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記事 22件
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第11回 政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.744 ☆

    2016-11-30 07:00  
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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第11回 政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ【不定期配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.30 vol.744
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第11回をお届けします。先日のドナルド・トランプが当選した米国大統領選挙で、ヒラリー陣営は政治的動員のための「快楽のゲーム設計」を失敗したという議論から、「どこまでをゲームと見做すか」の手掛かりとして、形式と認知による4分類を紹介します。
    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第10回 学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム――【不定期配信】
    ■政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ
     さて、本稿を書き進めている間にドナルド・トランプがアメリカの次期大統領として当選してしまった。トランプが当選したことについては、筆者は単純にショックを受けた。トランプがなぜ当選してしまったのかについて筆者がそれほどたいした説明をできるというつもりもないのだが、トランプの当選に関わって政治運動を「快楽」との関わりから説明できるのではないかという議論が出てきていること。国内のものでは、たとえば宮台真司によるこの論評などはかなり読まれているようだ。トランプの当選が「快楽」の問題としてどこまで説明できるのかは、心もとないが、政治と快楽をめぐる論点についてであれば、筆者がある程度コメントしておくべき点もあるだろうと思うので、本連載の流れから少しだけ脱線して、この問題に触れておきたい。
     さて、宮台による論建ては「政治的な正しさ」の問題と、有権者にとっての「快楽」の問題がそれぞれ独立した問題として成立しており、退潮傾向にある左翼やリベラルの人々が、快楽によって駆動されているトランプ支持者のような人々を「正しくない」と批判したところでそれは、そもそも批判として無効であり、「正しさ」と「快楽」をどのように一致させるかを考えることこそが重要なのだということだった。両者の一致にこそ政治的な動員を考えたときの活路がある、というのが宮台の指摘である。宮台の指摘するとおり政治において重視されてきたはずの「正しさ」という点から、トランプは確かに大きくかけ離れた大統領候補だった。その意味で、この宮台の指摘は説得的なものであると言ってよいだろう。
     トランプの問題に特定しなければ、このような論点自体は目新しいものではない。宮台に近い国内のジャーナリスティックな社会学の文脈に限っても、宮台の弟子である鈴木謙介による『カーニヴァル化する社会』でも類似の論点が取り扱われているし、塚越健司『ハクティビズムとは何か』でもアノニマスによる社会的活動がネットの「祭り」と近い関係にあることが述べてられている。そもそも拙著『ゲーミフィケーション』で冒頭にとりあげたオバマの2008年の選挙活動の事例は、まさにアメリカ大統領選において、いかにゲーム的な楽しさが政治的動員を駆動させる一翼を担ったかということを紹介することからはじめたものだった。
     さて、では政治的動員にとって快楽が重要なキーとなってきている時代になりつつあるというのは重要なのかどうか?改めて整理すれば、快楽について考えることが重要な時代になっていることそれ自体は事実だろう。ただ、政治が快楽を用いることが、いかなる意味で望ましいことであるかについては安易なコメントは差し控えたい。そして、より踏み込んで言うのであれば「どのような快楽」を重視するかという問題に言及をすべきだろうと思う。
     それは「快楽」であれば、問題が解決するわけではないからだ。
     
     *
     
     考えるに、政治をめぐる快楽の問題にはジレンマが内包されている。そして、おそらくこのジレンマ自体はおそらく二〇世紀にもすでに存在していたものだ。これを解説するために、小熊英二『社会を変えるには』からの記述を参照してみよう。
     小熊によれば、1968年ごろに起こった大学の占拠について、当時のバリバリの左翼学生(セクト)は実際のところなぜ、そんなに運動が盛り上がったのかほとんど理解できていなかったようだという。「それまで政治に無関心そうだった学生たちがいきなり集会を開いてバリケードを作り始めている。聞いてみると、授業がつまらないからとか、マルクス主義にも革命にも関係ない」[1]という状況があったそうだ。つまり、68年の全共闘運動が広がった背景には、「正しさ」によって動員された学生が大量にいたということではなく、「快楽」によって動員された学生が大量にいた、ということだ。そして、自由参加・自由脱退が基本である全共闘という枠組みでは、こういった学生を受け入れるだけの幅の広さがあった。
     ただし、この68年ごろの「快楽」には大きな問題が発生する。
     一時的に全共闘に加わり、別にそれほど気合の入った左翼というわけでもなかった学生たちは、お祭り気分で盛り上がっていた。しかし、このお祭り気分での盛り上がりは所詮お祭り気分での盛り上がりでしかないため、大学を占拠して泊まり込んでドキドキしている最初の一ヶ月は楽しいものの、次第に飽きて、人が去っていく。
     そうなったときに残ったのは結局、68年以前からのバリバリの左翼のメンバーで、彼らは、にわかで運動に加わった学生とは違い、いざというときにはしっかりと動いてくれる[2]。バリバリの左翼たちは、活動をしっかりとやるという意味では、頼りがいのある中心的なメンバーとして機能していたが、運動の目的が「革命」というところだったゆえに、大学闘争をしても大学側との妥協が残るような交渉はせず、バリケードに立てこもって出口のない戦略をとってしまう。
     こうしてお祭り的なノリでついてきたにわか左翼の学生たちも去り、バリバリの左翼の運動も結実することのないまま68年の運動は終わりを迎えてしまう。
     
     ここまでが小熊による全共闘運動の経緯の要約である。小熊はこの後でも「運動に飽きる」という問題をどう考えるかという論点にふれているのだが、思うに、ここで発生していた「快楽」には全く種類の違う二種類のものがあるように思う。にわか左翼の学生の快楽と、バリバリの左翼の学生が保っていた快楽の中身である。この両者の快楽は連続してはいるものの、それぞれに少し質の異なるものだ。本連載ですでに触れた分類でいえば「遊び」と「ゲーム」の違いとしてしばしば整理されがちなもの[3]だが、それは「党派を超える快楽」と「党派の内側のための快楽」という形で整理しなおしてもいいかもしれない。
     本連載の第一章で述べたことを雑にまとめれば、前者は単純な逸脱をともなうことの中に喜びを見出すものであり、後者は、複雑なルールを生きることのなかに喜びを見出すものだ。党派を超え「にわか」を生み出すような爆発力のある、特別なお祭り的な快楽というのは、往々にして、なにかいつもと変わったこととして見出される。それは「いつもと変わっている」ということ自体に価値がある。
     一方で、党派の内側、組織の内側で機能する快楽というのは、しばしばゲーム的な快楽――まさに、いま本連載で扱っている「学習説」的な説明があてはまりやすいような快楽――とされやすいものの範疇である。そのありようというのは「いつもと変わっていること」ではなく、「繰り返していくこと」の中に見出されていく快楽である。似たようなことを繰り返し、それに上達し、戦略を洗練させ、風景が少しずつ変わって見えていくそのプロセスのなかに生まれる快楽がそれだ。遊びやゲームに関わる、快楽はしばしば「非日常」のことだとみなされがちだが、そんなことはない。
     日常的に運動を「続けていく快楽」と、非日常としての運動に「にわかに参加する快楽」は、まったく別の快楽なのである。
     そもそも別の快楽なのであるから、「続けていく快楽」の内側にいる人間は、「にわかに参加する快楽」を覚えている人間が何を楽しんでいるのかを理解するための想像力を失いがちだし、逆もまた然りである。

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  • 【特別収録】水口哲也 『Rez Infinite』が切り開く仮想現実の地平 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.743 ☆

    2016-11-29 07:00  
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    【特別収録】水口哲也 『Rez Infinite』が切り開く仮想現実の地平
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.29 vol.743
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは、ゲームクリエイターの水口哲也さんによるVR論をお届けします。10月13日にリリースされた『Rez Infinite』は、発売間もないPSVRのポテンシャルを引き出した最初のタイトルとして話題を呼んでいます。初代『Rez』から15年、積年のヴィジョンを実現するテクノロジーがついに現れたと語る水口さんが見据えている、VRの本質とその巨大な可能性とは?
    ▼プロフィール

    水口哲也(みずぐち・てつや)

    レゾネア代表 / 米国法人enhance games, CEO
    慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(Keio Media Design)特任教授
    ヴィデオゲーム、音楽、映像、アプリケーション設計など、共感覚的アプローチで創作活動を続けている。2001年、「Rez」を発表。その後、音楽の演奏感をもったパズルゲーム「ルミネス」(2004)、キネクトを用い指揮者のように操作しながら共感覚体験を可能にした「Child of Eden」(2010)、RezのVR拡張版である「Rez Infinite」(2016)など、独創性の高いゲーム作品を制作し続けている。2002年文化庁メディア芸術祭特別賞、Ars Electoronicaインタラクティヴアート部門名誉賞などを受賞(以上Rez)。2006年には全米プロデューサー協会(PGA)とHollywood Reporter誌が合同で選ぶ「Digital 50」(世界のデジタル・イノヴェイター50人)の1人に選出される。2007年文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門審査主査、2009年日本賞審査員、2010年芸術選奨選考審査員などを歴任。

    ■「精神の旅」の体験をもたらす「Area X」
     PlayStation VR(PSVR)用の『Rez Infinite』というタイトルが、10月13日に発売になりました。すでにプレイされた方もいるかもしれませんが、『Rez Infinite』の印象を映像で伝えるのは非常に難しくて、体験した人としていない人の間にはかつてない大きなギャップを生んでしまうような、そんな状況になっています。まずはこちらのトレーラーを御覧ください。
    ▲Rez Infinite - Launch Trailer | PS4, PS VR
    このトレーラーを作るときに、皆さんに一体どういった映像を見せれば、『Rez Infinite』の体験が伝わるんだろうかと非常に悩みまして、一番いいのは、プレイしている人の反応を伝えることだと考えて、こういう映像になっています。
    もともと『Rez』という作品は、2001年にPS2・ドリームキャスト向けにリリースしたシナスタジア(共感覚)ゲームです。トレーラーの冒頭に出てくるのは、昔の『Rez』のステージを、PS4用に高解像度リマスターしたもので、4Kまで対応しています。それだけだと面白くないので、いまの技術でできる最高の表現を使ったVRのステージを完全新作で追加しようと考えました。
    『Rez Infinite』の構想は3年半くらい前からあって、最初の2年間は、ずっとアートと音楽を中心にプリプロダクションを続けていました。テーマとしてはパーティクル(粒子)がメインで、それが音楽に合わせて色めいて動く。音楽とパーティクルが混じっていくような3Dのヴィジョンを、共感覚的に体験する。いわば「音を立体的に見る」ことを試みたのが、今回追加した新作のステージ「Area X」です。過去作をリマスターした部分については、「『Rez』がVRになるとこうなるんだ」という感動はあると思いますが、「Area X」では、そこからまったく違う次元に飛び込むような体験ができると思います。

    ▲Rez Infinite ©Enhance Games 2016
    「Area X」では、プレイヤーが周囲をいろいろなものに囲まれています。サイバースペースのウイルスという設定なんですが、それを撃った瞬間に光のパーティクルが目の前でバーンと弾けて、効果音が鳴り、それが連続することで音楽が生成されていきます。パーティクルは効果音に反応して、音を立体視で見るような感覚に陥ります。おそらく、情報のインプットが人間の従来の経験値を超えているために、そこに身体を委ねる不思議な気持ちよさがあるかもしれません。その気持ちの良さに集中できると、音楽と世界が混ざりだし、終盤それが歌になっていきます。最後に女性のイメージ――これはシンギュラリティの象徴としての意味合いを与えているんですが、祝祭的な雰囲気が訪れて「祝福」や「誕生」といったテーマへと導かれる。そんなエンディングになっています。そこまで到達したプレイヤーの多くは「ハァー……なんだこれは……」という感じになって、直後はうまく言葉が出てきません。
    「Area X」を遊び終えた人がよく言うのは、「旅から帰ってきたみたい」という感想で、それが何の旅なのかというのもいろいろあるんですが、祝福の旅とか、禅的な体験や、意識の旅から帰ってきたという感覚を抱く人もいます。ある人は、アイソレーションタンクの中にいる状態と似ていたと言っていました。
    ■『Rez Infinite』を触覚的に感じる「Synesthesia Suit」
    『Rez』が目指してきたテーマを一言でいえば「Synesthesia(シナスタジア=共感覚)」です。これは僕自身が追いかけてきたテーマでもあり、これを実現するためにゲームを作っているといっても過言ではないです。それは、我々がバラバラに存在していると思い込んでいる「映像」や「音楽」や「触覚」といった体験――長い間、人間の知性の進化の過程で、時間をかけて分断されてきた「感覚」というものを、もう一度、統合しようとする試みなんです。

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  • 福原伸治×宇野常寛 テレビはこのまま終わるのか(HANGOUT PLUS 11月21日放送分書き起こし)【毎週月曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.742 ☆

    2016-11-28 07:00  
    540pt

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    福原伸治×宇野常寛
    テレビはこのまま終わるのか
    (HANGOUT PLUS 11月21日放送分書き起こし)
    【毎週月曜日配信】

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.28 vol.742
    http://wakusei2nd.com



    毎週月曜日夜にニコ生で放送中の宇野常寛がナビゲーターを 務める「HANGOUT PLUS」。今回は2016年11月21日に放送された、フジテレビプロデューサーの福原伸治さんをゲストに迎えた回の一部書き起こしをお届けします。
    昨今のテレビはなぜ「寒い」のか。いまだ業界内にはびこる80年代的「内輪いじり」の宿痾、業界改革を促す黒船になるはずだったインターネットの失速など、テレビにまつわる問題の本質について、徹底的に議論しました。


    ▲先週の放送はこちらからご覧いただけます
    PLANETSチャンネルで、J-WAVE 「THE HANGOUT」月曜日の後継となる宇野常寛のニコ生番組を放送中!
    〈HANGOUT PLUS〉番組に関する情報はこちら
    ▼プロフィール

    福原伸治(ふくはら・しんじ)
    フジテレビジョン 報道局メディア担当局長/「ホウドウキョク」プロジェクトリーダー。
    京都大学経済学部卒業後フジテレビに入社。かなり前衛的でエッジの効いた番組を多数演出。テクノロジーと番組を融合した斬新な発想は多くのフォロワーを生んだ。2014年に報道局に異動、2015年4月にマルチデバイスニュースメディア「ホウドウキョク」を立ち上げる。テレビとネットを繋ぐキーマンのひとり。

    「HANGOUT PLUS書き起こし」これまでの記事はこちらのリンクから。

    前回:おときた駿×宇野常寛 小池百合子は東京をどこに連れていくのか(HANGOUT PLUS 11月14日放送分書き起こし)【毎週月曜日配信】

    ※このテキストは2016年11月21日放送の「HANGOUT PLUS」の内容の一部を書き起こしたものです。
    ■ 「メジャー病」の病巣はどこにあるのか
    宇野 まずはテレビの何がダメなのかという話をしたいと思います。
    福原 宇野くんはよくその話をするね。
    宇野 福原さんはダメだと思わないんですか?
    福原 どっちもだよね。ダメなところもあるし、まだまだ大丈夫だと思うところもあるし。一応テレビでご飯を食べている以上、あんまり自分のいるところがダメだとは言えない。でも、やっぱりダメなところはあるかな。
    宇野 どこがダメだと思います?
    福原 まず、あまり時代に寄り添っていないことかな。視聴者というか、世間の人々が何を考えているのか、もっとちゃんと知らないといけないのかなと。
    宇野 僕は逆だと思うんですよね。今のテレビは、今どきテレビを観ているような人に媚びすぎていると思うんです。単純にお金や視聴率のことだけを考えるなら、「昭和の日本人」とマイルドヤンキーを対象にするしかなくて、あえて露悪的に言ってしまうと、情弱を騙すゲームになってしまっている。だから、今ここで変えない限り、テレビで面白いことはできないのではと。
    福原 たとえば、どうしたらいいと思う?
    宇野 お金の取り方を変えるしかないと思いますね。サブスクリプションをどんどん導入するべきだし、受信料を取るのが無理なら、有料に切り替えていくべきだと思う。今は無料のものが面白くないので、面白いことをやりたかったら有料に切り替えるしかないです。
    福原 お金の話でいうと、広告をベースにしている今の民放のシステムは本当によく出来ているんだよね。これはかなり昔に作られたシステムで、そこの仕組みをサブスクリプションに入れ替えていくのは、かなり大変だと思う。
    宇野 当面は二つのラインを平行して走らせればいいんです。マス広告は、情報環境的に今後は無効になっていく古いモデルですが、社会は高齢化しているので、いきなり消すのではなく、ゆるゆると下げていくわけです。そして、まだ余裕があるうちに、サブスクリプションを中心とした課金モデルに切り替えていく。ビジネスモデルの大転換を20年ぐらいかけてやるしかないと思うんですよ。
    福原 それは賛成。CMを観てもらうことが前提の広告モデルとは別の仕組みをどうやって作り出すかは、まさにこれから考えなきゃいけない問題だと思う。サブスクリプションもそうだし、CMのあり方も変えていかなきゃいけないし、いろんなことをハイブリッドに組み合わせないといけないんじゃないかな。
    宇野 ビジネスモデルの転換をしないと、つまらない人が集まる業界になっていくと思うんですよ。僕自身「スッキリ!!」に1年半以上出ているし、その前からNHKの番組に出たりしていますが、そうやってテレビと付き合ってきて思うのは、この業界って基本的に、「鈍感さをあえて演じることが大人だ」というモードになりすぎているんですよね。古市くんモードと言い換えてもいいんですが。僕は彼が基本的に大好きなんだけど、彼が大人受けがいい理由として、今は「メジャー」は成立していないけれど、「旧テレビムラ」「旧戦後中流ムラ」「昭和ムラ」、これらが「限りなくマスに近い大きなムラ」として、かろうじて残っている。ここに照準を合わせているわけです。でも、基本的には「昭和の日本人」とマイルドヤンキーを騙すしかないから、最大公約数的なヌルいものになるんだけれど、それも全て分かった上で「その最大公約数に媚びるのが一番クレバーで大人なんだ」というモードで生きている人がテレビ業界には多すぎる。この態度は、面白くないものを作っている自分への言い訳でしかないと僕は思います。これが一番良くないと思うんですよね。ここを変えるためには、ビジネスモデルを変えないといけないと思うんです。この「あえて鈍感なふりをするのが大人になることだ」というモードを解除しないと、ビジネスモデルを変える動機付けも生まれないと思うんですよ。これはどう思いますか?
    福原 それは何をスケールにするかっていうことだよね。これまでは視聴率がスケールとなっていて、今はそこに録画視聴率がプラスされて、多少変わってきた部分はあるけれど、そういうものをベースにしている限りは、やはり大きくは変わらないというのがある。
    宇野 テレビ局は視聴率を社内の壁に貼り出すのをやめたほうがいいですよね。現状ではそれしか基準がないから仕方ないんですが。電通の人もテレビ局の人も本当はわかっていることなんだけれど、視聴率とCMの広告効果や訴求力って、全然関係がないですよね。
    福原 それはネットになって、かなりディスクローズされているよね。どうすればクリックされるか、どうすれば見てもらえるか。ネットだとすぐわかるけど、テレビはなんとなくざっくりしているわけでしょ。
    宇野 デジタル放送だから、本当はもっと細かい数字を取ろうと思ったら取れるはずなのに、そうするとパンドラの箱を開けることになるのでやらないんですよね。
    福原 どれだけの人間が真剣にテレビに向き合って観ているかは、たぶん今の数字からは出てこないよね。
    宇野 そういった本当は意味のない数字を一生懸命追いかけている状態が、さっき言ったような「あえて鈍感なふりをすることが大人なんだ」と勘違いしたテレビマンたちを増やしていると思うんですよ。視聴率って内部の基準でしかないんですよね。テレビの外側にとっては、実質的な訴求力とか広告効果とかほぼ関係ないわけですよ。視聴率のことを気にしているのは広告業界の人とテレビ業界の人だけ。もっと言ってしまえば、テレビ局間の見栄の張り合いというか、覇権争いと社員ディレクターや社員プロデューサーのボーナスの査定にしか関係がない数字なんですよね。
    福原 でも、よく言われるのは、Twitterでもテレビのツイートはものすごく多いわけで、それこそ今だとドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を放送すると、たくさんツイートされるよね。ネットの世界でもテレビはそれなりに存在感がある。だから一部の人のものだけという風にはなかなか思えない。
    宇野 それはさっきの議論の繰り返しになりますけど、今どきテレビを見ている人たち=昭和のライフスタイルを持っている人たちというのが、未だに日本では最大勢力であるわけですよね。でもそれは、旧来の意味の「マス」なのではなくて、一番でっかい「ムラ」というだけだと思うんです。それは今日よりも明日、明日よりも明後日には縮んでいくものだと思うんですよ。
    福原 確かにシュリンクはしていくと思う。
    宇野 テレビが一番大きなムラであるうちに手を打っておくべきだと、僕は思いますね。そのためには、今のテレビの「鈍感さをあえて演じるのが大人である」という、ある種の「メジャー病」と僕は呼んでいるんですが、この「メジャー病」に罹ってしまったつまらないやつらを排除していくことが大事なんです。そうしないと、出演する側の人間も、特にやりたいことや作りたいものはなくて、単に有名になりたいとか、業界人ぶりたいやつばかりが集まってくるようになると思うんですよ。そのためには、テレビの業界からいかにそういうメジャー病みたいなやつらを放逐していくかが僕は大事だと思いますね。
    福原 でも、大きくなってしまった組織は、変えるのに時間がかかる。そういった昭和的な価値観というか、視聴率が絶対だという人たちの価値観というのは、テレビのいろんなところに染み付いているわけですよ。そういう人たちが偉いポジションにいるので、その人たちが変わらないと価値観は変わらない。組織全体が変わるまでは時間がかかると思うよ。ビジネスモデルを変えていかなきゃいけないというのは、みんな薄々気がついているけれど、そうなると、いろんなものを変えていかなきゃいけない。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第12回 「世界の終わり」はいかに消費されたか――〈宇宙戦艦ヤマト〉とオカルト・ブーム【金曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.741 ☆

    2016-11-25 07:00  
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    京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録第12回 「世界の終わり」はいかに消費されたか――〈宇宙戦艦ヤマト〉とオカルト・ブーム
    【金曜日配信】

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.25 vol.741
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは「京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録」をお届けします。ここからは「戦後アニメーションと終末思想」がテーマ。今回は70年代半ばに第一次アニメブームを起こした『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』におけるSF作品の内実の変化と、『幻魔大戦』に代表される「オカルト」というモチーフの浮上を扱います。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです)
    毎週金曜配信中! 「宇野常寛の対話と講義録」配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第11回 碇シンジとヒイロ・ユイの1995年【金曜日配信】
    ■冷戦下のリアリティと『宇宙戦艦ヤマト』が描いたもの
     今回からは、マンガ・アニメを代表とするオタク系サブカルチャーの想像力とその変質について、戦後消費社会の展開を追いながら話していきたいと思います。
     みなさんは「世界の終わり」という言葉を聞いてどんなことを想像するでしょうか? 
     ……そうですね、痛い感じのビジネス中二病のバンド(SEKAI NO OWARI)のことしか思い浮かばないですよね。
     でも僕が子どもの頃は、「世界の終わり」ってマンガ・アニメの定番モチーフだったんです。「人類最後の大戦争が起こって人間は滅びるんじゃないか」「大戦争によって本当に世界の終わりがやってくるんじゃないか」というイメージがすごく強かった。
     これはなぜかというと、当時は米ソ冷戦の真っ最中だったからですね。どちらも核兵器を大陸間弾道ミサイル(ICBM)に載せていつでも発射できるようにしていて、もしアメリカとソ連が全面戦争になったら報復攻撃の連鎖で世界中が核ミサイルで破壊されてしまうのではないか。そういうイメージに非常にリアリティがあったんです。
     それに加えて、特に1970年代から90年代にかけて「ノストラダムスの大予言」というものが大流行しました。「1999年7の月、空から恐怖の大王が下りてくる」というやつですね。それが日本のオカルト好きの間で広く共有されていて、「恐怖の大王って核兵器のことじゃないのか」と言われていたんです。なんとなく、「20世紀の末に世界は核の炎に包まれて人類は滅亡する」という「世界の終わり」のイメージが若者たちのあいだで共有されていたわけです。今回はそういった終末思想が、サブカルチャーの想像力によってどう描かれてきたのかを扱っていこうと思います。
     また逆に、「なぜ現代ではそういうモチーフが消滅してしまったのか?」という問題も考えてみたいと思います。いまや「世界の終わり」といえば単にビジネス中二病バンドの名前でしかなくなっているわけですが、このモチーフがなぜそこまで陳腐化してしまったかということですね。
     まずはこの作品からみていきましょう。
    (『宇宙戦艦ヤマト』映像再生開始)
     みなさんはこの作品を知っていますか? あ、さすがにほとんどの人が知っているようですね。でも存在を知っているだけで、中身までは知らないでしょう?
     この『宇宙戦艦ヤマト』は、一番最初のアニメブームの起爆剤となった作品です。1974年にテレビシリーズの放映が開始され、そのときはそこまでヒットしなかったんですが、再放送でじわじわと人気に火が付いていきました。
     ここまでの講義でもお話ししてきたとおり、1970年代までアニメって多くが子ども向け番組だったわけですが、『宇宙戦艦ヤマト』はティーンエイジャーから20代の学生、若い社会人に支持を受け、社会現象とも言える大ヒットになった作品でした。そしてこれをきっかけに、70年代半ばから後半にかけて続々とティーンエイジャーから大人をターゲットにしたアニメが制作されるようになっていきます。

    ▲宇宙戦艦ヤマト 劇場版 [Blu-ray] 納谷悟朗 (出演), 富山敬 (出演), 舛田利雄 (監督)
     『宇宙戦艦ヤマト』は――のちに『機動戦士ガンダム』でも繰り返されることですが――全国にファンクラブができて広がっていき映画化もされたんです。

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  • 『君の名は。』――興収130億円でポストジブリ作家競争一歩リード――その過程で失われてしまった“新海作品”の力(石岡良治×宇野常寛)【月刊カルチャー時評 毎月第4木曜配信】☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.740 ☆

    2016-11-24 07:00  
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    『君の名は。』興収130億円でポストジブリ作家競争一歩リード――その過程で失われてしまった“新海作品”の力(石岡良治×宇野常寛)【月刊カルチャー時評 毎月第4木曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.24 vol.740
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    今朝のメルマガは、映画『君の名は。』について、石岡良治さんと宇野常寛の対談をお届けします。コアなアニメファン向けの映像作家だった新海誠監督が、なぜ6作目にして大ヒットを生み出せたのか。新海作品の根底にある“変態性”と、それを大衆向けにソフィスティケイトした川村元気プロデュースの功罪について語ります。(初出:「サイゾー」2016年11月号)


    (画像出典)
    ▼作品紹介
    『君の名は。』
    監督・脚本・原作/新海誠 製作/川村元気ほか 出演(声)/神木隆之介、上白石萌音、長澤まさみほか 配給/東宝 公開日/8月26日
    東京都心で暮らす男子高校生・瀧と、飛騨の山奥の村で暮らす女子高生・三葉は、ある時から、互いの肉体が入れ替わる不思議な現象を体験する。入れ替わって暮らす際の不便の解消のために、別の身体に入っている間に起こった出来事を互いに日記にし、その記録を通じて2人は次第に打ち解けていく。だがある日、突然入れ替わりは起きなくなり、瀧は突き動かされるように飛騨へ三葉を探しに行く。そこで彼は意外な事実を知り──。新海誠の6作目の劇場公開作品にして、まれに見る超メガヒットとなった。
    ▼プロフィール
    石岡良治(いしおか・よしはる)
    1972年東京生まれ。批評家・表象文化論(芸術理論・視覚文化)・ポピュラー文化研究。東京大学大学院総合文化研究科(表象文化論)博士後期課程単位取得満期退学。青山学院大学ほかで非常勤講師。PLANETSチャンネルにて「石岡良治の最強☆自宅警備塾」を放送中。著書に『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)、『「超」批評 視覚文化×マンガ』(青土社)など。
    ◎構成:金手健市
    『月刊カルチャー時評』過去の配信記事一覧はこちらのリンクから。

    前回:『シン・ゴジラ』――日本が実現できなかった“成熟”の可能性を描く、“お仕事映画”としての『シン・ゴジラ』(真実一郎×宇野常寛)

    宇野 まあ、身もふたもないことを言えば、よくできたデート映画ですね、という感想以上のものはないんですよね。本当に川村元気って「悪いヤツ(褒め言葉)」だな、と思わされました。新海誠という、非常にクセのある作家の個性を確実に半分殺して、メジャー受けする部分だけをしっかり抽出するという、ものすごく大人の仕事を川村元気はやってのけた。
     新海誠の最初の作品である『ほしのこえ』【1】は、二つの要素で評価されていた作品だと思う。ひとつは、キャラクターに関心が行きがちな日本のアニメのビジュアルイメージの中で、背景に重点を置いた表現を、それもインディーズならではのアプローチで再発掘したという点。もうひとつは、後に「セカイ系」と言われるように、インターネットが普及しつつあった時代の人と人、あるいは人と物事の距離感が変わってしまったときの感覚を、前述のビジュアルイメージと物語展開を重ね合わせてうまく表現していたところ、この二つです。ただ、それ以降の新海誠は、背景で世界観を表現しようというのはずっと続いていたけれど、ストーリーとしてはそうした時代批評的な部分からは一回離れて、ある種正当な童貞文学作家というか、ジュブナイル作家として機能していた。
     今回、久しぶりに過去作を見返したんですけど、意外とというかやっぱりというか、あの気持ち悪さがいいんですよね(笑)。例えば『秒速5センチメートル』【2】でのヘタレ男子の延々と続く自己憐憫とか、『言の葉の庭』【3】の童貞高校生の足フェチっぷりとか。どっちも女性ファンを自ら減らしに行っているとしか思えない(笑)。でもそんな自分に正直な新海先生が愛おしいわけですよ。1万回気持ち悪いって言われても自分のフェティッシュを表現するのが『ほしのこえ』以降の新海誠作品であり、基本的に彼はそこを楽しむ作家だったと思う。
     それが『君の名は。』では、その新海の本質であるところの気持ち悪さの残り香が、三葉の口噛み酒にわずかに残っているだけで、ほぼ完全に消え去ってしまった。おかげで興行収入130億円を達成したわけだけど、あの愛すべき、気持ち悪い新海誠はどこにいってしまったのか。まぁ、それも人生だと思いますが(笑)。

    【1】『ほしのこえ』(公開/2002年):宇宙に現れた知的生命体を調査する艦隊に選ばれ宇宙へ旅立った少女と、地上の同級生男子の、ケータイメールを通じた超遠距離恋愛を描く。宇宙ゆえに、ケータイという身近なツールで連絡を取り合いながらも、それぞれの過ごす時間がズレていくという設定になっている。新海誠にとって初の劇場公開作品であり(短編)、本作で高い評価を受けたことが現在につながっている。
    【2】『秒速5センチメートル』(公開/2007年):新海誠の3作目の劇場公開作。3話の短編で構成される連作。小学校時代に惹かれ合っていた3人が、転校後も文通を重ねて一度は再会するものの、離れ離れになって時が経ち、思春期を過ぎて大人になり……という長い時間が描かれる。
    【3】『言の葉の庭』(公開/2013年):『君の名は。』の前作にあたる5作目。靴職人を目指す男子高校生が、雨の庭園で出会った大人の女性に惹かれてゆき、2人が近づく過程を描く。

    石岡 僕が新海作品でずっと興味を持っているのは、エフェクトや背景の描写です。彼が日本ファルコム在籍時に作った、パソコンゲーム『イースⅡエターナル』のオープニングムービーは、ゲームムービーを刷新した。この当時から空や背景の描写はとんでもなく優れているんですが、自然に迫る美しさとは違っていて、ギラギラした光線をバシバシ見せつけるような、人工的なエフェクトの世界を高めていくものだった。宇野さんが言った「気持ち悪さ」でいうと背景自体も気持ち悪いというか、その方向へのフェティッシュも濃厚でした。なぜ彼の作品が童貞文学的になってしまうかというと、圧倒的な背景描写に対して、キャラクターをあまり描けなくて動かせないからなんですよね。でもその結果、豊かな背景を前に、キャラクターが立ち尽くす無力感が背景そのものに投影されて、観る人はそれに惹かれる仕組みがあった。
     一方で今回は、キャラクターがよく動く作画でありながら、新海監督には由来しない別の気持ち悪さが生まれていると思う。去年この連載で『心が叫びたがってるんだ。』を取り上げた時、田中将賀【4】さんのキャラデザは中高年以上を描けないんじゃないか、という話をしましたよね。『君の名は。』も田中さんなんだけど、作画監督・安藤雅司【5】の力によって、三葉の父親や祖母はさすがにうまく描かれていた。だけどその代わりに、日本のアニメーター特有の病というか、演出的にはいらないはずのシーンでついパンチラを描いているあたりには、また別種の気持ち悪さがあるんじゃないか。

    【4】田中将賀:アニメーター/キャラクターデザイナー。『とらドラ!』や『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』シリーズのキャラクターデザイナー・作画監督を務める。
    【5】安藤雅司:アニメーター。『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』などのジブリ作品や、『東京ゴッドファーザーズ』『パプリカ』など今敏作品ほか、数々の人気アニメ作品の原画・作画監督を務めている。


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  • 更科修一郎 90年代サブカルチャー青春記〜子供の国のロビンソン・クルーソー 第2回 秋葉原・その1【第4水曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.739 ☆

    2016-11-23 07:00  
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    更科修一郎 90年代サブカルチャー青春記〜子供の国のロビンソン・クルーソー第2回 秋葉原・その1【第4水曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.23 vol.739
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    今朝のメルマガは〈元〉批評家の更科修一郎さんの新連載『90年代サブカルチャー青春記~子供の国のロビンソン・クルーソー』の第2回をお届けします。
    中国人観光客で賑わうオタクの街・秋葉原。80〜90年代のパソコン黎明期から大きく様変わりした街並みを眺めつつ、日本のサブカルチャーの母体となった、「文系文化」としてのコンピュータの記憶を語ります。
    ▼プロフィール
    更科修一郎(さらしな・しゅういちろう)
    1975年生。〈元〉批評家。90年代以降、批評家として活動。2009年『批評のジェノサイズ』(宇野常寛との共著/サイゾー)刊行後、病気療養のため、活動停止。2015年、文筆活動に復帰し、雑誌『サイゾー』でコラム『批評なんてやめときな』連載中。
    本メルマガで連載中の『90年代サブカルチャー青春記』配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:更科修一郎 90年代サブカルチャー青春記〜子供の国のロビンソン・クルーソー 第1回「湾岸・有明」
    ■第2回「秋葉原・その1」
     夏の終わり、総武線のホームに降り立ち、眼前のミルクスタンドでかずさ牛乳を飲んで、降りていく。
     電気街口の改札を出ると、柱や外壁のデジタルサイネージが、次々と新刊の漫画やライトノベルの広告を映し出していて、目が眩む。
     駅舎から通りに出ると、新旧入り混じった光景が広がっている。
     ラジオセンターの猫の額のような隙間には電子パーツの専門店がいくつか残っており、昭和の匂いを漂わせているが、アキハバラデパートやラジオ会館は建て替えられた。代わりにオタクコンテンツ専門の百貨店(?)や外国人観光客向けの免税店が無造作に立ち並んでいる。
     さて、末広町側へ歩くのは何年ぶりだろうか。
     秋葉原がオタクの街と呼ばれるようになって20年以上経っているが、筆者が秋葉原へ行くのは、仕事の打ち合わせだけだ。あとは、年に数回、「秋葉原以外の繁華街を知らない」知人と飲む時だ。どちらも昭和通り側のヨドバシAkiba周辺で済んでしまうので、電気街口から出ることはない。
     電気街口が街の玄関であることに変わりはないが、2005年、電気街口の反対側にあった日本鉄道建設公団の土地にヨドバシカメラが建ったことで、人の流れはずいぶんと変わった。00年代に入り、秋葉原から電気街としての本来の役割は失われつつあったが、一般的な家電を買い求める客は新設された「中央改札口」を通り、かつては裏側であったヨドバシAkibaへ向かってしまう。
     そのため、本来の電気街は、完全にオタクの街──ジャンクなサブカルチャーの街になっている。もちろん、歩けば他の要素もあるはずだが、メディア上でのパブリックイメージはそういう街になっている。
    ■■■
     中央通りへ出ると、交差点で中国人観光客の集団がバスから降りて、免税店の開店時間を待っていた。
     もっとも「爆買い」自体は一段落しつつあるし、当て込んで「爆買い」仕様にしていた銀座の百貨店は閑古鳥が鳴いているのだが、秋葉原はその点に於いて、老舗で大衆的で安定している。
     そして、かつての電気街の記憶はこの光景にだけ残っている。
     白物家電の売れ筋は電気炊飯器と温水洗浄便座と聞いたが、知人は「中国人はなんでそんなものばかり買うのだろうか」と首を捻っていた。
     電気炊飯器や温水洗浄便座は日本独特の事情によって進化した商品で、中国で入手することは困難だ。コピー商品はあるだろうが、特殊な進化を辿っているから、忠実に真似ることは難しい。
     だからこそ日本で買っていくのだが、電圧は違うし、水質も悪いから、結局、早々に故障してしまう。修理するか、買い直すか――日本製品を買った中国人観光客はどちらを選んでいるのだろうか。
     なんで、そんなことを知っているのかというと、十年ほど前、海外で暮らしていた筆者の家族が、ハイアールの冷蔵庫を買ってきたことがあるからだ。ゼネラル・エレクトリックの冷蔵庫が壊れたのだが、半年後に帰国する予定だったから、繋ぎのつもりで買ったのだ。
     ところが、三ヶ月で壊れてしまった。
     当時の印象は「販売力に技術力が追いついていない」で、なるほど、ハイアールが三洋電機を買収したのは当然の成り行きであった。
     その後、故あって長期滞在していたビジネスホテルのコインランドリーでハイアールの洗濯機を使っていたが、何の問題もなかった。まったく同じモデルの新旧品が三洋とハイアールのロゴで並んでいたのだから、当たり前だが。

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  • 大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回 三島の終焉 その美的追求によるパフォーマンス原理(後編)【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.738 ☆

    2016-11-22 07:00  
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    大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回 三島の終焉 その美的追求によるパフォーマンス原理(後編)【不定期連載】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.22 vol.738
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    今朝のメルマガでは大見崇晴さんの連載『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回の後編をお届けします。
    あまりに有名な三島由紀夫の最期、市ヶ谷駐屯地での割腹自殺に目論まれたパフォーマンス的な意図とは。遺作『豊穣の海』の虚無的な結末や、晩年の異常ともいえる切腹への執着から、三島の「死とエロティシズム」の思想を明らかにします。

    ▼プロフィール
    大見崇晴(おおみ・たかはる)
    1978年生まれ。國學院大学文学部卒(日本文学専攻)。サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動、カルチャー総合誌「PLANETS」の創刊にも参加。戦後文学史の再検討とテレビメディアの変容を追っている。著書に『「テレビリアリティ」の時代』(大和書房、2013年)がある。
    本メルマガで連載中の『イメージの世界へ』配信記事一覧はこちらのリンクから。

    前回:大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回 三島の終焉 その美的追求によるパフォーマンス原理(前編)

     ここで一旦、これまでの議論を振り返ることとしよう。
     三島由紀夫はノーベル賞を逃して以降、強烈に(俗流的な解釈ではあるが)バタイユに惹かれていた。その結果として禁止の設定とその違犯を骨格に据えた作品を多く生むことになる(本人がインタビューで明言したものとしては、日本演劇史屈指の名作とされる「サド侯爵夫人」がある)。
     『豊饒の海』四部作もまた、同様に禁止と違犯を確認し続ける物語である。主人公がおり、禁止を犯しては死に至るが転生し、それを本多繁邦なる人物が観察し続けることで成立する奇妙なクロニクルであるのだ。違犯するものは時代ごとによって異なる。明治末を描いた第一部『春の雪』は、宮家(天皇家)への違犯である。昭和初期を描いた第二部『奔馬』は体制への違犯(血盟団事件や二・二六事件を連想させる)である。戦中から戦後まもなくの日本を描かず、なぜかタイに舞台を移すのだが、第三部『暁の寺』は同性愛という当時における禁止(この場合は女性同士)が描かれる。この第三部は明確に歪な作品であり、小説の半分が継続されてきた転生物語なのだが、もう半分は作者・三島にとっての仏教観として読めるものなのだ。
     のちに「小説とは何か」の中で第三部に触れて「私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつた」と述べ、「最終巻が残つてゐる。『この小説がすんだら』といふ言葉は、今の私にとつて最大のタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することがイヤでもあり怖ろしい」と三島自ら禁止を自己演出してみせる。この場合実行される違犯は明らかに自殺である。その口吻とは裏腹に三島由紀夫は第三部の完了とともに、自刃に向けて猛スピードで準備を整えていく。
     そして第四部である。描かれるのは作品と同時代の昭和四十五(一九七〇)年である。ここでは禁止は描かれない。ただ、これまで延々と観察されてきた転生物語が、観察者・本多の単なる妄想に過ぎないという荒廃した結末だけが待っている。転生者を名乗る「透」なる青年も本多の資産目当ての狡っ辛い人物として描かれ、物語には救いはない。あたかも、これまで執拗にも反復されてきた禁止と違犯の物語が徒労であったかのように、スカスカな終焉を向かえる。
     かのように、見える。しかし、『天人五衰』という小説の末尾には下記年月日が記されている。

    「豊饒の海」完。
    昭和四十五年十一月二十五日

     この一点において三島は虚構である『豊饒の海』と現実の行動とを切り結ぶ。この日付が記されたその日に、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地に森田必勝ら楯の会を引き連れ、人生最後の日を迎えるのだ。現実を虚構が侵食しだす。違犯が実現するとすれば、現実においてないというわけだ。
     ところで、三島由紀夫は中村光夫との対談で行動について次のようにやり取りをしている。

    三島 しかし文学者は、生きていて自分の作品行動自体を行動化しようというのは無理だね。ぼくはそういうことをずいぶんいろいろ試みてみたけれど、ただ漫画になるばかりで、何をやってもだめですよ。
    中村 そういうことはないでしょう。
    三島 というのは、生きている文学者が自分の作品行動と自分の何かほかの行動とが同じ根から出ているのだということを証明することがとてもむずかしい。(中略)それを証明しようと思って躍起になればなるほど漫画になるのはわかっているけれど、死ねばそれがピタッと合う。自分で証明する必要はない。世間がちゃんと辻褄を合わせてくれる。
    (『人間と文学』所収「行動と作品の『根』」)

     三島自身が語る悪戦苦闘ぶりからもわかるとおり、『天人五衰』の末尾に記された日付とは「行動と作品」を世間が辻褄を合わせる最後の一手なのである。この日付があるだけで、のちに鳥肌実や後藤輝樹によってパロディされてきたパフォーマンスを記憶に残せたのである。

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  • おときた駿×宇野常寛 小池百合子は東京をどこに連れていくのか(HANGOUT PLUS 11月14日放送分書き起こし)【毎週月曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.737 ☆

    2016-11-21 07:00  
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    おときた駿×宇野常寛 小池百合子は東京をどこに連れていくのか
    (HANGOUT PLUS 11月14日放送分書き起こし)
    【毎週月曜日配信】

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.21 vol.737
    http://wakusei2nd.com



    毎週月曜日夜よりニコ生で放送中の宇野常寛がナビゲーターを 務める「HANGOUT PLUS」。今回は2016年11月14日に放送された、都議会議員のおときた駿さんをゲストに迎えた回の一部書き起こしをお届けします。
    都議会でも数少ない「小池派」議員として、積極的に小池都知事の支援を展開しているおときたさんと、築地市場の豊洲移転やボート競技施設の問題など、小池都知事が進めている改革の本質、小池劇場で加熱するマスメディアの問題について議論しました。


    ▲先週の放送はこちらからご覧いただけます
    PLANETSチャンネルで、J-WAVE 「THE HANGOUT」月曜日の後継となる宇野常寛のニコ生番組を放送中!
    〈HANGOUT PLUS〉番組に関する情報はこちら
    ▼プロフィール
    おときた駿(おときた・しゅん)

    東京都議会議員(北区選出)/北区出身 33歳
    1983年東京都北区生まれ。私立海城高校・早稲田大学政治経済学部を卒業後、LVMHモエヘネシー・ルイヴィトングループで7年間のビジネス経験を経て、現在東京都議会議員一期目。ネットを中心に積極的な情報発信を行い、日本初のブロガー議員として活動中。都政の専門家として、ニュースやワイドショーにも多数出演。著書に「ギャル男でもわかる政治の話」がある。

    「HANGOUT PLUS書き起こし」これまでの記事はこちらのリンクから。

    前回:白井宏昌 × 宇野常寛 リオ・オリンピックを総括する――興行と都市設計の視点から(HANGOUT PLUS 11月7日放送分書き起こし)

    ※このテキストは2016年11月14日放送の「HANGOUT PLUS」の内容の一部を書き起こしたものです。
    ◼︎ 小池百合子は何を狙っているのか
    宇野 小池劇場が始まってから3ヶ月ほど経ちましたが、小池都知事の応援団長として、ぜひ中間報告をお聞きしたいです。いかがですか?
    おときた ここまでのことをやるか、というぐらい詰め込んだ、怒涛の3ヶ月間でしたね。最初の100日が重要ということは、本人もおっしゃっていたので、その通りにやってきたなと思います。
    宇野 就任直後からこんなにカードを切ってくると思いませんでした。いつの間にこんなに準備していたんですか?
    おときた 前回の都知事選からでしょうね。舛添さんが選挙に出馬したとき、本当は小池さんも出たかったんですよね。その頃から虎視眈々と都知事の座を狙っていて、東京区内での衆議院議員として、ある程度、政策の準備をしていたみたいですね。しかも、石原伸晃さんや内田茂さんを敵に回して絶好の形を作れたっていう。「してやったり」だったと思います。
    宇野 この100日間、都議会議員として小池派でいるのは、問題の渦中にいるということだと思うんですが、どうでしたか?
    おときた 我々は最大与党だと自分たちで言っているんですが、実は都議会議員127名のうち、たった3人の与党なんですよ。それでも、都庁職員からメディアまで、対応が変わりましたね。今までは塩対応で、都庁の職員なんか「先生、先生」と物腰は慇懃ですけれども、「それはできないんですよ」「これは都政に馴染まないです」と、行政用語を使いながら騙そうとしてきたんですね。でも今は、とにかく何かやらなければならないという感じで、少しでも改善しようとしてきますね。メディアの対応も、自民党には常にくっついている「自民党番」がいるんですが、私にも「おときた番」ができたわけですよ。
    これが与党になるということなのか、と思いました。
    ◼︎ 豊洲移転問題や東京五輪問題の本丸とは?
    宇野 メールも頂いています。

    こんばんは。おときたさんは以前は2期目の当選は難しそう、 とブログで仰っていたかと思うのですが、 最近のメディア露出等から勢いを見るとそんなことないんじゃないかな、と思えてしまいます。ところで、東京都は、小池百合子都知事が就任し、 あっという間に豊洲新市場と東京オリンピックの問題が政局化し、 いずれも、都民の生活に影響をどう帰着させるか、の方針が見えてくる前に責任者を叩いて、都庁、 そして都議会という、『伏魔殿』 と形容しやすいような組織の頭を押さえ込むことの方が先決、 とでも言わんばかりの事態が進行しているように見えます。東京都政の行く末はどこにあるのでしょうか? 教えて頂ければ幸いです。(ビスちゃんぽん 32歳)

    おときた 幅の広い質問ですね。
    宇野 今は膿を出すことに集中しすぎているきらいはありますよね。
    おときた 情報公開が非常に遅れていたのは確かですね。ガバナンスも適当なんですよ。「処分ありきだ」という批判も確かにあるんですが、責任者を処分しなければどうしようもないですよね。僕としては、そこは理解を示したいですね。
    宇野 僕がメディア側の人間として問題だと思うのは、豊洲移転や「盛り土」なんてどうだっていいわけですよ。「盛り土」だろうが地下室だろうが、汚染水を防げればなんだっていいんです。問題は、全く不透明な、はっきり言ってしまえば談合があったとしか思えないような状況で、膨大な予算を投入した一大プロジェクトが進行しているということなんですよね。でも、そこが表立って問題化されていないのはメディアの怠慢だと思うんですよね。
    おときた 本丸である「盛り土」問題は、ひょうたんから駒のように出てきた話で、最初は小池さんも知らなかったわけですよ。共産党さんが発見してやる気になっていた話で、もともとは共産党が月曜日の朝イチで発表する予定だったんですよ。「すごいことを発表するぞ」と言っていて「なんだなんだ」となっていたんですが、先走って金曜日に喋っちゃったんですよ。それで一気に話が回って小池さんの耳に入って、小池さんが土曜日に記者会見を開いたので、あたかも小池さんが発見したかのようになったんですね。
    宇野 あの「盛り土」問題が変にバズワードになったせいで、本来の問題である「どう考えても談合しているだろ」という部分が隠れている気がするんですよね。
    おときた ただ、これはある意味、想定の範囲内というか、これから談合に切り込んでいったときに、誰が出てくるかといえば、前石原都知事のラインと都議会の内田茂さんのラインが、完全に見えてるんですよね。これはいつ出すのかという問題で、例えば年末とか年明けくらい、都議会議員選挙がもうちょっと近くなってから、しっかりとそこに取り組んでいけば、また改革の風が吹くんじゃないかと思います。
    宇野 五輪のボート競技施設の問題も全く一緒で、あれも最終的には、最初の海の森水上競技場でやることになる可能性が高いと思っています。ベストではないかもしれないけれど、それなりにベターな選択肢ではあるのでね。でも、そのときに「あれだけ大騒ぎして、結局、東京でやるのかよ」となってしまうのが心配なんですよね。だから、そこは小池さんは「これは膿を出すためにやっていることであって、結果的に会場を移さず東京でやることになったとしても、会場を決める過程では明らかに不正があったんだよ」ということを、カードとしてなるべく早めに切るべきだと思う。
    おときた 五輪の費用が高騰していく理由は、人件費や資材費だけではないんです。ボート競技施設の問題では、結局、海の森水上競技場になる可能性は高いんですが、それでも長沼という候補地を出したことで、いきなり200億円も安くなったわけです。それは積まれていた70億円の予備費を切ったからなんですが。
    宇野 予備費が70億円って何に使うんだよ(笑)。
    おときた 完全にゼネコンが懐に入れるための70億円なんですよ。それを積んだ奴がどこかにいる。その犯人を明らかにして有権者の理解を得ていかないといけません。都政はこんなふうにシロアリがたくさん巣食っているんですよね。
    宇野 膿を出す作業は、最後までやりきることが大事で。手錠をかけられる人が2〜3人出るくらいまでやらないと、逆に小池さんがやられちゃうと思うんですよね。

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  • 【特別対談】片渕須直×のん(能年玲奈)『この世界の片隅に』をこの世界の隅々に!(後編) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.736 ☆

    2016-11-18 07:00  
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    【特別対談】片渕須直×のん(能年玲奈)『この世界の片隅に』をこの世界の隅々に!(後編)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.18 vol.736
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    今朝のメルマガでは、11月12日(土)に公開となった映画『この世界の片隅に』の監督・片渕須直さんと、声優として主人公すず役を演じるのんさんの対談の後編をお届けします。
    後編では、物語後半に、主人公・すずが陥った困難な境遇を、のんさんと片渕監督がどのように咀嚼し、演技と映像に落とし込んでいったのか。作品の舞台となった呉を訪れたときの印象。登場人物のネーミングの秘密などのお話を伺いました。 
    ※本記事には作品内容のネタバレ情報が含まれています。映画を未見の方はご注意ください。
    ▼特別ビデオメッセージ
    片渕監督とのんさんからビデオメッセージをいただきました!

    ▼プロフィール
    片渕須直(かたぶち・すなお)

    アニメーション映画監督。1960年生まれ。日大芸術学部映画学科在学中に宮崎駿監督作品『名探偵ホームズ』に脚本・演出助手を担当。『魔女の宅急便』では演出補を務めた。監督作に『名犬ラッシー』、『アリーテ姫』、『ACECOMBAT 04』ムービーパート、『ブラック・ラグーン』『マイマイ新子と千年の魔法』、NHK復興支援ソング『花は咲く』短編アニメーションなど。
    のん

    女優、創作あーちすと。1993年7月13日生まれ。趣味・特技、ギター、絵を描くこと、洋服作り。オフィシャルブログ

    ©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
    ▼ストーリー
    1944(昭和19)年2月。18歳のすずは、突然の縁談で軍港の街・呉へとお嫁に行くことになる。新しい家族には、夫・周作、そして周作の両親や義姉・径子、姪・晴美。配給物資がだんだん減っていく中でも、すずは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。
    1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの艦載機による空襲にさらされ、すずが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。
    そして昭和20年の夏がやってくる―。
    11月12日(土)八丁座、広島バルト11、T・ジョイ東広島、呉ポポロほか全国公開。
    http://konosekai.jp/◎取材・構成:中川大地
    ◎写真:金田一元・ホリーニョ
    本記事の前編はこちらから!
    ■「日常」が喪失していく物語の転調

     ©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
    ―――ここからは、公開から1週間経って映画をご覧になった人も増えたかと思うので、物語後半の展開についてもお伺いしていきたいと思います。戦争がどんどん進んでいって、呉への空襲が始まって、防空壕とかに逃げ込むようになって、それでどんどん爆弾が落ちていく。そんな、最初は非常事態だった出来事が、それ自体がだんだん日常になっていく感じになるじゃないですか。
     そうやって前半に積み重ねていったすずさんの日常が別の何かに置き換わっていって、ついにすずさん自身の大切なものも失われていくという、劇的な展開に徐々になっていくわけですね。そのあたりは、どのように役作りをディレクションされていたのかな、と。
    片渕 なんだろう。ディレクションっていうことで言うならば、あの辺までくるとシチュエーションがものすごいハッキリしてくるので、そのシチュエーションを正確に再現していけば良いかなという感じだったので、こちら側から補うことはほとんどなかった気がします。
     興味から言うと、右手がない人の声を演じるのって、演じる側としてはどういう意識だったのかなとかなあとかは思いますけどね。なんか突きつけたぞ、今(笑)。
    のん ……また難しいことを! うーんと、そうですね。うーん、はっきりした意識ではなくて、漠然と納得できないっていう思いが渦巻いていて。で、晴美さんに自分が着いて行ったのにっていう申し訳なさとかも、もちろんすごくあるんだけれど。なんだろう、根本的にもう、そういう状況になってしまっているっていうこと自体に悔しくなっている。
     自分の右手がないっていうのとかは、その納得できない、悔しさの思いの象徴みたいな……なんだろ。すごくここから逃げたいっていう思いが強くなっていったのかなという風に感じました。

    片渕 前編の話題で、役を演じることには自分が自分でなくなっちゃう怖さがあるって僕言ったじゃないですか。それは、右手がないっていうことの感覚とちょっと似ているような感じがして。右手を失ってしまうすずさんを描こうと思っているうちに、なんだか本当に自分が右手のない人になるみたいな感覚があった。
     それは単純に物理的に右手がなくなるということじゃなくて、その瞬間にやっぱりすずさんが別のものに変えられちゃったような気がするんですよね。今までのすずさんの普通が普通でなくなってしまうという意識が、僕の方ではすごく強くあったような気がするんですよ。
     でも、すずさんは広島から妹のすみちゃんが尋ねてきたら、普通に「よう来たね」って言ってしまうという、それまでにもあった二面性が、ものすごく極端になっていく……みたいな。それが、あの「歪んどる」というようなセリフに結びついていくのかな。だから、すみちゃんが来た場面では、たしか「本心ではない感じで演ってくれ」みたいなことをのんちゃんに言ったような気がします。
     で、声を収録した後に絵の方の表情も描き直したりしてるんだけど、作画監督の松原秀典さんが最後まで悩んで描いていたという。すみちゃんが来た時に、どこで表情が変わってニコッと笑うのか。それまでは自分の右手がないことについて「あの時、これこれこういうことをした右手が……」って感じで落ち込んでいたのに、妹が来た瞬間にすずさんは微笑むんだよね。その微笑む瞬間がどこかっていうのは、声の方も絵の方も、結構難しいことだったような気がするんですよね。

    のん ああ……。なんか私が思ってたのは、「この人に会った時にはこういう自分がいる」っていう意識だった気がします。「この人にはここまで見せていい」みたいな感じで、すみちゃんといるときのトーンと、径子さんとか周作さんといるとき、水原さんといるときとか。表に出てくるものは全然普通で、ほとんど変わらないように見えるんだけれど、なんだろう。使っている部分が違う。自分の中の使っている部分が違う……というか。そういう感覚なのかなあ、とは思ってたんですけれど。
    片渕 うん。だからあれかなと思って。周作が来て、「怪我しとるんか」っていう一言で済ました時に、右手がないっていうことで別の人間に変えられていたはずの自分が、元の人間に戻されたみたいな感覚があって。それがなんか、実はものすごい救いになっていたんじゃないかということなんですよ。これが『アリーテ姫』みたいなファンタジー物だったら、魔法にかけられていて完全に別の存在に変えられていたものが、あそこで元の人に戻してもらったみたいな、ね。そんな感じが、あの場面ではしていて。
     もちろん、それだけではすずさんの苦悩は決して晴れないんだけれど、でも意味合いとしては、そういう救いのヒントになってゆくセリフだったんだろうなと思う。 

     ©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
    ■呉・広島の土地性が語りかけるもの
    ―――試写で完成した映画を見た時の、ご自分の中で改めての感想はどうでした?
    のん 本当に素晴らしい作品に参加させていただいたなってことに尽きますね。公開したら観客としていこうかなと思ってるんですけど。
    片渕 多分一番最後のところまた増えてるから。
    のん え、そうなんですか?
    片渕 クラウドファンディングの人の名前が何千人分か乗っかって、そこにも絵がついてるから、だいぶ変わってますよ。だからお楽しみに。
    ―――すでにマスコミ試写や先行上映で観た人たちからの反響がものすごいじゃないですか。その反響の中で、「え、こんな感想あるんだ」とか、特に嬉しいなって思ったものって何かありますか?
    のん なんだろう、えーっと、「方言の違和感がない」っていうのは嬉しかったですね。
    片渕 「自分は呉出身なんだけど、こんな方言だらけだと他の地方の人に伝わらないかもしれないから字幕つけたほうがいい」って言ってる人もいたよね。僕も広島の方言が本当にできてるかどうかはわからないんだけど、すごく苦労した部分だったし、普通に「広島弁が上手にできてます」と言われるよりも、本当に「やった!」と思えますよね。
    ―――映画のプロモーションイベントでお二人で広島や呉にも行かれて、劇中の舞台を訪ねられたそうですね。元々は、原作のこうの史代さんから教えてもらった場所なんですか?
    片渕 原作を読んで、この作品をやりたいと思ったのが2010年の8月なんですよ。で、こうのさんに手紙を出したんだけど、いろいろ忙しくて全然会えなくて、初めて会えたのが確か2011年の6月。だから10ヵ月間くらいタイムラグがあるわけです。その間に自分たちで呉とか広島に2回くらい行って、原作の「この橋は◯◯橋だな」とか、「この向こうに見えてるのは◯◯島だな」とか、「すずさんが描いた絵はこうなっているから、この方角からこういう風に見たんじゃないか」とか、全部地図で照らし合わせながら勝手に調べていったんですよ。

    ▲ すずと周作が呉市街でのサプライズデート後に語らう小春橋から、北條家のある灰ヶ峰の方向を望む。
     で、そういう考証をやった上で、こうのさんに会ったら、初対面なのに「あの場所がこの場所が」って話ができたんですね。もし最初からこうのさんに会って、「あの場面はここなんですよ」とか言われてたら、この作品はそんなに深まらなかったのかもしれない、という気がちょっとしますね。そういう自分で見つけたという感触のある、すずさんのホームグラウンドを見ておいてほしいと思ったので、イベントの合間の自由時間にのんちゃんを連れて案内したわけです。

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  • 20世紀のロボットアニメを概観する(『石岡良治の現代アニメ史講義』第5章 今世紀のロボットアニメ(1))【毎月第3木曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.735 ☆

    2016-11-17 07:00  
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    20世紀のロボットアニメを概観する(『石岡良治の現代アニメ史講義』第5章今世紀のロボットアニメ(1))【毎月第3木曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.17 vol.735
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは『石岡良治の現代アニメ史講義』をお届けします。ここからのテーマは「今世紀のロボットアニメ」。今回はプロローグとして、ロボットアニメを把握する上で重要な「ガジェット性」について、前世紀の様々な事例を挙げて論じます。
    ▼プロフィール
    石岡良治(いしおか・よしはる)
    1972年東京生まれ。批評家・表象文化論(芸術理論・視覚文化)・ポピュラー文化研究。東京大学大学院総合文化研究科(表象文化論)博士後期課程単位取得満期退学。青山学院大学ほかで非常勤講師。PLANETSチャンネルにて「石岡良治の最強☆自宅警備塾」を放送中。著書に『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)、『「超」批評 視覚文化×マンガ』(青土社)など。
    『石岡良治の現代アニメ史講義』これまでの連載はこちらのリンクから。

    前回:アニメが描く「青春」の現在――『心が叫びたがってるんだ。』と『君の名は。』(『石岡良治の現代アニメ史講義』10年代、深夜アニメ表現の広がり(6))

    ■戦後アニメ史と並走してきたロボットアニメ
     「アニメーション」一般から区別される意味での日本の「アニメ」が、1963年1月1日放映開始の『鉄腕アトム』にはじまるという見方は比較的共有されていると思います(もっとも当時は「アニメ」とは呼ばれていなかったわけですが)。興味深いのは同年秋に『鉄人28号』もアニメ化されていることで、数多いアニメジャンルの中でもロボットアニメは、日本のアニメ史とほぼ重なる歴史的広がりを持っています。とはいえ現在ロボットアニメとみられる作風の原点は『マジンガーZ』(1972-4)でしょう。このあたりの事情は、本メルマガで連載されている宇野さんの『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』で詳しく解説されています。
    (参考)
    京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第7回 〈鉄人28号〉から〈マジンガーZ〉へーー戦後ロボットアニメは何を描いてきたか
     多くの場合自律型ロボットであることは稀で、主人公が操縦する乗り物としての性質をもつ超兵器であることも重要な特徴です。このジャンルの代表作『機動戦士ガンダム』が「モビルスーツ」という呼称を用い、厄介なロボット定義論から距離を置いているにもかかわらず、総称としてはざっくりと「ロボットアニメ」としてまとめられてしまうのも興味深いところです。それはおそらく、『ガンダム』のヒットを受けて1980年代に数多く作られた後続作が、それぞれの世界観に合わせて「アーマードトルーパー」(『装甲騎兵ボトムズ』)や「オーラマシン」(『聖戦士ダンバイン』)といった名称を増殖させすぎたことも一因でしょう。「ようするにこれらは全部ロボット」なのだという直観の方が正確な定義に勝ったわけです。
     私がロボットアニメにおいて重要だと考えているのは、ミリタリーの想像力をかすめつつも、そこから逸れていく展開がしばしばみられるところです。本章の話題の一部は『視覚文化「超」講義』の4-3「ロボットアニメの諸相とガジェットの想像力」で語ったことと重なるので、詳しくはそちらを参照してほしいのですが、一点だけ要点をまとめると、しばしば男性オタクの欲望と重ねられてきた「メカと美少女」というキーワードとの関係を追うことで、ロボットアニメの現状を考えることができるのではないかという見通しを持っています。ロボットアニメは現在でも数多く制作され続けていますが、特に若いアニメファンのニーズと合致することが少ないジャンルとなっている上、アニメファン=男性オタクという等式を作れるという幻想がそもそも成り立たなくなっています。そうした現状をふまえつつ、この章では「今世紀のロボットアニメ」について分析してみたいと考えています。
    ■前世紀ロボットアニメの「基準作」として機能した『ガンダム』と『エヴァ』
     「今世紀のロボットアニメ」という本章のテーマを考える上で、やはり前世紀の1990年代までの展開を簡単に整理しておく必要があると思います。とりわけ私が注目したいのは、20世紀ロボットアニメの「ガジェット性」です。
     とりわけ1960、70年代のロボットアニメは、少年(後に少女も)を軍隊とは別の手段で活躍させるために最適な枠組として選ばれていたように思います。少年探偵ものが、警察に属することなく捜査を行うのと似ていて、軍隊組織に属さない一種の「特殊部隊もの」としての性格を帯びた作品が多いんですね。少年少女が大人以上に大活躍しなければならないというジャンル的な要請は、昔も今も「不自然だ」として嫌われることが多く、しばしばミリタリーマニアが「おっさんが活躍するアニメ」を求める声を上げているのをネットなどでは目にしますが、実際のところ、日本ではダイレクトな軍隊ものにはせずにそこを「やや迂回する」方が好まれているわけです。このことは萌えミリタリージャンル最大のヒット作『ガールズ&パンツァー』が徹頭徹尾「部活物」として描かれていることをみれば明らかでしょう。というのも、ここをリアリズム寄りで突き詰めていくと、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』における少年兵のようなタイプの悲惨さが前面に出ることになってしまうからです。

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