冬季大会 日本人初メダル
ゼロベース思考「銀」導く
コルティナダンペッツォ
アルペンスキー男子回転 猪谷千春さん83 上
1956年冬、イタリア・コルティナダンペッツォ五輪のアルペンスキー男子回転で銀メダルを獲得した
■平衡感覚を鍛錬
<2歳から父にスキーの英才教育を受けた>
父親はすぐにげんこつが飛んでくるほど厳しくて、「鬼おやじ」と呼んでいました。勉強や家事の手伝いも手を抜くことを許さず、「1日の採点表」を作り、勉強や練習など項目ごとに10点満点で自己評価させられました。
練習では、平衡感覚を鍛えるため、家の裏に丸太で一本橋を作って何度も渡ったり、山の斜面の原木をポール代わりにして滑ったりしました。前橋にいた頃も含め、他の子供たちが遊んでいる時に練習、勉強、家事の手伝いをしなければならなかったので、嫌気がさしたこともありました。
11歳の時、前走者として神宮大会(現在の全日本スキー選手権)に参加し、1位より6秒も速く滑ったのです。「神童現る」とメディアに騒がれ、やる気が出ました。
■思いがけぬ出会い
<52年、20歳の時にオスロ五輪に初出場。開幕前、転機となる出会いが待っていた>
当時、都内の高校に通っていて、銀座ミズノスポーツ支配人の田島一男さんにお世話になっていました。12月に定期試験があって神田へ参考書を買いに行った時、田島さんの所に寄ったら、米国人が店内にいました。それがAIU保険会社の創始者コーネリアス・バンダー(C・V)・スターさんでした。
田島さんが彼に私のことを「オスロ五輪に出る猪谷千春です」と紹介すると、彼は「今頃日本で何をしている。世界の強豪はすでに欧州で練習しているぞ」と言って、欧州行きのチケットを用意してくれました。
■「ブラック・キャット」
<オスロ五輪は回転で11位。本場・欧州のスキーヤーを驚かせた>
コースをはみ出すミスがなければ、上位に入っていたはずです。悔しかったが、世界の舞台をじかに見て、肌で感じた貴重な体験でした。また、欧州の選手と技術に大差はないと思いました。
当時の私の技術は、父親と一緒に編み出したもので、日本のスキー界では主流ではありませんでした。当時の日本では、例えば、左に曲がる時には上体を左側にねじって、体重も左足に乗せる選手が多かった。私は、上体を右へ残し、体重も右足に乗せながら左に曲がる独特の滑り方でした。
でも、欧州の選手たちは、私と同じような滑り方をしていたのです。地元の新聞には、メダルをとった選手と私の写真が並べて掲載され、「東洋からきた猪谷が、メダリストと同じ格好で滑っているのは驚きだ」と報道されました。好んで黒のユニホームを着ていたので、「ブラック・キャット」という愛称で呼ばれました。
■留学中に思考変える
<その後、C・V・スター氏の薦めもあり米・ダートマス大学に留学。練習方法を工夫し、勉強と両立させた>
大学は学業のレベルが高く、期末テストでは、全学科の平均点が60点を超えないと罰則がありました。その中でも、「すべての校外行事に参加できない」という罰則が私にとって最も厳しかった。
そこで思考を変えたのです。腕立て伏せをしながら床の上に置いた教科書を読む。椅子に座るような体勢を保って教科書を読んだこともあります。コースを覚える記憶力を高めるために、授業ではノートを取らずに必死に記憶して、夜に思い出しながらノートに書き出しました。この時、何もないところから発想する「ゼロベース思考」を身につけたのです。
■感動の日の丸掲揚
〈56年冬、コルティナダンペッツォ五輪で栄光を手にした〉
すでに欧州の大会では優勝していたので、自信がありました。金メダルを狙っての銀メダルでしたが、表彰式で日の丸が掲げられた時の感動は忘れられません。
夢をかなえるには、工夫と努力が必要。「ゼロベース思考」もその一つで、段階的な目標を立て、ライバルがやっていない方法を自分で見つけて練習したのです。「ゼロベース思考」は、その後の人生でも役立ちました。
◇あこがれは、ソチ「金」リゲティ選手
2月に福島県で行われた「第35回読売杯南郷スラローム大会」小学生男子2部(4~6年生)で優勝した君島王羅君(那須塩原市立塩原小学校6年)
「お父さんがスキー選手だったので、4歳ぐらいからスキーを始めました。1年生から福島県内のスキーチームに入り、5年生からは地元のスキー場に出来たチーム(塩原ジュニア)で練習しています。チームの練習がないときは、学校が終わった後に福島県のスキー場でナイター練習をしたり、週末に長野県まで滑りに行ったりしています」
「得意なのはジャイアントスラローム(大回転)。あこがれは(ソチ五輪の男子大回転金メダルの)テッド・リゲティ選手(米)です。大会慣れするようにたくさん大会に出ていて、今シーズンは慣れてきた感じがします」
「オリンピックに出たいですが、まずは3月下旬に岐阜県で行われる全国大会に出場して5位以内を目指し、中学生になったら優勝するのが目標です」
◆アルペンスキー
斜面に立てられた旗の間を滑り降り、タイムを競う。ターンの技術も要求される。2014年のソチ五輪では、「回転(スラローム)」「大回転(ジャイアントスラローム)」「スーパー大回転」「滑降(ダウンヒル)」、回転と滑降を組み合わせた「複合」の5種目が実施された。「回転」は日本選手が得意にしている種目で、06年のトリノ五輪男子で皆川賢太郎選手が4位、湯浅直樹選手が7位となり、日本選手で50年ぶりの入賞を果たした。
◆いがや・ちはる
1931年5月20日、国後島生まれ。5歳で旧富士見村(前橋市)に移住し、小学1年頃まで過ごす。52年のオスロ五輪でアルペンスキー男子回転11位、56年のコルティナダンペッツォ五輪で同2位。大学卒業後、AIU保険会社に入社し、アメリカンホーム保険会社社長を務めた。82年、国際オリンピック委員会(IOC)委員、2005年には同副会長に選出される。現在、IOC名誉委員、日本障害者スキー連盟会長などを務める。