団体総括(本編)

2.『アーレフ時代(2000~2007年)の総括』

【1】「2000年、上祐代表の出所後からアーレフの設立まで」

■上祐代表の教団復帰と運営方針の転換

 1999年の12月、上祐代表(当時はまだ代表ではありませんでしたが、本文ではこの呼称で統一します)が、服役していた広島刑務所から出所、オウム教団に復帰しました。
 そして、当時の横浜支部に居住しながら、地域住民やマスコミ・当局の激しい批判や団体規制法にさらされた教団の立て直しに入りました。
 
 上祐代表の個人総括にもある通り、この時点での上祐代表は、麻原への信奉は依然として残しつつも、麻原の予言をそのまま信じることは非現実的だと考えている状態でした。つまり、麻原の絶対性は否定しつつも信奉していたのであり、おおむね、そのような姿勢で、教団を指導していきました。

 具体的には、上祐代表は、正悟師や師と呼ばれる幹部信者を中心に集めて協議した上で、
①教団と社会の激しい摩擦の原因となった麻原のハルマゲドン予言は絶対的なものではないと話した。
②一連の事件への麻原の関与については、断定を避けつつも、関与が推認されるという教団の公式見解を発表した。
③事件の全額賠償の契約を破産管財人と結んだ。
ということを行いました。
 また、その後も、上祐代表は、機会を見ては、自らが知っていた麻原の非絶対的な実態を幹部信者らに話していきました。
 こうした方針は、教団が生き残れるかどうかという極めて切迫した状況にあったこともあり、上祐代表の復帰前から謝罪や賠償を徐々に始めていた教団には、一応受け入れられていきました。

■教団指導部がまとまり始める

 また、それを後押しした背景としては、麻原の子息を巡って三女・次女が長女との争いの中で逮捕されたりするなどして、教団から脱会したために、上祐代表が、当時の教団に残った者の中では正大師として最高位の状態になっていたという事情もありました。

 それまでの教団は、麻原の子息の間での不和、正悟師の中での不和、そして麻原の子息と正悟師の間の不和・意見の不一致のために、上層部(長老部)の運営方針がまとまらない状況でした。しかし、上記の通り麻原の子息が脱会したり、上祐代表が復帰したりした結果として、上層部がまとまり始めていきました。

 それまで、ある幹部信者は、国は観察処分をかけた後すぐに再発防止処分をかけて教団をつぶしてくるだろう考え、観察処分に協力しても意味がないと考えていました。他の幹部信者は、麻原の予言を信じて、パソコンショップを経営する一方でハルマゲドンに対する備えのためにお金を使い、社会と対立する方向に動いてきました。
 上祐代表は、こうした幹部信者らに対して、現実を冷静に受け止める視点に立って説得し、社会との融和路線を進めていきました。

■アーレフ体制のスタート

 今後の方針を決める話し合いの中でポイントとなったのは、麻原の扱いでした。しかし、当時の教団では、麻原への信仰を全てなくしてしまうという発想は、上祐代表を含めて、誰一人持っていませんでした。

 ですから、麻原に関する話し合いは、麻原への信仰をどの程度目立たせなくするかとか、麻原が否定している事件の関与を教団は認めるかといった点が中心となりました。

 話し合いの結果として、
①麻原の事件に対する関与や、教団の事件に対する組織的関与は認めて、謝罪・賠償する、
②麻原の位置づけとしては、瞑想家としては優れていたが、事件は肯定できないとして、その写真を祭壇から外して、シヴァ神の写真を中心に据える、
といったことが決まりました。

 さらに、
③一連の事件の原因となった危険な教義は否定・排除する、
④教団の名前をオウム真理教からアレフ(後にアーレフと改称)に改める
ということを加えて、マスコミに発表したのが、2002年の2月4日でした。
 この日をもって、アーレフ体制がスタートしたのでした。

■アーレフ体制を信者がどう受け止めたか

 このアーレフ体制における麻原の信仰については、従前と全く変わっていないとまではいえないものの、その信仰を表向き隠したものにすぎなかったといわざるをえません。

 それでも麻原を絶対視していた者にとっては、たとえ表向きのポーズであったとしても麻原の事件関与を過ちと認めて多額の賠償をしていくということは、多大な変化を強いられるものでした。
 というのも、信者が持っていた麻原のイメージや、麻原に帰依する信者のイメージの中には、表向きでも妥協しないこと、すなわち、どんなに批判されても麻原を肯定し、徹底的に社会と戦うのが帰依であるといった考えも根強いものがあったからです。

 しかし、教団の存続が危ぶまれていた当時の切迫した状況や、幹部信者の説得などが、そういった考えを後退させていった面があります。その結果として、ごく一部の信者以外は、アーレフ体制を受け入れたのでした。

 その一方、教団の中には、上祐代表が復帰する前から、それほど麻原を絶対視してない人たち、事件に対する謝罪・賠償をするべきだと考えていた人たちもいました。そのような人たちにとっては、アーレフ体制は、単に表向きではなく、少なくとも一部においては内実をともなった変化になっていました。

 とはいうものの、麻原への見方や信仰をできるだけ変えたくない大半の信者にとっては、アーレフ体制が行った社会との融和策は、麻原への信仰とその教団を守るための表向きの策だったのであり、その意味で麻原への帰依の実践だったと考えることができます。
 例えば、世間では最も強硬な武闘派という印象を持たれていた新実智光氏は、麻原があのような状態になってしまったのは、一般信者の悪いエネルギーを受けすぎた影響によるものであると考えていましたが、当時の教団内の幹部の中には、そのような考えすら受け入れられなかった者もいました。
 つまり、絶対的な存在である麻原が、他人の悪いエネルギーの影響を受けておかしくなるということ自体ありえるはずがない、と考える幹部信者がいたのです。
 世間で最も武闘派とされる新実氏の考えさえも受け入れられないほどだったのですから、いかに当時の教団内部における松本絶対視の風潮が強かったかが、よくわかります。

 そういうわけで、厳密に考えるならば、この時期から、麻原と旧オウムの教義に対する見方について教団内が一様ではないことが露呈し始めていたということもできます。もともと、上祐代表が復帰する前から、信者の中には、事件について悩んでいる人、何も考えていない人、思考停止状態だった人等がいろいろと分かれて存在していました。
 しかし、この時点では、この問題が表面化して教団が分裂することはなく、それぞれの信者が、自分なりの麻原や事件に対する考えを持っており、ある意味で「同床異夢」の教団になっていたともいえるでしょう。

 なお、先にも少し触れたとおり、麻原の家族については、アーレフ体制の発足直前に、麻原の長女と次女・三女との間で争いが起き、長女の住居に不法侵入したという容疑で次女・三女が警察に逮捕され、長男は児童相談所に保護されました。
 その意味で、麻原の家族は、自分の意志で教団を離れたというよりも、離れざるを得なくなったのです。

 こういった事情も、その後の2003年頃から教団が分裂していく背景事情として存在していたといえます。

■アーレフ体制の裏表について

 ここで、このアーレフ体制について、どのくらい表裏があったのかについてまとめておきたいと思います。

①教団の事件関与の認定・謝罪に関する裏表

 第一に、麻原の事件に対する関与を含めて、教団が事件に組織的に関与したことは認めて、謝罪・賠償をする点について。

 これは信者にもよりますが、最もひどい裏表のケースは、一部の信者ではありますが、教団は本当は事件に関与していないが、不当に教団を弾圧する社会が教団をつぶさないようにするためには認めざるをえない、というものでした。

 しかし、おそらく、こういった信者は全体から見れば少数であり、頑なに陰謀論を信じている信者です。

 こういった人に対しては、各部署、各道場を担当する幹部が、ある程度話をしたこともあると思いますが、それは消極的な形にとどまり、現実を受け入れなければ脱会させるといったほどまでは強力な指導はしなかったと思います。そのため、教団側にも、真剣な反省がない証拠と見られてもしかたがないと思います。

 次に、信者の中には、麻原が不規則発言ながらも裁判で主張しているように、教団は事件に関与しているが、麻原は事件に関与していないと考える人がいます。これは、2000年のアーレフ体制発足の際はあまり目立ちませんでしたが、潜在的には存在していた考え方で、それが最近の教団分裂とともに表面化して強くなってきました。

 もちろん、麻原が指示せずに、ないしは止めたにもかかわらず、弟子が暴走して人を殺すということは、教団教義上はあり得ないことであることは、全ての信者がわかっていると言っても過言ではありません。しかしながら、そういった矛盾がありながら、麻原が自分の無罪を主張している以上、麻原に反して弟子が暴走したと(無理にでも)信じるべきであるという考えがあります。逆に言えば、それだけ無理して信じることが、麻原に対する帰依の実践になるという考え方かもしれません。

 ただし、正確に言えば、麻原が不規則発言ながらも裁判で主張していることは、麻原が完全に無罪であるということではなく、坂本事件やサリン事件ではありませんが、殺人事件の一件には関与したことを認め、また他の比較的軽い罪の事件への関与も認めているという事実があります。ところが、麻原への帰依の心を守りたい人は、この事実さえも無視しているかのように見えます。

 こういった信者の心を分析すると、①麻原に帰依するために、麻原が主張しているとおりに考えて行動したい、ないしは、そうしなければならない、というだけでなく、②麻原に帰依するために、自分の中の麻原の美しいイメージを守るために、麻原が事件に関与したということは考えたくない、ということがあると思います。

 一方、上祐代表を含めて、少数の幹部信者の中には、麻原の教団武装化(ヴァジラヤーナ活動)の構想を直接聞いて、その軍事技術の調査・研究に携わった者や、サリン事件等の重大事件に関わっていないものの一部の事件には関わり服役した者がいました。

 また、旧教団の裏活動を直接的に知らなかった信者の中にも、教団の様々な内部のきな臭い雰囲気からして、教団が社会と戦うために裏で違法な行為をしていると感じていた人たち少なからずいました。
 
 しかし、自分が信じた不殺生を説く麻原とその教団のイメージと、一連のテロ事件のイメージが、逆に全く一致しない人もいました。ただし、95年に事件が発覚してから、マスコミその他で大々的に報道され、強制捜査があり、逮捕された高弟が次々と教団の関与を認める証言をした以上、それ以来10年近くも、事件の関与を知らなかったというのは、イメージが一致しないというだけでは説明がつきません。

 その背景には、外部社会の情報を入れてはならないということを含めて、疑念が生じるようなことはしてはならないという教義がありました。しかし、その教義を重視するということは、信者の深層心理には、そもそもが、教団が関与しているかどうか真実を見極めようという積極的な姿勢ではなくて、自分が信じたものを守りたい、失いたくない、失うことは怖いという心理が働いているということができるでしょう。

 こういった妄信的な信者がいる一方で、当時から教団には、麻原に対する思いは残しつつも、麻原をはじめとする教団の事件に対する関与は認め、教団の事件に対する関与に心を痛め、賠償をすることに意義を見いだしていた人達も少なからずいました。こういったタイプの人たちの意識は、徐々に変化をしていき、後に、アーレフの代表派、そして、ひかりの輪の参加者になっていく人が出てくることになります。

②賠償の実行と、その動機に関する裏表

 こうして、教団の謝罪は、表向きの側面があったとはいえ、アーレフ体制のもとで教団広報部を中心として定期的に表明され、また真の反省に基づいていないにしても、実際に、一定の賠償金の支払いは実行に移されました。

 アーレフによる賠償は今年までに6億円ほどに上りますが、なぜ、一部の人を除いて教団全体としては真剣な反省をしているとはいえないにもかかわらず、これだけの賠償をしてきたかというと、それは、教団を守るという動機があったからだということができると思います。

 1999年当時の教団は、各地の住民の激しい反対運動を受け、当局と民間の圧力でパソコンショップは倒産に追い込まれ、麻原の家族も逮捕や保護をされ、団体規制法のために教団本体もつぶされるのではないかという苦境にありました。

 そのため、社会が要求していた謝罪・賠償に応じることで、社会の反発を和らげて、教団を存続させるために賠償が必要であるという考えは、一部の信者に反発があったものの、教団信者のほとんどの人たちに理解されたことでした。

③麻原の位置づけに関する裏表

 公の規定では、麻原は、瞑想家としては優れていたが、その事件は肯定できず、経典の解釈者であり、崇拝の対象ではないとして、その写真を祭壇から外していました。

 しかし、実際には、ほとんどの信者にとって、麻原はグルであり、教団ではよく「グルを意識する」「グルを観想する」「グルを記憶修習する」と言いますが、そのような崇拝の対象として依然として存在していました。

 ごく一部の信者の中には、事件を起こした麻原に対するアレルギーがあって、麻原に帰依できないながらも、教団の中に止まっていた人がいますが、ほとんどの信者はそうではないと思います。

 よって、祭壇からは麻原の写真が外されても、信者は個人で麻原の写真を持つことが許され、麻原の書籍、ビデオ、麻原が吹き込んだマントラのテープを所持し、そして、麻原を観想する瞑想を修行とし続けました。この点は、アーレフ体制の最大の裏表だと思います。

④危険な教義、ヴァジラヤーナの否定に関する裏表

 アーレフ体制の裏表において、相対的にではありますが、裏表の程度が少ないのは、この点ではないかと思います。

 実際に教団は、いわゆる危険な教義とされたヴァジラヤーナの教義は、その後しばらくして、それに該当する書籍やビデオなどの教材を徐々にではありますが、破棄するに至りました。

 また、一連の事件の背景にある予言の教義についても、現実に97年、99年と、予言が成就しない中で、現実として時代遅れとなり、それを信じる勢いは信者の中で弱まっていきました。

 さらに、実際に、教団が将来において再びヴァジラヤーナ活動を行なう必然性・現実性はないので、ヴァジラヤーナの教義や、その教材をことさらに守りたいという欲求は、信者の中では相対的に少ないように思えました。また、事件自体が好きではなく、事件に関与していない美しい麻原のイメージを守りたい人にも、こういった教義はあまり必要ないものかもしれません。

 しかし、これは相対的にすぎず、信者の中には、ヴァジラヤーナが最高の教えであり、自分たちが最高の真理を学ぶためにも、それをできれば保存したいという人もいました。その意味で、教材の破棄等の一切が、心地よく進められたわけではないと思います。

 実際に、それがある程度進んだのは、2003年から2004年にかけて、教団が分裂する前に上祐代表が教団全体を統括していた時期まででした。それ以降は、反上祐派の人たちの中に、予言を言う人も出ていますし、麻原の復活を信じる人も出ていますし、昔破棄した本を再配付するべきであるとまで主張する人もいました。

 ただし、上祐派以外は皆そのように過激だというのでは決してなく、私たちが脱会したアーレフの中に今もいる人の中には、現実的な感覚を持った人達は大勢おり、その意味で、アーレフ=非上祐派グループの中でも意見が多様化して、その間の溝が深まっているというのが現状だと思います。

【2】「2000年~2001年、被害者賠償契約の締結など」

 教団は2007年7月に、オウム事件被害者への賠償金分配をしている破産管財人・阿部三郎弁護士との間で、被害者賠償契約を締結しました。それに先立つ5月に、破産管財人が教団を訪問して契約を提案された結果、そうなったのでした。

 教団の中には、それまでの考え方の影響もあって、巨額の賠償を支払う契約に対して否定的な見解を述べる人もいましたが、そうしなければ教団が潰されてしまうかもしれないという事情を理解した上で、ようやく団体としての合意が得られました。
 そういう意味では、被害者の方々に対する純粋な謝罪に基づく賠償とはいえず、自己保身のための賠償だったのですから、まったくもって申し訳なかったとしかいいようがありません。

 被害者の皆さんの中でも、賠償契約は教団存続の口実を与えることになるから反対との声があがったものの、実際に賠償を必要としている人たちもいるとのことで、破産管財人が皆さんの合意を取り付けられたと聞いています。

 そして、教団では賠償資力を確保するために、外部の方を経営者とするパソコンショップの設立・運営に参加しましたが、大手企業の参入や消費者の反発等があって収益は上がりませんでした。
 そこで、ハードからソフトへの転換を行い、ソフトウェア開発を通じて収入を得るようになっていきましたが、これも競争の激化や治安当局の圧力等があって、次第に収益力が低下していくことになりました。

 ですから、教団の主たる財源は、在家信徒からの布施と、出家信者の個人就労・アルバイトになっていきました。

 以上の通り、この時期は、社会への対応にも一定の変化が見られました。
 オウム真理教の時代と違って、
①表向きとはいえ、謝罪を繰り返したこと、
②賠償金の支払いを実行したこと、
③危険とされる教材を一定レベルは破棄し始めたこと、
④外部社会に対して刺激的・敵対的な姿勢を和らげたこと、
⑤観察処分を受け入れ、定期的な報告や立入検査などで、一定限度は協力したこと、
⑥上祐代表を中心として、幹部信者の中で、現実的な物の見方について話し合われることがあったこと、
などです。

【3】「2002年、上祐代表就任とその新たな宗教的活動の始まり」

 2002年1月、上祐代表は、それまでの村岡達子代表と交代する形で、教団代表の地位に就きました。と同時に、出所後に形式的に返上していた「正大師」の宗教的ステージも回復させました。
 出所してから2年経ち、状況が落ち着いてきたことと、村岡氏の負担が大きかったこと、周辺の勧めがあったこと等が要因でした。

 まもなくして、上祐代表に様々な霊的な体験や心境の変化が生じ、新しい宗教観が芽生えていったのですが、詳細は上祐代表個人の総括をご覧下さい。
 その新しい宗教観が、後の教団分裂の要因の一つとなっていきます。

 8月には、高いステージの修行者のエネルギーを注入するシャクティパットという儀式を上祐が実施し、多くの信徒が霊的体験をするようになりました。

 このような状態の中で、どの宗教団体にも当てはまることですが、信徒の教化においてはカリスマを欲するという動機を背景として、上祐代表が見た珍しい虹の体験やシャクティパットの霊的な現象などをきっかけに、上祐の位置づけを単なる代表という存在以上のものにしようという流れが徐々にできはじめました。
 
 10月には、上祐代表が、「(上祐代表は)21世紀の大黒柱」という啓示的なヴィジョンを見て、それにまつわる不思議な出来事が続きました。その中で、上祐代表は、乗鞍連峰や諏訪大社、十和田湖周辺などの霊的なスポットを訪れました。
 こういった出来事の連続が、上祐代表の位置づけをさらに高める傾向を加速しました。

 しかし、ここには重大な問題が潜んでいます。宗教家が、自己の神秘的体験を過大視・絶対視してしまうがあまり、自分自身をも絶対視してしまい、それを取り巻く人たちも、その宗教家を一緒になって絶対視して持ち上げていってしまうという問題です。

 今現在、上祐代表を中心とするひかりの輪の指導部は、たとえ珍しい神秘的現象が存在するとしても、それを絶対視したり、体験した人物を神格化したりすることは間違いであると考えています。そうすると、自己を神格化するなどの誇大妄想に陥ってしまい、本当の悟りからは離れてしまうからです。

 麻原とその信者の場合、麻原が示した一定の霊的能力によって、麻原を絶対神の化身にまで神格化してしまいました。
 この麻原の時代とは程度において大きな違いがあるとはいえ、当時の上祐代表とその周辺の人たちにも似たような心の働きがあり、麻原不在の穴を埋めたいという気持ちがあったのは間違いありません。

 現に、布教を担当している部門からは、教団には上祐代表のようなカリスマ的人物を置いて、それを前面に強く打ち出した方が、インパクトがあってよいとの声が上がっていました。
 また、信者は重要な修行の一つとして懺悔(自己の悪行を告白して罪を浄化すること)を行いますが、この懺悔はグル(霊的指導者)に対してしか行えず、麻原が逮捕されてからは懺悔ができない状況でした。ですから、代わって懺悔を聞いてくれるグルの代理的存在として、信者らが上祐代表を求めたということもありました。

 その結果として、上祐代表は、いくつかの著作を出版することになったのですが、その中でも、特に、『覚醒新世紀』と題する本については、この傾向が強くあらわれていました。この本は、麻原の著作とうり二つであり、上祐代表が麻原に成り代わろうとしているとの批判を後から受けるものでした。

 もっともこれらの体験は、後の上祐代表やその周辺の者が、変化していくきっかけともなりました。

【4】「2003年初頭、上祐代表の教団改革の試み」

 翌年2003年になると、有名なインドの宗教家であるラーマククリシュナの弟子であるヴィヴェーカナンダと上祐代表が非常によく似ているという見解が、一部の幹部信者の間で発表されました。

 それと同時期に、教団の観察処分が更新され、それもあって、上祐代表を中心として、麻原の色を薄めて社会に融和する教団改革を行おうという流れが始まりました。

 ただし、この際に、上祐代表とその周辺において、上祐代表がこのインドの聖者の生れ変わりの可能性があるという主張があった点については、今現在のひかりの輪の指導部は、安直で不適切なことだったと内省しています。

 これは、麻原に限らず、宗教団体にはよくあることですが、自分たちが歴史的に非常に偉大な宗教家や人物の生れ変わりであるという主張は、自分たちを過大に神格化・絶対化する可能性があり、問題をはらんでいます。

 もちろん、その教団の世界の中で、歴史上の特定の人物と似ている人がいるということはあるでしょう。例えば、ある教団の教祖が、その教団の中で救世主として映ることがあったとしても、その自分の世界を逸脱し、実際の世界全体の救世主であると自己を錯覚し、いわゆる誇大妄想に陥るならば、それは、大変なことになります。

 その教祖と宗教が、全ての人類の救世主になるべきだと考えるならば、その宗教は、対立する社会や、他の宗教・宗派との間で、当然の如く争いを起こします。そして、これが、まさにオウム真理教であったということができます。

■2003年教団改革のスタート

 2月からは、さらなる教団改革が始まりました。具体的には在家信徒を指導する道場から麻原の教材を撤去したり、カバーを掛けたりするなどして、目立たないようにするというものでした。
 そうすることによって、道場に来訪する入信希望者や比較的新しい信徒による麻原への反発を和らげ、入信を促進し、教団を拡大しようという狙いがあったのでした。

 公安調査庁はこのことを麻原隠しと述べていますが、隠すというほどのものではありませんでした。現に、出家信者の施設では麻原の教材はそのままでした。
 一方、その後、上祐代表を批判した人たちは、グル外しだったと言っていますが、この程度のことでもグル外しというほど、許容できない動きに見えたということがわかります。

 この改革に際して、埼玉県草加市内に当時あった大型施設に、出家信者と在家信徒のほぼ全員を集めて、上祐代表から話がありました。

 上記の改革を実施するにあたって、いかに社会の人々が麻原を恐怖し嫌悪しているかを信者に理解させるために、麻原が事件に関与したことを、事件について記したプリントを配付して明確に説明しました。
 これに対しては、一部の信者から、驚きとともに、本当に関与したのかという質問が上がりましたが、当時はまだそのようにして麻原の事件関与を信じない信者がいたのでした。
 そのうえで、一連のオウム事件や、オウム事件を引き起こした麻原は、私たち信者の心の汚れの表れであり、潜在意識の投影なのだから、私たちにも事件に対しての宗教的責任があるという話がなされたのです。

 この考え方は、言い換えるならば、麻原の指示の中には、信者の心の汚れが投影されているものがあるのだから、従わなくてもよいという考え方です。

 上祐代表がこの考え方を示したのには、それ相当の根拠がありました。
 1990年に麻原の弟子達が熊本県警によって国土法違反事件で逮捕された際、麻原は激怒して、警察にトラックで突っ込めという話をした際、上祐代表は大声を上げてそれに反対したのです。そうしたところ、麻原は、しばらく沈黙した後、「そうだ、マイトレーヤ(上祐)の言うとおりだ」としきりに繰り返していた、という出来事があったそうです。
 こうした出来事も一つの根拠として、上祐代表は上記の話をしたのですが、この考え方は、麻原の指示は絶対であり服従しなければならないという麻原への絶対視を覆していくきっかけとなるものでもありました(それだけに、この後、徐々に反発を招いていくことになります)。

 また、同時に上祐代表は、麻原を観想しない修行法についても、皆に指導し始めました。

 この草加市での会合の場では、上祐代表の打ち出す方針に皆が賛成しました。
 ようやくこのような改革をしてくれるようになったかという喜びの声も上がっていたほどでした。やっとまともな組織になってきたと思った信者もいました。
 そして、改革が始動し始めたのでした。

【5】「2003年後半~2004年末、上祐代表の改革頓挫と「代表派」の発足へ」

■改革への抵抗――上祐代表の封じ込め

 ところが、全会一致で始動し始めたはずの改革も、その直後の2003年4月には、早くも、麻原の妻の知子氏、三女、二女が中心となり、麻原崇拝の強い出家信者と一緒になって、ストップさせ始めました。
 具体的には、松本家の上記メンバーが、正悟師や師といった教団の幹部信者を個別に呼び出したり、電話をかけたりして、上祐の方針はおかしい、彼に従うな、彼を修行に入れるから協力せよ等と説得を始めたのです。

 松本家の人々、特に三女や次女といった麻原の子息は、麻原によって、教団内では麻原に次ぐ高い地位を与えられていましたから、その権威や影響力は絶大なものがありました。

 ですから、大部分の幹部信者が松本家の指示を聞くことになり、上祐代表は6月から長期修行入りとなりました。しかし信徒向けの説法会をする必要があるので、土曜と日曜に限ってのみ活動を許されるという状況になりました。
 このあたりの経緯については、現アーレフ代表の野田成人氏が、『月刊現代』2008年1月1日号で詳細に明らかにしています。

 その後も松本家のメンバーが、幹部信者の会合に登場しては、上祐はおかしい、従うなと説得を続け、上祐代表は幹部信者一同の面前で、自分の改革は間違っていたとして、強制的に懺悔させられるという事態となったのです。

 さらに10月には、幹部信者が集まって、上祐はグル化している、脱会・分派を考えている、麻原に帰依していない等として、上祐代表不在の場で批判を展開するという会合を繰り返しました。
 そして上祐代表に対して「嘆願書」と題する文書を提出し、麻原にきちんと帰依し、松本家の人々を尊重すること、そうなれるよう、それまできちんと修行することを要求したのです。

 上祐代表がこのときあえて抵抗せずに懺悔したり修行入りしたりしたのは、もしそこで抵抗すれば教団が分裂することになると松本家サイドから警告されていたのと、松本家への遠慮がまだあったからでした。そして根本的には、まだ上祐代表の中の新しい宗教観が確固たるものとなっていなかったという事情もありました。

■改革が反発を招いた理由

 上祐代表主導の改革がなぜ反発を招いたか、その理由を説明します。

 反上祐派(現在のアーレフ)の広報部は、そのホームページにおいて、上祐代表が信者拡大のために麻原を隠す欺瞞的な路線を取ったことが信者の反発をかったとだけ表現しています。しかし、これは、松本家などの見解に基づいて、全体の事実の中で彼らにとって問題がない部分について表面的に述べているにすぎません。

 実際には、反上祐派は、上祐代表の教団改革を「麻原隠し」ではなく、「グル=麻原外し」と呼んで強く批判しました。すなわち、彼ら=反上祐派の人たちには、その時点の上祐代表の考え・方針さえ、彼らの麻原への信仰に反する問題だったということです。

 具体的には、上祐代表が、
①一連の事件に関与したことを明確に認めて、それを悪業=間違いであると位置づけたこと、
②その一連の事件を一例として、麻原の言動が常に絶対的な善ではなく、信者の悪業を投影する面もあるとした点で、麻原を従来のようには絶対に服従すべき善であるとは位置づけなかったこと(同様に、麻原の家族の人たちも絶対視しなかったこと)、
③それに基づいて、一部の麻原の書籍その他を改訂したこと、
が反発の原因となったと思われます。

■教団が「麻原回帰」へ

 こうして上祐代表は2003年10月以降、完全に修行入りとなり、信者の前から姿を消します。
 大部分の信者に対しては、松本家の動きを含む真相は知らされず、ただ上祐代表はシャクティパットの影響で調子が悪いので修行に入っていただいているとのみ説明されました。
 上祐代表は、松本家から自室での修行を命じられ、世話役の信者らによって日常の動向や外部との交信を監視され、携帯電話の通話記録までチェックされていました。

 やがて上祐代表の修行入りと同時に、荒木浩広報部長が、「マイトレーヤ正大師(上祐)の改革は誤りで、許されないグル外しだった」と訴える「お話会」を、出家信者対象に何十回も連続して開催するようになりました。
 これは、半ば教団の公式な会合として扱われ、出家信者は、この「お話会」を聞くように勧められたのでした。
 この頃、教団運営は、いわゆる「麻原回帰」の傾向が強まったと公安調査庁から指摘される状態となっていきます。
 
 実際に、幹部が信者に行う説法も、麻原を称賛する思い出話の類がメインとなっていきました。

■正悟師の間で麻原への疑問が出て、上祐復帰へ

 しかし、松本家主導の運営に対しては、まず最高幹部の正悟師らから異論が出始めます。
 2004年2月には、野田氏が、「松本家主導、上祐排斥の教団運営は、あたかも北朝鮮のような独裁体制でおかしい」と、幹部会合で公然と異論を唱えて、物議をかもしました。
 杉浦茂氏も、明確に松本家から距離を置き始めました。
 そして9月頃には、村岡氏を除く正悟師全員(当時は二ノ宮氏を含む)が、一方的な上祐批判には疑問を持つようになり、上祐代表と話し合いをするようになりました。その結果、上祐代表は活動復帰の意思を固め、その旨を一部幹部らに宣言します。
 すると、これに対して、反上祐の幹部らが、改革の誤りを反省しないまま勝手に修行を出て活動復帰するのは認められないと主張する書面を上祐代表に提出し、対立が始まりました。

■代表派の形成へ

 11月末には、上祐代表を支持する信者らが集まり、改革は間違っていなかったと訴える会合を教団内で公然と開き、議論を巻き起こしました
 上祐支持を公然と大規模に訴えることは、最高権威である松本家への反旗を翻すことになるので、一般信者レベルではこれまで誰も行っていなかったのですが、この会合を発端として、上祐支持の信者らが少しずつ集まり始め、ここに正式に上祐派が結成されていくことになります。上祐代表が主導する派ということで、これを「代表派」と呼称することにしました。
 それに対抗する形で、反上祐派もさらに強固に構成されていくことになりますが、私たちはこれを「反代表派」と呼称しました。反代表派の人たちは、自分たちこそ麻原の教えを正統に受け継ぐ者として「正統派」を自称しましたが、後には、そもそも代表派を派閥として認めるわけにはいかない、これは派閥闘争ではないというスタンスをとりました。
 しかし、現実には、代表派や反代表派に属さない中間派の立場の信者もいましたから、識別するために反代表派と呼ばれていました。

 さて、こうした上祐派の支持を受けて、上祐代表は、2004年の11月、約1年ぶりに、教団活動に事実上復帰することになりました。

 上祐代表が修行に入っている間に、麻原に一審の死刑判決が下りましたが、こういった中で、上祐代表や彼に近い信者らは、今後の自分達の宗教的な方向性について、内面で葛藤していました。この当時においては、上祐代表をはじめとして、依然として、麻原の影響を脱却することはできていませんでした。

 それに加えて、周囲からは、麻原を絶対視して昔のような教団に戻るように、強い圧力がかかっていました。要するに、そうならなければ教団活動に戻れない、戻さない、という圧力です。

 なお、全面的な意味で、上祐代表やその支持者らが、麻原の影響を脱却し始めたのは、脱却の定義にもよりますが、2006年ごろであり、厳密に言えば、2007年の脱会の時であるということができます。
 というのは、オウム・アーレフに所属し、信徒の教化のために、元教祖の教材を一部でも使っている限りにおいては、客観的に見れば、脱却できていない、依存していると言われても仕方がなかったからです。

■反代表派による代表派への攻撃

 こうして活動を開始した上祐代表やその支持者については、荒木広報部長が再び、「かつてのマイトレーヤ正大師(上祐)の改革は、グル外しで誤っており、何の反省もない活動再開は決して許してはならない」等と批判する「お話会」を、出家信者対象に繰り返し開催しました。
 この「お話会」においては、上祐代表の社会融和方針や改革を否定し、上祐代表を指導部から排除することが「グルの意思」であると主張されました。

 そして、教団運営の主導権を握っていた反代表派は、代表派に属する信者らに対して激しい批判を始めました。
 具体的には、代表派に賛同する者、さらには、明確に代表派に反対しない中間的な立場をとる者について、「魔境である」「悪魔に取り憑かれている」と批判し、場合によっては、教団活動から排斥していきました。

 また、信者に対しては、代表派と接触しないように指示し、代表派の活動に参加・接触する信者に対して相当な精神的圧力をかけ、それでも参加・接触した場合は、どんどん批判・排斥していきました。

 こうして、私たちがアーレフを脱会して、ひかりの輪として独立する以前から、代表派と反代表派との間では、過去の一連の事件、麻原やその家族、そして上祐代表の思想に関して、重大な宗教的見解の相違があったことは、疑いの余地がありません。

 ましてや、代表派と反代表派が裏でつながっているなどという事実は、決してありません。それは、反代表派からの強い圧力を受けた人たちにとっては、非常に残念な疑惑であるというほかはありません。

【6】「2004年末~2005年末、代表派およびその思想の形成」

■代表派(上祐派)の形成と反上祐派の反発

 2005年3月、上祐代表や代表派のリーダー達が、修験道や山岳仏教の聖地として有名な長野県・戸隠神社一帯で修行をしたのですが、これが5月頃になって反代表派の知るところとなりました。反代表派は、このような修行は、麻原の教義に照らして、外道・魔境であると批判しました。

 もともと戸隠神社は、明治以前は顕光寺という名のお寺もある山岳仏教の聖地でしたが、麻原の説いた教え以外のものは、外道・魔境と否定する面がありましたので、反代表派はこれを代表派に対する格好の攻撃材料として活用したのでした。

 反上祐派はこの頃から、出家信者だけではなく在家信徒に対しても、「神社で修行するような代表派は魔境」などと説明し始め、決して代表派と接してはいけないと圧力をかけていました。
 これによって、教団内の対立は、ますます激しくなっていきました。

■代表派の勉強会を繰り返す

 この頃、代表派では、勉強会を繰り返し開いていました。
 勉強会の内容は、一連のオウム事件を直視するというものがメインでした。一連の事件を時系列で紹介し、判決や証言等に基づきながら、いかに麻原が教団武装化を推進し、重大事件を引き起こし、どのような悲惨な被害を招いたのかを勉強していきました。
 事件や被害者を取り上げたテレビ番組や映画を鑑賞したり、被害者の手記を参照しながら、理解を深めていきました。
 さらに、事件に部分的に関与した代表派の信者が講師となって、自ら体験したことをリアルに皆に説明しました。
 最初はショックを受けた信者も多かったのですが、次第に、私たちの教団が過去に犯した過ちを正面から直視して、過ちを認めて、乗り越えていこうという気運が高まっていきました。

 また、この会合は代表派の信者だけではなく、代表派の活動に少しでも興味がある信者も誘って行いました。ただし、上記に記したように、代表派の活動に少しでも参加しようものなら、直ちに圧倒的多数の反代表派から批判され、冷遇されることになるので、みな密かに参加してきていました。
 また、教団施設内で開くことによって反代表派の知れるところとなったり、妨害される恐れもあったので、外の一般施設を借りて、繰り返し開き続けたのです。
 こうして代表派の活動に加わる信者らも増えてきました。

■ブログ『真実を見る』を開設

 また、代表派の主張を教団内に訴えるために、代表派では『真実を見る』というブログを作成し、公開しました。
 一連のオウム事件についての説明はもとより、これは今となっては反省すべき事ですが、麻原の説法を引用しながら、いかに代表派の主張が麻原の説法に反するものではないかという点を訴えました。むろん、麻原の説法の中でも、社会との対立を否定する方向に導く一元論的な説法を引用したのですが、この点については後ほど詳説します。

■反代表派も盛んに会合を開く

 これに激しく反発する形で、反代表派も会合を開いていきました。荒木広報部長が開いてきた「お話会」をはるかに大規模にした集会を繰り返しました。
 2005年8月には、反代表派は、100名以上を集めた会合を開き、刑事裁判における検察の主張は信用できない等として、事件(が教団によるものとは言えない面もあるとする)陰謀説をうかがわせる発表を行うなどしました。

 これは、代表派が上記のような一連の事件への反省・総括を進めていることに対抗したものと思われます。麻原が事件への関与を否定している以上、自分たちも麻原の事件関与を認めないことが、氏への帰依であるということになりますし、何より麻原の一連の事件を直視してしまうと、自分たちの帰依が揺らいでしまう信者が多くいるという問題もあるからでしょう。
 しかし、裁判記録からもわかるとおり、麻原は起訴事実を全面的に否定しているのではなく、不規則発言ではあるものの、一部の重大事件への関与は認めているのですから、反代表派はもっと現実を直視する必要があったのは明らかです。

 さらに反代表派は、代表派の上記ブログ『真実を見る』を見ないようにと信者に圧力をかけ、教団の公式な通達を発して、その閲覧を禁止する措置をとりました。

■一歩一歩、増えていった代表派の活動拠点

 反代表派は、引き続き、代表派の活動を否定し、信者たちが代表派の活動に参加しないように圧力をかけていましたが、2005年の8月には、教団の船橋支部の支部長である細川美香氏が、代表派に理解を示し、反代表派の教団運営方針に従わないことを理由に、支部長の解任を通告される、という事態に至りました。

 しかし、細川氏がそれを拒否したため、当時は反代表派であった村岡達子氏(その後、中間派に転身)をはじめとする反代表派の幹部が、大挙して船橋道場に来訪し、代表派のリーダー達と突っ込んだ議論となりました。

 その際、反代表派は、船橋道場の在家信徒に対しても、上祐代表や細川氏を批判しましたが、在家信徒が、細川支部長と代表派を支持する姿勢を示したため、道場に長く居座るかに見えた反代表派は、結局は、その日の内に、退去することになりました。

 このころ、仙台支部でも、上祐派を支持する川口孝支部長が、反代表派から、解任通告を受けるなど、船橋支部と同様の事態が発生しました。しかし、同じように、川口氏は、解任を拒否し、そのまま仙台の道場を運営し続けました。

 こうして、代表派のリーダー達は、反代表派が支配している教団活動や運営から、排除されるようになり、代表派として、独自の活動を行うようになっていきます。

 また、9月くらいには、反代表派の一部では、上祐代表を教団の代表職から罷免することを考えたようですが、外部社会による批判が強まるといった理由で、それは取りやめになったようです。そして、現在も、形の上では、アーレフの代表は反上祐派ではなく、中間派の野田氏となっています。

 10月には、上祐代表に理解を示す出家信者と在家信徒多数が、連名で、上祐代表の教団活動への正式復帰を求め、さらには、教団の活動が合法的・社会的に行なわれ、違法で反社会的なものとならないように要請する文書を教団執行部(反代表派)に提出するに至りました。

 そして、同じ10月には、当時の大阪道場(大阪市西成区)の家主が、社会融和に反する発言を繰り返す幹部の影響下にある道場をこのまま賃貸することはできないとして契約解除を通告したことから、道場内の反代表派信者が退去して、生野区へ移転しました。その後、代表派が、その道場の使用を継続し、今のひかりの輪の大阪道場に至っています。

■代表派と反代表派の話し合いが行われるも、歩み寄り見られず

 この後、教団の経済が悪化しているために、中間派(代表派でも反代表派でもない中間的な立場を取る人たち)である杉浦実氏(最高幹部、正悟師の1人)が議長となって、代表派と反代表派のリーダー達の話し合いが複数回行われることになりました。

 それまでは、反代表派は、代表派を正式なグループと認めていなかったため、両グループが参加した公の会議が開かれるのは、これが初めてでしたが、両者の社会観、宗教観が違っているために、話し合いは平行線をたどりました。
 
 ただし、この会合には、代表派のリーダー達は出席しましたが、上祐代表自身の出席は拒否されるということがあり(上祐代表が出席すると、会合が流れるということなので、上祐代表自らが引いた形です)、これは、反代表派の人達の精神的な傾向を示しています。

 実際に、反代表派の人たちは、対立が始まって以来、ほとんど上祐代表を説得しに来ようとはしませんでした。松本家の人たちを含めて、上祐代表の所に行くなという指示をするだけで、「上祐を説得しろ、上祐の間違いを正せ」という指示はなかったようです。

 それは、上祐代表に接触すると、魔境になり、おかしくなってしまい、場合によっては代表派になってしまうからということのようでした。そして、上祐代表がいないところで批判・否定する活動をし続けるというのが、反代表派のスタイルでした。

 今思えば、こうした情報提供や議論に関する極端に一方的な閉鎖的な姿勢は、オウム真理教の特徴の一つで、以前は教団が社会に向けて行ったことを、このときは反代表派が代表派に向けて行ったのでした(その意味で、代表派の自業自得ですが)。

 さて、その会合の席上で、反代表派は、代表派が求めても、(恐らくは麻原が行ったものであるからという理由で)過去の一連の事件については、総括・反省をすることはできないと繰り返し、その点において、代表派との方針の明確な違いが生じました。

 こうして、話し合いは平行線を辿り、一致点は見いだせませんでしたが、こういった公の会合が持たれたこと自体は、反代表派が、代表派を押さえ込むことができなくなり、方針を転換して、代表派を彼らの教団から切り離す(ある意味では追い出す)方向になったことを示していました。

■上祐代表を中心とした、代表派の宗教的な見解の変化・進化について

 2003年までの上祐代表らの麻原や事件に関する見解は、前に記したように、今から思えば、全く中途半端なものであり、麻原から脱却したとは言えないものでした。

 しかし、2004年末に上祐代表が復帰し、2005年以降、宗教的な探求を続けている間に、段階的にですが、それが変わっていきました。その結果、代表派は、2006年ごろには、麻原を完全に払拭した新団体を作ることを考えました。とはいえ、真に払拭したと言えるのは、やはり2007年の脱会、新団体の設立の時となるでしょう。こうして、この過程は、非常に長いものですから、少しずつ記したいと思います。

 なお、この過程は、代表派に属してきたメンバーでなければ、よく理解していないと思われます。今現在2008年の時点では誤解も払拭されたかもしれませんが、一時は、 反代表派や中間派の人の一部において、私たちが、裏では依然として麻原に帰依しているのではないかと疑う人さえいたほどです。

 そのような疑いの背景には、麻原への依存から脱却することは難しいという彼ら自身の心情があると思われますが、それは、確かに簡単ではないことであり、だからこそ、代表派に属した者も、相当の時間を費やし、今現在に至っているということです。

■一元の思想の強調の始まり

 2004年の末に、代表派を立ち上げると、上祐代表は、一元論的な思想を強調しました。上祐代表は、復帰前も、カルマ・ヨーガ、カルマの法則を強調し、一元論的な思想の傾向がありましたが、それがより明確になりました。それは、上祐代表の内面の思索に加え、外部の思想の研究や交流などによって温められたものでした。

 それは、従来の教団の世界観と大きく異なるもので、仏教的に表現するならば、釈迦牟尼が説いた縁起の法に基づいて、大乗仏教が発展させた仏教的な一元論の思想に近いということができます。

 それに対して、旧教団では、教団を善なる神の聖徒の集団であり、社会を悪魔(マーラ)の支配下にあるものとする、善悪二元論の世界観を持っていました。神の軍勢である教団が、最初は悪魔の軍勢に弾圧されるが、最後はハルマゲドンが勃発するとともに、麻原が救世主・キリストとして登場して勝利し、真理の国ができるという麻原の予言(聖書の終末予言を麻原が解釈したもの)に基づくものです。

 しかし、95年の事件以後、97年や99年に予言されたハルマゲドンが起きない中で、上祐代表は、徐々に、世界は教団と社会に二分されるものではなくて、やはり、教団は社会とつながっていて、教団が社会を批判していても、その批判の内容と同じ要素が教団の中にも存在していると考えるようになりました。

 そして、仏教的な一元論的な世界観とは、釈迦が縁起の法で説いたように、全ての事物は、他から独立した実体をもたず、相互に依存しあって存在しており、本質的には一体であるといったような意味です(その詳しい内容は、ひかりの輪の公式サイト(教えと思想の部分)をご覧ください)。

  もちろん、オウム真理教の時代も、縁起の法や、因果の法といった仏教の教えは学習されていましたが、論語読みの論語知らずの状態であり、麻原の善悪二元論的な世界が圧倒していました。しかし、その後、麻原が教団を去り、ハルマゲドン予言が成就しない中で、一応は知っていた仏教の教えが、麻原独自の教義から、上祐代表らを解放し始める形になりました。

 その結果、前にも記したとおり、2002年には、麻原を自分たちと区別して絶対者であると考えるのではなく、麻原も、自分たちの潜在的な欲求=悪業が作り出した存在として、事件を否定する見方をし始めました(上祐代表らの虹の体験が始まったときです)。

 仏教的な一元論の教えに基づいて考えていった結果、だいたいこの2005年くらいまでの段階で、上祐代表を中心とした代表派は、次のような考え方に変わっていきました。

(1)特定の人(だけ)を神にすべきではない
 麻原を含めた誰か特定の人間について、他の人間と区別して絶対者であると考えることは、合理的ではなく、人は、そもそもは、皆が互いに完全ではない存在であるという謙虚な認識に立ち戻るべきであること。実際に、釈迦自身が、信者が自分を崇めることを戒めている。

(2)麻原の行為は、自分たちと関連している
 麻原のハルマゲドンとキリスト登場の予言や、それに基づく教団武装化や一連の事件は、麻原が主導した行為のように見えるが、実際には、その時の幹部・信者その他の人々の潜在的な欲求とつながっており、麻原だけの業・カルマではない。
 そもそも、麻原という人間と教祖は他から独立して現れたものではなく、麻原も日本で生まれ育ち教育され、弟子・信者と共に大きくした教団が一連の事件を起こしたのであり、それを麻原だけの責任にすることはできないこと。

(3)教団と社会もつながっている
  教団と社会の関係も、麻原が説いたように、教団が善で、社会が悪であるといったような善悪二元論で説明されるべきものではなくて、両者は相互に関連して存在しており、そもそもが、教祖も信者も全ては日本人であり、どこまでが教団で、どこからが社会か、という境界が実在するわけではない。

(4)仏教的な悟りは一元論的な世界観の理解である
 仏教的な悟りを考える場合でも、自分と他人は相互に依存しあって存在している、という縁起の法に理解に基づいて、自と他を区別して、自分を他より愛するエゴの心の働きを超越することが、その要の修行となること。

(5)全ての人に仏性がある
 大乗仏教の教えに従えば、仏性(=将来仏陀になる可能性)とは、全ての人々・生命体が有しているものであり、麻原のような特定の人物だけにあるものではない。それ故に、私たちの本質的・究極的な帰依の対象は、特定の人物に限定されるべきものではなく、仏性を有する全ての衆生に対して向けられるべきであること。

(6)他の悪業は、自己の反面教師である
 他人と自分が別個ではなく、自分とつながっているという認識に立てば、類は友を呼ぶという経験則が語るように、他人の悪行を見ても、怒ったり、批判したりする前に、それは自分にもある(ないしは潜在する)と考えて、反面教師として内省するべきである。

(7)全ての人が導き手であり、感謝・奉仕の対象である
 こうして、全ての人々は、皆が仏性を有しており、自己の教師・反面教師として学ぶことのできる存在であるから、全ての人々を導き手と考えて感謝するように努め、その幸福のために奉仕するべきであること。

 この考え方は、この時期に完全に固まっていたのではないのですが、少なくとも、この時期には、気づいていた考え方だと思います。

 ただし、仏教の修行は、単に理論を理解するのではなく、それを体得することです。それは、頭の中だけでなく、感覚的、生理的な要素も含まれます。そして、この時点では、代表派の中で、仏教的な一元思想の理論が展開されたとはいえ、心身に浸透していたとは言えません。

 その体得は一朝一夕にできるものではなく、一生努力し続けなければなりませんが、ここに、この2005年の時期から、2007年に至るまで、アーレフからの脱会・独立が遅れた理由があるのではないかと思います。

■神社仏閣・聖地を訪問し始める

 さて、活動を始めた代表派は、他の思想家や著作に触れるだけではなく、教団の施設の枠組みから離れて、一般に聖地と言われる場所を訪れることになりました。その中には、長野県の諏訪や戸隠といった、古来からの霊地・修行場があります。

 諏訪は、諏訪大社、諏訪湖などで有名ですが、上祐代表らのグループは、2005年の初め、未だ雪の降る季節の頃、諏訪を訪問しました。

 訪問の直前に、上祐代表は、とても神聖な意識状態を体験し、心身が、エネルギーに満たされていくのを感じましたが、その直前に、上祐代表は、善悪二元論的な考え方を否定しているという内容を教学していたので、神聖な意識は、これと深い関係があると感じました。そして、代表派から新団体ひかりの輪となっていく中で、これは、非常に重要な教義の一部となりました。

 また、諏訪を訪問した際は、諏訪大社の各社、守矢山、小袋石、守矢資料館といった重要なスポットを訪れるとともに、諏訪湖の湖畔を歩く修行や、湖畔でキャンプをして瞑想する修行をしました。

 当時は、まだ相当に寒い時期だったので、多少の苦行のようになりましたが、上祐代表は、大きな意識の広がりを感じる体験をしたり、美しい虹の雲を見たりといった体験をしました。

 また、代表派は、長野県の戸隠にも、よく訪れました。戸隠は、名前としては戸隠神社と言われますが、歴史的には、山岳仏教・修験道の聖地です。戸隠山を聖山としており、上祐代表は、特に戸隠神社の奥社を訪れましたが、そこは、ずっと杉並木が続き、山に登る途中に社屋があります。

 代表派は、昔の山岳仏教の修行者に習って、彼らが歩いた道を自分たちも歩いたり、瞑想したりしました。また、雪が降る季節にも訪問し、雪が腰の高さまで積もっている中をかき分けて歩いたり、防寒服に身を包んで夜間もキャンプしたりしました。

 特に奥社と呼ばれるところは、代表派の多くのメンバーにとって、エネルギー・霊気が強い場所であり、心身の状態を改善するにはとても良いところだと感じられました。なお、ここでも美しい虹を見る体験がありました。

 こうして、教団の外の神社仏閣・聖地、そして大自然との触れ合いは、代表派のメンバーの意識を徐々に、教団だけが神聖であるという価値観から、徐々に解放していったのです。
 
 とはいえ、少なからぬメンバーにとって、この変化は非常にゆっくりとしたものであり、旧団体の価値観との新しい思想・実践の間で、様々な葛藤を伴っていました。そのためもあって、新団体設立のために、オウム・アーレフを脱会するのは、2007年になったことは、先ほども述べたとおりです。

■他の聖者の思想から学ぶ

 また、2005年くらいからは、外部の聖者・宗教家の思想からも学びました。

 その中には、例えば、インド三大聖者の一人とされるラーマクリシュナや、その弟子であるヴィヴェーカナンダらの思想があります。

 特に、ラーマクリシュナが説いた、「他の人に哀れみを垂れるということさえ傲慢な心の現れで、愚かなことであり、全ての人々を神の現れと見て奉仕するべきである」という考え方は、代表派に大きな影響を与えました。麻原といった特定の人物のみ絶対視して、教団外の人々には神性を認めなかった旧教団の教義とは大きく違ったものでした。

 また、弟子のヴィヴェーカナンダの思想や実践も参考になりました。具体的には、彼が、

①ラーマクリシュナを崇める修行を中心としていた兄弟弟子に対して、一般の人々を神の現れと見て奉仕することが、真の悟りの道となると説いたこと、

②その結果として、ラーマクリシュナの個人崇拝に執着する兄弟弟子から反発を受けつつも、それに屈せずに、修行実践の改革を行ったこと、

③インド哲学の中心であるヴェーダンタの不二一元論を重視し、姿形のある対象に対する表面的な崇拝をなくした寺院を作ったこと、

 などがありました。

 また、大本(教)の出口王仁三郎の思想・実践も研究されました。彼は、今でこそ大本の教祖とされていますが、その過程においては、開祖である出口ナオを信奉する開祖派の幹部達と、激しい摩擦を経験した人です。

 開祖派の幹部は、出口ナオの受けた啓示に従って、大本だけが真理であり、大本以外は闇であると信じて、昼間でも、(闇を照らすための)行灯を持って歩くこともありました。さらには、出口ナオの啓示には、いわゆるハルマゲドン・世紀末がすぐやってくるという予言があり、こういった点がオウムの信者とよく似ていました。

 一方、王仁三郎は、大本だけが真理であるなどということはなく、このままでは、大本は世間から狂人扱いされると幹部達に諭しました。開祖派の幹部には、王仁三郎が、開祖の出口ナオを信じていないと見え、王仁三郎に改心を求めたり、王仁三郎には悪霊が憑いたとして批判し、王仁三郎の書籍を焚書にしたり、信者の前で批判したりしました。

 それが無くなるまで、王仁三郎は、教団活動を停止し、教団外部でいろいろな事を学んだり、活動したこともありましたが、長年の間、耐える中で、徐々に王仁三郎の考え方を理解する幹部が増えていったそうです。

 こうして、この王仁三郎と開祖派の幹部の対立は、代表派と反代表派の主張の相違と通じるところがあり、古今東西、宗教というものは、似たような問題を抱えているのではないかという認識が生まれました。

 他にも色々ありますが、こういった他の宗教家、教団、そして、宗教や社会の歴史の勉強は、旧教団を唯一絶対の教団とする従来の見方から、代表派を解放していき、代表派と反代表派の摩擦も、歴史的に度々、宗教団体において、経験されてきた問題であるという認識を与えてくれました。

■麻原の初期の頃の教えを見る

 さて、前に書いたように、代表派が立ち上がっても、しばらくは、依然として、麻原に依存していました。

 しかし、誤解がないようにしておきたいと思いますが、それは、一連の事件を含めて、麻原の全てを肯定するという意味でありません。それを一言で言えば、麻原の中の正しい教えと間違った教えをより分けて、正しいと思われる教えを重視するという考え方でした。

 ここで、間違った教えというのは、麻原が、ヨハネ黙示録の預言の解釈をなして、自分たちの真理の教団が弾圧されるが、ハルマゲドンが起こり、キリストが登場し、真理の国ができるという予言をした、麻原と教団の教えです。それは、くしくも一連の事件(最初の事件は真島氏・田口氏の事件)が始まった 1988年から89年頃から、盛んになってきたものです。

 一方、正しい教えというのは、主に、教団の草創期頃の教えであり、その中には、一般の人が聞けば、「そんなことも麻原が説いたことがあったのか」と驚くような内容があります。

  具体的には、「自分はカリスマにならない」、「自分も弟子達も同じ真我(ヨーガで言う本当の自分のこと)を持っている点で変わらない」、「傲慢にならないために、他人に仏性・神性を認めて、学んで奉仕すべきである」、「様々な生き物は、一つの生命体の中の細胞のような者で関係し合っている」、「(自分の教団だけが正しいという)選民思想はだめだ」といった内容の説法です。

 これらの内容は、先ほど述べた、ラーマクリシュナやヴィヴェーカナンダの一元の思想とも、一致するような内容ですが、こうしたものは実際にあるのです。

 なぜ、麻原が初期においては、このような謙虚な教えを説き、後に変わっていったのかについては推測しかできません。しかし、上祐代表は、宗教家や予言者の研究を通して、最初は良いが、多くの人やお金が集まる中で、(仏教的に言えば、集まった人との業の交換によって)徐々に傲慢になったり、妄想的になったりするという事例があると考えており、宗教を行う者にとって、非常に重要な教訓ではないかと思います。

■麻原の一部の教えを架け橋として活用したこと

 麻原への依存をすぐには脱却するには至っていなかった当時の代表派にとっては、一連の事件に至った麻原の教えとは違った麻原の教えがあったことは、過渡期的な架け橋として、活用することができるものでした。

 ここで言う過渡的な架け橋とは、代表派は、この後、2007年になると、アーレフ教団を脱会して、麻原の教えや教材を全て破棄し、新団体ひかりの輪として完全に自立をするに至りますが、それまでの架け橋であったということです。ただし、2007年の脱会に至るまでにも、段階的には、麻原への依存はなくなっていきました。

 この点に関しての上祐代表の考え方は、麻原に、穏健な教えと過激な教えの2つの教えがあることも、全てはつながっているという一元論的な考え方に基づいて、自分たちの中の二つの心が投影されたものだというものでした。

 よって、麻原の教えの一部を活用したと言っても、それは、以前のように麻原を自分たちとは別の特別な存在であると考えたのではなく、自分たちの善業や悪業の投影として、良い教えも間違った教えも説いた存在として、相対化しています。

 しかしながら、当時の代表派の中には、過渡期にあり、人によって麻原に対する依存の程度は違い、相対的なものですが、依存が浅い人も深い人もいました。そして、一部とはいえ、麻原の教え・教材を使い続けたことは、依然として麻原に対する心理的な依存を残していた証明であることは否定できません。

 また、このころの代表派は、一連の事件に至った麻原の教えを「ヴァジラヤーナ尊師教」と呼び、そうではない上記の教えを「マハーヤーナ尊師教」と呼んだりしました。または、一連の事件に至った麻原の教えについて、それが、麻原をキリスト・救世主とすることから、「尊師キリスト教」と呼び、そうでない教えを「尊師仏教」と呼んだりしました。

■反代表派の批判・攻撃に対して、麻原の説法・言葉を使ったことの反省

 さらに、代表派は、反代表派との摩擦の中で、反代表派による代表派に対する批判に対して反論する中で、代表派の考えなどを肯定するように解釈できる麻原のメッセージ・説法などを活用したことがありました。

 その趣旨は、反代表派が、「代表派の教え・実践は、麻原の教え・意思に全く反したもの」と主張して批判することに対して、反代表派が麻原を絶対視して否定できないことを活用し、「麻原にはいろいろな教え・見方があって、代表派の教え・実践を肯定するものもあり、反代表派の主張は、麻原の教え・意思を一面的にとらえたものだ」という主張をすることでした。

 よって、反代表派とは違って、「代表派の教えや実践こそが、麻原の意思である」という主張をするのが目的ではないのですが、少なくとも、「代表派の教えや実践が、麻原の教え・意思に反しているとは限らない」という主張をすることではありました。

 その中には、先ほどいつくか取り上げたように、代表派の教え・思想と似たものが、特に初期の麻原の説法・書籍にはあるということだけにとどまりません。その中には、麻原の説法やメッセージとして、以下のように、上祐代表が、麻原(や松本家の人たち)から独立して、独立した路線を進むことを肯定するように解釈できる内容のものもありました。

①麻原が、上祐代表が独自路線を容認すると解釈できる説法・メッセージ

 1 教団で(上祐代表などのように)「正大師(大乗のヨーガの成就者)」と呼ばれる高位のステージの者は、麻原から独立して救済活動を行なうことができる、と解釈できる説法・書籍

 2 上祐代表が、(来世において)麻原から独り立ちする、といった内容の説法

②麻原が、教団の多様化を容認すると解釈できるメッセージ

 1 正大師らの話し合いによって、教団を「アーレフ」と「アー」と呼ばれる二つに分けることを示唆したもの。

 2 麻原が、95年の事件当時、石井久子氏や上祐氏を含めた幹部信者に指示して、オウム真理教とは別に、シヴァ大神や麻原を信奉せずに、シヴァ大神などを別名に言い換えて信奉する団体(定かではないが例えば大黒天など)を作ろう、と考えたことがあったこと。

 このような主張は、上祐代表に加えて、当時、反代表派から魔境と批判された上祐代表を積極的に弁護した広末氏らによって、『真実を見る』と題された代表派のブログによって広められました。その中には、今まで公開されなかった内容も色々と含まれており、それに対して、反代表派が、そのブログを見ないようにという指示を信者に出したことは前記の通りです。

 こういった主張の結果として、全体から見れば少数ですが、代表派のメンバーの一部で、反代表派の考え・実践・やり方には強く反発しつつも、麻原への依存は依然として深い人たちの中で、「代表派の考え(こそ)が、麻原の意思である」といった主張にまでエスカレートする場合もありました。

 もちろん、こういった麻原のメッセージや説法に頼った活動は、今から見れば、一時的・過渡的なものであって、人によって時期は違うものの、その後しばらくして、徐々になくなっていきました。

 この、なくなっていく過程として、2006年の末ごろに、代表派の全メンバーを集めた会合で、麻原に対する依存を本当に払拭するために、問題のある教えに限らず、問題のない教えも含めて、麻原の教材を全て破棄することを決定しました。そして、翌2007年3月に、教材を全て破棄し、アーレフを正式に脱会し、新団体を立ち上げるに至りました。

 こうして、一時的にせよ、2007年前の時期において、麻原の教え・メッセージに頼ったのは、代表派の宗教的な力量の不足であったことは明白であり、 しっかり反省しなければならないと思います。しかしながら、その時点での代表派のメンバーの力量・心理状態としては、現実として、やむを得ない流れだったようにも思われます。

■ひかりの輪との関係で、誤解がないようにしておきたいこと

 さて、時系列的な総括からは脱線してしまいますが、上記の麻原の説法やメッセージに関して、新団体のひかりの輪との関係で、誤解がないようにしておきたいことがあります。それは、新団体ひかりの輪の創設自体が、麻原の意思に基づくものであり、究極的な麻原隠しではないか、という誤解についてです。

 先ほどは、「正大師のステージの者は、(麻原から)独立して救済活動を行なうことが出来る」と解釈できる説法があるとしましたが、これは、ひかりの輪のように、麻原とその教えを超えて、新しい宗教・思想を広める活動をすることを肯定するものではなく、あくまでも物理的にだけ独立した活動であり、麻原と同じ系統の教えを広めることを意味するものと解釈すべき内容のものです。

 また、「上祐代表が、(来世において)麻原から独り立ちする」といった内容の説法があるとしましたが、これは明らかに来世に関するものであり、今生のことを意味しているわけではありません。

 また、この二つの説法のいずれにも当てはまることとして、麻原の許可や予見があろうとなかろうと、重要なことは、真に私たちが独り立ちしたかどうかだと思います。

 人間や動物の子供が親から独り立ちする場合でも、弟子が師から独立する場合でも、独り立ちというものは、それに踏み切れば、時計の針は逆に回らないように、もはや二度と元には戻らない性質のものです。新団体は、麻原の支配下に戻ることは二度となく、その意味でも、決して麻原隠しではありません。

 また、麻原が、教団が多様化するのを容認し、「教団を「アーレフ」と「アー」と呼ばれる二つに分ける」ことを示唆したり、「シヴァ大神や麻原を信奉せずに、(大黒天などといった)シヴァ大神を別名に言い換えた神を信奉する団体を作ろう」と考えたりしたことがあったことは事実ですが、これも、ひかりの輪とは関係がありません。

 ひかりの輪は、アーレフとアーといった名称は、その団体名に限らず、組織のどこにも用いてはいませんし、また、ひかりの輪は、シヴァ大神などとして、シヴァを最高神・絶対神として位置づけていません。

 ひかりの輪では、最も中心的な象徴仏は釈迦牟尼であり、シヴァ神ではありません。シヴァ神については、単に、ヨーガや仏教の教えを学習する中で、ヒンズーの最高神であるシヴァ、ビシュヌ、ブラフマンという三つの神の一人として位置づけており、「シヴァ大神」などと呼んで、特別視していません。

 また、そのヒンズーの3神の中では、ひかりの輪が重視する一元論と縁の深い、ヴェーダンタ哲学の中で重視されるブラフマンや、釈迦(やラーマクリシュナ) と同体と考えられているビシュヌ神が、ひかりの輪の中では強調されています。なお、シヴァは破壊の神とされ、ビシュヌ・ブラフマンは、それぞれ維持・創造の神とされており、ひかりの輪の特長を表しています。

 また、ひかりの輪では、仏教の教えを学習する中で、シヴァ神が仏教に取り入れられた結果として生まれた大黒天(マハーカーラ、チベット密教では主たる守護神として有名)という神格も排除していません。しかし、それは、あくまで中心的な神格ではありません。

 そして、今現在、ひかりの輪の道場・神殿においては、シヴァや大黒天といった神格の御尊像は取り下げられており、これと関連した真言・瞑想法といった修行法は、一連の教材破棄の流れの中で、回収・破棄の対象としました。

■ひかりの輪で重視している神仏の系統:ひかりの神

 上祐代表の最近の説法では、ひかりの輪に縁のある神格として、釈迦牟尼、大日如来、天照大神、ビシュヌなどが取り上がられ、それに対して、オウム真理教に縁のある神格として、シヴァ、マハーカーラ(大黒天)、スサノオ、大国主命が取り上げられました。

 前者は、いずれも太陽に関する神の系統です。釈迦は、経典に、太陽族の末裔と位置づけられ、大日如来や天照大神は、名前からして言わずとしれた太陽神です。これが、ひかりの輪の団体名やシンボルマークにある、光・太陽・虹といったものと通じています。

 後者は、前者とある意味で対極的な位置づけがあり、それは、陽と陰、光と闇の両極ということもできます。シヴァは破壊の神であり、大黒天(マハーカーラ) は姿形が黒・闇のイメージであり、スサノオ・大国主命は、現世の王である天照大神とは違って、冥界の神の性質を持っています。

 もちろん、これらの後者の神仏は、多くの宗教・宗派で尊ばれていますから、ひかりの輪が、旧教団とは正反対に、これらの神を悪神として排除しているのではありません。しかし、ひかりの輪の力点が、その名のごとく、ひかりの神、太陽神の系統にあるということです。

 そして、実際に、ひかりの輪の道場・神殿・祭壇においては、この系統の神の御尊像が飾られており、関連する真言・瞑想法などの修行法が指導されています。

【7】「2006年初頭~夏、新団体構想の発表へ」

 2006年になると、その1月に、観察処分の更新が決定されました。これは、教団の中で、いわゆる反代表派を中心とした麻原回帰と言われる現象が進んでいましたので、当然の結果だったと思います。

 教団内部では、経済状態の悪化を一因とした代表派と反代表派の話し合いは、結果として不調に終わり、教団の分裂が決定的となっていました。そして、反代表派は、代表派を組織的・経済的に切り離すために、世田谷烏山の物件を解約して、別の物件に移ることを検討したりしていました。

 さて、この年の3月は、様々な意味で、大きな変化が起こった時期でしたが、まず、上祐代表自身の宗教性に大きく影響を与えることが起こりました。

■聖徳太子ゆかりの寺を巡って

 上祐代表ら、代表派のリーダーの一部は、以前から、聖徳太子に関心があり、この時期に、京都や奈良の太子ゆかりの仏閣を巡りました。

 最初は、聖徳太子の伝説で、聖徳太子が空を駆ける馬に乗って行ったところが、上祐代表らが訪れた聖地と偶然にもよく一致していたことなどから、関心が高まりましたが、その後、より深く調べる中で、太子の宗教・思想に共鳴していきました。

 それは、①太子が、神道が中心だった日本に仏教を重視して、導入した立役者の一人であり、神仏習合という異宗教の融合が生まれる始まりとなったこと、②和を持って尊しとなす、という教えを説いたことなどです。

 ひかりの輪では、「和を持って尊しとなす」とは、単に、人々の和合を説くに限らず、釈迦の説いた悟りの道である中道に関係するものと解釈しています。

 和という言葉は、平和という意味に限らず、中庸という意味がありますが、釈迦の中道とは、快楽にも苦行にも偏らない中道(中庸)の道を意味します。また、「和」は、(ひかりの輪の)「輪」にも通じ、全てが輪のようにつながり、一体である、という仏教的な思想とも関連します。

 他にも、太子の教えの中で共鳴したことは、「人を神として祭ってはいけない」と説いたことがあります(とはいえ、後世の人は太子を神格化していますが)。 また、前に述べた戸隠近くある、日本最古の秘仏を祭る善光寺にも、太子ゆかりの伝説があり、代表派が重視する神社仏閣には、太子との縁がよく見られ、親近感を感じるようになっていきました。

■弥勒菩薩像との出会い

 さて、この2006年3月に、代表派のリーダー達は、奈良や京都の太子ゆかりの寺を訪ねました。そして、上祐代表をはじめとする代表派のリーダーの中で、少なからぬ人たちが、その寺の一つに安置された、有名な国宝の弥勒菩薩像を見たときに、大きな感銘を受けるということがありました。

 これは、精神世界に慣れていない一般の人には、わかりにくい表現になってしまうかもしれませんが、私達なりの表現をするならば、その仏像に、神聖なエネルギーを感じたということです。

 この体験は、上祐代表らにとって、非常に重要なものとなりました。というのは、オウムの修行者の多くは、精神世界や宗教の体験のない一般の人にはわかりにくいかもしれませんが、いわゆる「神聖な霊的エネルギー」というものに対するとらわれがあります。

 そのため、麻原やオウム以外のものに神聖なエネルギーを体験するということがなければ、それらに対する依存から抜け出す上での障害となるからです。この霊的なエネルギーとは、理論ではなく、一種の生理的な感覚であり、密教やヨーガの修行者になると、こういった神秘的な体験を重視する(悪く言えばこだわる)面があります。

 そして、時には、自分が神聖なエネルギーを感じると、それだけで、その対象を神聖なものだと思いこんでしまう場合もあります。実際に、オウムの信者の中には、一連の事件があっても、麻原のエネルギーは神聖であるから、元教祖は間違っていないと考える人が少なからずいます。

 霊的な修行の体験・経験がない方は、こういった話には当惑されたり、ばかばかしく思われたりするかもしれません。確かに、冷静に考え見ると、それは全く信者の個人的・主観的な体験であって、麻原に神聖なエネルギーを感じない人が、信者のように感じる人よりも、この世の中には多いのですが、教団にはそれを感じた(感じてしまった)人が多く集まっていました。

■霊的な体験を絶対視しない原則を学んだこと

 そうした個人的・主観的な体験で、殺人事件を起こした人物の善悪を判断してしまうことは、冷静に客観的に考えれば全く不合理なことです。しかし、人間は誰しも自分が第一という心理がありますから、自分自身が、普通はなかなかできないとされる霊的な経験をすれば、自己のプライドも相まって、教祖に関する霊的な体験を過大視・絶対視する傾向が生じたのではないかと思います。

 そういうタイプの人たちに重要なことは、麻原やオウム教団以外において、この世の中には神聖なものが少なからず存在するという実体験である場合が多いのです。実際に、反代表派は、麻原に対する帰依がなくなれば、彼らが信じるところの神聖なエネルギーのラインが断たれてしまうと、よく主張していました。無智によるものとはいえ、こういった現実があります。

 なお、ここで誤解がないように申し上げますが、信者の中で麻原に関連して霊的な体験をしたという事実を持ち出すことで、麻原を肯定する趣旨は全くありません。私たちの趣旨は、こういった霊的な体験は、世の中にままあるにもかかわらず、免疫がない人が多いため、そういった体験を過大視・絶対視してしまう傾向があるので、注意するべきだ、というものです。

 そして、この考えを世間に広く伝え、私たちのような過ちを犯す人が少なくなるように努力することが真の贖罪につながり、逆に、これらの事実を隠蔽してしまうと、一定の霊能力や超能力を発揮するタイプの人たちを過大視・絶対視して、過ちを犯す人たちが、後を絶たないのではないか、と心配しています。

■オウムの霊的な体験は仮の体験であったと思われること

 時系列的な総括からは脱線してしまいますが、ここで、麻原と旧教団が得意とした、クンダリニーヨーガを中心とした、霊的な体験についても総括しておきたいと思います。

 代表派の総括のための調査・研究の中では、麻原の修行の指導をしたインドヨーガのグルにも、麻原やオウムについて質問することがありましたが、彼によれば、

①完全な解脱に至っていなくても、(ヨーガの専門用語でいう、アナハタ・チァクラのレベルでも)、いわゆる超能力が身につくことがある。麻原は、このレベルであった。

②ヨーガの身体操作の行法を実践した場合、その人の精神が、本質的には浄化されていなくても、一時的には浄化された状態となり、サマディを含めた深い瞑想体験が生じる場合がある。これによって傲慢になる恐れがある。麻原は、この行法に非常に熱心であったが、その意味で、行法に偏っていた。

 実際に、オウムが、相当に激しいヨーガ行法を使って、信者に霊的な体験をさせていった経緯があるため、この指摘が当てはまる可能性があると思われます。そして、実際に、そういった霊的な体験は、激しい行法を行なう集中修行の時が最高潮であり、それから離れると低減していくものでした。

 そして、日本の宗教界においては、麻原とオウム真理教は、霊的な体験をさせる点において、非常に目立っており、簡単に海外には行けない多く人たちにとって、麻原やオウム以外は見えてこなかった面もあると思います。ヨーガ・密教の本場であるチベットやインドならば、違ったのだろうと思われますが、1980年代前後の日本では、霊的体験に免疫のない人たちが、麻原とその霊的体験を過大視・絶対視し、麻原を絶対神の化身として受け入れてしまったのだと思います。

■弥勒菩薩像から学び取った真の救済者の姿勢

 さて、上祐代表らは、弥勒菩薩像に接しながら、単に神聖なエネルギーだけではなく、重要な思想・教えを学び取りました。

 それを具体的に言えば、弥勒菩薩像は、麻原と様々な意味で対称的な性格を持っていました。麻原は、人間であり、闘争的で、自己を神の化身、キリスト・王と位置づけ、武力によって20世紀のうちにも自分の真理の国を作ることを救済としました。

 一方、弥勒菩薩像は、人間ではなく、自然の木から作られたもので、1000年以上も何も語らず、静かに参拝する人を見守り、見た人に平和のイメージを与えています。そして、そのお寺での説明に感じたことですが、自己を未完と自覚し、天界で修行しているという謙虚さや、56億7千万年という時を待って、人々を救済するといった忍耐を有したものです。

 そして、この対称性は、救済者とは何か、救済者とはどうあるべきかという重要な問題に関係しており、結論としては、麻原の現したマイトレーヤ=救世主には、真実の救済者としては、著しい偏りがあって、それを改めてバランスをとるものが、弥勒菩薩像が与えるマイトレーヤのイメージである、というものでした。

 具体的に言えば、

1. 歴史を見ても、人が理想を掲げて世直しを目指す場合には、麻原に限らず、自分が善であり世の中が悪と見えることがあるが、その考え方は、傲慢の罠に陥る危険があり、麻原のように、(自分が社会に弾圧されているといった)被害妄想や、(自分は全くの正義であり救世主であるといった)誇大妄想に陥り、暴力・闘争を悪を正すための唯一の解決手段と誤って考える状態に至る可能性があり、その結果は、大きな破滅・自滅が待っている。

2. そうではなく、他人や世の中が悪く見えたとしても、一元論的な思想に基づいて、その悪は自分にもあると考え、他人を反面教師として、まずは、自己を改める努力をなすべきであり、こうして率先して自分を変える努力をしてこそ、自分と繋がっている他人を導くことができるようになり、こうした辛抱強い努力こそが、暴力・武力に勝る、大いなる力となる、

 というものでした。

 上記の考え方は、上祐代表らが、様々な聖者・宗教家の教えを検討した結果の部分もありますが、それだけでなく、弥勒菩薩像や、その材料となった大自然について、思索・瞑想しているうちに考えついたことでした。

 弥勒菩薩像は、1300年もの間、じっと動かず、辛抱強く衆生を見守り続けており、その仏像の材料となった木々を含めた大自然は、人類の営みをじっと見守り続け、その成長を見守っているとも解釈できると考えたのです。

■反代表派の中にも、大きな変化が始まる

 さて、2006年3月には、もう一つ別の大きな変化がありました。それは、村岡達子氏や村松孝子氏といった反代表派の幹部が、反代表派を離脱して、中間派に転じるという事態でした。

 これによって、反代表派は、中堅の幹部(師)においては多数であるものの、最高幹部(正悟師)については、二ノ宮氏1人だけとなりました。逆に言えば、野田成人氏、杉浦実氏、杉浦茂氏、村岡達子氏の4人は、その後は、教団の中で、中間派と位置づけられ、中間派は、反上祐派が支配している主だった教団活動からは、実質上、排除される結果になります。

 さて、村岡氏等が離脱した背景には、その後、表面化していく麻原の家族の中での意見の対立がありました。それは、麻原の四女(識華氏)と、三女(麗華氏)や母親の知子氏の間の対立でした。

 当時17歳の識華氏は、社会への融和を重視する考えを持っており、反上祐派の考えを持つ三女や母親の行動に反発して、松本家を出て、村岡氏らと個人的に接触したところ、村岡氏らも、それに共鳴して、反上祐派を離脱した、ということです。

 すなわち、教団の中で反上祐派が分裂を始めたわけですが、その背景として、松本家の中でも分裂が始まった、ということです。

■松本識華氏について

 この2006年3月の時期に限って言えば、松本識華氏は、反代表派を批判し、代表派に好意的であり、代表派のメンバーも、少なからず、彼女と接触したことがあります。その時点では、まだ麻原への愛著を残しつつも、やはり社会性を最も重視するという点で、代表派の考えと似ているように見えました。

 その後、識華氏は、2006年の夏頃に、松本家から自立するために、江川紹子氏の助けを求め、家族に対する裁判を起こして、翌年の2007年に入って勝訴し、正式に、江川氏が彼女の後見人になります。

 ところが、その前後から、識華氏の考え方は、非常に不安定なものになったようです。未成年の個人の問題ですから、詳細を述べるのは控えますが、江川氏もホームページで述べているように、彼女は、その母親や姉に反発する姿勢においては一貫しているものの、それと父親の麻原自身に対する愛著・信仰を乗り越えているかは別の問題でした。

 代表派のメンバーの一部を含めて、一時期、いろいろな人が彼女を説得しようとしたことがありましたが、功を奏さず、2007年の夏頃に、彼女は、江川氏のもとを去り、江川氏は後見人を降りる事態となりました。

 なお、ごく最近(2008年3月)になって、一人になった彼女が麻原と家族を批判する内容の記事が週刊誌に掲載されました。未成年のことですから、非常に激しく心が揺れることは不思議ではありません。これで、ついに麻原を乗り越えたのだ、と信じたいところです。

■2006年の半ば、反代表派が代表派を切り離し始める

 さて、2006年の3月から4月には、反代表派と代表派の代表者の間で、悪化が続く経済問題を話し合う会合が開かれました。この会合には上祐代表も出席が認められました。

 反代表派は、代表派を教団内のグループとしては認める代わりに、代表派グループを経済的に切り離して(反代表派グループが支配する教団の経理から代表派を切り離して)、自分たちの経済状態の回復を図ろうとしていました。

 また、これよりも前から、反代表派の信者の一部には、魔境である代表派とは一緒の施設に住みたくないとか、代表派が含まれている教団の活動のためには布施したくないという要望もある、と反代表派の幹部は主張していました。

■代表派の新団体の構想

 一方、代表派の方では、反代表派との接点が見いだせない中で、アーレフ教団から離れて、麻原から脱却した新たな団体を作り、独自の道を歩くことを考え始めていました。

 その背景としては、代表派の宗教活動は、段階的にではありますが、麻原から自立していく傾向のものとなっていたことがありました。また、代表派から見ると、一連の事件を総括・反省しないなど、相当に反社会的な面のある反代表派の教団運営の方針が変わるためには、少なくとも相当な時間が必要だろうという認識が固まっていきました。

 このような反代表派と代表派の考えから、反代表派(中間派含む)と代表派の居住区域を分別し(住み分け)、さらには、代表派の会計を独立させる(経済分離)を行うことで合意し、それを7月までに完了することになりました。

 そして、その合意と前後して、2006年5月半ばには、上祐代表が、教団内の出家信者(反代表派含む)に対して、直接、新団体を設立する構想や趣旨について、説明しました。

■教団と松本家の関係について

 なお、この頃、上祐代表は、会議において、教団による松本家に対する多額の援助(松本知子氏の描いた宗教画に対する使用料の支払い)については、現在の状況を考えると、社会の理解を得られず、問題になるだろうと考えました。

 そこで、反代表派に対して、繰り返してその取りやめ、ないしは、経済的な理由によって取りやめることができない場合には、松本家からその事情の説明を受けるように求めましたが、麻原とその家族に対する帰依を背景として、反代表派の理解は得られませんでした。

 しかし、7月には、警視庁が、松本家および周辺関係者を強制捜査する事態が発生し、それに伴う報道において、反代表派の教団から松本家に多額のお金が流れていることが公に報道されて、批判される事態となりました。
 
 その中で、松本家への絵画使用料の支払いの問題も批判されたので、今度は、中間派の野田氏や村岡氏が、反代表派の執行部に再考を求めましたが、それも受け入れられることはなく、依然として、彼らは、松本家への支払いを続けている状態にあるようです。

 そうしているうちに、8月になると、松本家から家出をしていた四女の識華氏が、麻原から正式に自立するために、江川紹子氏を後見人とする裁判を提起し、「家族は教団と関係ないと嘘をついて、教団を支配しており、信者に貢がせて贅沢な生活をしている」等と述べ、事態は悪化し続けていきました。

■代表派の新しいセミナー

 さて、代表派は、2006年のゴールデンウィークと夏休みの大型の連休に、恒例のセミナーを行いました。こうしたセミナーを繰り返す中で、代表派は、段階的に、麻原からの自立するための諸条件を固めていきました。

 例えば、2006年のゴールデンウィークのセミナーでは、旧教団が重視していた、麻原の唱えた真言(マントラ)や、麻原のエネルギーが込められたとされる「甘露水」と呼ばれる水などに替わる、新しい真言や聖水が生まれました。

 具体的には、チベット密教などの儀式などで伝統的に用いられている神聖な音を出す法具を大々的に使用し始めました。様々な法具があり、それぞれ違った音を奏でますが、聴いて心地よいもの、心を静めるもの、深い瞑想状態に導くものなどがあります。新団体では、この神聖な音を出すとされる密教の法具を「聖音法具」と呼んで、様々な儀式や瞑想修行の際に用いています。

 また、最近は、合計すると数十種類にも及ぶ法具の音や波動を用いて、心身を浄化する「聖音波動」と呼ばれる儀式や、録音した聖音をサラウンド再生環境で回転させたり、シンセサイザーによる効果音とミックスさせたりして、それを聞く人の心身を浄化する「聖音法輪」と呼ばれる儀式も、行ない始めました。

 そして、密教の聖音法具を使って、心身を浄化することを「密教ヒーリング」と呼んでいることは、サイトの別のテキストにもある通りです。この結果として、麻原の真言・マントラは全て破棄しています。

 さらに、密教の聖音法具の聖音によって浄化された水を聖音水と呼んで使用しています。そして、オウム時代の甘露水は一切破棄しています。

■夏のセミナーで、聖地巡礼を行なう

 さて、2006年の夏休みのセミナーは、聖地巡礼ツァーと銘打って行われ、団体始まって以来、日本の聖地や神社仏閣を巡る旅となりました。代表派のリーダー達が、それまでの数年の間に訪れて、色々な体験や勉強した縁のある聖地を選びました。

 最初は、長野の諏訪・戸隠・善光寺に行き、その後、乗鞍を経て、京都・奈良を回りました。乗鞍では3000メーターの高地からご来光を見て、大自然に投影された如来の慈悲の光を感じました。京都は弥勒菩薩像を皆で参拝しました。そして、最後が、奈良の吉野山(修験道の総本山で有名)でした。

 さて、新団体のシンボルマークには、虹色が使われているように、上祐代表の宗教的な転機となった2002年の7つの虹の体験をはじめとして、代表派・新団体のメンバーは、聖地などで、不思議と虹を見る機会が多くありました。

 そして、上記の聖地巡礼でも、その最後に訪れた奈良・吉野において、セミナーを終了した直後に、虹が現れるという体験をしました。解散直後というタイミングの良さに、皆が大喜びでした一幕がありました。

 なお、聖水の話のところでも書きましたが、新団体は、いわゆる神秘的な体験や、偶然の一致にしては不思議な体験をしたとしても、旧団体のように、それを安直に教祖の神格化や絶対視に結びつけることはしません。それは、人は条件が整えば、体験することがあり得る、人間としての自然な現象の一部と位置づけています。

 また、そういった体験が現実として存在するにもかかわらず、その存在自体をはなから無視する傾向がある旧来的な物質主義、物心二元論、古典的な科学などにも賛成しないというスタンスを取っています。
 
 虹のような現象は、今のところ、精神医学者であるカール・ユングなどが唱えた、シンクロニシティ(意識と外界の出来事が共鳴する現象で、意味のある偶然の一致とも言われる)の範疇に属するものだ、と考えています。

【8】「2006年秋~2007年、アーレフの脱会と新団体設立へ」

■新団体の設立を公言する

 2006年の夏が終わり、秋になると、代表派は、ゆっくりとではありますが、新団体の設立の準備に入っていきました。それが加速したのは、同年9月に、松本智津夫死刑囚の死刑判決が確定した際に、上祐代表が、テレビ生出演をした時でした。

 その出演で、上祐代表は、麻原と旧教団の一連の事件に関して、このサイトで述べているように総括し、麻原を払拭した新団体を目指すことを明言しました。

■麻原に対する依存から脱却する上での葛藤

 その前後にも、聖地・自然でのセミナーを出家信者や在家信徒と繰り返しながら、その機運を徐々に形成していきました。

 この頃は、幹部の合宿なども行いました。その中には、深く根付いた麻原への依存を脱却するうえで苦労している者もいました。また、麻原への依存は無くなる一方で、宗教的な実践自体に、やる気を失う人も出てきました。

 実際に、2006年から2007年にかけて、この辺の意識転換における様々な問題は、一言では表現しがたいものがありました。

■麻原の教材の一切の破棄する決定

 さて、10月から11月にかけて、新団体に向けた、旧団体の教材破棄に関する話し合いがなされました。

 話し合いの当初は、新団体において、麻原が作成した教材でも、麻原個人の信仰に結びつくものでない教材でなければ維持しても問題ないのではないかとか、麻原ではなく、旧教団のスタッフが作成したものならば問題ないのではないか、といった意見が出ていました。

 しかし、話し合いが進むにつれて、自分たち自身の依存を断ち切るという意味や、自分が変わったことを理解してもらうためには、麻原をはじめとする旧教団が作成した教材は一切破棄するべきであるという考え方に、皆がまとまっていきました。

 そして、2007年の2月末をもって教材を破棄する改革を実行することに決定しました。

 言い換えるならば、この時期より前においては、まだまだ、麻原の教え・教材に依存している面が依然としてありました。これは、アーレフ代表派と、ひかりの輪との違い、ということができるでしょう。

■年末年始のセミナー

 そして、年末年始セミナーが行われ、この際は、出家信者と在家信徒が合同でセミナーを行うことになりました。

 巡礼する聖地には、京都の弥勒菩薩、観音菩薩、釈迦如来などの仏像で有名な寺院と、天照大神をまつる伊勢神宮が選ばれました。前に、弥勒菩薩像について書きましたが、この観音菩薩像や釈迦如来像にも、代表派の信者の多くが、それぞれの良さを感じたようでした。

 1000体もの観音菩薩像が立ち並ぶ寺院は、神聖で壮大なものであり、釈迦如来像にも、透明感のある神聖なエネルギーを感じた人が少なからずいました。

■新団体の象徴仏:釈迦、弥勒、観音

 なお、ひかりの輪では、釈迦牟尼を中心として、弥勒菩薩と観音菩薩を脇に置いた、釈迦三尊像が、祭壇に飾られていますが、2006年の夏と年末の聖地巡礼を通して、この三仏が、新団体の中心的な象徴仏として、固まっていきました。

 なお、ここで象徴仏という特別な言葉を使ったのは、以前述べた、「神聖な象徴物」と言う概念と関係しています。すなわち、象徴仏とは、私たちの中の仏性・ 慈悲の心を引き出す象徴としての仏、という意味です。その意味で、観音とか弥勒といった菩薩が実在しており、それを絶対として信仰しているという意味ではありません(そもそも、それは科学的に証明できることでありません)。

 しかし、古来から、仏教徒をはじめとして、多くの人々にとって、この三仏というものは、人々の仏性・慈悲といった神聖な意識を引き出してきた象徴であるということは事実であり、それをそのまま受け止めたものです。

 最初に、この三仏の概念が固まり始めたのは、奈良吉野の修験道の総本山である金峯山寺を訪れる前後でした。金峯山寺のご本尊は、修験道開祖の感得した金剛蔵王権現と呼ばれる三体の仏像ですが、これは、釈迦、弥勒、観音の三仏の権現(化身)であって、その三仏は、現在、過去、未来の三世の仏陀として位置づけられています。

■2007年3月アーレフを脱会、そして新団体の設立

 さて、年末年始セミナーが終わった段階で、上祐代表は、3月頭に脱会して、5月連休セミナーまでに新団体を立ち上げることにしました。

 依然として、教団全体を見れば、万全の準備ができているわけではないものの、2月に教材の破棄を終えることになっていたこと、新団体の早期の立ちあげを待ち望む人が少なくないこと、そして、様々な社会的な状況を勘案したものでした。

 そして、3月7日付で、代表派の出家信者が集団でアーレフを脱会し、被害者賠償を行う破産管財人や公安調査庁への報告、地域住民への説明会、記者会見などを行いました。

 また、在家信徒は、その後、集団で脱会を始めました。出家信者は、この前後に旧団体の総括と反省を行う出家信者の全体会議などを行いました。

 さらに、2007年の5月のゴールデンウィークの連休セミナーの際に、新団体「ひかりの輪」の設立の手続きや儀式を行なって、2008年4月の今日に至っています。

【9】「総括・反省の追加事項」

 上記の時系列的な流れの中では、総括するのが難しかったいくつかの点について、以下の総括しておきたいと思います。

■裏表のカルマについて

 すでに総括したように、アーレフ体制は、表向き、事件の反省、賠償の推進、松本信仰の否定を表明しましたが、裏では全く違っており、その意味で、全くの裏表の体制でした。

 これと関連して、アーレフ時代は、以前の事件と比べると軽微ながらも、捜査当局に立件された刑事事件を見ると、裏表、嘘、騙す、詐欺、といった性質のものが少なくありませんでした。

 こうして、暴力行為という身のカルマはなくなったが、本当の意味で反省はしていないことからくる問題があったと思います。


■軽微とはいえ、残存した違法行為

 アーレフ時代には、当局が捜査したものを含めて、オウム時代のような重罪ではなく、いわゆる微罪といわれるような違法行為がありました。

 もちろん、オウム・アーレフでなければ、立件はおろか、捜査さえもされないような類のものもあり、その捜査だけを取り出せば、不公平・不公正・不適切な面がありますが、しかし、公安当局の目的は、過去の事件の再発防止のための教団活動の抑制であるから、(変な被害者意識を持つことなく、自業自得の一面があると正しく)理解する必要があると思います。

 実際に、そういった微罪捜査は、最近、ひかりの輪になってから、めっきりと減りましたが、これは業が変わってきた結果によるものではないかと思います。

 この点については、団体内で、違法行為のリストを作って、その払拭の申し合わせを複数回の会議に渡って行いました。

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