|
|
昭和49年門司に建てられた文学碑
掌草紙
いづくにか
吾古里はなきものか
葡萄の棚下に
よりそひて
よりそひて
一房の甘き実を食(は)み
言葉少なの心安けさ
梢の風と共に
よし朽ち葉とならうとも
哀傷の楽を聴きて
いづくにか
吾古里を探しみむ
|
司会
林芙美子さんといえば、すぐ『放浪記』を思い出しますが、林さんが亡くなられて40年になるのですね。
井上
戦前から戦後へと歴史の激変の中で、北九州がうみだした代表的な作家と言えば、男では※火野葦平(ひのあしへい)さん、女では林芙美子さんですね。
※ |
火野葦平:本名、玉井勝則 作家。明治40年若松市(北九州市若松区)生れ。「糞尿譚」で芥川賞。「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」の三部作。「花と竜」など。昭和35年1月24日逝去。亨年52歳。 |
木村
お2人とも華麗な文筆活動の方でしたね。
井上
葦平さんが亡くなられて30余年、芙美子さんが亡くなって40年をこえました。歳月を感じますね。
木村
で、その『放浪記』の冒頭で、下関で生れたとあり、その後木賃宿などを転々する悲惨な幼女時代だったとありますが、先生がこれは多少違っていると……。
井上
『放浪記』が出版されたのは昭和5年でしてね。おいおい話しますが、芙美子さんの幼年から少女時代は、『放浪記』に書かれているような悲しい生活ではなかったんですよ。
木村
私も、木賃宿をさすらっている行商人の娘が、どうして昔の高等女学校を卒業しているのか。また芙美子さんの、写真館で写した幼少時代のきれいな写真があったりする。当時ですから、とても木賃宿の住人にはなじまない。変だなと思っていました。
井上
写真ですか。なるほどね。芙美子さんは成人してからは、文学志望でそれなりの苦労をしていますが、少女時代は違うんです。
で、まず、その放浪記の1頁目を見てみましょう。
「私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。
更(ふ)けゆく秋の夜 旅の空の
侘(わび)しき思いに 一人なやむ
恋いしや古里 なつかし父母
私は宿命的に放浪者である。私は古里(ふるさと)を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物(ふともの)の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。私が生れたのはその下関の町である……」と。
|
|
「放浪記」昭和5年7月刊
|
木村
明白に本人が下関生まれと書いていますね。それを先生が門司生まれだと立証された。文学界ではたいへんな話題だったでしょうね。
井上
”立証”というとおおげさですが、私の義母の佳子(よしこ)が芙美子さんと仲よしで、母が4歳、芙美子さんが5歳のときからの幼友だちでしてね。
佳子の父の横内種助、私の義理の祖父になりますが、この種助が芙美子さんの実父の宮田麻太郎と親しい縁があって、それで彼女の誕生の事をよく知っていたんですよ。
木村
『放浪記』にお母さまの佳子さんのことがのっていますか。
井上
それが面白いことに、一言もふれていない。『放浪記』は事実のままもあるが昇華させている事も多い。文学作品だからフィクションも多いんです。
母の佳子は芙美子さんの5歳のときから亡くなるまで、姉妹のようにつきあっていました。フーチャン、ヨッチャンの仲で、芙美子さんは母を出版社の人たちに「私の乳姉妹よ」と紹介するぐらいの仲だったのです。しかし『放浪記』はもとより、彼女の膨大な作品の中でヨッチャンには一言もふれていない。
ふれれば悲惨な幼少時代のイメージが吹きとんでしまう。だから書かなかったんでしょうね。母の佳子の存在が以前にもっとはっきりしておれば、またひとつ違った林芙美子論が展開されていたかもしれませんね。
母の関係で私も、サダクニサン、サダクニサンと可愛がってくれましたよ。 |