第1回 38歳、ゼロから再挑戦

車いすの戦い

38歳になるやす なおきは車いすの戦いを続けている。いまは車いすフェンシング日本代表の指定強化選手として。かつては車いすバスケのトップ選手だった。中学生のころ、左足の股関節に病気を発症した。そのとき受けた手術ミスで股関節が曲がらない後遺症が残った。ふさぎ込む安に家族が勧めたのが車いすバスケだった。国内リーグで頭角を現した安は、2004年のアテネ・パラリンピックに出場。07年から3年間、日本人として初めてイタリアのプロリーグで活躍した。帰国後は音楽大手エイベックスと雇用契約を結んだ。出勤の必要はなく、日々、練習に打ち込める「夢のような世界」だった。20年以上、人生のすべてをバスケに注ぎ込んできた。しかし、年齢とともにその実力にも陰りが見え始めてきた。

車いすバスケットボール時代のやす なおき。筋力トレーニングを強化し、今より体重が7キロ多かった。コピーライトavex challenged athletes

車いすバスケットボール時代のやす なおき。筋力トレーニングを強化し、今より体重が7キロ多かった©avex challenged athletes

継続か引退か

12年のロンドン・パラで、安は代表争いに敗れた。若手選手が台頭し、体力的にも限界を感じていた。「どうするんだ?」エイベックスの担当者が安に迫った。「日本代表にこだわるのもいいけど、今のままだと評価は難しいよ」年俸は競技成績や将来性が加味される。結果を求める会社の方針と合わず、辞めていった選手もいる。担当者は「パラ競技を福祉ではなく、五輪に並ぶスポーツに作り上げるのが最終ゴール」とその狙いを明かす。このままバスケを続けるのか、引退するのか、それとも競技を変えるのか――。1年以上、安は悩み続けた。「車いすバスケに出合って立ち直れたし、成長することもできた。それを辞めるのは相当な覚悟が必要だった」結論はバスケは引退するが、アスリートであり続けることだった。

真っ暗なトンネルを抜けての動画(音声が含まれています)

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年俸、3分の2に

「俺はまだやれる。ほかの選手に負ける気がしない。そう思えるうちはどんな競技でも挑戦し続けたい」安には第一線で活躍してきた自負があった。バドミントンやアーチェリー、自転車。あらゆるパラスポーツを経験するなかで手応えを感じたのがフェンシングだった。「子どもの頃のチャンバラのように純粋に楽しいなと思えた。真っ暗なトンネルを進むなかで、ようやく光をつかんだ気がした」安は昨年3月、車いすフェンシングの選手に転向した。年俸はバスケ時代の3分の2に減った。だが、安は「むしろ燃える。年俸はこれから上げていくだけ」と前向きだ。「やれるものならやってみろ」。エイベックスの担当者もあえて安を挑発する。口調は厳しいが、根底にはアスリートへのリスペクトがある。「世界のトップで戦ってきた選手。忍耐力が違う」

車いすフェンシングのルール解説の動画

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全く別の種目

車いすバスケと車いすフェンシング。「車いす」の上でプレーするのは同じだが、使い方は全く異なる。車いすフェンシングはコートを動き回ることはなく、車輪はピストと呼ばれる競技台に固定されたままだ。競技者は体や剣を使って攻撃をよけ、胸や腹部など相手の上半身を狙う。安は「車いすの操作は自信があったが、役に立たない。使う筋肉も違うし、全く別の種目」と笑う。健常者のフェンシングと同様、フルーレやエペ、サーブルの3種目からなり、剣やマスク、ユニホームなども同じものを使う。だが、フットワークが使えない上、1メートルほどの近距離で戦うため、一瞬で勝負が決まることが多い。安は「相手との駆け引きや読み合いがだいご味。バスケ時代と違ってパワーだけでは押し切れない」と語る。障害の程度に合わせて腹筋のあるカテゴリーAと、その機能がない重度のカテゴリーBに分かれている。安はカテゴリーAの選手だ。車いすフェンシングに転向してわずか1年。日本の代表選手に成長した安だが、目の前には課題が山積していた。(向井宏樹)

京都合宿で、車いすフェンシングの仲間と練習するやす なおき

京都合宿で、車いすフェンシングの仲間と練習するやす なおき

=敬称略