地域社会貢献活動
ふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」
No.2
林芙美子の実説「放浪記」
対談 :平成4年1月
司会・構成 :土居 善胤
お話:門司文化団体連合会会長 
    井上外科整形外科医院長 井上 貞邦氏
聞き手:福岡シティ銀行 監査役 木村 順治
※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。
放浪記では”下関生まれ”だが
昭和49年門司に建てられた文学碑
掌草紙

いづくにか
吾古里はなきものか

葡萄の棚下に
よりそひて

よりそひて
一房の甘き実を食(は)み
言葉少なの心安けさ

梢の風と共に
よし朽ち葉とならうとも

哀傷の楽を聴きて
いづくにか
吾古里を探しみむ

司会
林芙美子さんといえば、すぐ『放浪記』を思い出しますが、林さんが亡くなられて40年になるのですね。

井上
戦前から戦後へと歴史の激変の中で、北九州がうみだした代表的な作家と言えば、男では火野葦平(ひのあしへい)さん、女では林芙美子さんですね。

火野葦平:本名、玉井勝則 作家。明治40年若松市(北九州市若松区)生れ。「糞尿譚」で芥川賞。「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」の三部作。「花と竜」など。昭和35年1月24日逝去。亨年52歳。

木村
お2人とも華麗な文筆活動の方でしたね。

井上
葦平さんが亡くなられて30余年、芙美子さんが亡くなって40年をこえました。歳月を感じますね。

木村
で、その『放浪記』の冒頭で、下関で生れたとあり、その後木賃宿などを転々する悲惨な幼女時代だったとありますが、先生がこれは多少違っていると……。

井上
『放浪記』が出版されたのは昭和5年でしてね。おいおい話しますが、芙美子さんの幼年から少女時代は、『放浪記』に書かれているような悲しい生活ではなかったんですよ。

木村
私も、木賃宿をさすらっている行商人の娘が、どうして昔の高等女学校を卒業しているのか。また芙美子さんの、写真館で写した幼少時代のきれいな写真があったりする。当時ですから、とても木賃宿の住人にはなじまない。変だなと思っていました。

井上
写真ですか。なるほどね。芙美子さんは成人してからは、文学志望でそれなりの苦労をしていますが、少女時代は違うんです。
で、まず、その放浪記の1頁目を見てみましょう。
「私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

 更(ふ)けゆく秋の夜 旅の空の
 侘(わび)しき思いに 一人なやむ
 恋いしや古里 なつかし父母


私は宿命的に放浪者である。私は古里(ふるさと)を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物(ふともの)の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。私が生れたのはその下関の町である……」と。

「放浪記」昭和5年7月刊

木村
明白に本人が下関生まれと書いていますね。それを先生が門司生まれだと立証された。文学界ではたいへんな話題だったでしょうね。

井上
”立証”というとおおげさですが、私の義母の佳子(よしこ)が芙美子さんと仲よしで、母が4歳、芙美子さんが5歳のときからの幼友だちでしてね。
佳子の父の横内種助、私の義理の祖父になりますが、この種助が芙美子さんの実父の宮田麻太郎と親しい縁があって、それで彼女の誕生の事をよく知っていたんですよ。

木村
『放浪記』にお母さまの佳子さんのことがのっていますか。

井上
それが面白いことに、一言もふれていない。『放浪記』は事実のままもあるが昇華させている事も多い。文学作品だからフィクションも多いんです。
母の佳子は芙美子さんの5歳のときから亡くなるまで、姉妹のようにつきあっていました。フーチャン、ヨッチャンの仲で、芙美子さんは母を出版社の人たちに「私の乳姉妹よ」と紹介するぐらいの仲だったのです。しかし『放浪記』はもとより、彼女の膨大な作品の中でヨッチャンには一言もふれていない。
ふれれば悲惨な幼少時代のイメージが吹きとんでしまう。だから書かなかったんでしょうね。母の佳子の存在が以前にもっとはっきりしておれば、またひとつ違った林芙美子論が展開されていたかもしれませんね。
母の関係で私も、サダクニサン、サダクニサンと可愛がってくれましたよ。


下関で父・麻太郎は景気がよかった
左から井上佳子、
井上貞邦、林キク、芙美子
(昭和11年)

木村
では、先生が芙美子さんの門司生まれを言いだされたことから……。

井上
その前に、私たちと芙美子さんのかかわりを詳しくお話したほうが、おわかりいただけるでしょうね。
芙美子さんのお父さんの宮田麻太郎さんは、愛媛県周桑郡吉岡村(現・東予市)の生まれで、扇屋という屋号の雑貨商の11人姉弟の長男なんです。
麻太郎は明治15年生まれで、地元の伊予紙や太物、漆器類の行商をして九州一円をまわって、鹿児島までいっていました。
鹿児島の桜島に古里温泉がありますね。ここの自炊温泉に投宿してそこの娘の林キクと結ばれたんです。

木村
交通も不便なときに、四国から九州の南端まで。麻太郎さんの商魂もまたたいしたものですね。

井上
そうですよ。そしてキクさんがまた1枚上の女性でした。キクさんは明治元年生まれですから、明治15年生まれの麻太郎より14歳年長でしょう。そして、それまでに父親の違う二男一女があったという事です。

木村
おおらかな話と、めぐりあいですね(笑)。

井上
キクさんは多情仏心を地でいったようなもので……(笑)。14歳年下の男の心を掴むのですから、なかなか魅力のある女性だったんでしょうね。他国者といっしょになったということで、2人は鹿児島におれなくなって、門司に出てくるんです。
門司は貿易港として、急速に発展をみせだしたときで、2人は下関への渡し船がよく見える門司の小森江のブリキ屋の2階に住みつくのです。

木村
そこで芙美子さんが生まれたのですね。

井上
ええ。そして麻太郎は、山陽線の終着駅ができて人出も多く、活気がでてきた対岸下関の豊前田の質屋さんの質流れ品の競(せ)り売りの加勢をして、商才を発揮するんです。

木村
機を見るに敏ですね。その質屋さんは……。

井上
数年前にやっとわかりました。三井忠蔵という士族出の分限者(ぶげんしゃ)で、この人は衆議院にも数回当選しているなかなかの人物です。
そのとき、麻太郎が応援演説をしていますから、才幹とともに、それなりの地歩もきずいていたのでしょうね。

木村
じゃあ、麻太郎さんは景気がよかったので……。

井上
その質屋さんが商才を見こんで「商品はわたすから、あんた、独立してやってみんか……」ということで、下関で軍人屋という店をはじめるのですが、これが大当りしましてね。

木村
それが芙美子さんの下関時代でちょうど明治37・8年の日露戦争のときですね。軍人屋とは頭がきれる。

井上
大繁盛で、若松、長崎、熊本に支店を出す勢いです。ここで、どうしても気心のしれた助っ人が欲しい。そこで郷里の伊予(愛媛県)から弟の隆二(18歳)と、同じ町で久保屋という和菓子屋をしていた横内種助(28歳)、そして行商で知りあった岡山の沢井喜三郎(17歳)をよびよせるんです。
そして横内種助は年上ですから、店の締めくくり役、弟の隆二には熊本支店を任せるのです。麻太郎はもうけた金で、唐戸の奥にあった取引所で米相場にも手を出して、またもうける。景気がよくて豊前田の料亭や色町によく出入りしていたらしいですね。

木村
すると哀れな少女芙美子さんは……。

井上
哀れな行商人の子ではなく、軍人屋のお嬢さんで、恵まれていたでしょうね。

木村
先生のお母さんの佳子さんは。

井上
佳子のほうは父親の横内種助が伊予に妻ヨネと生まれたばかりの佳子をおいてきている。今でいう単身赴任ですね。そして岡山から来た沢井喜三郎は、のちに麻太郎の妻のキクといっしょになる。芙美子の義父になる人なんです。

木村
ややこしいが、このテーマの主人公たちが出そろったのですね。つながりがわかりましたよ(笑)。


フーチャンとヨッチャン
木村 順治

井上
明治38年に日露戦争が終ると、40年に麻太郎は本店を石炭景気でわいている若松へ移すんです。翌年そこへ、種助は伊予においていた妻ヨネと佳子をよびよせるんです。

木村
芙美子さんと佳子さんの出会いですね。

井上
今度は若松時代ですね。6歳と5歳で、2人は当時まだ砂浜だった若松の海岸で、貝ひろいをしてとても仲よく遊んでいたそうです。お互いにフーちゃん、ヨッちゃんと呼びあって、その仲の良さは生涯変りませんでした。

井上 貞邦 氏

木村
そのままだったら『放浪記』は生れませんでしたね。

井上
ところが、宮田は商売で対馬にもよく出かけていて、そこで料亭の娘で芸者に出ていた堺ハマという人と仲よくなる。そのハマさんがすっかり宮田に惚れこんで若松へ来てしまうんです。

木村
ややこしくなりましたね(笑)。

井上
キクさんは太ッぱらで、世帯が2つでは不経済だから一緒でもいいと言った。宮田はそれでハマさんを本宅へいれてしまう。そして、だんだんキクさんが煙たくなるんです。
そしてキクに同情している沢井喜三郎に因縁をつけて、2人がいい仲だと言って、追い出してしまうんです。

下関市立名池尋常小学校
大正3年度中途退学
男女学籍簿

木村
芙美子さんは、どちらへ。

井上
母ちゃんと出ていくか、父ちゃんといるか……と、宮田がフーちゃんにきいているのをヨッちゃんの佳子は陰できいていたそうで、フーちゃんは母ちゃんと行くと、はっきり言ったそうです。明治43年のことです。こうして3人が出ていくのですが、沢井はまだ23歳、キクさんは20歳も上ですから、たいへんなドラマですね。

木村
それからですね。小学校を七へん変って……。

井上
『放浪記』ではですね。沢井はキクと芙美子をつれて、以前の軍人屋の支店を出していた長崎へ出かけます。そこで芙美子は小学校に入ります。『放浪記』では、長崎を振り出しにして「佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾といった順に4年の間に、7度も学校を変って、私には親しい友達が1人も出来なかった。」と言っていますが、本当は長崎(勝山尋常小学校)・佐世保(八幡女児尋常小学校)・下関(名池(めいち)尋常小学校)・鹿児島(山下尋常小学校)そして筑豊を放浪して尾道(市立第三尾道尋常小学校)が正しい。そのうち鹿児島では祖母にあずけられ籍をおいただけで通学していませんから実際は4校なんですね。

木村
では、また下関にもどっているんですね。

井上
沢井は長崎と佐世保でもうまくいかなかったので、翌年の44年に下関へ帰り、古手屋をはじめるんです。今度は前の豊前田と違って、唐戸桟橋(からとさんばし)からすこし奥にはいった関後地村(せきうしろちむら)というところで、いまの田中町です。

木村
宮田麻太郎さんは……。

井上
宮田も同年に、欧米航路や大連、青島(ちんたお)、台湾航路の発着でたいへん賑わいを見せてきた門司に本店を移しました。港町と西本町の角にあった石田旅館の一階を借り商売していました。相変らずのひらめきの早さですね。

木村
すると、因縁の宮田・沢井が海峡をはさんで……。

井上
そうなんです。宮田麻太郎とハマは門司の店から10数メートル川端寄りの楠町の一軒家に、横内種助の家族3人と宮田隆二夫妻は新町と楠町の角の雑穀屋の2階に住んでいました。
だから下関にいる沢井の芙美子さんは、よく海をわたって、実父とおハマさんのいる門司の家へ遊びにきていたそうです。そのとき9歳のフーちゃんと8歳のヨッちゃんが門司で仲よく遊んでいたんですね。

木村
本当に幼友だちだったのですね。で、おハマさんというひとは……。

井上
色白のふっくらした優しい人で、芙美子さんを可愛がり、大好きな茹(う)で卵を山盛りにだしてくれたりしたそうです。おハマさんは佳子の父種助にもよくなついていて、皆に好かれる性格の人だったのですね。

木村
芙美子さんも、その頃は平穏な生活ですね。

井上
この2年ぐらいは幸せだったでしょうね。ところが、義父の沢井はお人好しで貸し倒れが重なってどうにもならなくなり、とうとう大正3年に下関から親子3人の行方がしれなくなってしまうのです。

木村
すこし放浪記らしくなって……。

井上
ところがその後、横内種助が直方でひょっこり芙美子さんに会っているんです。
面白いのは、このとき芙美子が「横さんの小父さん。ヴァイオリン買ってくれない。買ってくれたら、大きくなって百倍にして返すよ」と言ったそうです。
突飛でヴァイオリンなど、とても思いうかぶ雰囲気ではない。ヴァイオリンなんか何にするんか、それよりどこにいるんかと尋ねたが、全然答えなかった。事実、その後、尾道で芙美子がヴァイオリンを弾いてるのを見た人がいるんですよ。

木村
その風景、意味深ですね。木賃宿にいて、たいへんだったんでしょうね。でも、芙美子さんはそれから尾道女学校を卒業していますね。当時女学校へ行くということは豊かな家庭の子だけでしたよね。そこらへんが腑(ふ)におちない。

井上
そうなんですよ。だから私は、実父宮田の仕送りもあったんだと思いますよ。今でいうアルバイトをして女学校に通ったという事ですが、どうも木賃宿の行商親子と女学校が結びつきませんね……。

木村
それからフーちゃん、ヨッちゃんは会っていないんですね。

井上
ええ。大正3年から昭和4年まで、15年間会っていません。
その間に私の実母が亡くなって、ヨッちゃんの佳子が門司で医院を開業していた父貞彰の後妻となりました。私の9歳のときで、こうして佳子が私の母になったわけです。


幼友だちが十五年ぶりに再会
若き日(昭和6年)

井上
そうして、昭和4年7月24日の『大阪朝日新聞』付録『九州朝日』にのっている3段抜きの大きな広告に出あうことになるのです。
早大講演会ということで、7月26日に朝日新聞門司支局楼上で、創作家・八木秋子氏、詩人・林芙美子氏、早大教授・五来欣造氏の講演が催されるとあり、芙美子さんのテーマは「現代婦人の告白」となっていました。
この広告を見ていた母は、「これフーちゃんじゃないの。お父さん、フーちゃんの姓は何と言ったかね」と祖父の横内種助に尋ねました。種助が、「キクさんの姓は林じゃったが、そんならフーちゃんかいの」となって、「じゃ文化の話じゃろう。兄ちゃん、あんたも行う」と佳子・種助・そして門司中学の4年生だった私の3人が、門司の朝日新聞社へ出かけたのです。

木村
まだ『放浪記』が出る前ですね。

井上
ええ。詩集『蒼馬を見たり』が出たばっかりで、詩人という肩書でした。芙美子さんは「私はこんな高い所からでなく、皆さんと膝をまじえて話したいのです」と言っていて、種助がフーちゃんらしいのと言っていました。

木村
その頃、芙美子さんは結婚されていますね。

井上
ええ、3年前の大正15年12月に、芙美子は、信州の農家の二男で、洋画の修業で上京中の手塚縁はる(毎ヘンに殳)(まさはる)(通称・緑敏(ろくびん))と結婚しています。それまでには新劇俳優の田辺若男や、詩人の野村吉哉などとも同棲していましたがね。
緑敏さんは気持ちの広い人で、奔放な芙美子さんには、なによりの御主人でした。

木村
フーちゃん、ヨッちゃんが、それなりの風雪をへて再会された訳で、感動的ですね。

井上
キクさんは太ッぱらで、世帯が2つでは不経済だから一緒でもいいと言った。宮田はそれでハマさんを本宅へいれてしまう。そして、だんだんキクさんが煙たくなるんです。
そしてキクに同情している沢井喜三郎に因縁をつけて、2人がいい仲だと言って、追い出してしまうんです。

木村
そして翌年、『放浪記』が、改造社の「新鋭文学叢書」の1冊として、次いで『続放浪記』が刊行される。これがあっという間に、60万部という大ベストセラーになって、おしもおされもせぬ女流作家・林芙美子の登場になるのです。


立証できた門司誕生
木村
芙美子さんと佳子さんを結ぶ糸はわかりましたが、先生が芙美子さんの門司誕生を主張されたのは。

井上
種助じいさんから、門司のブリキ屋の2階で生まれたと聞いていましたのでね。
評判の『放浪記』第1頁の芙美子下関生まれのことを種助じいさんに言うと、「それは違うがな。門司の小森江の(いまの神戸製鋼所のところ)ブリキ屋の2階に間借りしていたキクさんが、階段から落ちたショックで産気づいて生れたので、門司生まれに違いないがな。下関はその後やが」と伊予なまりで言うのです。

木村
種助さんがたしかな証人で……。

井上
私は種助に聞いた事を、昭和47年の北九州市医師会機関誌<北九州市医報>に「林芙美子と北九州」というテーマで連載しましたが、それが林文学愛好家の間で評判になりましてね。
亡くなられましたが、林芙美子研究で知られる和田芳恵(わだよしえ)氏は「林芙美子の少女時代の今までの年譜は不確かであった。その出生については、どうやら井上の門司生まれ説が正しいように思えてくる」と、筑摩書房の月刊PR誌に発表されましてね(昭和48年、3月号)。

木村
たいへん重要な発言なんですね。

井上
そうなると、それを客観的に立証しようと思いましてね。それには、問題のブリキ屋を探すことが1番と……(笑)。小森江の古老の人たちを聞きまわって、条件にぴったりのブリキ屋を発見したのです。
板東忠嗣(ばんどうただつぐ)という明治18年生まれの人で、明治35年に小森江に住み、ブリキ屋を開業しました。四国徳島の出身で、宮田麻太郎とは四国同士です。板東の除籍謄本も発見できて、この人に間違いない。
ところが気がかりが一つあって、種助じいさんからきいたのは”安さん”というブリキ屋で名前が違います。
するとお近くの川端歯科医院の川端コマさんというお年寄りの方が、「ブリキ屋はいまの神戸製鋼のプールがある所にあった。当時、門司高女まで乗合馬車で通学して、ブリキ屋の前を通っていたからよく知ってるよ。そうそう、あのブリキ屋は、名前が武士のようで固苦しいので商売向きでない。それでわかりやすい安吉という名で商売していた」と、思い出して下さった。
そして背中に安の字を染めぬいた印半天(しるしばんてん)を着て仕事をしていたと忠嗣=安吉説を肯定され、芙美子門司誕生が確定した訳です。
それに芙美子さん自身も疑っていたフシがあるのです。
夫の緑敏さんによると、2人で何度も出生のことをきいたそうですが、キクさんが口をつぐんでしまう。結局、なくなるまで何も言わなかったんです。

木村
なぜでしょう。

井上
今となっては一切わかりません。キクさんだけの秘めごとで……。それまで幾人も子を生(な)していたキクさんの桜島の噴火のような”春のざわめき”のさせた事でしょうね。

木村
なるほど。芙美子さんも何回か同棲に失敗している。キクさんの”春のざわめき”が……。

井上
詩人の丸山豊先生も、60歳をすぎても、批判精神を持ち、春のざわめきがなければいい作品はできないと言っておられます。

木村
推理小説のようで興味津々ですね(笑)。で芙美子さんの誕生日は。

井上
芙美子さんの誕生日については、『放浪記』と『一人の生涯』では5月生まれとなっていますが『巴里の日記』(東峰書房)の5月5日の項では「私の誕生日なり。S氏より王冠のついた香水と粉白粉をいただく。嬉しくて呆然としてしまう」と記されています。更に『林芙美子選集第六巻(滞欧記)』(改造社)では、「5月5日、今日はわたしの誕生日だ。S氏よりささやかな贈物をもらう。/5月6日、朝11時起床。誕生日の残りのお菓子をたべる」とあります。また、昭和11年9月の『週刊朝日』の「あまがら自叙伝」(林芙美子)では、「5月5日の朝、わたしは生れたのださうです。だけどコセキ(、、、)の上では12月31日になっています。12月31日なんて一寸押しつまって厭です。本當は5月5日の朝です」とあります。

木村
誕生日がやっときまってほっとしました。でも茫漠としているのも『放浪記』らしくていいですね(笑)。人生のスタートからして、『放浪記』の著者らしくて(笑)。


パリへ行くのよ
フランシス・カルコが描く「自画像」
昭和7年(1932)4月
新宿歴史博物館蔵

木村
15年ぶりに再会した芙美子さん・佳子さんのその後の交友ぶりは……。

井上
はたで見ていても実に羨ましいほどでしたね。再会した翌年の正月、早朝に突然電話がかかってきて、「いま門司にいるのよ。これから台湾へ講演旅行よ。今度は1等待遇よ」で、驚かされました。
翌年の昭和6年には、私は九州医専の2年生でした。門司の実家でレコードを聞いていると、芙美子さんが突然現れて「フランスのパリへ行くのよ。びっくりしたでしょう」と言うのです。満州を通ってフランスへという話。
さっそくその晩は父母私と4人でフグで壮行会でした。

木村
放浪記の印税でパリへ。今度はリッチな旅だったのですね。

井上
いえいえ。まだそうはできません。3等旅行で、パリやロンドンでもつましく暮したようです。
でも音楽や絵が好きで、ティボー、カザルス、コルトーの演奏をきき、シャリアピンの「ドン・キホーテ」、その翌日は「セヴィリアの理髪師」にもでかけたりしています。
ロンドンでは120円出して、ビクターのHMVポータブル蓄音機を買ってベートーヴェンの「皇帝協奏曲」を聞いたり、絵はコローやルノアールにふれ、ゴーギャンの「タヒチの女」に驚いています。コクトーの映画「或る詩人の生涯」に感動して、カルチェ・ラタンの夜ふけの街を昂奮して歩いたり……。

なくなる前日、
宮川曼魚氏のうなぎやで

木村
立派に充電しておられる。

井上 ところが1年たってお金が底をついて、帰るに帰れない。改造社の山本社長にSOSの電報を打って、500円送金してもらって、日本郵船の3等船客で帰国するのです。

木村
当時の500円は大金でしょうが。

井上
使途明細をみると、マルセイユから神戸までの船賃が426円です。まあ、ぎりぎりですね。だから神戸へつく前に私の母に電報が来た。神戸では和服で記者とインタビューしたい。足袋と帯はあるから、着物と200円送ってほしい。いま、手持ち2銭です……と。

木村
また、ずいぶん極楽とんぼで。

井上
母はすぐ送りました。その後も、何回もみえたし、母も訪ねましたよ。

木村
芙美子さんは養子をもらっていますね。

井上
ええ泰ちゃんです。昭和18年に産院で生れたばかりの男の子をもらってきて養子にしています。緑敏さんと2人でとても可愛がりましたよ。
泰ちゃんを見にきてとよく言われて、下落合の京風半数寄屋造りの家をつくったときや、信州の疎開先や、そして最後は芙美子さんのなくなる1週間ほど前に母は上京しているんです。


近所の小母さんたちが弔問
井上
芙美子さんは母が帰って4日目の昭和26年6月28日に心臓麻痺で急逝するんです。父がラジオを聞いてびっくり。それで、翌日私が母をつれて上京したのです。

木村
当時1番の売れっ子作家で、息もつげぬ仕事量だったそうです。

井上
たのまれるものは全部こなしていたんでしょうね。それで心臓をいためて家の階段をあがるのにも支えてもらってというあんばいでした。
緑敏さんが医者にと言うが、売薬を飲むだけでいかない。やっと説きふせて心電図をとってもらいましたが、その診断が出たのは彼女が亡くなったあとでした。亨年47歳、まことに、花の命は短くてでしたね。

川端康成氏と
(昭和25年4月)

木村
葬儀委員長は……。

井上
委員長は川端康成さんで文学葬のような告別式でした。終ろうとすると、待ちかまえていたように、普段着の近所の小母さんたちが、次々にお参りされる。子供連れの人もいる。芙美子さんが、どんなに大衆に愛される作家であったかを物語るものでした。
川端さんは奥さんに、「自分が死んでも葬儀はいらないが、しかしお芙美さんのような告別式ならいいな……」と言っておられたそうです。

木村
芙美子さんは、懐(ふところ)にとびこめる御主人の緑敏さんと、可愛い泰ちゃんをえられ、作家活動にも油がのっている。幸せな晩年だったのですね。

井上
緑敏(ろくびん)さんは本名は縁はる(毎ヘンに殳・まさはる)ですが、みんなが緑敏(ろくびん)さんと言うので、そうなってしまったんです。春陽会に所属してなかなかの人だったのですが、画を捨てて芙美子さんの文学をサポートする立場に専念されました。
母の佳子が芙美子さんに、「あなたの今日あるのは緑敏さんのお蔭ね」と言ったら芙美子さんは「なに言ってるの。能力よ。才能以外の何ものでもないわよ」。「それは違うわ。緑敏さんがいなかったら、あなたの今日はないわ」。フーちゃんとヨッちゃんが、つまらぬ言いあいをしたそうですが、芙美子さんにも緑敏さんのありがたさは、十分わかっていたでしょうね。

芙美子が川端康成氏を
訪ねたときに書いたもの。
箱書きは川端康成氏

木村
息子の泰さんは。

井上
それはそれは可愛がって学校も学習院へいれていました。この泰ちゃんは、列車の中で転倒して頭を打ち、芙美子さんのあとをおって、昭和34年に16歳で亡くなっています。

木村
悲しいですね。緑敏さんは。

井上
緑敏さんは芙美子のなきあと、泰ちゃんをそだて、おくり、そして芙美子の膨大な資料を立派に保存し整理して、平成元年7月30日、87歳で安らかに旅だたれました。
晩年の芙美子の姪姉妹が御世話して平安な日々でした。妹の福江さんは林家をついでおられます。

木村
いま芙美子さんのお宅は。

井上
緑敏さんの遺志もあり、平成元年に家屋・遺品などがそのまま新宿区に寄付され、林芙美子文学記念館になっています。

木村
いいお話ですね。で先生のお母様は。

井上
母、佳子は昭和49年に71歳で亡くなりました。

木村
お2人で仲よく話し合っておられるのでしょうね。これまでうかがったお話で、林芙美子さんを支えた大きな山系をみた思いです。


春のざわめき
「実説・放浪記」略年譜

木村
おわりに先生が感じておられる彼女の作品について、ひとつ―。

井上
私は芙美子さんを身近な小母さんと感じていました。
芙美子さんの作品は、いつ、いかなる場合でも、常に女というものを意識していることです。
それは同世代の宮本百合子や、平林たい子の作品と比較してみると、1番はっきりすることです。端的に申し上げれば、林芙美子は庶民の女の作家(、、、、)であります。
ただ芙美子さんの作品は、『放浪記』から、『清貧の書』、『泣虫小僧』『稲妻』『うず潮』、そして傑作の『牡蠣(かき)『晩菊』『浮雲』まで、主人公はみなひたむきな人生の中にいる人、それも女性ばかりですね。
彼女の”春のざわめき”も作品のマグマかもしれません。すべての作品の中に流れているものは人々の哀歓で、大きなうず潮だと思います。いま、なかなか作品が手にはいりませんが、『放浪記』や『晩菊』、『浮雲』、『めし』などは文庫になっていますから、手にとってほしいですね。

木村
彼女の文学碑が門司に建てられましたね。先生の門司出生説が定説とみとめられたのですね。

井上
昭和49年12月1日、芙美子が生れたブリキ屋から約400メートル山手にたてられました。ここから彼女出生のいまは神戸製鋼門司工場になっている一帯、関門海峡をこえて彦島・下関、そして小倉・若松まで見わたせる展望のいい所です。

木村
先生も感慨ひとしおだったでしょう。

井上
岩下俊作氏が、この碑は井上氏の親類以上のつきあいという血の通った実証を基礎に建てられたものと、挨拶されて、本当にジーンときました。

岩下俊作 本名、八田秀吉 作家。
明治39年小倉(北九州市)生まれ。昭和13年原田種夫、劉寒吉、平野葦平らと第2期「九州文学」を発刊。翌年、九州文学に発表した「富島松五郎伝」が直木賞候補。映画や芝居に上演され「無法松の一生」で名高い。「岩下俊作詩集」戯曲小説など。昭和55年1月30日逝去。享年73歳。

木村
芙美子さんも誕生地が確定されて、ほっとしておられるのでは……。サダクニさん、やったわね……と。

井上
いや、苦笑して、コイツと言っているかもしれませんね。
【追記】
この対談のあと、林芙美子と同級生であった坂本直江さんの令息・譲氏から直江さんが語られた「フミ子さん回想」のお便りをいただいた。直江さんは85歳の御高齢であるが、下関市立名池尋常小学校で芙美子と同級で、特に4年生のときの記憶が鮮明だとおっしゃっている。そのお便りから。

<学校の休み時間によく鬼ゴッコをしました。2人1組で1人が相手をおんぶしてほかの組を追いかけたり逃げたりするゲームでした。フミ子さんはたいへん小柄で私(直江さん)は大柄だったので、私がいつもフミ子さんの背負役でした。私どものコンビはたいへん強くで、負け知らずだったので、いっそう仲好くなりました。
フミ子さんはすこし赤味がかった髪の色で、眼はくるっとして愛らしく、顔にそばかすが多かった。成績は普通なみでしたが、遠足の作文がたいへん良くできたので、広中先生が何度もクラスの皆に読んで下さいました。
フミ子さんの家は、下関の田中町本通りの紺箭(こんや)という屋号の銃砲店さんか、隣の籠屋さん(竹籠づくり)のどちらかの2階でした。おうちに、よく遊びにゆきましたが、お母さんは小柄な方で、いつも綺麗に丸髷(まるまげ)を結(ゆ)っておられました。いつも親切で、お留守のときはきまってかき餅や霰餅(あられもち)などのおやつが用意されていました。2人はこの家で宿題をしたり、おしゃべりをしたり、『少女の友』を読みあったりしました。
それほど親しかったのに別れの記憶がないのが不思議で、ある日私の前に現れ、ある日去っていった感じです>

とあります。芙美子の「私には親しい友達が1人も出来なかった」という『放浪記』の1節は、直江さんや私の義母佳子の存在で、フィクションであることがわかりますが、友だちと先生に恵まれた少女時代であったことにほっとした思いです。(談)


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