青島(チンタオ)をめぐる
ドイツと日本(2)
日独戦争とドイツ人俘虜

高知大学学術研究報告 第48巻 人文科学 分冊(1999)
瀬戸 武彦
Tsingtau in Schantung im Zusammenhang mit Deutschland und Japan ( 2 )
Der Japanisch − deutsche Krieg und die deutschen Gefangenen
Takehiko SETO
(Semiar für deutsche Philologie der philosophhischen Fakultat)

1.1914年 夏

「1914年の夏は、それがヨーロッパの土の上にもたらしたあの禍がなくても、同じようにわれわれにとって忘れ得ぬ夏であった。というのは、私はこの夏ほど豊かな感じで、美しい、そしてほとんどこう言いたいのだが、夏らし い夏を体験したことは稀だったからである。」1)

上に引用したのはシュテファン・ツヴァイクの『昨日の世界』の中の「1914年、戦争の最初の頃」の冒頭部である。ツヴァイクは『昨日の世界』に<一ヨーロッパ人の回想>という副題を付けたように、第二次大戦開始後、亡命 先のアメリカおよびブラジルで世に名高いこの回想記を執筆した。ナチスによるユダヤ人迫害、抹殺の恐怖から逃れるために遠く新大陸の果てまで逃げ延びたツヴァイクにとって、日々の生活はいつナチスの黒い影が忍び寄るか、戦々 恐々の毎日であったと考えられる。それに比べて第一次大戦の当初のヨーロッパは、まだ19世紀末の、いわば古き良き時代の名残を、更にはビーダーマイヤー的雰囲気を街路や家々のそこかしこにとどめていた。

第一次大戦勃発の契機となったオーストリア皇太子夫妻暗殺の日は、翌6月29日がカトリック教国であるオーストリアにとっては「ペテロとパウロの日」として祭日とされていたこともあって、ウィーンの街にも華やいだ気分がみ なぎっていた。

「…あの7月29日の前夜祭には、多くの客がウィーンからやって来た。明るい夏服姿で、よろこばしげに心配もなく、人の群れは温泉公園で音楽の前に揺れていた。その日はおだやかだった。空は広いカスタニエンの森の上に、雲 もなく拡がっていた。それはほんとうに幸福の日であった。」2)

ツヴァイクはこの時、ベートーヴェンが好んで避暑地としたウィーンに近いバーデンに過ごしていて、メレジコーフスキーの『トルストイとドストエフスキー』に読みふけっていたのである。すると突然音楽が中断して楽士たちは去 り,道行く人々は立ち止まり、やがて野外音楽堂の前に貼り出された告知文へと、人々が群れをなして向かった。皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が、ボスニアでの観兵式出席の途上、セルビアの一青年によって暗殺され たという速報であった。

ツヴァイクが『昨日の世界』を愛惜の思いを込めて綴ったのは、1941年頃のことである。亡命先のアメリカ及びブラジルの山間の地で、自らの著作や日記、メモの類も何一つ手元にない状況で綴った文章は名文であるばかりでな く、資料的にも価値あるものとされている。しかし、そのような不自由な亡命、逃避行の中での執筆であったせいか、サラエヴオでの暗殺事件をちょうど一ヶ月誤解してしまったのであろう。

ところでツヴァイクは1936年に、「1914年と今日」という短い評論を著している。これには、〈ロジェ・マルタン・デュ・ガールの小説『1914年 夏』のことなど〉という添え書きがしてある。その中でツヴァイクは 『1914年 夏』について次のように記している。

「この『1914年 夏』」という小説は、『チボー家の人々』なる大規模な小説の最終巻というより、むしろ最後の三巻だが、その最初の数巻の記憶はまだ新しい。そこではある家族の歴史が、ふたりの兄弟の学校時代や、ある 友情のたどる運命や、家族内の対立や緊張、連続するたいへん感動的で、人間的な個々のエピソードなどが、語られていたのだった。そして、読者は主要な人物や友人たちとなれしたしんできたのだが、とつぜん第六巻の「父の死」 で、この小説は頓挫してしまったのである。文壇のなかでは、ロジェ・マルタン・デュ・ガールは、次巻の原稿を破り棄てたという風評が立った。」3)

『チボー家の人々』は1920年に着手され、「エピローグ」が完成したのが1939年、実に19年の歳月を要した大作である。しかしそこには、一時期数年に及ぶ中断があり、そして発表されたのが「1914年 夏」の三巻で あった。

「なにかの抵抗が完成をさまたげているとは、だれもが感じていた。だが、いまこの中断は、最後の決定的な高潮のまえの停滞だったことが判明した。けだし、最後の三巻でこの小説は思いもかけず同時代の文学をはるかにぬきんで る高さにまで到達したのである。」4)

第一次世界大戦、それは時に欧州大戦とも呼ばれるように、ヨーロッパ全土を巻き込んだ未曾有の戦争であった。当時の世界の独立国55ヶ国中の33ヶ国までが戦争に加わったことを考えると、文字どおりの世界大戦である。しかし 、ヨーロッパ以外では唯一日本が関与しただけである。第一次大戦は航空機、タンク、潜水艦が登場し更には毒ガスの使用など、やがては19世紀までの戦争とはまったく様相を異にするが、その当初においてはどこかまだ19世紀的 な部分があったのではないだろうか。ヨーゼフ・ロートの大作『ラデッキ一行進曲』は、オーストリア・ハンガリーニ重帝国の辺境を主たる舞台にして、栄光のハブスブルク帝国の没落を幾分かの愛惜もこめて叙述している。

一方日本における1914年、即ち大正3年の夏を挟む前後はどのような時代状況であったのだろうか。前年の大正2年12月1日に発表された日本の総人口は、5千291万という数をあげている。この年、大正2年には「立川文庫 」が発刊された。明けて大正3年であるが、3月末帝国劇場において芸術座の『復活』が上演されて、主演女優松井須磨子が評判となり、4月1日には宝塚少女歌劇の初公演が行われた。梅ヶ谷、常陸山と並び称されて、天下の人気 を二分した19代横綱常陸山の引退もこの年である。横綱在位9年で8敗しかしなかった常陸山は、力士の社会的地位向上に寄与し、角聖とも言われた。

明治39年4月に着工された中央停車場の建設、すなわち東京駅の落成なったのが大正3年12月20日のことである。日独の戦争が戦われていた頃は工事も最終段階に入っていた。開業は12月20日とされたが、開業式はその2 日前の18日に行われた。青島攻囲軍司令官神尾光臣中将の凱旋の日に合わせたのであった。

文学の分野では、漱石が『心』を110回に亘って朝日新聞に連載したのが、大正3年4月20日から8月11日までのことである。森鴎外の方は、大正3年4月に『安井夫人』を執筆、10月に『堺事件』を出版している。芥川龍之介 が「押川隆之介」の筆名で短い文章を発表し始めたのも大正3年のことである。白樺派の台頭こそまだ数年後のことになるが、確実に明治の時代は過去となりつつあった。

こうした状況の中で日独の戦争は、日清、日露の両戦争とは勢い持つ意味合いが違っていた。新聞の報道でこそ連日戦況記事が掲載されたものの、日本社会全体に大きな意味を持つには至らなかった。鴎外の日記にも日独戦争に関する ものは殆ど無い。日本にとっては言わば「忘れられた戦争」5)とも言われる所以である。

2.日独の戦時編成と戦争

第一次大戦はアジアの一角でも戦争が行われたが、三ケ月にも満たずに終了した。忘れられたとしても、ある面では致し方ないかもしれない。しかし、 アジア諸国で唯一の大戦参加国が日本であり、対戦国が明治維新以来最も関係の深かったドイツで、しかも戦場となったのが中国にあったドイツの租借地で、やがて日本が大きく関わりをもつ青島(チンタオ) ともなれば、忘却の淵から引き出すことに少しは意味があるのではないだろうか。日本側の正史ともいえる 『日獨戦史』6)と、ドイツ側の資料『青島戦史』7)から日独戦争の実態の一部に触れてみたい。

2−1.ドイツの戦時編成

1898年3月16日に締結された独清条約により、清国から551平方キロに及ぶ膠州湾一帯を99ヶ年租借することになったドイツは、膠州湾総督府を青島に置き、膠州湾駐屯海軍派遣歩兵大隊と海軍砲兵中隊を常駐させた。 これらは6月17日の閣議で、前者は第3海軍歩兵大隊に、後者は膠州湾派遣海軍砲兵隊(第5海軍砲兵大隊)に改称された。陸軍ではなく海軍の2大隊が置かれたのは、本国ドイツから遥か隔たり、艦船に拠るしか兵員を送れない ことと、そもそも膠州湾の占拠は海軍によって行われたからである。また北支にはそれ以前から海軍東亜巡遣隊が駐屯していた。ドイツの租借以前の1896年、清国政府は義和団事件等をきっかけに海防の急務なることを知り、 青島に膠州湾鎮守府を置き、ドイツ租借時点には衛門(ヤーメン)砲台を完成させ、台西鎮砲台と圏島砲台は完成まじかの状態にあった。ドイツはその台西鎮砲台を完成させるとともに、ビスマルク山(南・北)砲台、モルトケ山砲 台、イルチス山(東・西・南・北)砲台、会前岬砲台の永久砲台加えて、台東鎮砲台、仲家窪砲台、小湛山砲台等の臨時砲台を次々に築いた。〈東洋の真珠〉とも称えられた青島はその実要塞の街ともいえた。

1914年(大正3年)7月29日に欧州大戦が勃発すると、ヨーロッパから遠く離れた中国山東半島の一角青島にも、戦雲が漂い始め、日独の開戦も必至と思われた。8月1日、シベリア単騎横断で勇名を馳せた関東都督陸軍中将 福島安正が、アルフレート・マイヤー=ヴァルデック膠州湾総督を訪問するが、翌2日福島中将が帰途に就くや青島全市に戒厳令が敷かれ、3日には青島、中国各地及び日本在住の予備、第1後備、第2後備に召集令を発布、さらに その後フィリピン、マレー半島及び南洋諸島のドイツ人にも召集令が発布された。予備召集兵は主として第3海兵大隊の第6、第7中隊及び予備野戦砲兵中隊に配属された。当初青島に在住する男子は全員後備並びに予備とされたが、 青島陥落の後もドイツ貿易の維持を計るために大工場主及び大商人は召集義務免除とし、かつ小工場の管理権をも委譲されて、施設等の温存を計った。民間施設及び民間所有物が接収から免れることは国際的な取り決めであった。 そのことを示すエピソードも伝えられている。青島陥落後まもない12日、ビール工場だった野戦病院の接収に赴いた日本軍の軍医部長一行は、院内図書室の大量のドイツ医学書に瞠目した。しかし、官給品ではなく、所員の拠出金 からの購入であることを示され落胆し、接収をあきらめる。その公正な姿勢に打たれたドイツ人医師が医学書を進呈する、というものである。8)青島で最も広大な敷地、北部青島地域の約一割を所有していたアルフレートジームセン 商会の土地・建物が、数あるドイツの商会の中でも唯一接収の憂き目を見たのは、9)フレデリックとヴイルヘルムの二人が、俘虜として収容されたことから推測出来ることかもしれない。10)

8月18日、青島総督マイヤー=ヴァルデック海軍大佐は、皇帝ヴィルヘルム?U世に「臣は青島を最後まで死守することを誓約す」と打電し、翌19日、海軍大臣から「青島を防禦せよ」との勅命が伝えられる。そして日本の最後 通牒の期限前日の8月22日、要塞司令部をビスマルク兵営に移し、対日戦に備えたのである。

8月23日開戦時の正規軍は、第3海軍歩兵大隊の歩兵四中隊約1000名はビスマルク兵営に、同じ歩兵大隊の乗馬歩兵一中隊約140名、繋駕機関銃一隊40名、及び野砲兵一中隊100名はモルトケ兵営に集結していた。また 工兵一中隊はモルトケ廠舎あった。第5海軍砲兵大隊の四中隊約750名はイルナス兵営に、そして更に海軍東亜派遣隊約460(歩兵三中隊300、野砲一中隊100、機関銃隊60)が北京、上海から青島に集結していた。

極東にあるドイツ東洋艦隊の主力である巡洋艦「シヤルンホルスト」、「グナイゼナウ」、「エムデン」、「ニュルンベルク」、「ライプツイヒ」の五艦はいずれも開戦時には膠州湾からドイツの植民地がある南方海域に移動してい た。膠州湾に留まっていたのは海軍東亜派遣隊所属の砲艦「コルモラン」、「ヤーグアル」、「イルチス」、「ルクス」、「ティーガー」と駆逐艦「エス90」の六艦艇であった。

また墺洪国の巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」は、8月27日を期した日本の封鎖宣言を受け、一度は武装解除し、大部分の兵員は8月25日に陸路天津、北京に向かったが、翌26日に天津に墺洪国本国より日独戦に協力せよ との来電があり、大部分(乗員260名、陸戦隊員104名)が私服で青島に引き返し、ドイツとの連合に加わった。しかし水兵120名ほどは戻ることが出来ずに天津に留まったのである。『日独戦史』の語る開戦時のドイツ側総 兵力は、5,920名となっている。11)その内訳は、在青島及び北シナ駐屯ドイツ現役兵(3,710)、青島に集合した在郷軍人(1,424)、国民軍(105)、軍艦より上陸した独墺両国海兵(681)であった。

2−2.日本の戦時体制

大正3年8月15日、日本政府はドイツに対して9月15日までの期限を付けて、膠州湾租借地を中国へ還付する目的をもって日本に無条件で交付する要求を出し、その回答期限を8月23日とした。国交断絶、戦争が予想されたこと もあって、動員、臨時部隊編成、第18師団編成改正令等の準備が着々と行われ、21日には久留米の第18師団を基に、独立第18師団戦闘序列、編成、隷属等が関係師団に伝達された。

これによると、青島(せいとう)攻略軍は、第18師団(15,092)、近衛師団、第1、第5並びに第15師団のそれぞれ一部(6,758)、第1、第2独立歩兵大隊(2,090)、第22騎兵連隊(667)、第24野砲 連隊並びに山砲兵中隊3個中隊(1,300)、野戦重砲兵第2並びに第3連隊(5,931)、攻城砲兵中隊1個中隊(150)、独立攻城重砲兵第1、第2、第4並びに第5大隊(2,440)、海軍重砲兵隊(100)、工兵 大隊5個大隊(3,805)、鉄道大隊4個大隊(3,000)、無線電信隊(165)、野戦電信隊二隊(330)、第18師団架橋縦列(60)、航空船隊(290)、飛行隊(190)、野戦電燈隊並びに攻城廠(276)、 野戦病院班3個班(1,335)、及び陸上輸送隊と築輸送隊(4,314)、海上輸送隊等(2,687)の総員51,880名の陣容であった。

海軍の行動としては、膠州湾並びに青島制圧という山東半島に限定されたものではなかった。それはドイツが権益として、南太平洋に幾つもの島嶼を領有していたからである。それら諸島は、マリアナ、マーシャル、パラオ、カロリン 、ビスマルク、ナウル及び西サモアの諸島である。そこで第1、第2、第3艦隊の諸隊が動員された。その内加藤友三郎中将を司令長官とする第1艦隊は黄海から東海北部の警備を任とし、加藤定吉中将の率いる第2艦隊が膠州湾封鎖 の任に当った。やがては両艦隊が協力して攻囲軍の輸送、掩護、哨戒に当たり、9月28日以後は陸上部隊と呼応して湾内のドイツ艦船砲撃の任務に当たることになる。東海及びシナ海方面へは土屋光金少将の第3艦隊が出動し、海上 警戒通商保護の任に当たり、戦局の推移とともにルソン島東方洋上の哨戒に当たり、その後野間口中将が司令長官になるとともに第3艦隊は第1特務艦隊と改められ、小栗中将、竹下中将と司令長官が代わると、その任務は東海、南北 シナ海、インド洋にまで拡大する。更にインド洋方面には南遣艦隊の一支隊である加藤勘治大佐の一艦隊が、8月23日シンガポールに向かって以来イギリスの南洋艦隊と協力して、当時神出鬼没と言われたドイツ艦エムデンの摸索に 当たるとともに、豪州、ニュージーランドへの陸兵輸送掩護に加わる。

『青島戦史』は、第一次大戦での日本海軍の総員を4万837名とし、内2万5,276名が青島攻略に参加したとしている。すなわち青島攻略に従事した陸海軍人の総計を7万8,656名と推計している。12)

2−3. 日独戦争の概要

大正3年8月23日を期限とした対独最後通牒にドイツ側からの回答が無かったことで、8月25日、独立第18師団の諸隊は次々に乗船して山東半島に向かった。また8月23日の日独国交断絶以来既に山東半島周辺に展開していた 第1艦隊及び第2艦隊は27日、膠州湾周辺一帯の封鎖を宣言した。日本軍の具体的作戦は、神尾光臣陸軍中将を師団長とする独立第18師団山田支隊(隊長陸軍少将山田良水)の先遣隊による龍口上陸から始まった。大正3年9月 2日7時30分のことである。上陸直後から9日にかけて襲った暴風雨により、その後の兵員及び装備、物資の揚陸には困難を極め、また上陸部隊は膝まで漬かる泥濘の中を進軍するという状況であった。12日、山田支隊の騎兵連隊 はドイツ騎兵隊と日独間における最初の戦闘を交えて、これを駆逐して即墨を占領、更に17日には師団主力は平度に集結し、19日には支隊主力が即墨に進駐した。

9月18日には、堀内支隊(隊長堀内文次郎陸軍少将)が労山湾王哥庄東方海岸に上陸し、河東峠でドイツ軍と交戦した。この日更に、支隊の第3中隊は狗塔埠北方の自沙河左岸で本格的な日独両軍の戦闘があり、日本側では中隊長 佐久間善次大尉が戦死、ドイツ側では第3近衛槍騎兵連隊所属男爵リーデゼル・ツー・アイゼンバッハ予備少尉が戦死した。佐久間少佐(同日付けで昇進)に関しては9月21日付けの『東京朝日新聞』に「常陸山の落涙」との見出し で、以下のような記事が掲載された。

「京都祇園の東京大相撲二十日の千秋楽に常陸山は梅ヶ谷と取り組み破れたるが常陸山が土俵に上がる凡そ二十分前佐久間少佐戦死すとの朝日新聞戦外場内にて朗読さるゝを聞き大に驚き情然として『佐久間さんとは水戸中学で私の 学友でした、此間出征前に通信を戴きました』と語り力なく土俵に上りたりと」13)

先に触れたように、常陸山はこの年を最後に引退したが、水戸中学出という当時としては珍しいインテリ力士であった。大町桂月は「常陸山に輿ふ」という文章の中で、「…顔付は、力士として威厳あり。武家の出にして、中等教育 の素養ありと聞く。其土俵の上の態度は、如何にも、どっしりして、貫目あり。…われ、御身に於て、はじめていはゆる横綱らしき角力を見るなり。…」14)と記している。

上記河東峠の守備に当たっていたドイツ軍は、ベラウ少尉指揮の海軍東亜派遣隊第1中隊の13名で、戦闘には更に、フォン・フリース少尉指揮の第3海軍歩兵大隊第5中隊16名も参加していたことを、ドイツ側の資料は記してい る。

9月19日には、柳樹董保養所で激しい戦闘があった。ドイツ軍は前日と同じ二つの中隊で、日本軍に死傷者50名余が出た模様との記述がある。

青島をめぐる日独の戦争には英国軍も参加していた。9月1日に結ばれた日英両陸軍の協定によるもので、9月19日に英国北支那駐屯軍司令官バーナデストン少将以下の約980名が天津を出港し、威海衛に寄港して22日労山湾 に到着、翌23日上陸を果たしている。日本の堀内支隊と共同作戦の形をとったが実際的な行動をとることはなかった。ドイツ軍と間違われて日本軍から銃撃を受け、死傷者をだしたこともその一因と考えられる。

9月23日の宅科西南方高原での戦闘は、やがて到来する27日から28日にかけての激しい戦闘の前哨ともいえるものであった。(図1及び2参照)

堀内支隊約1,000名に対峠したドイツ軍は、アンデルス支隊の海軍東亜派遣隊第1中隊約100名、第3海軍歩兵大隊第5中隊約30、機関銃中隊の1小隊及び予備野砲兵中隊の1小隊、そして第3海軍歩兵大隊第4中隊約120 の総兵力約250であった。日独の戦力比からすると、そもそも対等な戦闘を行える状況にはなかったが、双方の被害はほぼ同程度であった。その理由はドイツ側の地の利と日本側の戦術に通じていたからだといわれている。ドイツは 10年前の日露戦争時に軍事顧問として協力し、互いに情報の交換も行っていたのである。『日独戦史』中のドイツ側資料「附記」には、「…フォン・フリースノ指揮スル乗馬兵来援シ午前八時頃ニハ到着スヘシ」15)との記述がみら れる。




3.シラーの詩集とハンカチ

9月12日に即墨付近で日独間における最初の戦闘の火花が散ってから、圧倒的優位を誇る日本軍がドイツ軍の防御網を突破して、じりじりとドイツ軍を後退させた。ドイツ軍の青島防御線は、大山高地及び保児の南方からヴァルダー ゼ一高地(Waldersee−H6he)にかけての第三防御線で、中でもヴァルダーゼ一高地(日本では222高地と呼ばれていた)は防御線中最も重要な拠点であった。

9月27日から28日にかけての日独両軍の攻防は、それまでの戦闘にない激しいものであった。この戦闘についてドイツ軍側は戦報で日本軍に甚大なる損害を与えたと報じている。大正3年9月30日付けの東京朝日新聞はこの件 のついて、次のように報道している。

「独逸側の戦報[28日北京特派員発]
独逸側戦況公報一日本軍は青島の背面を急速に圧迫し、前哨と既に数回の戦闘を交えたり。独軍は多少の損害を以って、日本軍に莫大なる損害を与えたり。独軍の前哨は槍口、李村及び沙子口の地を棄て,砲台を有する第一防禦戦に 退却せり。」16)

また翌29日付けで、上海特派員による独逸側29日付け青島戦報は、以下のようになっている。

「青島は28日午前中、敵の戦闘艦隊より砲撃をうけしも、なんらの損害を受けず。我が軍は、ワルデルシー高地(浮山の西北方)線より退却せり。これ敵の兵数、我が軍に比し遥かに優勢なるを以ってなり。今や要塞は全然包囲され たるも、我が軍の損害軽微なり。フォン・フリース中尉は戦死せり。」17)

日独戦争では地上戦はさほど激烈を極めたものではなく、むしろ艦砲射撃によって青島の砲台が次々に破壊されてゆくのである。そうした中でのヴァルダーゼ一高地攻防は特筆に価するが、それはこの高地が青島防禦の要衝であった ことによる。ところで上記引用中に、〈フォン・フリース中尉は戦死せり〉なる一文が唐突に付け加えられている。先の『日独戦史』からの引用にも登場したこの中尉は、斥候将校として日本軍を悩ました人物であった。大正3年11 月2日付けの東京朝日新聞には、従軍記者美土路春泥18)の、〈勇敢にして優雅なドイツ青年将校〉と題する、戦況記事としては異色ともいえる報告を掲載している。

「敵ながら哀れにも勇ましき物語がある。去る9月18日、我が軍の一部が努山湾に  上陸の当時、湾を脚下する巌山の上の監視哨にあって、絶えず我が軍の行動を偵察して居た一隊があった。我が海軍のために撃退されて退却 したが、その際遺棄し去った草鞄の中には、控が数通収められて居た。その訳文は、18日…ウンチャンに於ける斥候より陸戦隊司令官及びアンデルス枝隊に送りたる報告一小王村の北方小高地の麓に強力の歩兵(3中隊以上)休憩中 、…ここより前の報告三隻の外か、二本煙突を有する軍艦みゆ。

フォン・フリーズ少尉署名

9時30分、軍隊は撤去す。前進の方向は諸山のため未だ決定せず。
10時5分、多数の人員を載せたる小端艇は、絶えず軍艦及び商船より陸に向かって通行中。

フォン・フリーズ少尉署名」19)

参謀本部が大正5年に編纂した『日独戦史』は、日独戦争の経緯、経過を詳細に纏めた戦史であるが、その上巻には本文中の随所に挿入された〈付記〉 というドイツ軍側の資料に、このフォン・フリース少尉の名が幾度か登場する。 斥候として日本軍の動静を細かく監視して報告していたフォン・フリース少尉の行動は日本軍にとって脅威であると同時に、一種畏敬の念をもたらしていた。美土路春泥のフォン・フリース少尉に関する報告は更に続く。

「これによって始めて敵の将校斥候であった事が判明するとともに、この大胆な貴族出のフォン・フリーズ少尉なる名は我が軍の人々に刻まれた。(中略)越えて9月27 、8日の両日に亘って、我が左翼軍の一部は非常なる苦戦の 末に第一線を占領と同時に、重砲兵陣地なるワルデルゼ一高地もついに陥落して、佐賀山と名を改めた。(中略)10月4日の夜に至って、我が斥候将校はその中から敵のらしい死骸に遭遇して、後日の手懸かりに懐中品と20米突ば かり離れて飛んで居た革の千切れた背嚢とを携えて帰った。まず改めた認識票には(111.S.B.5K.157)とあったが、名前は判らなかった。」20)

上記引用文中の括弧内に示された<111.S.B.5K.157>は、第3海兵大隊第5中隊157番の意である。春泥の文章は更に続く。

「懐中には(…)命令書が入っていた。その命令書には、《張村附近に退却して、柳樹台及び河東の敵を捜索して、沙子口附近の警戒をなすべし。》署名はアンデルス少佐で、宛名はフォン・フリーズ少尉殿!始めてこの死体は、勇敢 なるかのフォン・フリーズなる事が判明した。我が将兵のことごとく、好個の青年士官のために暗然として征衣の袖を絞った。(中略)更に「ハンタ同盟の日より」と題する軍書と、小型なシルレルの詩集の第3巻、第7巻とが発見さ れた。朱に染む死体の側に散る詩集、なんという美しい詩的な画題だろう。」21)

春泥の筆は次第に感傷の度を強めて行く。やがて10年を経ずして日本は日中戦争の泥沼に陥り、第二次大戦に突入して行くことを考えると、ここにはまだ19世紀的な世界が残っていたとも言えよう。春泥の筆は以下の文で締めくく られている。

「(…)他には女々しい記念は一つもなかった。ただ哀れに死体の側に咲く撫子の花と、落ちて居た奇麗に畳んだ女持ちの手巾(ハンケチ)とは、更にこの死体の影に潜む短い半生を美わしく想像せしめた。死体は鄭重に葬られた。 祖国の方に頭を向けて、上には新しい墓標に墨色も鮮やかに認識票をそのまま 111S.B.5.K157 。」22)

4. 戦闘の終結

日独戦争においては、戦闘中に一時停戦が行われた。野ざらしのままになっている戦死者もあったことから、ドイツ側から無線で停戦の提案があり、日本側がこれに応じたのであった。10月12日、12時間の停戦中に、両陣営に よって埋葬が行われた。翌13日には日本側からの提案で、婦女子等非戦闘員の避難のための協議がもたれた。その結果15日に、米国領事、ドイツ婦人二名等が膠州湾内を横切って、交戦地帯外に退去した。

日独の戦いはその当初においては陸戦が中心で、艦船の戦いといえるほどのものは無かった。しかし、ニヶ月余の戦闘で最も多くの死者を出したのは海戦であった。10月18日午前零時30分頃、ドイツ軍の水雷艇S90号によって 、防護巡洋艦高千穂が三発の魚雷を受けて、一瞬の内に撃沈されたのである。艦長伊東大佐を始めとして、271名が艦と運命をともにし、生存者は僅かに三名であった。この戦果を遂げたS90号が、乗員を退避させた後洋上で自沈 したのは、圧倒的な数の日本艦船の間をかいくぐっての帰港が困難と判断されたからであった。

青島のドイツ軍は、そもそも彼我の戦力の著しい差から、降伏に至ることを当然予想していた。先に記したドイツ側の艦艇六隻は、最終的にことごとく自らの手で沈められた。日本艦艇の湾内への侵攻を阻むためであったが、戦争終了 後艦艇を日本側に使用されないようにする意図でもあった。また、砲弾も10月末には、時として日に4千発も放ったが、それは徒に戦死者を増やす事を避け、終結を早めたいとの暗黙の意志で、日本側もそのことを察していたともい われる。

第一次大戦は戦闘に初めて飛行機が登場した戦争であった。日本軍においては陸、海両軍の飛行機合わせて11機が導入された。陸軍では、「モ」(モーリスファルマン)式70馬力4機、「ニ」(ニューポール)式1機の計5機、 海軍は「モ」式70馬力3機、「モ」式100馬力1機、後「モ」式70馬力及び「モ」式100馬力1機の計6機を使用した。これらの飛行機は組み立て式で、「モ」式は水上飛行機であった。

一方ドイツ軍の飛行機に関して『日獨戦史』の附記は下記のように記している。

「西暦一千九百四年七月三十一日、青島二戦備令下令セラル。普時青島飛行所ニハE第一号(旧式「ル」式飛行機)−「アルグス」式100馬力発動機ヲシ、其操縦者ハ第三海軍砲兵大隊附中尉ミュレルスコウスキーナリー及E第2 号(新式「ル」式飛行機)−「メルケデス」式100馬力発動機ヲ装シ其操縦者ハ第五海軍砲兵大隊附中尉プリュショウナリーノニヲ有シプリュショウ中尉其所長卜為り、ミュレルスコウスキー少尉及機関兵曹一、機関兵ニヲ所員ト セリ、而シティルチス競馬場ヲ飛行場トシ、格納庫ヲ同地西側二建設セリ…此間E第一号ハニ日飛行ノ際墜落大破シ操縦者「ミ」少尉重傷ヲ負ヒ機體ハ修繕ノ見込ナキモ發動機ハ尚使用二耐ユ」23)

こような状況からドイツ軍には結局、「青島の鳥人」あるいは「青島の鳥王」との異名をとったギュンター・プリュショウ中尉操縦の一機しか残らなかった。プリュショウ中尉は時に日本軍の飛行機と空中戦も行った。

日本陸軍の飛行機は日数にして30日、これは戦役日数67日を考えると、約二日に一度は飛行したことになる。総飛行回数86回、総飛行時間89時間、ドイツ軍飛行機との空中戦4回に及んだと、『日独戦史』は記している。 当初飛行の目的は偵察が主であったが、10月にはいると日本軍はドイツ軍の格納庫や信号所、無線所の爆撃をするに至った。しかし戦争終結後に日本に使用されるのを阻むために、ドイツ軍自身の手で設備等の破壊が行われると、 無益な破壊をしないようにとの、警告ビラを撒いたりもした。

11月6日午前6時、プリュショウ中尉は青島最後の状況を報告する任務を帯びて、信書及び報告書類多数を積み込んで青島を脱出した。プリュショウ中尉は当初上海まで飛行する予定であったが、燃料補給のため着陸した江蘇省 海州で中国官憲によって機体の没収を告げられると、飛行機を爆破して引き渡し、陸路上海に逃れた。

ニヶ月余に及んだ日独の戦いも11月7日午前6時30分頃、測候所頂上に白旗が掲げられて終結した。カイザー海軍歩兵少佐がドイツ例の軍使として、マイヤー=ヴァルデック総督の神尾光臣独立18師団長宛の書簡を携行し、 台東鎮附近の日本側第一線に赴いた。午後4時からのモルトケ兵営での開城交渉には、日本側から参謀長山梨陸軍少将、磯村陸軍大佐、香椎陸軍少佐、通訳の山田歩兵大尉、封鎖艦隊派遣の海軍将校一名、英国将校一名並びに高等文 官一名の計7名で、ドイツ側は、参謀長ザクセル海軍大佐、民政長官ギュンター、先任副官カイザー陸軍少佐並びに通訳のフォークト予備少尉と同じく通訳の戦時志願兵ユーバーシヤール博士の5名であった。11月9日には、青島 に残留する総てのドイツ人が墓地に集結して戦没ドイツ兵の埋葬の儀式が新旧のヴインター及びショッベライの両宣教師によって執り行われた。

11月10日午前9時モルトケ兵営において、神尾青島攻囲軍司令官とヴァルデック青島総督の会見が行われた。神尾中将は、日本軍隊がドイツ陸軍より受けたこれまでの指導について謝意を述べた後、日本政策上不本意ながら 青島を攻撃したこと、日本側に多大の損失がでるほどドイツ軍の防備の優れたことが語られると、ヴァルデック総督は、日本側の武勇を称えたといわれている。24)日露戦争時の乃木、ステツセル両将軍の水師営会見を想起させるが、 それは僅か10年前の出来事だったのである。

日独戦争における日本軍の戦死者は陸軍676名、海軍338名の計1014名で、独軍の戦死者は209名、負傷者550名、病死約150名であった。そして青島方面での俘虜総数は4,700余名に及び、11月14日のマイ ヤー=ヴァルデック総督及び幕僚達の日本送還を最後に、順次日本各地の設けられた収容所に送られることになったのである。『青島戦史』は、11月14日という日付の不思議な符牒について触れている。即ち、かつてドイツ極東 巡洋艦隊が膠州湾に入り、その上陸部隊が青島を占拠したのは、丁度その17年前の1897年11月14日だった。

5.大戦中の日本人俘虜 −小田部荘三郎

第一次世界大戦での日独間における軍事行動は、専ら山東半島青島攻防にあったことは言うまでもない。日本戦勝後、ドイツ人件虜4,700名余が日本各地に送られたが、それらのドイツ人も青島攻防での俘虜であった。当時ドイツ 領であった南洋群島海域でも戦闘が行われたが、その際の俘虜は、イギリス軍の元に引き渡されたのであった。イギリスからの要請で地中海に艦隊が派遣されてもいるが、それは主として船舶の航行確保が任務であった。しかし、 機雷に触れるなどして戦死者を出している。戦病死者を含めて75名が地中海のマルタ島に葬られた。もっともこれは1917年のことである。

先にドイツ人俘虜と記したが、厳密には独逸並びに喚洪国、即ちドイツ、オーストリア及びハンガリー国民の俘虜である。1918年にヴェルサイユ条約が締結されると、ハンガリー人とスラヴ系及びアルザス・ロレーヌ地方出身の 俘虜は解放された。

ところで、日独戦争でドイツ側に拘禁された、言わば俘虜となった日本人がドイツの地に100名ほど居た。1914年8月23日の日独開戦以前にもこうした事態が出来することが予想されたことは、8月20日付けの『東京朝日 新聞』に「在滞留学生−金に困りはしないだろうか、危害は無いだろうか」25)の見出しの下に、文部省留学生76名、其の他外務省留学生数名、私費留学生100名余合計200名近い留学生がドイツにいたことが報じられている。 8月22日付けの同新聞は、「在滞日本留学生悉く無事−250餘名英国に避難す」と記して、留学生の迫害も虚報であると報じている。しかし、9月1日の同紙は、日本留学生の拘禁とドイツ側の「保護のため日本人50余名の拘禁 」の記事を載せている。今日とは交通、情報の事情がまったく異なり、大きな混乱が起こった事は以後の報道からも伺い知ることができる。当時ドイツに滞在中の日本人は留学生が中心ではあったが、軽業を主とする大道芸人達も 50余名いて、拘禁等の憂き目を見たことも知れる。9月10日の同紙は、行方不明の邦人として留学生、商社員其の他47名の氏名を載せているが、その中には後の印度学の泰斗宇井伯寿の名も見られる。やがてこれらの人々の消息 、安否も次々に判明し、その多くはオランダを経てロンドンに逃れている。9月24日の同紙は、不明学生続々判明の記事に、「小田部荘三郎が岡田の誤りとせば前記17名と共に既に倫敦に引揚げ居れり」との記事が見られる。 前述したように、第1次大戦は我が国では「忘れられた戦争」とも言ってもよいほど、今日ほとんど顧みられることがない。青島攻防をめぐる戦争においてすら今日歴史の中に埋没したことを考えると、当時ドイツの地で拘禁、俘虜 となった邦人のいたことが忘却されてしまったことも理解できる。しかし一人の留学生が自身の80日余の拘禁生活の顛末をつぶさに記したことによって、僅かながらも知ることができる。

上述の小田部荘三郎は大正元年に渡欧の途につき、大正2年正月8日留学先のハレ(Halle)に到着、以後1年8ヶ月に亘ってハレ大学で医学の研究に励んだ留学生である。当時28歳の青年であった。

『獨逸落ち』26)という風変わりな題名の本は、その小田部が大正4年スイスのバーゼルで著した体験録である。それによると小田部は、8月14日にハレを発って一先ずベルリンに向かう事を友人二人から勧められるが、論文を執筆 中で完成間近であったことが運命を狂わせた。小田部が最終的にハレを脱出したのは8月19日午後2時であった。カッセルに20日午前1時に到着、3時35分にシュヴェールテ行きに乗り込んだ。正午12時20分にシュヴェール テ駅に着いたところで小田部は官憲によって拘束され、デュッセルドルフで監獄に収監された。

収監に至るまでの列車内の乗客や官憲の罵言雑言や悪態に、じっと耐えるしかなかった様子を小田部はありありと記している。8月31日にヴェーゼルに送られると、小田部の外にロシア人、フランス人、ベルギー人、イギリス人、 セルビア人等の拘禁者がいることが分かるが、日本人は自分一人であることに気づかされる。小田部のその後の移送先を記すと、ヴューザ一に5日滞在した後、ゼンネラーガーの射撃場に設営された俘虜収容所に容れられる。しかし ここで小田部は三人の日本人同胞と出会う。一人は芸人で二人は小田部と同じ留学生であった。この芸人は独楽回しで、年は59歳、妻と二人の子供を連れていたが、9月20日に年のせいもあり解放され、ベルリンに移った、と 小田部は記している。軽業、水芸、綱渡り等の大道芸人は実は海外渡航の先陣を切った人々であった。維新前の幕末に、既に国禁を犯して海外に渡った芸人が大勢いたことは案外知られていない事かもしれない。大正のこの時代でも こうした芸人達は、官吏、留学生、商社員に次ぐ海外滞在者の一大勢力だったのである。

10月17日にテント内外に英、仏、独語で捕虜の知り置くべき事項として、「我々獨逸人は、獨逸捕虜を虐待しつゝある國の捕虜を、報復的に、虐待するが如き事は、毫も為さない」、「若し欲するならば、誰にても、獨逸の待遇に 就き、自由に、母国の知人に報する事を得」といった掲示が貼られるが、小田部は呆気にとられるとともに、腹立たしさを感じる。10月20日にはハレの止宿先から返書が届く。郵便物は一応届けられていた。21日にはアメリカ 大使館からも返書が届いた。俘虜数名で、解放への支援を訴えた手紙を出していたのであった。スイスヘの移送、解放を感じさせる内容であった。

10月24日の午後、英国人捕虜の一人が前日の新聞を持ってきて、小田部に詳しく英訳してくれるように頼んだのは、「青島総督の宣言」と題した記事であった。マイヤー=ヴァルデック総督のその文章を小田部は、「此の獨逸文 は、余の様な拙い筆で、翻訳したくない程、力あり、涙ある處の名文であった」26)と記している。小田部はゼンネラーガーの収容所に至るまでの車中や収容所先で、数々の厭わしい事態に出会ってはいたが、先に触れたハレの止宿先 からの返事は、戦争が終われば再びハレに戻り世話になりたい旨の手紙に対する好意的な返事であったのである。これまで受けたドイツ人からの罵言雑言も、日本に対する裏切られた思いの発露であった。10月31日、一人のドイ ツ人少尉がテントの小田部等日本人を訪ねて語る以下の言葉は、当時の一般的ドイツ人の気持ちを代弁するものであろう。

「少尉は余等の前に立ち止まって、如何にも憤慨に堪えざる態度を示し、頬筋をブルブルと痙撃させながら、悲痛憤怨、感極まって聲を發する能はぎるかの如き、底聾を絞りつゝ『君等は、日本に歸ったら、何うだ、此度の日本の 惨忍なる態度に就いて、獨逸人が、如何に憤慨したかを、諸君の同胞に語って呉れ給へ。五十年間に亘る日獨の親交を無視し、(…)何の理由もなく、小要塞たる青島を攻めるとは、實に酷い。(…)君等は昨日の新聞を見たか夫れ には、ミカドの誕生日たる今日、二千人のサムライが、決死隊となって、青島を攻め落とすと載って居る。諸君、青島は早晩陥落するのは定まって居る。援兵は行く出なし、到底、数千の濁逸兵で、日本の大に支ふる事は、出来んよ』 と、彼の聾は、愈々底く、且つ震えて居る」27)

11月5日、ゼンネラーガーのテントに日本人俘虜解放の知らせが届く。小田部を含む三人の日本人が解放されたのは、11月7日、即ち、青島のドイツ軍が降伏した日であった。スイスへ向かう途中、車外でも車内でも小田部ら 日本人に対する感情に変化があり、それを小田部は、最近の新聞に載った在日ドイツ人に対する日本の待遇を知ったがためではないか、と推測している。しかし小田部らの苦難はまだ終わってはいなかった。11月8日、ウルム駅で 再度拘束されたのである。新たに二人の日本人が加わって5人になっていた。11月10日、監守の妻から渡されたミュンヒェンの新聞には、「青島の陥落」の文字が1号活字で踊っていたのである。小田部がドイツとスイスの国境 の町リンダウのホテルで、存分に体を伸ばすことができたのは11日の夜で、翌12日に蒸気船でボーデン湖を渡ってスイスの地に辿り着いた。実に80日ぶりの事であった。

スイスのバーゼルに落ち延びた小田部は病を得、一ヶ月半ほど生死の境をさまよった。このこともあって小田部は自らの希有な体験を著すことを考え、やがてバーゼルで『獨逸落ち』を草したとのことである。小田部荘三郎の帰国後の 姿は残念ながら詳らかにしない。大正14年8月に第一版として発行された『日本医籍録』の茨城県の項にその名がみられるが、水海道と出身地が記されているだけである。28)

6.ドイツ人俘虜群像

大正3年(1914年)8月23日の日独国交断絶、宣戦の大詔が降って1ヶ月半余の11月7日、マイヤー・フォン・ヴァルデック総督による降伏文書の調印により日独戦争に終止符が打たれた。その結果最終的には4,700名余 29)の俘虜が日本各地に送られることになった。それら俘虜の内の1,300名近くは軍人ではなかった。青島在住の官公吏と民間人である。また軍人といっても中には、日本、中国及びその他アジア各地域にいたドイツ人が急遽召集 を受けた場合も多かった。こうした民間人及び急ごしらえの応召者には実に様々の人々がいた。つまり俘虜たちの旧職種は千差万別、多種多様であった。日露戦争は明治37年に始まり、翌38年に終結したが、第一次大戦はそれから まだ10年も経たずに起こったのであった。日露戦争時のロシア人俘虜は数万人に及んだが、そのほとんど全ては軍人・兵士であった。しかも兵士の中には文字の読めない者も多かったと言われている。それと比較すると、ドイツ人俘 虜は全く様相を異にしていた。

大正4年4月1日付けの俘虜情報局の『俘虜職業調』30)によると、その時点での俘虜総数は4,461名で、大きく(現役軍人軍属)、(官公吏)、(宗教及び技術家)、(商業)、(工業)、(農業)、(其の他)に分けられている。(現役軍人 軍属)の総数は3,322名となっている。従ってその他の分類の総計は1,100名余の計算になる。また(宗教及び技術家)はさらに電気、鉄道、鉱山、醸造、測量等の技師、弁護士、薬剤師、物理学者、宣教師、新聞記者、音楽家、 画家等30余に分類されている。(商業)は貿易商、書籍商、家具商、保険業、銀行員等50業種に、(工業)は印刷業、製菓業、機械工、電気工、金属工、石工等53業種もに種別されている。(農業)は地主、小作、園丁の種だけの分類 にとどまっているのは至極もっともなことであろう。農業従事者は数としてもごく少数に止まっているが、後に触れるように、軍馬等の仕事に携わって、畜産の知識、技術に長けた人物や農業の実際経験を積んでいた者が兵卒にはかな りいた。

上記『俘虜職業調』によると俘虜の職業調査を行った意図として、三つの項目が掲げられている。第一は、ドイツ人の東洋における経営状態を知る事。第二に、ドイツ人独特の技能を利用して国産上の伝習をなさしむること。第三に、 俘虜に労役を課する場合の参考に供すること。この三点であった。やがて各地の俘虜収容所でドイツ人達は、収容所内での種々耕作や作業を行い、時に収容所外でも活動、労役をするのは時の政府の方針の一つでもあった。大正5年 10月13日付け陸軍省通達「俘虜労役ノ件通牒」31)によると、当時の徳島工業学校及び徳島市の圓藤鉄工所からの要請で、徳島俘虜収容所から前者に一名、後者へは七名の俘虜が派遣されている。こうした俘虜の労役は、規模は さほど大きくなくとも、各地の収容所でも行われていたのではないだろうか。

ここではそうした俘虜の中での特異な人物について述べてみたい。

6−1. ヨハネス・バールト−日本に永住した元俘虜

第一次大戦時の日独戦争で俘虜となったドイツ人には、解放後も日本での生活を選んだドイツ人が幾人かいた。ヨハネス・バールトはその中でも最も長く日本で生活した人物で、90年の生涯の70年余を日本で過ごした。

ヨハネス・バールト(Johannes Barth)は1891年、ブレーメン近郊に、パン工場を経営する父親の元に次男として生まれた。32)商業に対して特別の敬意が払われ、社会的評価も高い町であったのはハンザ都市としての伝統と誇り の故であった。ヨハネス・バールトもそのような環境の下、早くから商業人としての経歴を歩む。15歳で学校教育を終えるとバールトは、3年間の修業時代に入る。過去600年近くに亘ってドイツの地で行われた遍歴こそ廃れた ものの、徒弟の制度はまだ厳然として生きていた時代である。無給のバールトが徒弟時代に手にしたのは、クリスマス手当てのほんの数マルクであったという。3年後、18歳になると修業も終え、ブリュッセルに6ヶ月滞在し、更に ロンドンで見習い期間の仕上げをする。バールトの目指すところは貿易の仕事であった。

1912年6月、バールトはアジアへの旅を企てる。広東のドイツ糸商社の求人に応じたのである。8月、広東に落ち着くと1914年8月までアジア貿易の仕事に従事するが、そこへ第一次大戦の勃発と日本の対独宣戦布告という、 運命の大きな分かれ目に出会うことになる。バールトの『青島日記』によると、8月1日に商社関係の見本市が開かれ、そこへ思いがけず訪ねて来たドイツ領事館の書記に、ただちに青島に赴くよう伝えられたのである。ヨーロッパで は既に戦争に突入していたが、日本の対独最後通牒が発せられたのは8月17日である。7月末にはドイツ政府も日独の戦争が必至との考えを抱いていたことが推測される。

バールトを含めて約10名の応召兵は汽船で香港に着き、更に応召兵を乗せて上海へと航行し、以後は陸路南京、済南を経て、総勢100名に膨れて山東鉄道で青島へと向かった。8月7日に青島の停車場に到着した、と『青島日記』 33)に記されている。

民間人の応召者はその大部分が第3海兵大隊第6中隊に配属され、戦闘の訓練もろくに受ける間もなく俘虜となった。11月7日、ニヶ月余の戦闘で、青島のドイツ軍が無条件降伏したからである。バールトの場合は、それから一週間 も経たぬ13日早朝に日本に俘虜として送られている。乗船した福寿丸は、二日後の15日門司港に寄り、翌16日の朝11時頃多度津港に入港した。バールトはその後、二年余り丸亀の収容所で過ごし、やがて徳島県鳴門の板東収容 所に送られる。1919年10月に第一次大戦終結し、その年の12月から翌年の1月にかけて俘虜の解放がおこなわれたが、バールトはその1月の組であった。板東俘虜収容所は、丸亀、松山、徳島の三収容所を廃止、統合し、また その他の収容所からもー部の俘虜を移送して出来た最大級の俘虜を収容した収容所であった。板東収容所は、その所長であった松江豊寿の人間性とも関わって、近年夙にその名が知られている。本論の第一部をなす拙論34)でも言及し ているし、研究書や関連文献も比較的多く出版されているので、板東収容所の特色についてはここで特に触れるものではない。

バールトは板東収容所で、日本語に堪能であったクルトマイスナーや、中国語に精通し、やがて日本語の勉強に入るヘルマン・ボーナ一等と接することになる。マイスナーは既に来日12年に及び、日本人女性を妻としていたことから 、4,700名余の俘虜の中でも屈指の日本通、日本語通であった。マイスナーは大戦が終結すると東京にある東亜文化協会(OAG)35)の会長を長らく勤めるが、バールトはやがて副会長となって補佐することになる。

バールトの日本語勉強は上述のような環境がありながらも遅かった。バールトの語るところでは、日本語学習は1919年半ばであった。そのきっかけは、収容所に定期的に診療に来ていた歯科医から、神戸の貿易商社への就職を勧め られたことからである。そしてバールトは最終的にその商社に勤めることになる。半年ほど勤めてドイツへ一時帰国する。ところが再び日本に戻ると会社は倒産していた。やむなくバールトは上京し、貿易商として独立を果たし、日本 人女性千代と結婚する。しかしその後の人生は日本とドイツとの、やがては第二次大戦での両国の破局いたる道を示すようなものであった。1941年商用のためシベリア鉄道でドイツへ向かう途中で独ソ戦が始まり、一時ソ連の捕虜 となる。やがて釈放されドイツに戻ったものの、日本には帰る事が出来ずに、4年間家族と離れ離れに暮らすこととなった。1945年、日独間を往復していた日本の潜水艦イ号に乗船してシンガポールに着き、軍用機で日本に帰還し た。しかし終戦後は、進駐軍により財産没収の上ドイツに強制送還され、以後5年間帰国する事が出来なかった。実に数奇な運命に遭ったと言えよう。こうしたことからバールトは終生日本に住む事を決意したのであろう。実業の世界 で成功しただけではなく、『鎌倉時代の歴史と文化』、『日本演劇の歴史』等の書物を著わし、前述したように、東亜文化協会の会長として日独の文化交流に貢献したのである。

6−2.ヘルマン・ボーナー −ドイツ語教師三兄弟

ヘルマン・ボーナー(Hermann Bohner)は1884年12月8日、福音派の伝道牧師の父が活動していた、アフリカ黄金海岸のアポコビ(今日のガーナ)で生まれれた。シュバイエルのギムナージウムを卒業すると、ハレ、エルランゲ ン、テユービンゲンの各大学で神学と哲学を学び、一時教職に就く。彼の転機は1914年、エルランゲン大学で博士の学位を取得して、その年の4月に「統合福音派海外伝道協会」から派遣されて、青島のドイツ人学校の教師として 赴任したことにある。そこには長年密かに尊敬していた中国学者リヒヤルト・ヴイルヘルムがいた。しかし、青島での教師生活を続けながらの中国学の勉強は、4ヶ月ほどで頓挫する。第一次大戦勃発による日独戦争が起こったから である。第3海兵大隊第6中隊に配属され、やがて同じくヴイルヘルムの元にいたヴイルヘルム・ゾイフェルトとともに俘虜となって日本に送られることになった。当初は松山収容所に収容されたが、やがて板東に移り、この地で3 年余の俘虜生活を送ったことがボーナーの後の人生を決定することになった。

ボーナーにとっては中国学の研究こそが最大の関心であり、また使命のように感じていたのである。俘虜生活でそれが断ち切られることは断腸の思いであったろう。ボーナーは収容所でも当初は最も反抗的な俘虜であった、と言われて いる。しかし、松山から徳島の板東俘虜収容所に移ってから、ボーナーは日本への関心を高めていった。そこでは松山収容所でも一緒だったクルト・マイスナーのような日本語通や、ヨハネス・バールトのような新たに日本語勉強に打 ち込む姿を見たからでもあろう。

1919年10月、ヴェルサイユ条約の締結で第一次大我が終結すると、日本各地に収容されていた俘虜達は1919年から1920年にかけて、帰還の途に着いた。ボーナーは再び青島に赴き、2年間伝導教会に従事した後1922 年、この年に設立されたばかりの大阪外国語学校の講師となった。翌年1922年には、青島で知り合ったヴイルヘルム夫人の妹ハンナ・ブルームハルトと結婚した。それからのボーナーは日本研究に打ち込み、『神皇正統記』、 『日本霊異記』、『聖徳太子』、『弘法大師』等の研究を公にした。勿論こうした日本研究の持つ意味も決して小さくはないが、ドイツ語及びドイツ文学を学生達に講じて、広くドイツ文化を伝えた功績は甚だ大きかったと考えられる。 41年間一度として休講をすることなく1963年、大阪外国語学校を前身とする大阪外国語大学の教授としてこの世を去り、神戸の再度山に教え子達によって建てられた墓地に眠っている。36)今日なお教え子達の中に、ヘルマン・ ボーナーを慕う心が生き続けているという。

ヘルマン・ボーナ一に関して更に驚くべきことは、二人の弟が来日して、それぞれ当時の高等学校のドイツ語教師となったことである。次弟のゴットロープ・ボーナーは高知高等学校で、三弟のアルフレート・ボーナーは松山高等学校 でドイツ語を講じた。二人の弟たちまでがもそれぞれドイツと日本の文化交流に寄与したことを考えると、ヘルマン・ボーナーのケースは極めて希有にしてかつ特筆に値するものと言えよう。高知で幼少期を過ごしたゴットロープ・ボ ーナーの息子ハインリヒは、還暦を迎えた年に高知を訪れ、かつての父親の教え子達と交流するという出来事37)も伝えられている。

6−3.カール・フィッシャー−《ワンダーフォーゲル》の創設者

俘虜名簿によると、カール・フィッシャーを名乗る人物が4名いたことが判明している。その内の一人、ベルリン出身で、当初は松山収容所に収容され、後松山収容所が丸亀、徳島両収容所とともに板東俘虜収容所に統合されてからは 、板東に三年余収容されたカール・フィッシャー(Karl Fischer)こそ、〈ワンダーフォーゲル〉の生みの親ともいうべき人物である。日本の大学でのサークル活動としては、ドイツ語でもあることから、最も大学のクラブらしく感じ られるのがワンダーフォーゲルではないだろうか。ワンダーフォーゲル(Wandervogel)運動のそもそもの起源は、1896年の春、当時ベルリン大学で法律と東洋語を学んでいたヘルマン・ホフマン(Hermann Hoffmann、1875 −1955)が、ベルリン郊外シュテークリッツのギムナジウムの生徒達に開いていたシュライ・システムという速記術クラスのメンバーと、近隣にあるグルーネヴァルトの森へハイキング出掛けたことに発する。ホフマンは当時 ドイツで流行し、かつ大学生にとって人気のある“アルバイト”であった速記術を教えることで学費を稼いでいたのである。カール・フィッシャーがこのホフマンを中心とする遠足に始めて参加したのは1897年始めのことで、 当時はまだ16歳、ギムナジウムの生徒であった。

この年の6月始め、ホフマンは《シュテノグラフィア》(Stenographia)という組織を設立し、カール・フィッシャーがその初代議長に選ばれた。当初は日帰りの遠足であったが、この青年運動は次第に規模を大きくして、夏休みには 10日間のハールツ旅行を企て、1898年の夏には2週間のハールツ旅行に、そして1899年には4週間のボヘミア旅行にまで拡大し、以後ボヘミア旅行は組織の習わしとなって行く。

1900年になって一つの転機が訪れる。指導的立場にいたホフマンが外交官としてコンスタンチノーペルのドイツ大使館に赴任したのである。ドイツを離れるに際してホフマンは、自分の後継者にカール・フィッシャーを押した。 ここにカール・フィッシャーという名組織者を得て、元はギムナジウムの速記術クラスから発した青年連動が全ドイツ的な運動に発展して行く下地が整ったのである。この年も、春と夏の2回それぞれ2週間余に及ぶ旅行をカール・ フィッシャヤーは実行した。1901年11月4日、カール・フィッシャーに次ぐ古い会員であるヴオルフ・マイヤーの提案で≪ワンダーフォーゲル(Wandervogel)≫の名称が採用された。ここに名実ともに〈ワンダーフォーゲル〉 運動が発足したのである。以後〈ワンダーフォーゲル〉は拡大の一途を辿るが、組織が大きくなるにつれやがて路線対立が生じた。1904年頃からその兆候が現れ、1906年7月、終にカール・フィッシャーは〈ワンダーフォー ゲル〉運動から身を引くことになる。そしてその3ヶ月後の1906年10月、カール・フィッシャーは膠州湾配備の第3海兵大隊に志願した。それは1年の勤務の後は中国に留まることを意図したものだった。無事に勤務を終えた カール・フィッシャーは上海の新聞社に職を得て、学生時代に習得した中国語を生かす道を見つけたのであった。しかし1914年の日独の開戦によって応召し、俘虜となって6年余日本に滞在することとなり、しかも二度と中国に 行けなくなったことは彼にとって大きな不幸だった。38)

松山収容所内で発行された俘虜新聞『宿営の火』には、1915年にカール・フィシヤーが公会堂でシュトルツェ=シュライ式の速記の講義をしていることが記されている。速記の講義をした者はカール・フィッシャー以外にも三名 いるが、他の三人と比べて講義の時間数も少なく、意欲もって臨んだようにはあまり感じられない。39)大戦が終了して帰国した後のカール・フィッシャーには、もう〈ワンダーフォーゲル〉での確たる位置もなく、寂しい晩年であっ た。1941年6月13日、カール・フィッシャーはベルリン郊外シュテークリッツのフリーデンアウで失意の内にこの世を去った。ゲオールク・コールトは、「1920年から1941年の死にいたる年月は、カール・フィッシャー にとってワンダーフォーゲル時代の残り津のような、満ち足りることのなかったものだった」40)と述べている。

6−4. フリッツ・ルンプー〈パンの会〉 とゲーテの門番の孫

フリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)は4,700名余の俘虜の中でも異色の人物である。彼と関わりを持った人物として森鴎外、木下杢太郎、北原白秋の名を挙げただけでその特異ぶりが知られよう。杢太郎に 「日本在留の欧羅巴人」という長い詩がある。ヨーロッパでもてはやされたジャポニズムを、さながら日本で当てはめたような一風変わった詩である。その冒頭二節目に「−軽らかに口笛吹き、落日を眺めるやうな眼付きして且つ夢 む、年壮き欧羅巴人」の詩句があるが、この詩は明治43年2月に発行された「屋上庭園」の第2号で発表されたものである。この「年壮き欧羅巴人」とは誰のことを指すのであろうか。考えられる人物としてフリッツ・ルンプの名 を挙げる事が出来る。

明治41年から45年頃まで、〈パンの会〉という、当時の若い文学者や画家達の集まりがあった。この会は特に雑誌を発行するということはなかった。集まっては、文学、芸術を語り、酒を飲むという気ままな会であった。杢太郎、 白秋、吉井勇、萩原守衛、高村光雲などが集った。この〈パンの会〉に出没したのがフリッツ・ルンプである。杢太郎の日記中、最初にルンプの名が登場するのは、明治42年2月13日の項である。「伊上凡骨の虜にゆき若き濁乙 人と曾ふ。午后四時神田の安田旅館にその補とをたづね、パンの曾につれゆく。石井、山本、長田、北原と六人、洋人ステーションのまねする。」41)この会合は「パンの会」の第二回目と考えられる。翌3月13日の日記には、 「五時半神田安田旅館にルンプ、フリッツを訪ねる。一緒に『パン』の曾にゆく。既に石井、山本、北原、倉田、吉井ある。…十一時半ルンプ吐く。」42)の記述がある。ルンプの名はその後も日記に登場するが、5月以降しばらく その名は見られなくなる。しかし、ルンプが〈パンの会〉に関係する人々の間に出没していたであろうことは、鴎外の日記にも見られることから推測出来る。

明治42年7月15日付けで鴎外は、「…伯林 Potzdam の人 Rumpf 来話し、更開けて締る。」43)と記している。29日にも訪ねて来て、夜一時まで話しをしたことを記しているが、やがては煩わしく思ったのであろう。その後の 記述は、ルンプ送別の夕べに閲したものである。「Rumpf の祖莚を兼ねて Pan の曾を松本榎に開く。予は往かざりき。」44)(明治42年10月23日)この送別会なるものは、ルンプが再び上海に戻るために開かれたものと思われ る。そもそもルンプが日本にやって来たのは版画の勉強のため上海から来たのである。その辺りの事情について、詩人北原白秋が「フリッツ・ルムプのこと」と題した小文を残している。白秋にとってはルンプの印象は必ずしもよい ものではなかったようである。

「…赫つ面のその若い毛唐はおそろしく無作法に胡座を掻いて、お猿の真似などしては林檎をか ぢったり、奇聾を馨したりしてゐた」45)

「…東京では伊上凡骨の弟子になって日本の木版を習ってゐた。だが、軍事探偵のやうだから気をつけるやうにと鴎外先生から後で私も注意を受けた。」46)

白秋は更に、日独戦争時に上海から青島に召集されたこと、負傷して病院に入ったが、それは自分から怪我をしたのではないか、と疑っていることを記している。また、大分の収容所から通信があったこと。そして「ルムプは戦争が 了ってから濁逸に帰ったと云うことであった。…この頃聞くと、落魄して日本人の案内などを商売にしているそうである。」47)と書き記している。ところで白秋は、この小文の最初でルンプの出所来歴について述べているが、小文の 最後でもそのことに触れている。「フリッツ・ルムプのお祖父さんはゲーテの門番だった云ふことであった。ルムプはそれを非常に光栄にしてゐた」48)というのが冒頭の書き出しである。白秋のルンプへの関心はここから起こったの かもしれない。

ルンプのドイツ帰国後の様子は、白秋が記したとおりであったようだ。それについては二人の独文学者が、「Fritz Rumpfのこと」49)及び「Berlin で会った Rumpfさん」50)という短文を書いている。後者の文章の筆者加藤一郎は 、ベルリン・オリンピックが開催された1936年に、日本文化研究所という機関で研究員をしていたルンプと会ったことを記している。1932年には『写楽』という浮世絵研究書も出していたルンプは、文句無しの日本通であった ろう。ともあれ、ルンプの遺した挿し絵には一種独特の味わいがあるとともに、日独文化交流史に異色の輝きを遺したことが今日再評価され、東西ドイツ統一後、ベルリンにある旧日本大使館の日本文化センターで、ルンプの懐古展示 会が開かれたのである。51)

6−5.パウル・カルクプレンナー −俘虜の北海道移住を提案した男

俘虜の中には、一風変わった提案をした人物がいた。その名はパウル・カルクプレンナー(PaulKalkbrenner,1876−?)である。海軍砲兵第3大隊野砲兵中隊副曹長の階級であったが、そもそもは職業軍人ではなかった。ハンブ ルクの輸出入商社カール・ローデ商会の日本代表で、日独戦争勃発に伴い青島で応召したのである。在日は12年に及び日本人女性トシを妻としていた。俘虜となったカルクプレンナーは名古屋収容所に容れられた。俘虜生活が5年ほ ど経った大正8年8月、彼は当時の北海道帝国大学に『濁逸人北海道移住二関スル趣意書』52)なるものを提出している。それは日本人に科学的な欧州農業経営を実地に示すための検討資料として送付されたものであった。形式的には 名古屋俘虜収容所から、北海道帝国大学の南、高岡の両教授に宛てた寄贈資料であるが、カルクプレンナーの原案になるものと註に記されている。

カルクプレンナーがそのような案を提出した真意の程は不明であるが、名古屋収容所には農学ないしは農業の実学に長けた人物がいたことがまずその理由である。彼自身は当初、当時のプロシア王国立実業高等学校に入学して大学人学 資格を得たが、長男として家業である農業を父親について学んだ。しかし、一年志願兵となった後農業を継ぐ前に広く世界を見分するために商社に入ったのであった。ゆくゆくは農業に従事することが彼の人生であったのである。上記 『趣意書』に名を連ねているブーアマイスターは兵役までは農業に従事し、入隊後は乗馬隊に属して養馬の方法を学び、糧珠下士をしていた。またフンツエルマンは、乳精教習所を出て精乳製法を習得していた。この冊子には13名の 名が挙がっているが、それぞれに皆軍籍以前、あるいは軍務に就いてから農畜産の技術を得たもの達であった。

その冊子は謄写刷の52丁に及ぶもので、趣意書としてはかなりな分量と言える。名古屋俘虜収容所がどの程度関与していたのか、また俘虜情報局の意向があったのか等不明であるが、前述したように、俘虜情報局では俘虜の技能、知 識を積極的に生かす考えがあったことも事実である。この趣意書の総論ではカルクプレンナーを始め13名の俘虜を、「彼」及び「彼等」と三人称で記して、名古屋俘虜収容所による作成の体裁をもっている。総論には次のような個所 がある。

「例ヘハ従来我カ国ハ世界二稀ナル人口過剰二苦シムニ結果、台湾、朝鮮、満州、戎ハ更二遠隔ノ地タル南北亜米利加等二移民シ又ハ移民ヲ奨励シツゝアルニモ拘ハラス邦人ノ膝下二在リテ而カモ肥沃ノ地二乏シカラサル北海道ノ農業 ノ今二振ハス肥沃ノ地徒ラニ農業者ノ来ルヲ待チッゝ風雨幾千載ノ弄フニ委セルニ非ラスヤ」53)

しかし第2丁の後半部からは、原案者であるカルクプレンナ一による一人称の記述が混じり、北海道とドイツの風土の類似性から説き興して、ドイツ人俘虜による北海道での営農形態として、日本政府の直接事業の形態、資本を募る形 、組合形式と三種類の提案を示している。農場の位置から、耕作・牧畜面積、生産品、種まきから収穫の日程、経費等かなり詳細かつ具体的な提案である。この提案がどのような反応を引き起こしたのか、それは不明である。

しかしこのような日本移住ないしは永住を考えたのは、名古屋収容所の俘虜達だけではなかったようである。1918年10月ヴェルサイユ講和条約締結後、俘虜はやがて本国に帰還することになるが、その際に俘虜からから種々事情 聴取が行われた模様である。広島の似島俘虜収容所のカール・ユーハイム(KarlJuchheim)は、ドイツ・ケーキの店を開いたことで知られるが、解放後も日本に留まって生活する希望をもっている者が少なからずいることを伝えている 。54)ユーハイムは更に、北海道移住に関する情報も伝えている。

「サラニ〈ユーハイム〉ナル俘虜ノ手紙ニヨレバ、習志野収容所(千葉県)ノ俘虜ハ解放ニサイシテハ北海道視察ヲ希望シ、ソノ結果ニヨッテ、北海道二集団定着シタイトイウ志望ヲ収容所長二述べ、俘虜情報局長官、在京瑞西大使 館閣下ニソレゾレ嘆願書ノ斡旋方ヲ申シ出ティルトノコトデアリマス」55)

最終的に日本での生活を選んだ俘虜はごく限られたケースと言えるかも知れないが、一時期日本定住を考えた俘虜はそこそこいたのではないだろうか。大戦終了後のドイツの経済状態、極度に困窮した生活状態がこの背景にあったもの と考えられる。1919年末から1920年始めにかけて、ドイツ人俘虜は順次故国ドイツへ帰国する。しかし、6年余の間には異国の地で死んだ者もいた。徳島鳴門の板東俘虜収容所跡には、日本で歿したドイツ人俘虜88名の名が 刻まれている。また、「東京のドイツ教会には、収容所で歿した82名の名が刻まれた記念板がある」56)という。1917年から世界的に猛威を振るったスペイン風邪に斃れた者が多かった。

7.おわりに

第一次大戦時における日独の戦争は、1914年8月23日を期しての日本の宣戦からでも僅かニヶ月半、実質的戦闘状態はニヶ月にも満たない11月7日に終結した。しかしドイツ軍の降伏後、日本に送られたドイツ人俘虜約 4,700名は、6年近くも収容されることになった。明治以降、日本は多くの分野でドイツに学び、ドイツを手本とした。ドイツ人俘虜が日本各地の収容所で生活を送っている間、青島を占領した日本は当初ここでもドイツに倣った 統治を行う。青島はやがて中国に返還されるが、第二次大戦が終了する昭和20年まで、多くの日本人が青島に住んだ。青島(チンタオ)は中国の地にあってドイツと日本が関わりをもった特異な都市であった。




1) シュテフアン・ツヴァイク『昨日の世界』(ツヴァイク全集17)、みすず書房、昭和39年、316頁、原田義人訳。
2) 前掲書、317頁。
3) シュテフアン・ツヴァイク『1914年と今日』(ツヴァイク全集21)、みすず書房、1989、150頁、猿田意訳。
4) 前掲書、前掲頁。
5) 山川正太郎は、「第一次大戦は我々にとっていわば〈忘れられた戦争〉であり、しかもこれに関する一般的な通史が必ずしも多いとは見えない…」(『第一次世界大戦一忘れられた戦争』、現代教養文庫、社会思想 社、1985年、 4頁)と述べている。
6) 『大正三年 目獨戦史 上下』、参謀本部編纂、大正5年12月20日。以下『日独戦史』 と略す。
7) 『獨逸海軍本部1914年乃至1918年海戦史 青島戦史』、海軍省教育局、昭和10年12月25日。以下『青島戦史』と略す。
8) 棟田博『日本人とドイツ人 人間マツエと板東俘虜誌』(光人社NF文庫、1997年、77頁)による。
9) 『青島経済事情』、野村徳七商店調査部、大正6年、23−29頁を参照。
10) 『獨逸及墺洪國 俘虜名簿』(日本帝国俘虜情報局、大正6年6月改訂)の56頁に二人の名が見られる。ともに第3海兵大隊第5中隊に属し、出身地としては、中国・福州となっている。
11) 『日独戦史』上巻の45頁では、総員を4 ,920名としているが、単純な計算違いと思われる。
12) 『青島戦史』181頁。
13) 『朝日新聞復刻版』27巻、日本図書センター、を参照。
14) 大町桂月 『増訂筆のしづく』、公文書院、明治44年、426−427頁。
15) 『日独戦史』上巻、229頁。
16) 『大正ニュース事典』第1巻、毎日コミュニケーションズ、1986年、408頁。
17) 前掲書、前掲頁。
18) 美土路春泥(美土路昌一、明治19年−昭和48年)は、従軍記者として日独戦争を取材し、戦況記事を書い た。著書に『青島従軍記』がある。後、朝日新聞社長、全日空社長となった。
19) 『大正ニュース事典』、410頁。
20) 前掲書、410−411頁。
21) 前掲書、411頁。
22) 前掲書、前掲頁。
23) 『日独戦史』下巻、203−204頁。
24) 『青島戦史』、156−157頁。
25) 『朝日新聞〈復刻版〉』27巻を参照。以下、関連記事はこの文献による。
26) 小田部荘三郎『獨逸落ち』、警醒社書店、大正4年。
26) 前掲書、
27) 前掲書、287−288頁。
28) 『日本醫籍録』、嘗事時論社、大正14年、茨城県の項13頁。
29) 『俘虜名簿』には俘虜番号が付されているが、その最も大きい番号は4711となっている。
30) 『俘虜職業調』、俘虜情報局、大正4年1月10日調(防衛研究所図書館所蔵、日独戦書・戦時書類巻五十八)。
31) 防衛研究所図書館所蔵の日独戦書・巻五十八所載。
32) ヨハネス・バールトの経歴等は、次の文献に拠った。Johannes Barth:AIs deutscher Kaufmann in Fernost Bremen−Tsingtau−Tokyo 189−1981,Erich Schmidt Verlag ,1984.
33) Johannes Barth:Tsingtau Tagebuch,OAG aktuell ,1985.
34) 瀬戸武彦『青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(1)一膠州湾占拠から青島の建設まで』、高知大学 学術研究報告第44巻、1995年。
35) OAGとは、Deutsche Gesellschaft fur Natur-und Volkerkunde Ostasien の略で、「東亜文化協会」と称されている。
36) ヘルマン・ポーネル先生の業績を讃える会(大阪外国語大学ドイツ語学科研究室)編『ヘルマン・ボーネル先生生誕百年記念展示会』(1984年)の資料を参照した。
37) 『鶏肋大和啓祐教授退官記念随想集』(高知大学人文学部独文研究室編、1992年)所載の〈ふたりのポーナーさん〉中の「ドイツ便り」による。
38) カール・フィッシャーの伝記等にかんしては、Georg Korth:Wandervogel 1896−1906,dipa−Verlag,1978及び上山安敏『世紀末ドイツの若者』(講談社学術文庫、1994年)を参照した。
39) 冨田弘『板東俘虜収容所 日独戦争と在日ドイツ俘虜』、法政大学出版局、1991年、237頁。
40) Georg Korth:Wandervogel 1896−1906,dipa−Verlag,S.112.
41) 『木下杢太郎日記』第一巻、岩波書店、1979年、698頁。
42) 前掲書、370頁。
43) 『鴎外全集』第35巻、岩波書店、昭和50年、447頁。
44) 前掲書、459頁。
45) 『近代風景』、昭和2年1月号、128頁。
46) 前掲書、前掲頁。
47) 前掲書、前掲頁。
48) 前掲書、127頁。
49) 徳沢得二「FritzRumpfのこと」、『ブルンネン』115号所載、郁文堂、昭和44年、5頁。
50) 加藤一郎「Berlinで会った Rumpfさん」、『ブルンネン』118号所載、郁文堂、昭和44年、5頁。
51) 『Deutschland(ドイツチュラント)』(Societats−Verlag,No.1,2/95)の40−42頁を参照。
52) 『獨逸人北海道移住二閑スル趣意書』は、大正8年8月23日付けで、名古屋俘虜収容所から、時の北海道帝国大学南教授及び高岡教授に寄贈されたものである。「謄写版五十二丁」となっている。昭和5年に付けられたと思われる 表紙には、「註」として、「日本人に科学的な欧州農業経営を実地に示すために、北海道にドイツ人捕虜よりなる農場を開設する提案(原案は元カール・ローデ商会日本代表のドイツ海軍士官候補生パウル・カルクプレンナー)。 北海道帝国大学へ検討資料として送られたもの」との記述がある。
53) 『獨逸人北海道移住二関スル趣意書』第一丁、総覧。
54) 前掲『日本人とドイツ人』、270頁。
55) 前掲書、前掲頁。
56) Kurt Meisner:Deutsche in Japan 1639−1939,Deutsche Verlag−Anstalt,1940,S.102.

平成 11年(1999)年10月1日受理
平成11年(1999)年12月27日発行
Tsingtau in Schantung im Zusammenhang mit Deuschland und Japan( 2 )
Der Japanisch − deutsche Krieg und die deutschen Gefangenen
Takehiko SETO