幕末の日本14

日本の船
シュリーマンやフランス海軍士官のスエンソンは、日本の船にも興味を持って報告しています。日本の船が白木のままでありペンキを塗らないという指摘は、現代の我々も気付かなかった事ではないでしょうか。日本には漆の他に塗料を作る技術はなかったのでしょうか?
日本の小舟
「日本の小舟には色が塗っていない。奇妙なことだが、なぜか日本人は小舟だろうと大船だろうと、けっして色を塗らない。他のどの国の経験とも合致しないのだが、彼らは、船は色を塗らない方が、持ちが良いと考えているのである。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
「二人の男は横木の先端に固定されて回転を支えるようになっている小さな軸にぴったり合う長い櫓(ろ)を使って漕ぎ出した。この櫓は船底に縄で縛りつけられていて、船頭たちは舟の後部で縦にそれを動かした。彼らは舵を必要としなかった。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
「平底の長い舟で、後部が四角で先が尖っていてアイロンのような形。それを二人のたくましい男が、真ん中あたりに穴の空いた櫓(ろ)を船尾の縁に取り付けた軸にはめて漕ぎ進む。漕ぎ手は外向きになって舟の上に立ち、上半身を前後させて後方にくねるような運動を伝えへさきに水を切らせるのである。」(江戸幕末滞在記)
日本の木造帆船
「日本のジャンク船(木造帆船)は本当に絵のように美しい。船尾は盛り上がって高い砲郭のような形を成し、そこに舵取りが陣取って船の全長の三分の一もの長さの思い舵を取る。砲郭部の両側には見張り廊下のような展望台があって水上に突き出ており、その甲板の下に船長と乗組員の寝室がある。ジャンク船の中央部は空いていて、そこに積荷を載せる。そこには普通、藁葺き屋根や竹で作った簡単な小屋があって陽の光や雨をしのげるようになっている。舳先は水面から数フィートほどしか出ていない。そこには大胆な彫刻が施されていて先端に綱を飾り房にした巨大な箒(ほうき)のようなものが必ず垂れ下がっている。」(江戸幕末滞在記)
「船体の水面上に出る部分にタールや塗料を塗ったりすることはなく白木のままで模造の金属装飾品で飾られている。船尾の高い旗竿には船名と持ち主の名前を太字で書いた旗が掲げてある。」(江戸幕末滞在記)
大君(将軍)の屋形船(大坂)
「この長くて平底の舟には、中央部に華奢な木造の家が付いていて高価な紫の縮緬が垂らしてあり、それには大君の家紋である三つ葉が織り込んであった。家の後部には台所があって、清潔さに光り輝く中で日本人の料理人が鍋と湯沸しの間で忙しそうに立ち働いていた。我々は家(屋形)の床に敷いてあった臙脂(えんじ)の厚布(座布団)の上に席を取った。」(江戸幕末滞在記)

日本の消防
日本の家屋は木と紙でできているので、出火するとたちまち燃えてしまいます。そのため、日本では火事は多かったようです。当時の外国人たちは日本の消防などについても報告しています。下記の横浜大火災での早い復興活動は現代に通じる日本人のたくましさかもしれません。
火事見舞い(長崎出島)
「その火事の翌日、日本の風習によって我々は火事見舞いとして食物の贈り物を山ほど貰った。市民の同情は普遍的であった。日本人が消火に力添えしてくれる親切は有難いが、かえって混乱をますばかりなので断りたかった。その場には、奉行をはじめ伝習所長のほか大勢の生徒らが消防の装束も凛々しく出島に駆け付けたのを見受けたが、士官級の武士たちの火消姿は実に素晴らしく良く見えた。」(長崎海軍伝習所の日々)
英国公使館の火事
「今度の場合、すべての配備が実に見事に処理されたように思われた。公使館の周囲の門は即刻閉鎖され、武装した役人が警備した。消防隊員や実務を執行する人たちは入門を許されたが、それ以外の者は厳重に拒絶された。門内は、あっという間に装備した人たちでいっぱいになり、数百人もの人が四方に、庭や室内や廊下そして出火現場から離れた建物の屋上に登ったりして駆け回っていた。しかも、見張りの眼が彼らにしじゅう注がれていたので、品物は何一つ盗まれなかった。公使の卓は板張りで、客間には内外の夥しい興味のある品々が置かれていた。それらのものは人を誘惑したかも知れないが、何一つ紛失したものはなかった。私はこのような十分に訓練を積んだ団体の組織をまったく見たことがない。シナでは、略奪の機会を狙っている暴徒を制することは、非常に困難な問題である。」(幕末日本探訪記)
「消火器は、私がかつて見た機械の中では最も貧弱なものであった。消火用水を十分に供給できる庭の小さな池は、家から20ヤードと離れていなかった。しかし、池と消火器をつなぐホースがないので、手桶で機械に水を汲み入れなければならなかった。消火器が吐き出す水勢は水鉄砲で押し出す水よりいくらか強いだけで、庭園用の上等な水撒きから放出するよりも、ずっと貧弱だった。多数の人たちは手桶を持って梯子で屋根に登り、運んだ水を炎にかけた。しかし、妙なことに彼らは不統一であった。手桶を手から手へ渡さないで、ひとりひとりが、あらん限りの声で騒ぎ立てていた。運よく火災は早く発見されて簡単に消えたので、その夜のうちに鎮まった。」(幕末日本探訪記)
大坂の火事
「やがて炎と競うように何百人もの日本人があちこちから飛び出して集まって来た。みな燃えにくい生地で作った上着と兜型の帽子を被っていて、波打つ火の海に明るく照らし出されたその姿は、身を焦がされる心配もなく火の中を飛び回る火の精の一団のようだった。こんな火の海に水をかけても骨折り損、彼らは先の尖った鳶口を降り回して魔法の杖でも使うようにして一軒また一軒と地面に崩し倒していき炎が通り越せない境界地帯を作った。」(江戸幕末滞在記)
横浜大火災
「日本人はいつに変わらぬ陽気さと暢気さを保っていた。不幸に襲われたことをいつまでも嘆いて時間を無駄にしたりしなかった。持ち物すべてを失ったにもかかわらずに、である。被った損害を取り戻すために全精力が集中された。父親を先頭に、どの家族も新しい家を早く建てようと奮闘した。屋根を葺き、戸や窓に紙を張ったり、畳を敷いたりして、部屋の一つが使えるようになるかならないかのうちにもう荷物を解き、少しでも早く収入を得ようとして売り物を並べていた。日本人の性格中で異彩を放つのが、不幸や廃墟を前にして発揮される勇気と沈着である。再び水の上に浮かび上がろうと必死の努力をするそのやり方は、無分別に事に当たる習癖をまざまざと証明したようなもので、日本人を宿命論者と呼んで差支えないだろう。」(江戸幕末滞在記)
日本の家屋
「火事は日本の町をしばしば襲う災難の一つである。家を建てるのに燃えやすい材料を使っているため、特に住人が大きな火鉢のまわりで暖をとる冬の季節にはちょっとした不注意で火が出やすい。そして一度燃え出したら最後、藁の束のように燃え上ってしまう。」(江戸幕末滞在記)
「火のまわりが早く瞬く間に惨事が広がるため、財産を持ち出すことはほとんど不可能である。そのため、店に非常に高価な品物を置いている裕福な商人は、店の裏に石と粘土で作った耐火性のある小さな蔵を建て、毎晩高額な珍品の類をそこにしまうのである。」(江戸幕末滞在記)

日本の習慣
まったく習慣の違う日本で、外国人たちは多くのことで違和感を持って日本人を見ていました。
さかさま
「年をとったものが凧揚げをして、子供たちがそれを眺めている。大工は鉋を自分の手元へ引いて使う。仕立屋は自分の手元から縫ってゆく。馬に乗る時には右側から乗る。馬小屋の中に立っている馬の頭は、我々の方では尾があるはずのところにある。それに馬具に付ける鈴は、前部ではなくていつも後部に付けている。婦人は歯を白く保つどころか、真っ黒にしている。」(大君の都)
「どの馬もみな仕切りから頭をこちらへ向けて立っているではないか。西欧の馬小屋とは正反対である。」(江戸幕末滞在記)
「例えば日本人は必ず右側から馬に乗るが、これなど我々にはぶきっちょに見えて仕方ないのである。」(江戸幕末滞在記)
正座
「日本人は終日正座し続けても疲れない。しかも、その姿勢のまま読み書きしても紙や本を立て掛ける机などの必要を感じない。税関ではこのようにして25名から30名の官吏が広間の中央に横二列に座り、帳面に非常な速さで上から下へ、右から左へ筆で書いている。実に奇妙な眺めである。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
懐紙
「スカーフやハンカチーフはない。男性も女性も服の袖の中に一種のポケットが付いていて、そこに鼻をかむための和紙を入れている。彼らは、この動作をたいそう優雅に行う。自分の家で鼻をかむ時は、この紙を台所の竃にくべ、人の集まる場所では、この紙を静かに畳み、外に捨てさせるために召使を目で探す。召使が見つからなければ、袖に紙をしまって外に出た時に捨てる。彼らは、我々が同じハンカチーフを何日も持ち歩いているのにぞっとしている。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
猫と犬
「日本の猫の尻尾は1インチあるかないかなのである。」
「日本の犬はとてもおとなしくて、吠えもせず道の真ん中に寝そべっている。我々が近づいても相変わらずそのままでいるので、犬を踏み殺さないよういつも避けて通らなければならない。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
金魚
「少し余裕のある家庭は、決まったように金魚鉢を持っていて、そこには赤色、金色、銀色、透明の魚がいて、球のように丸いのもあれば広くて長い尾をしたのや掌状をした浮遊物もいた。」(絵で見る幕末日本)
下層階級の服装
「男は幅の狭い下帯一本、女は痛ましくも横幅を節約したペチコートだけをまとうという下層階級の夏の服装を見慣れた者にしてみれば、これらは嗅覚や視覚にとっての最悪にして唯一の敵だといえる。」(大君の都)
「庶民の服は暖かい季節にはできるだけ軽くされ、腰の部分を覆う帯一本だけになる。」(江戸幕末滞在記)
「この階層の人間の裸は、時として刺青によって隠されていると言えるかもしれない。刺青は背中や胸に入れられ全身に入れられることもあるが、派手な色で火を吐く龍などの空想上の動物が彫りこまれる。」(江戸幕末滞在記)
「素晴らしい刺青も冬になる肌にぴったりの紺色の織物のズボンと、同じ色の丈の短いシャツで隠されてしまう。シャツには白地でくにゃくにゃした形が書いてあるが、何かの模様であるにしろないにしろ、私にはその意味はわからない。」(江戸幕末滞在記)
「首には紺と白の市松模様のスカーフをかけ、寒い日や人に顔を知られたくない時には、頬被りをして鼻の下で結び目だけ見えるようにする。」(江戸幕末滞在記)
船頭の服装
「彼らが身に着けているものといったら一本の細い下帯だけで、そもそも服を着る気があるのかどうか怪しまれるくらいだ。しかし彼らは身体じゅう首から膝まで、赤や青で龍や虎、獅子、それに男女の神々を巧みに刺青しており、さながらジュリアス・シーザーがプルトン人について語ったところを彷彿させる。すなわち、彼らは衣服こそ纏っていなかったが、少なくとも見事に彩色している。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
「私が先刻乗り移った小舟には6人の漁師が乗っていた。中背の男たちで、肌は赤銅色、手足は柔軟で筋肉質、程よく均整が取れていた。腰に巻いている幅の狭い褌を除けば素っ裸であった。」(スイス領事の見た幕末日本)
苦力、人夫、別当の服装
「苦力(クーリー)や担ぎ人夫たちの身に着けるものは、別当(馬丁)と同様に幅の狭い下帯と背中に赤や白の大きな象形文字の書かれた紺色のもの(半纏)だけである。彼らはたいてい体中に刺青をしている。」(シュリーマン旅行記 清国・日本)
日本人の服装
「私は、みすぼらしい日本人の服装にはどうも感心できなかった。粗末な木綿の着物をまとい素足に藁で作ったサンダルを履いている姿に、私は身震いしたが、おそらく彼ら自身もこのような寒い朝では身震いしていたことであろう。」(絵で見る幕末日本)
「日本人はシャツとズボン下は着ないが、毎日入浴する。女は赤い絹地の襦袢を着ている。夏の間、百姓や漁師や労働者はほとんど真っ裸で歩いている。そして、こうした階級の女はスカートだけを残している。雨天の日には、藁の外套かまたは油紙を纏い、ジャワで作っているような竹の皮で作った帽子を被っている。」(絵で見る幕末日本)
「履物は、すべての人が同じで、足袋か草履か下駄である。一般民衆は、一年の大部分を草履で歩いている。家に帰った時とか、誰かの所に入って行った時には、みんな自分の草履や下駄を脱いで玄関の所に置いている。」(絵で見る幕末日本)
お茶と煙草
「日本人は大変なお茶好きで煙草好きで、お喋りである。絶えずお湯が必要であり、火鉢は昼も夜も炭火が入れられていなければならない。これはまた、煙草入れの紐を帯にさして持ち歩き、一日に20回も引っ張り出す煙管(キセル)の煙草に、火をつけるためにも使われる。」(スイス領事の見た幕末日本)
「何もすることのない何もしていない人々、その数は日本ではかなり多いのだが、そんな人たちは火鉢の周りにうずくまって、お茶を飲み、小さな煙管を吸い、彼らの表情豊かな顔にハッキリと現れている満足げな様子で話をしたり、聞いたりしながら長い時間を過ごすのである。彼ら日本人の優しい気質、親切な礼儀作法そしてまた矯正不可能な怠惰を真に味わえるのは、こんな風に寄り集まった日本人に接する時である。仕事に対する愛情は日本人にあっては、誰にでも見られる美徳ではない。彼らのうちの多くは、まだ東洋に住んだことのないヨーロッパ人には考えもつかないほどに無精者である。」(スイス領事の見た幕末日本)
灸と鍼
「背中を丸出しにした女の両肩の間の皮膚の四ヵ所に、後ろに座っていた女が小さな化粧パフのような可燃物を載せて火をつけていた。こんな施術はヨーロッパ人にとっては堪えがたい苦痛なことであろうに、ここで治療を受けていた女性は笑ったり冗談を言ったりしてむしろ楽しそうにしていた。」(幕末日本探訪記)
「鍼も日本では有名な治療法のひとつになっているが、灸術のようにそれほど普遍的でもなく、またそのように気持ちの良いものでもないらしい。鍼は日本の風土病的な腹痛や疝痛の場合によく利用される。」(幕末日本探訪記)
液体肥料
「ときどき、町から田畑に送る液体の肥料を入れた覆いのない桶を運ぶ運搬人が列をなして通ったりすることは、まことに嫌なものだ。」(大君の都)
「一年のうちの決まった時期に、どんなに詩的で美麗な風景をも散文的で絶望的なものにしてしまう悪臭である。地味を肥やすために糞を尿に溶かしたものを用いるのだが、このどろどろの液体は山腹に掘られた穴に貯蔵され、それがすぐに腐敗して得も言われぬアンモニアの香水の悪臭を放つのである。地面に肥料を撒く月には、この忌まわしい混合液を蓋のない桶に入れて畑を運び回り、目を吹いたばかりの作物に浴びせる。」(江戸幕末滞在記)
「私はこの美しい郷の東西南北いたる所を巡遊してみた。ただ残念なことは歩道に沿っていたる所に壺のあるのが目に付く。その中には人間や動物のあらゆる汚物が丁寧に溜めてあって、これが田畑に撒かれる。故にその悪臭といったら、とても堪えられない。甚だしきは、人が時折その壺に落ち込むような危険さえもある。今日本人が作っているような肥料よりも、硫安の効能が如何に大なるかを知ったら、さぞ驚嘆することであろう。」(長崎海軍伝習所の日々)
鈴ヶ森の処刑場
「途中で処刑場のひとつを通り過ぎなければならなかった。これは東海道からほんの少し離れて湾の端にあり、首都からわずかの距離であった。そこを通りかかると胴から切り離されて間がない惨たらしい首が三つ、棒の先の小さな台の上のありがたくない高みから私を見下ろしていた。これは7月5日に公使館に乱入した刺客たちの首であったのだろうか。(大君の都)

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2014.11.28 野沢 清 kiyoshi_nozawa@yahoo.co.jp