったのは、特攻隊の訓練で松本に赴く前のことでした。
「私らは本当に駅で別れた時に、すでに兄さんの顔は笑顔がなかったです。もう別れやと思っとったんでしょうね。長年たちますけど、繰り返し繰り返し兄のこと、資料では月にいっぺんは必ず見るほど読んで、見て、出るものは涙しか出ない。涙も枯れて本当出なくなっちゃった、枯れちゃったです」と樫見さん。

写真

翌日、旅館の跡地を訪れ、松本さんは「あのへんにお風呂場があったの。それで男の子たちがそこでみんな軍歌やなんか歌いながら大騒ぎしてお風呂入ってました」と当時の様子を語りました。
樫見さんが最後に見たのは、悲しそうだった兄の姿。
しかし、出撃直前の浅間温泉では、笑顔を見せていたことを知りました。

写真

「わたしと一緒に子どものころ生活したように優しくて思いやりのある兄やったんやなって思いましたよ」と話す樫見さん。
松本さんは「遺族の方たちより私たちの方が亡くなる寸前までご一緒に生活してましたからね。私たちも(遺族に)会ってお話しできたってことはすごくいいことだと思いました」と話していました。
終戦からことしで68年。
長い年月がたった今も、戦争の記憶がつながります。

松本さんは、東京の小学校で、特攻隊員と生活した体験を子どもたちに伝える活動を行っています。
彼らの姿を伝えることで、命の大切さを感じてもらいたいと話していました。

ページ上部へ

これまでの放送内容

読み込み中です。NHK @首都圏のサイトではJavascriptを使用しています。コンテンツをご覧になるにはJavascriptを有効にしてください。

戦跡シリーズ 東京大空襲 未公開写真から浮かぶ真実とは