杉原ヴィザは日本・ポーランド友好関係の成果

   ワルシャワ大学日本学科教授  エヴァ・パワシ=ルトコフスカ

 一九四〇年八月、リトアニアのカウナスにおいて、杉原千畝副領事が日本の通過ヴィザを発行し、六千人のユダヤ人を助けたのは有名な話である。その背景には、日本とポーランドの知られざる関係が隠れている。

日露戦争のとき日本は、ロシアの圧政に苦しむポーランドに武器や資金を援助した。一九一八年ポーランドが独立すると、独立を最初に承認した国家の一つが日本だった。以後も両国は、共通の敵ソ連に対抗するため、友好関係をあたためてきた。

三九年九月一日、第二次大戦が勃発した。十月上旬、ポーランドは完全にドイツとソ連に分割され、大勢の避難民や軍人が、隣国リトアニアに脱出した。ところが、リトアニアもソ連に併合される動きがあり、その場合、亡命ポーランド人がシベリアの強制収容所送りになると予想された。この時点からポーランド軍将校が、軍人を含む自国難民をリトアニアから西側へ脱出させるという任務を担った。一方日本も、リトアニアに注目していた。というのも、日本と防共協定を結んでいたドイツが、日本の仮想敵国ソ連と、手を結んだからである。日本は、ドイツの行為を裏切りとみなし、以後ドイツをまったく信用しなくなった。そこでカウナスに、日本人居住者がいないにもかかわらず、領事館を置いた。ソ連情報を入手するため、外務省のロシア通である杉原を、同年十一月に派遣した。

日本は、ポーランドと断交せず、逆に必要な情報を得るため、杉原に命じて、ポーランド軍将校との協力関係を結ばせた。情報の見返りに杉原は、日本の外交行嚢を使って、パリ(後にロンドン)のポーランド亡命政府と現地の地下組織との間の手紙などを運んでやったポーランド避難民に日本経由の通過ヴィザを発給したのも、杉原とポーランドとの良好な関係なしには語れない。だが、ヴィザ発給の期日がせまると、ポーランド避難民中のユダヤ人だけが、こぞって申請に詰めかけた。杉原は外務省の許可なしに、四〇年七月末から、人道的な立場に基づきヴィザを発給しつづけた。ソ連がリトアニアを併合すると、彼もやむをえず領事館を閉鎖して、九月一日にベルリンへ退去した。

杉原の通過ヴィザを受け取った避難民たちは、シベリア経由で日本にたどり着いた。その際、彼らを受け入れるため、ロメル駐日ポーランド大使が東京で組織した「ポーランド戦争犠牲者救済委員会」も、重要な役割を果たしている。委員会は、ウラジオストクからの難民が敦賀港に到着するたびに出迎えに行き、入国手続きを手伝い、神戸へ向かわせた。神戸では地元のユダヤ人共同体が、数百人収容の収容施設で彼らを受け入れた。東京に来たポーランド人は、ポーランド大使館の敷地内に建てられた別棟に宿泊させている。委員会は難民に対して、当座の金銭的援助、助言、支持までも与えていた。

カウナス領事館の閉鎖が明らかになったころ、杉原はポーランド軍人二名に対して、日本の公用旅券を発給した。彼の助力によって、一人は駐ベルリン日本陸軍武官室の通訳官として架空雇用され、ポーランド軍諜報部の現地指揮官として活躍した。もう一人は、杉原が四一年三月、ソ連と国境を接するドイツのケーニヒスベルグに日本領事館を開設する際、情報収集に協力するため同行している。同年七月初旬、日本武官室に雇われていたポーランド将校が、ドイツ防諜部によって逮捕され、ベルリンのポーランド諜報機関は壊滅した。だが、その協力関係は、ストックホルムに駐在する小野寺信陸軍武官とそのポーランド人協力者に引き継がれた。

杉原千畝の人道的な行為によって、ポーランド国籍のユダヤ人の多くが、ナチスの大量虐殺から救われた。一方、杉原によって種を蒔かれた諜報協力も、終戦まで続いた。杉原ヴィザの発給は、単なる情報提供の見返りではなく、日本とポーランドの友好関係の大きな成果の一つと言える。この友好的な関係は、今日まで連綿と維持されている。

(本発表の要旨は「ポーランドとの隠れた関係:杉原千畝、人道ヴィザ」『中日新聞』20061130日夕刊に掲載)