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[慶應義塾豆百科] No.16 半学半教

「半学半教」という言葉は今では全く使われない用語であるが、江戸時代から明治初年にかけての教育機関ではよく使われたもので、特に経営基盤の弱い民間の私塾においては、最も一般的な教育形態であった。というのは、この生徒にして同時に教師でもあるという両棲動物の様な地位は、教育制度が未発達な段階でのみ許される形態であって、教育担当者がその塾の経営者ただ一人である様な小規模な私塾においては、塾主の担当し得る生徒の数は知れたものであり、入学者が増えた場合は、教育の一部を塾生中の先進者に任せざるを得ないことになる。ここに学生にして教師を兼ねるという「半学半教」の仕組が出来上がるのである。

この形態は江戸時代の漢学塾において見られ、洋学塾もこれをならっている。洋学というものは今まで馴れ親しんできた民族文化とは全く異質の慣習に基づいた語学であったためか、その学習にはわれわれの予想以上の努力を当時の人々は重ねたものであった。福澤先生ですらABC26文字を習って覚えてしまうのに3日かかった(『福翁自伝』)というから、20代後半で妻子をかかえている様な者が年少の者と一緒に横文字を習うのは並大抵の苦労ではなかったであろう。明治2年、14歳で入門した門野幾之進は、群を抜く秀才で、16歳の時には「半学半教」を実践し、右のような年輩者を教えることになり、塾生から「ボーイ・ティーチャー」とよばれていたという。

しかしこの「半学半教」はあくまでも学科課程が未整備の段階で、教員の資格についての法的規制がゆるい時代のことであり、かつ財政基盤の弱い私学がやむをえず行った教育方法であって、これはもちろん好ましい状態ではなかった。しかしこの仕組の根底には、学問は上達すればするほど奥深く、それを究める事は一層難しくなるもので、学問の完成とか成就ということは永遠の課題なのだという考え方、すなわち福澤先生が好んで揮毫した「愈究而愈遠(いよいよきわめていよいよ遠し)」の思想が潜んでいることを見逃してはならない。

その考え方から慶應義塾には先生と呼べるのは福澤先生ただ一人、他は長幼先後の差があるだけだということで互いに「何々さん」とさん付けで呼び合ったり、公式には「何々君」と呼ぶ習わしになっている。

『慶應義塾社中之約束』には教うる者学ぷ者との師弟の分を定めず、これを全て「社中」と唱うとある。

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