指導員・会員の総括

広末晃敏 「私が起こしたオウム事件――オウム・アーレフ18年間の総括」

■第6 総括とこれからの歩み――償いを胸に「一元の境地」へ

最後に、以上に述べてきたことを簡単に整理するとともに、それを踏まえて、今後の私が目指していくべき方向性について記しておきたいと思います。

●1,事実の経過の整理

 私は入信前に培った次の3つの要因によって、オウム入信に至りました。

①霊的要因――幼少時から自分に起きていた不可思議な霊的体験を説明してくれる存在を求めていたこと。
②哲学的要因――人間いかに生きるべきか、戦争をどうなくすべきかという問いへの回答をしてくれる存在を求めていたこと。
③時代的要因――20世紀末に訪れるというハルマゲドン等の地球規模の大破局にどう対応すべきかという問いへの回答をしてくれる存在を求めていたこと。

 1989年当時の私にとって、オウム真理教は、上記の3つの要因に基づく私のニーズに対して、最もマッチする存在に映りました。
 また、仏教の原則を真剣に究めようとしている団体だと思いました。

 そして、他の宗教団体や、自分が通っていた仏教系大学に興味が薄れ、昭和天皇の崩御を機に、オウムに入信しました。
 実際にオウムで修行を続けると、教義通りに身心に大変良い影響を体感しましたし、その教えも筋道立てて納得できるものでしたから、「論理的・合理的・実証的」な良いものに感じました。
 また、麻原との直接のやりとりの中で、自分を認めてくれる麻原への思い入れも深まっていきました。

 やがて、私の知らない教団の裏で起きていた様々な事件を原因として、社会との対立が始まっていきました。
 私は当初、それは無実の罪を教団に押しつける社会の方が悪いのだと思いこみ、社会と戦いました。

 その後、教団が実際に事件を起こしていたことを知ってからは、「何か深いお考えがあってグルが起こした事件に違いない」と考えるようにし、社会と戦いました。つまり、麻原の神格化に基づく聖戦の展開です。
 それは「論理的・合理的・実証的」な立場を離れ、単なる「推測」に基づく判断としか言えないものでした。いったん自分が信じた良いものは、引き続き良いものであってほしい、そうでなければ困るという「願望」に基づくものでした。

 突き詰めると、自分自身へのプライドや、麻原への依存心等がありました。とりわけ、プライドを背景にした外部への嫌悪や闘争心が、外部社会との闘争を招きました。
 その一方、教団を攻撃してくる社会の立場も十分わかるので、内面で葛藤し続けました。
 
 やがて上祐氏から事件の真相を教えられました。つまり、事件には何か深い意味があったわけではなく、麻原が「神聖法皇」になろうとする妄想的な国家建設構想と、その妨害を排除するための場当たり的犯行があっただけだということが、わかりました。
 それは、天皇の代わりを求めたり、2・26事件のような武力行使をかつては容認していたりしていた私自身の心の現れともいえる事件だったということもわかりました。

 代表派設立以降は、教団内で自分が攻撃されるようになって、はじめて、教団、そして自分自身が外部社会に対して行ってきた攻撃の酷さを感じるようになりました。戦争を起こさないために宗教を探究してきたつもりだったのに、よりによって自分の宗教が教団の内外に戦争を引き起こしてきたという大きな矛盾に気づいたのでした。

 さらに、現に生きて苦しんでいる事件被害者に対して、麻原も、麻原に追従する信者も、何もできておらず、むしろ正反対に今でも苦しめ続けているのが現状です。社会や国家、宗教界にも多大な損害と迷惑をかけたにもかかわらず、その責任を取ろうとせずに、自分の世界の内側に閉じこもってしまっています。こうした現状を直視するにつれ、もはや麻原は救済者でも何でもないという結論に至ったのです。

 これが麻原の責任であることは当然のことですが、私自身も、そして他の信者も、麻原に依存し、あるいは歪んだプライドを満たしつつ、麻原を支えてきたという点で、麻原と同様の責任を背負っているのはいうまでもありません。私たちも、1995年以降は、事件を直視せず反省せず、実質的に被害者に何もせず、自分の世界に閉じこもってきたのです。麻原が不規則発言を続けて裁判に向かい合わなかったように。
 そういう意味で、今の私にとっては、麻原はその欠点から私自身の欠点を学びとるべき反面教師ということもできるでしょう。

 そして、私は、これ以上こんな生き方をしたくないと痛感し、オウムに入信する前から独自に抱いていた、全ての魂を慈しみ育てる「大宇宙の意思」に沿った生き方をしたい、日本のみならず世界と全ての魂のために生きたいという考え方、つまり元来の考え方に回帰し、今ひかりの輪の流れの中にいるのです。
 
●2,間違っていたこと

 以上に簡単に経緯を振り返りましたが、この経緯の中で、私が間違っていたことを整理すると以下の通りだと思います。

(1)麻原を神格化したこと(=自己の「願望」の投影として)

 麻原を神格化した理由は本文で詳細に述べてきたとおりです。そして、その神格化が、一連のオウム事件を宗教的に肯定させることになりました(逆に、事件を宗教的に肯定するために、あえて麻原を神格化した面もあったように思います)。

 しかし、どんなに自分の目には素晴らしく映る人間であっても、人間である以上は、失敗や欠陥をともなう不完全な存在であることを避けられないのは当然です。それは当然のはずのことなのですが、「自分に一定の利益を与えてくれて、自分を認めてくれて、しかも自分が出家までして一生をかけた存在なのだから、完全な存在であってほしい」という願望を、麻原に投影していたのだと思います。
 だからこそ、麻原が狂気に陥った結果として、あのような残虐な事件を引き起こし、裁判の場でも現実逃避して責任をとろうとしない見苦しい態度をとったにもかかわらず、わざわざ宗教的な意味づけをしようと努めてしまったのでした。

(2)自分への過度なプライドがあったこと

 上記のような神格化の背景には、自分は良いことをしているのだ、自分は世界を救う集団にいるのだ、自分たちは認められるべき存在なのだという過度なプライドがありました。
 突き詰めると、自分は正しいというプライドです。言い換えるなら、"麻原を信じている自分"は正しいというプライドだともいえます。

 このような自分に対する過度なプライドを持つと、自分たちを普通に批判してくる人たちに対して、過剰反応が生じ、過度な嫌悪感を抱き、過度な闘争心を燃やすことになります。
 それが、教団の一連の事件を招き、事件前後の私自身が社会に対して行った攻撃的な対応を招いたのだと考えています。
 また、麻原の起こした事件は正しいことだったのだという無理な「推測」を重ねさせた背景にも、過ちを認めたくないという自分のプライドがあったことは、間違いありません。

 結局は、自分に対する過度なプライドという煩悩が、あのような教団を生み、事件を引き起こしたのです。
 まるで謙虚さが欠けていたものといわざるをえません。
 
(3)麻原への依存心(怠惰な心)があったこと

 これも文中に書きましたが、麻原への神格化の背景には、麻原への依存心もあったと思います。麻原が完全な存在であれば、その指示に従うだけでよく、自分で考えなくてもよく、その結果の責任を――たとえサリン事件のような重大事件の責任であっても――とる必要もありませんから、非常に楽になります(現に、これまでのオウム・アーレフ教団は、真の意味で事件の責任をとっていません)。
 これは裏返せば、自分自身の怠惰な心の現れだったということもできます。

 怠惰な心に関連して、さらに反省するならば、この地球上の様々な複雑な問題が、自分たちの地道な努力によって解決されるのではなく、ハルマゲドンのような現象で一気に解決されることを望んでいたのも間違いでした。
 自分たちが地道になすべき努力を放棄し、いわば神頼みのような形で、奇跡的な問題解決を待望していたのは、あまりに安易であり、怠惰な心の現れでした。そうした意識が、あのような過激で現実離れした、ある意味子どもっぽい教団を形成することにつながったのだとも思っています。

 そういう意味では、依存心や怠惰な心という煩悩が、あの教団を生み、事件を招いたともいえます。

(4)自他を区別する二元的思考があったこと

 以上のような麻原の神格化、自分への過度なプライド、麻原への依存心などが生じた背景には、本質的には、二元的思考があったと思います。
 
 つまり、最初に、

   聖なる麻原 ←→ 汚れた自分

という図式を作り、次に、

   聖なる教団  ←→ 汚れた社会
  (麻原と自分)

という構図を簡単に成立させてしまう二元的思考です。
 
 これは、それぞれの生命体が分立して個々バラバラに存在しているように見える現実世界では、誰もが陥りやすい過ちなのかもしれません。しかし、私をはじめとするかつてのオウム信者は、甚だしくこの過ちに陥ってしまったのだと思います。

 しかし、仏教本来の教えに立ち戻れば、すべての存在は相互に関連しながら存在し合っており、究極的には一つの存在であると考えることができます。
 にもかかわらず、麻原や私たちは、二元的思考に強くとらわれ、それがゆえに麻原を神格化し、麻原と自分たちの教団を神格化し、社会を敵視し、社会を攻撃するに至ってしまったのでした。

 これらが、私の過ちだったと考えています。もちろん細かい要素を逐一挙げればキリがないのですが、究極的にはこれらに収斂されると考えています。

●3,これからの実践と注意点

 逆に、私がオウム・アーレフ時代を通じて行ってきた実践の中で、間違ってはいなかったと思うこと、だからこそ今後も実践し続けていきたいこと、しかしその実践にあたって過去の反省に基づきどのような点に注意していくべきかついて、以下に述べたいと思います。

 まず、私がオウムに入信した3つの要因を基本にして振り返ってみます。

(1)霊的要因――幼少時から自分に起きていた不可思議な霊的体験を説明してくれる存在を求めていたこと。

 この要因に基づき、私はオウムの中で、様々な霊的な世界観を学び、また体感しました。それらは、ごく一部の理論がオウムのオリジナルだったことを除いては、大部分がもともと伝統的な仏教やヨーガ等で説かれてきた世界観と一致します。
 また、この宇宙が目に見える物質以外の要素で構成されているであろうことは、最先端の科学者も想定し、探究を重ねてきたことです。

 ですから、少なくとも従来の仏教、ヨーガ、そして科学と矛盾しない範囲で、これらの物質を超越した霊的世界を探究してきたことは必ずしも間違っていなかったと思いますし、今後も、その探究は続けていきたいと考えています。

 ただし、その探究においては、特定の人物の見解を絶対視したり、自己の見解にとらわれて他者と無用の対立をしたりしないことはむろん、そのような見解を抱かないように注意するとともに、自分が人間である以上は完全無欠な見解を得ることはできないという謙虚な意識を常に持って臨むことを心がけたいと思います。

(2)哲学的要因――人間いかに生きるべきか、戦争をどうなくすべきかという問いへの回答をしてくれる存在を求めていたこと。

 この要因に基づき、私はオウムで「解脱」と「救済」を目指す生き方をしてきました。つまり、放っておけば際限なく増大する煩悩(欲望)をコントロールし、あるいは静め、心の平安を得て、輪廻転生の世界から離脱する(涅槃に至る)とともに、その境地に他の人々を導いていくという生き方でした。
 そして、多くの人が解脱して心の平安を実現し、他者へ慈悲を振り向けることができるようになれば、徐々に戦争もなくなっていくに違いないと考え、その生き方を目指してきました。
 
 この考え方自体は、伝統的な仏教の世界観に合致するものでした。事実、「解脱」も「救済」も、仏教の概念であり、仏教の用語です(ただし「救済」は「済度」という用語で述べられることが多いようです)。

 もっとも、過去の反省に立つならば、自分が一方的に上位に立って他者を「救済」するという傲慢な考えは持つべきではないと思います。人間は相互に支え合って存在しているのですから、互いが互いの長所を生かしながら、「奉仕」し合う関係に立っていかねばならないと考えています。
 特に、私たちのような大きな失敗を犯した者たちは、過去の失敗の体験を世の中に提供し、世の中に謙虚に「奉仕」させていただくという意識を忘れてはなりません。そして、奉仕させていただけることへの感謝の念を日々培うべきです。
 そうすれば、過剰なプライドが生起することもなく、過ちを繰り返すこともないでしょう。

 一方、「解脱」については、今後も引き続き求めていきたいと思いますが、その過程で、特定の人物をグルと仰ぎ神格化するような過ちは、決して繰り返しません。解脱という目的は正しかったものの、それを達成するために、単なる人間に過ぎないグルを神格化して崇拝したのは、手段として間違っていました。
 本来の仏教は、「自灯明・法灯明」の原則を説きます。つまり、他者に依存するのではなく、自分自身と仏教の法則を基準にして物事の是非を判断していきます。自分には明らかに不合理で納得できないこと(特に違法行為)でも、グルの指示や判断だから無批判に従わなければならないという考え方は、仏教本来の考え方とは違っています。
 私は、仏教本来の考え方に立ち戻って、解脱への道を歩み直したいと思います。
 ただし、人間である以上、完全な解脱というものがあるわけもなく、一生涯、解脱に向かって少しずつ歩み続けるという心構えでいこうと考えています。
 
 こうして解脱への道を歩み、他者への奉仕と感謝を続け、慈悲の心を培うことによって、二元的な意識を一元的な意識に進化させていくことができるならば、きっと戦争のない世の中に近づいていけると信じています。私はその道を歩み続けていきたいと考えています。

(3)時代的要因――20世紀末に訪れるというハルマゲドン等の地球規模の大破局にどう対応すべきかという問いへの回答をしてくれる存在を求めていたこと。

 この要因に基づき、私はハルマゲドンから地球を救うための方途をオウムに求めました。その一方、そこで私が結果的に犯した過ちは、前記の通り、世界の複雑な諸問題がハルマゲドン後の予言の世界では劇的に解決されるという期待感を安易に抱いたりしたことでした。そして、そのような舞台の中心領域に自分がいるというプライド、さらには、そもそもそのような非科学的なハルマゲドン予言を信じてしまったという過ちもあったと思います。
 そういうわけで、今後、ハルマゲドンから地球を救うためとか、その救世主として特定人物を崇拝するなどということは、決して行わないつもりです。

 しかし、ハルマゲドンに象徴されるような地球の諸問題、全人類的な課題を解決するために貢献する生き方をしようとした動機自体は、間違っていなかったと思っています。
 今もはやハルマゲドンは非現実的ですが、現実に差し迫った問題として社会的に認知されているものに、オウム事件以後に凶悪化したといわれる犯罪や、世界中で頻発する宗教テロ、そして地球環境破壊などの問題があります。
 これらの諸問題に対しては、私たちが犯した過ちを教訓にしたり、逆に私たちがささやかながらも仏教の修行で積み重ねてきた良い経験を生かしたりすることによって、その解決に少しでも貢献させていただければと思います。
 しかも、それは当然自分たちだけが行うのではなく、世界中の多くの人と協力しながら、現実的で地道な作業を一つずつ積み重ねることによって、行わせていただこうと考えています。
 それが、社会に向けての償いにもなると思うからです。

 単に「解脱」を目指して内に閉じこもって瞑想にふけったりするだけでは意味がありません。少しでも、ほんの少しでも、償いの意味を込めながら、かつて大損害を与えた社会や国家のためにお役に立てる生き方をさせていただければと願っています。

●4,さいごに――「一元の境地」を目指して

 私たちが犯した過ちは、人類の歴史の中で、何度も何度も繰り返されてきたことなのかもしれません。
 ある"崇高な理想"を掲げての大量殺人、すさまじい他者への攻撃......。

 大戦中の日本は、聖戦を旗印に、大陸で殺戮を繰り返しました。アメリカは民主陣営を守るためとして、日本に原子爆弾を2発も投下しました。ソ連も中国も、共産主義体制の確立の過程で、数千万人ともいわれる自国民を殺しました。カンボジアでも、ポルポト政権が、理想的な共産主義社会を作るためとして200万人もの罪なき民衆を死に至らしめました。
 近年は、オウムのテロの影響を受けたともいわれる狂信的なイスラム原理主義者などが無差別自爆テロを繰り返し、アメリカもその報復のために戦争を繰り広げ、犠牲者は日増しに拡大していくばかりです。

 こんな悲劇を繰り返してきた20世紀から21世紀の狭間に、私たちオウムの現信者・元信者らは、同じような過ちを繰り返してしまったのかもしれません。
 ならば、せめて、この過ちを教訓にして、誰もがこのような過ちを二度と繰り返さないように、自分の人生を捧げたい――そう考えています。

 振り返るに、人類のこうした過ち、私たちが犯した過ちの背後には、共通して、二元的な思想があると思います。
 自分と相手とは違う存在だ、自分は正しくて相手は間違っている、間違っている相手を滅ぼし尽くせば問題は解決する......こうした単純な二元的思想は、容易に人と人とを分断し、対立と闘争を生み出します。その結果、怨み、憎しみを後に残します。そして、その怨み、憎しみが、また新たな対立と闘争を生み出すという悪循環に陥ってきたのが、この世界なのではないでしょうか。

 とりわけ、この二元的思想に、絶対性・神聖性を付与しやすい宗教が結びつくと、事態はますます深刻なものとなってしまう。それは、かつての私たち、オウムが引き起こした悲惨な事件を見ても明らかであり、その影響を受けたといわれる際限なきイスラムテロを見ても明白です。

 ですから、今後こうした悲劇を防ぐためには――巷間いわれるようなカルト対策や宗教教育の必要性については否定しませんが――より本質的には、世界に蔓延してきた二元的思想を弱め、一元的な考え方を強めていくことが重要ではないかと思っています。
 つまり、自分と相手とは互いに影響を与え合っている存在であって、いろいろな意味でつながっている、相手に見える間違いや欠点も、自分を含む世界全体で作り上げてきてしまったものである、だから一方的に自分が絶対に正しいという立場に立って相手を攻撃したり滅ぼしたりするのではなくて、自分と相手とが一体となって共に過ちを改善し、共に成長していくという考え方を、社会のあらゆる面で強めていく必要があると感じます。
 そうしない限り、一見すれば、それぞれが分立して存在しているように見えるこの世界では、多くの人が容易に二元的な世界観に陥ってしまう危険性があると思います。

 では、こうした一元的な思想、見方、考え方を強めていくにはどうしたらいいのでしょうか。
 それは、あらゆる存在が相互に支え合い影響を与え合っているという自然や社会の構造を深く学んだり、人と人との現実的な結びつきの中で体得したりしていくという合理的な方法をもってしても可能ですが、私はまた違った方法での探究もしてみたいと考えています。

 私は、全ての生き物、いや生き物だけでなくて全ての存在をつないでいる、言い方を変えると、全ての存在が共有しており、かつ全ての存在を包み込んでいる広大な意識が、この宇宙には存在していることを、子どもの頃から信じています。それは、これまで何度も繰り返し述べてきたとおり、オウム真理教に入信する前から信じ、体感してきたことでした。

 実は、オウムに入ってからの瞑想修行でも、その一端を体感したことがあります。
 これは伝統的な仏教の修行なのですが、仏教では「五蘊(ごうん)」と表現される人間の構成要素に対して、その無常性を観察し、執着から離れていくという瞑想を、長期間にわたり集中して行ったときのことでした。すると、ちっぽけな自分というものを超越した、宇宙全体に広がる広大無辺な世界(意識状態)をかいま見ることができたのでした。
 それは心が静まり、自分と他人との区別がなく、全ての存在と全てを共有できる――そんな状態でした。"本当の自分"といってもいい感じがしました。

 もっとも、私はごく短時間だけ、その片鱗をかいま見たにすぎません。ですが、私は、全ての生き物、全ての存在は、この深い次元で皆がつながっていると感じたのです。日々、別々に存在しているように見えるこの世界で、日々、表面的なことにとらわれ、自我というものを強く意識しすぎる生活を送っているがために気づいていないだけであって、正しい修練で心を静めていき、自我意識(エゴ)を超越していくことによって、実は深い意識によって皆がつながっているのだと感じることができる高い次元を経験することは、誰にでも可能ではないかと思うのです。
 
 このような、全てがつながっていて、そして限りなく広がりや深みがある、神々しいばかりの世界や意識のことを、古来様々な宗教が「神」や「仏」と呼んだのかもしれませんし、「愛」と表現することがあったのかもしれません。私の場合、子どもの頃から「大宇宙の意思」と名付けていたことは、前記の通りです。
 いわゆるトランスパーソナル心理学の世界でも、そのような世界を仮説として設定していると聞いています。

 この世界のことは、これから宗教や心理学、その他の精神科学の分野の研究が進めば、どんどん解明されていくのかもしれません。それによって、実は全ての存在が、意識の世界において一つにつながっているという事実に気づいていくのではないかと思います。
 そして、一人でも多くの人が、その気づきを得ることができれば、無用な対立や闘争を繰り広げることもなくなっていくことでしょう。戦争のない社会に向かっていくことでしょう。さらには、人間と自然との対立もなくなり、自然と共生する社会、地球環境問題を自然と解決する社会に向かっていくことでしょう。

 このような意識のことを、それまでの対立や闘争を生み出す二元的な世界観と対置して、今は「一元の意識」「一元の境地」などと呼んでいますが、私はこの「一元の境地」を得るために、宗教の枠にとらわれることなく、哲学、心理学などの精神科学も幅広く探究していきたいと考えています。
 麻原への個人崇拝や、自分たちを聖なる存在とし外部社会を悪と見るという二元的思想によって、「私自身がオウム事件を起こしたのだ」という自覚を決して忘れることなく、その過ちへの償いの意味を込めて、私は終生、一元の境地を探究し、人間と人間とが、そして人間と自然とが、平和に協調して生きられる社会の実現に奉仕させていただく決意です。
 それこそが、本来、私がオウム真理教に入信する前に抱いていた夢であり、希望だったからにほかなりません。
                                         2008年8月19日
                                              広末晃敏


※上記の総括を書き終えた後、サリン事件被害者の関係者の方から、自己反省法「内観」を勧められ、実践した結果、これまでの自己中心的な性格についての反省がますます深まり多くの気づきを得ることができました。そのことについては現在大幅に加筆しているところです(広末晃敏)。

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