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遺跡コラム第2回 Column/Vol.2 幻の路 直道

遺跡コラム第2回 Column/Vol.2 幻の路 直道

広大な中国を束ね、中国大陸初の統一国家をつくった秦の始皇帝。世界史にその名を刻む偉業を成し遂げた始皇帝ですが、その遺跡となると意外に残されていません。

その一つが番組で取り上げた始皇帝のお墓、始皇帝陵。そしてもう一つ、手つかずで残されている重要な遺跡があります。それは…。

西安の北に広がる黄土高原、その山尾根をはうように続く一本の道。「直道」と呼ばれる遺跡です。(写真①)始皇帝は統一後、全国の主要な幹線道路を整備させ、「馳道(ちどう)」と名付けました。生涯5回に渡って行った各地への巡行は、そうした道路網の整備の上に実現したものでした。この地に残る「直道」は、そうした巡行のニーズに加え、当時、勢力を増していた北方の騎馬民族・匈奴に対する備えの意味もあったといわれます。都市をつないだ「馳道」は、その後の歴史の中で失われてしまいましたが、「直道」のほうは人里離れた黄土高原という場所がら、現在までそのまま残されていたのです。

司馬遷の「史記」の中にもその名は記されていますが、一体どのような道なのか、その全貌は謎に包まれてきました。

始皇帝が作った幻の路を一目見たいと、私たちは黄土高原に赴きました。同行を願ったのは、近年、直道の発掘調査に取り組んできた東亜大学の黄暁芬先生。(写真②)中国の研究者とともに幾度も調査を重ね、大きな成果を上げています。

向かったのは、西安から車で5時間、陝西省富県張家湾鎮に残る直道遺跡。近年、高速道路も近くに開通し、アクセスの良い場所です。ここの直道は地元の観光開発にも一役買っており、時折、観光客を乗せた車がやってくるなど、地元の関心も高い場所のようです。

黄先生に解説していただきながら見た直道は、我々の想像を超える遺跡でした。

史記の中で、直道は「塹山堙谷(ざんさんいんこく)」、山を穿ち谷を埋めて作られたと記されています。これを誇張だと思ったら大間違い。本当にその言葉どおりの巨大な路なのです。山の側面を削り、その土を谷側に出して突き固め、道幅30m、広いところでは50mもある平らな路面を確保。黄先生の発掘調査では、側溝や路肩もあり、路の表面は細かい土を幾重にもローラーのようなもので固く押しかためて舗装していたことが分かりました。まるで現代の高速道路さながらの、古代のハイウェー。そして驚いたことに、この巨大な直道は、南は咸陽付近から北は内モンゴルの包頭まで、実に全長750キロに渡って続いていたことが調査から確認されたのです。(写真③)

「私自身、調査から史記の記述が誇張ではなかったことを知り、始皇帝の事業のスケールの大きさを肌身に感じました。大規模で、かつ非常に高度な技術が用いられていることが分かります。古代東アジアの土木事業の頂点ともいえるでしょう。このような土木建設は財力と物量の消費が甚大です。秦朝前後の王朝で、このような大規模な建設は例がありません。」(黄暁芬先生談)

重機のないこの時代、これだけの路を750キロもどうやって作ったのか。山尾根をはう路は勾配を最小限にとどめるよう設計されており、その知られざる測量技術にも驚かされます。直道はまさに、幻の路だったのです。

黄先生の調査では、保存状態のよい直道はまだまだ多く残されているそうます。もっとたくさん見たいと感じていた時、たまたま話かけた近くに

住む男性が耳寄りな情報をもたらしてくれました。「あの山の向こうに、もっとすごい直道があるよ。」

翌朝、お弁当のパンとソーセージを手に、男性の運転する三輪車の荷台に乗り込みました。中国の農村でよく見かけるこの三輪車は優れもので、ものすごく馬力があり、どんな急勾配の山道でも容赦なく進む頼もしいマシンです。(写真④)しかし、荷台に乗ると話は別。固い鉄板に絶え間なくお尻を突き上げられ、おまけに前方から襲いかかる木の小枝に顔をひっぱたかれることになります。

苦行に耐えること2時間半。20キロ離れた山の中に、知られざる直道はありました。(写真⑤)

道の表面には木が生えていますが、その数はまばら。土を突き固めて土台を作っているため、今でもここだけ木が生えにくいのだそうです。国中いたるところで開発が続く中国で、2200年の歳月を忘れたかのように、昔の姿をそのまま伝える遺跡。物音一つ無い山間の道を進む、始皇帝の車馬隊の荘厳なありさまが目に浮かぶようです。

しかし、三輪車にのって移動するだけでもへこたれそうなこの山の中に、750キロも道を築いた当時の人々の苦労はいかほどのものだったか。わずかながらも、その苦労を身にしみて(特にお尻に)感じた撮影の一幕でした。帰路の荷台も、思いっ切り揺れたことは言うまでもありません。

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