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記事 59件
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第13回 プレイヤーのいないゲームは存在しうるか?【不定期配信】

    2017-02-01 07:00  
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    【配信日程変更のお知らせ】毎月第1水曜日更新の猪子寿之さんの〈人類を前に進めたい〉は、諸般の事情により今月は配信日程を変更してお送りいたします。楽しみにしていた読者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、次回の更新まで今しばらくお待ち下さい。

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲームの本質を、プレイヤーが技能を習得する過程にあると考える「学習説」に、ルールやゴールの存在を重視する「ルール/ゴール説」を接続することで、ゲーム体験を包括的に説明しうる理論の構築を試みます。
    3−2−2.プレイヤーのいないゲームは存在しうるか?
     ここまでの議論を別の角度から問うことにしよう。Björk【注1】らはゲームとは何かという問題を考える上で重要な論点の一つとして「プレイヤーのいないゲーム」について考えるということを挙げているが、本稿でもその問題を取り扱うことにしたい。
     「プレイヤーのいないゲームというのは存在しうるだろうか?」
     ここまでの議論を踏まえると、この疑問に対する答えはイエスとも、ノーとも言える。
    1)プレイヤーのいないゲームは存在しない
     ゲームというものは、しばしば誰かしらの人間の遊び手によって積極的に遊ばれるものと想定されることが多い。特にゲームというものが誰かによって楽しまれたり意思決定されたりするような何かしらの人間の認知現象を介したものとみなすような立場(認知論的立場)からすれば、プレイヤーのいないゲームというのは存在しないということになる。
     たとえば、人間の主体的な認知を要するものとしては、学校における学習場面のようなものがあるが、学校における学習は教師側の役割が映像教材のような意識をもたない存在になることは可能かもしれないが、生徒の側が人工無能的な弱いAIのようなものになるといったことは考えにくい。AIにサンプルデータを学ばせることもまた学習とは呼ばれることには呼ばれているが、いまのところはそれが、人間のような存在が何かを学習するということとほぼおなじものとみなすことは少ないだろう。特定のアルゴリズムの集合体に、データを読み込ませるという行為と、人間の学習という行為のあいだには、いくつかの違いがあるが、その大きな違いの一つは何かしらを認知する意識の有無だ。意識のない存在が喜んだり、悲しんだりするという想定を我々はもっていない。
     現実空間をごく決められたパターンでしか認識できないようなアルゴリズム同士が、学校のような現実空間で、教師役と生徒役をやっていたとしたら、それは何かポストアポカリプス的なシュールさの漂う風景に見えるだろう。せめて生徒役は、もう少し意識のある存在でないことには、我々の日常感覚からするとあまりにも変わった風景に見える。
     人間の意識を必要とするはずの「ゲーム」というものが、人間の介在を必要としないというのは、どうも奇妙だ。その意味で、プレイヤーのいないゲームというものは存在しない、といえる。
    2)プレイヤーのいないゲームは存在する
     では、「プレイヤーのいないゲームは存在する」とはいいうるか?といえば、これを支える立場は、議論の立ち位置を逆にすることで成立させることが可能だろう。つまりルールやゴールといった形式によってゲームを定義するような――ここまで「形式論」と呼んできた――立場に根ざして考えれば、むしろこちらのほうが自明だということになるだろう。
     先述のBjörkらの指摘【注2】でも、プレイヤーという概念を、意識のあるものとして想定しないかたちで、「プレイヤーのいないゲーム」の例がいくつか挙げられている。
     たとえば、近年コンピュータによる将棋や碁のプログラム同士の対戦が話題になることが多くなったが、将棋AI同士の対戦を観戦するときに、そこで「ゲーム」が行われていると思うことができるのならば、そこには「プレイヤーのいないゲーム」は存在している、と言いうる、ということになる。
     将棋AI同士の対戦は、ルールもゴールも明確に設定されており、ゲームのエージェント【注3】同士のインタラクションも存在する。こういったかたちでゲームとしての形式的なポイントがおさえられていれば、それはゲームだといいうるという立場をとることはできるだろう。
     以上、二つのまったく別々の解釈について述べてきたが、これらを一行にまとめてしまえば、プレイヤーのいないゲームは存在するとも言えるし、プレイヤーのいないゲームは存在しないとも言える、という結論になる。
     両者はもちろん、相容れない結論である。しかし、前者は認知論的に一貫した説明が可能であり、後者は形式論的に一貫した説明が可能である。つまり、そこには認知論か、形式論か、という前提の差がある。この前提の差がなぜ生じるのか。
     「プレイヤーのいないゲームは存在するか?」という問いは、この前提の差を整理することを通して、より明確に理解されることになる。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第12回 トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.766 ☆

    2017-01-10 07:00  
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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第12回 トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか?【不定期配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2017.1.10 vol.766
    http://wakusei2nd.com



    今朝のメルマガは、井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第12回をお届けします。
    昨年末に発売された『ファイナルファンタジーXV』と『人食いの大鷲トリコ』。この2大タイトルの共通点は、〈風景〉を前景化させたことにありました。風景を印象づけるために作動している認識操作の技術を読み解きます。

    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第11回 政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ

    ■われわれは風景を「見て」いるのか?「感じて」いるのか?
     今月は、せっかくなので『ファイナルファンタジーXV』(以下、『FFXV』)と、『人食いの大鷲トリコ』(以下、『トリコ』)に関連する話をしようと思う。まだトリコは遊んでいる最中だが、とりあえず遊びながら、考えていることなどを少し書ければと思う。

     さて。
     言うまでもないことだが、ゲームの開発において、いかに美しい映像をつくるかということはある時期までとても重要なことだった。しかし「より美しい映像を」つくることはある時期から多くの人に飽きられた。「映画のようなゲーム」が純粋に誉め言葉としての意味をもっていたのは1990年代の途中までで、2000年代からは蔑みの意味でも使われるようになってしまった。美しい映像は、意外とすぐに飽きる。それよりも重要なことがあるのではないか、と思う人が増えた。
     そしてまた、わざわざ言うまでもないことだが、『ファイナルファンタジー』シリーズというのは、そのような「映画のようなゲーム」の最左翼であり、その代名詞だった。
     今回もまた、『FFXV』の映像は、期待に違わず凄まじいものだった。電車の側面の鉄板に映り込む朝日の映り込みなど、これがリアルタイムで生成されているということが信じられない。この世界のなかの鉄、石、光は我々が現実の世界において知っている、それそのものに限りなく近づいていた。
     ただ、今回のFFは、ただ美しいだけではなかった。確かに、よく作りこまれた映像は、食い飽きるほどだったが、映像を単にゲームの中にちりばめておくというだけのゲームではなかった。
     そして、『FFXV』の一週間後にリリースされた『トリコ』。『トリコ』もまた、その映像の美しさが重要な特徴の一つとなっているゲームだった。もちろん、『FFXV』とはまったく違うゲーム、まったく違うユーザー層のためのゲームだ。だが、ゲームのなかにおける「風景」をどのように扱うかという点において、不思議な類似が見られた。
     それは「美しい風景」を単に配置する、のではなく、「美しい風景」をまじまじと眺めるための文脈をどう作るかというというへの、あまりにもきめ細やかな配慮だ。
     そもそも「美しい風景」をまじまじと眺めるときというのはどのようなときだろうか?
     我々は、美しい風景というものを好むわりに、雑に扱うことが多い。
     たとえば、プロの写真家が撮った世界遺産の写真。高名な画家が描いた湖の絵。そういったものが、そこらへんに何気なく掛けてあるカレンダーに使われていることは多い。だけれども、その絵に、ハッとして、魅入るというような経験をすることはほとんどない。
     カレンダーに使われている写真や、絵の多くは、その写真や絵にかかわる展覧会が開かれていたりするような、有名だ。しかし、それをありがたく鑑賞する機会は限られている。現代人は、それほどの「素晴らしい絵」に接しながらもそのありがたさをなかなか実感しないような贅沢な生活を送っている。
     その一方で、我々は、もっとつまらない風景を大事にしていることがある。近所のどこにでもあるような小高い丘に登って町を眺めてみたときに軽い感動を覚えることがある。これといって風光明媚というわけでもない場所に海外旅行で訪れたとき、その風景が強く印象に残ることがある。そこで見えている風景が、そこらのカレンダーに使われている写真よりも、「価値がある」かどうかはわからない。しかし、そのような風景に魅入られてしまうということがよくある。
     風景の美しさを感じるとき、それ自体が内在的に持っている美しさに感動を覚えているのか。それともそれを感じるためのプロセスのほうが、美しさへの感動を生んでいるのか。それを判別することはしばしば難しい。
     ゲームを遊ぶという経験は、我々の美的感覚がどのように立ち上がっているのか。よくわからない気分にさせることがよくある。
     最先端のCGを食い飽きてしまう一方で、ファミリーコンピュータ時代のドット絵の風景にだって感動を覚えることはある。RPGで長い洞窟を通り抜けてあらたな風景が広がるエリアまでたどり着いたとき、動かないと思っていたバックグランドの風景が動いたとき、シムシティのようなシミュレーションゲームで、ゲームのなかの人々がほんとうに命をもって動いているかのように風景を作り替えていくのを眺めたとき、ゲームのなかの風景をまじまじと眺めさせられることがある。
     我々が、風景をまじまじと眺めるという体験はどのようにして与えられるのだろうか?

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第11回 政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.744 ☆

    2016-11-30 07:00  
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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第11回 政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ【不定期配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.30 vol.744
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第11回をお届けします。先日のドナルド・トランプが当選した米国大統領選挙で、ヒラリー陣営は政治的動員のための「快楽のゲーム設計」を失敗したという議論から、「どこまでをゲームと見做すか」の手掛かりとして、形式と認知による4分類を紹介します。
    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第10回 学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム――【不定期配信】
    ■政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ
     さて、本稿を書き進めている間にドナルド・トランプがアメリカの次期大統領として当選してしまった。トランプが当選したことについては、筆者は単純にショックを受けた。トランプがなぜ当選してしまったのかについて筆者がそれほどたいした説明をできるというつもりもないのだが、トランプの当選に関わって政治運動を「快楽」との関わりから説明できるのではないかという議論が出てきていること。国内のものでは、たとえば宮台真司によるこの論評などはかなり読まれているようだ。トランプの当選が「快楽」の問題としてどこまで説明できるのかは、心もとないが、政治と快楽をめぐる論点についてであれば、筆者がある程度コメントしておくべき点もあるだろうと思うので、本連載の流れから少しだけ脱線して、この問題に触れておきたい。
     さて、宮台による論建ては「政治的な正しさ」の問題と、有権者にとっての「快楽」の問題がそれぞれ独立した問題として成立しており、退潮傾向にある左翼やリベラルの人々が、快楽によって駆動されているトランプ支持者のような人々を「正しくない」と批判したところでそれは、そもそも批判として無効であり、「正しさ」と「快楽」をどのように一致させるかを考えることこそが重要なのだということだった。両者の一致にこそ政治的な動員を考えたときの活路がある、というのが宮台の指摘である。宮台の指摘するとおり政治において重視されてきたはずの「正しさ」という点から、トランプは確かに大きくかけ離れた大統領候補だった。その意味で、この宮台の指摘は説得的なものであると言ってよいだろう。
     トランプの問題に特定しなければ、このような論点自体は目新しいものではない。宮台に近い国内のジャーナリスティックな社会学の文脈に限っても、宮台の弟子である鈴木謙介による『カーニヴァル化する社会』でも類似の論点が取り扱われているし、塚越健司『ハクティビズムとは何か』でもアノニマスによる社会的活動がネットの「祭り」と近い関係にあることが述べてられている。そもそも拙著『ゲーミフィケーション』で冒頭にとりあげたオバマの2008年の選挙活動の事例は、まさにアメリカ大統領選において、いかにゲーム的な楽しさが政治的動員を駆動させる一翼を担ったかということを紹介することからはじめたものだった。
     さて、では政治的動員にとって快楽が重要なキーとなってきている時代になりつつあるというのは重要なのかどうか?改めて整理すれば、快楽について考えることが重要な時代になっていることそれ自体は事実だろう。ただ、政治が快楽を用いることが、いかなる意味で望ましいことであるかについては安易なコメントは差し控えたい。そして、より踏み込んで言うのであれば「どのような快楽」を重視するかという問題に言及をすべきだろうと思う。
     それは「快楽」であれば、問題が解決するわけではないからだ。
     
     *
     
     考えるに、政治をめぐる快楽の問題にはジレンマが内包されている。そして、おそらくこのジレンマ自体はおそらく二〇世紀にもすでに存在していたものだ。これを解説するために、小熊英二『社会を変えるには』からの記述を参照してみよう。
     小熊によれば、1968年ごろに起こった大学の占拠について、当時のバリバリの左翼学生(セクト)は実際のところなぜ、そんなに運動が盛り上がったのかほとんど理解できていなかったようだという。「それまで政治に無関心そうだった学生たちがいきなり集会を開いてバリケードを作り始めている。聞いてみると、授業がつまらないからとか、マルクス主義にも革命にも関係ない」[1]という状況があったそうだ。つまり、68年の全共闘運動が広がった背景には、「正しさ」によって動員された学生が大量にいたということではなく、「快楽」によって動員された学生が大量にいた、ということだ。そして、自由参加・自由脱退が基本である全共闘という枠組みでは、こういった学生を受け入れるだけの幅の広さがあった。
     ただし、この68年ごろの「快楽」には大きな問題が発生する。
     一時的に全共闘に加わり、別にそれほど気合の入った左翼というわけでもなかった学生たちは、お祭り気分で盛り上がっていた。しかし、このお祭り気分での盛り上がりは所詮お祭り気分での盛り上がりでしかないため、大学を占拠して泊まり込んでドキドキしている最初の一ヶ月は楽しいものの、次第に飽きて、人が去っていく。
     そうなったときに残ったのは結局、68年以前からのバリバリの左翼のメンバーで、彼らは、にわかで運動に加わった学生とは違い、いざというときにはしっかりと動いてくれる[2]。バリバリの左翼たちは、活動をしっかりとやるという意味では、頼りがいのある中心的なメンバーとして機能していたが、運動の目的が「革命」というところだったゆえに、大学闘争をしても大学側との妥協が残るような交渉はせず、バリケードに立てこもって出口のない戦略をとってしまう。
     こうしてお祭り的なノリでついてきたにわか左翼の学生たちも去り、バリバリの左翼の運動も結実することのないまま68年の運動は終わりを迎えてしまう。
     
     ここまでが小熊による全共闘運動の経緯の要約である。小熊はこの後でも「運動に飽きる」という問題をどう考えるかという論点にふれているのだが、思うに、ここで発生していた「快楽」には全く種類の違う二種類のものがあるように思う。にわか左翼の学生の快楽と、バリバリの左翼の学生が保っていた快楽の中身である。この両者の快楽は連続してはいるものの、それぞれに少し質の異なるものだ。本連載ですでに触れた分類でいえば「遊び」と「ゲーム」の違いとしてしばしば整理されがちなもの[3]だが、それは「党派を超える快楽」と「党派の内側のための快楽」という形で整理しなおしてもいいかもしれない。
     本連載の第一章で述べたことを雑にまとめれば、前者は単純な逸脱をともなうことの中に喜びを見出すものであり、後者は、複雑なルールを生きることのなかに喜びを見出すものだ。党派を超え「にわか」を生み出すような爆発力のある、特別なお祭り的な快楽というのは、往々にして、なにかいつもと変わったこととして見出される。それは「いつもと変わっている」ということ自体に価値がある。
     一方で、党派の内側、組織の内側で機能する快楽というのは、しばしばゲーム的な快楽――まさに、いま本連載で扱っている「学習説」的な説明があてはまりやすいような快楽――とされやすいものの範疇である。そのありようというのは「いつもと変わっていること」ではなく、「繰り返していくこと」の中に見出されていく快楽である。似たようなことを繰り返し、それに上達し、戦略を洗練させ、風景が少しずつ変わって見えていくそのプロセスのなかに生まれる快楽がそれだ。遊びやゲームに関わる、快楽はしばしば「非日常」のことだとみなされがちだが、そんなことはない。
     日常的に運動を「続けていく快楽」と、非日常としての運動に「にわかに参加する快楽」は、まったく別の快楽なのである。
     そもそも別の快楽なのであるから、「続けていく快楽」の内側にいる人間は、「にわかに参加する快楽」を覚えている人間が何を楽しんでいるのかを理解するための想像力を失いがちだし、逆もまた然りである。

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  • 【特別収録】水口哲也 『Rez Infinite』が切り開く仮想現実の地平 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.743 ☆

    2016-11-29 07:00  
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    【特別収録】水口哲也 『Rez Infinite』が切り開く仮想現実の地平
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.29 vol.743
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは、ゲームクリエイターの水口哲也さんによるVR論をお届けします。10月13日にリリースされた『Rez Infinite』は、発売間もないPSVRのポテンシャルを引き出した最初のタイトルとして話題を呼んでいます。初代『Rez』から15年、積年のヴィジョンを実現するテクノロジーがついに現れたと語る水口さんが見据えている、VRの本質とその巨大な可能性とは?
    ▼プロフィール

    水口哲也(みずぐち・てつや)

    レゾネア代表 / 米国法人enhance games, CEO
    慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(Keio Media Design)特任教授
    ヴィデオゲーム、音楽、映像、アプリケーション設計など、共感覚的アプローチで創作活動を続けている。2001年、「Rez」を発表。その後、音楽の演奏感をもったパズルゲーム「ルミネス」(2004)、キネクトを用い指揮者のように操作しながら共感覚体験を可能にした「Child of Eden」(2010)、RezのVR拡張版である「Rez Infinite」(2016)など、独創性の高いゲーム作品を制作し続けている。2002年文化庁メディア芸術祭特別賞、Ars Electoronicaインタラクティヴアート部門名誉賞などを受賞(以上Rez)。2006年には全米プロデューサー協会(PGA)とHollywood Reporter誌が合同で選ぶ「Digital 50」(世界のデジタル・イノヴェイター50人)の1人に選出される。2007年文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門審査主査、2009年日本賞審査員、2010年芸術選奨選考審査員などを歴任。

    ■「精神の旅」の体験をもたらす「Area X」
     PlayStation VR(PSVR)用の『Rez Infinite』というタイトルが、10月13日に発売になりました。すでにプレイされた方もいるかもしれませんが、『Rez Infinite』の印象を映像で伝えるのは非常に難しくて、体験した人としていない人の間にはかつてない大きなギャップを生んでしまうような、そんな状況になっています。まずはこちらのトレーラーを御覧ください。
    ▲Rez Infinite - Launch Trailer | PS4, PS VR
    このトレーラーを作るときに、皆さんに一体どういった映像を見せれば、『Rez Infinite』の体験が伝わるんだろうかと非常に悩みまして、一番いいのは、プレイしている人の反応を伝えることだと考えて、こういう映像になっています。
    もともと『Rez』という作品は、2001年にPS2・ドリームキャスト向けにリリースしたシナスタジア(共感覚)ゲームです。トレーラーの冒頭に出てくるのは、昔の『Rez』のステージを、PS4用に高解像度リマスターしたもので、4Kまで対応しています。それだけだと面白くないので、いまの技術でできる最高の表現を使ったVRのステージを完全新作で追加しようと考えました。
    『Rez Infinite』の構想は3年半くらい前からあって、最初の2年間は、ずっとアートと音楽を中心にプリプロダクションを続けていました。テーマとしてはパーティクル(粒子)がメインで、それが音楽に合わせて色めいて動く。音楽とパーティクルが混じっていくような3Dのヴィジョンを、共感覚的に体験する。いわば「音を立体的に見る」ことを試みたのが、今回追加した新作のステージ「Area X」です。過去作をリマスターした部分については、「『Rez』がVRになるとこうなるんだ」という感動はあると思いますが、「Area X」では、そこからまったく違う次元に飛び込むような体験ができると思います。

    ▲Rez Infinite ©Enhance Games 2016
    「Area X」では、プレイヤーが周囲をいろいろなものに囲まれています。サイバースペースのウイルスという設定なんですが、それを撃った瞬間に光のパーティクルが目の前でバーンと弾けて、効果音が鳴り、それが連続することで音楽が生成されていきます。パーティクルは効果音に反応して、音を立体視で見るような感覚に陥ります。おそらく、情報のインプットが人間の従来の経験値を超えているために、そこに身体を委ねる不思議な気持ちよさがあるかもしれません。その気持ちの良さに集中できると、音楽と世界が混ざりだし、終盤それが歌になっていきます。最後に女性のイメージ――これはシンギュラリティの象徴としての意味合いを与えているんですが、祝祭的な雰囲気が訪れて「祝福」や「誕生」といったテーマへと導かれる。そんなエンディングになっています。そこまで到達したプレイヤーの多くは「ハァー……なんだこれは……」という感じになって、直後はうまく言葉が出てきません。
    「Area X」を遊び終えた人がよく言うのは、「旅から帰ってきたみたい」という感想で、それが何の旅なのかというのもいろいろあるんですが、祝福の旅とか、禅的な体験や、意識の旅から帰ってきたという感覚を抱く人もいます。ある人は、アイソレーションタンクの中にいる状態と似ていたと言っていました。
    ■『Rez Infinite』を触覚的に感じる「Synesthesia Suit」
    『Rez』が目指してきたテーマを一言でいえば「Synesthesia(シナスタジア=共感覚)」です。これは僕自身が追いかけてきたテーマでもあり、これを実現するためにゲームを作っているといっても過言ではないです。それは、我々がバラバラに存在していると思い込んでいる「映像」や「音楽」や「触覚」といった体験――長い間、人間の知性の進化の過程で、時間をかけて分断されてきた「感覚」というものを、もう一度、統合しようとする試みなんです。

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  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(後編) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.723 ☆

    2016-11-01 07:00  
    540pt

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    【対談】三宅陽一郎×中川大地ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(後編)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.11.1 vol.723
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは、ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんと、評論家・編集者の中川大地さんの対談の後編をお届けします。日本のゲームとゲーム批評は、なぜダメになってしまったのか。圧倒的な技術力と資金力で成長を続ける欧米のゲームに、日本のゲームが対抗しうる方策とは? 『人工知能のための哲学塾』の三宅さんと『現代ゲーム全史』の中川さんが、日本のゲームと人工知能に秘められたポテンシャルについて語ります。
    本メルマガでの連載が元になった中川大地さんの著書『現代ゲーム全史』が大好評発売中です。ファミコン以前の時代からスペースインベーダー、マリオ、ドラクエ、FF、パズドラ、Ingress、さらにはPokemonGOまで――。"文化としてのゲーム”のすべてを一望できる大著です。ぜひともお買い求めください!

    ▲中川大地『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』 
    (紙)/(電子)
    本メルマガで連載していた『中川大地の現代ゲーム全史』はこちらのリンクから。
    ▼プロフィール
    中川大地(なかがわ・だいち)
    1974年東京都墨田区向島生まれ。ゲーム、アニメ、ドラマ等のカルチャー全般をホームに、日本思想や都市論、人類学、生命科学、情報技術等を渉猟して文化と社会、現実と虚構を架橋する各種評論の執筆やコンセプチュアルムック等を制作。批評誌『PLANETS』副編集長。著書に『東京スカイツリー論』、編書に『クリティカル・ゼロ』『あまちゃんメモリーズ』など。8月24日には『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』を上梓。
    三宅陽一郎(みやけ・よういちろう)
    @miyayou ゲームAI開発者/研究者。日本デジタルゲーム学会理事、芸術科学会理事、人工知能学会編集委員、デジタルコンテンツエキスポ委員、CEDEC委員。主著『人工知能のための哲学塾』『絵でわかる人工知能』『デジタルゲームの教科書』「ゲーム、人工知能、環世界」(現代思想、2015年12月号)。Facebookグループ『人工知能のための哲学塾』主催、Twitter上では『ゲームデザイン討論会』主催。
    ◎構成:高橋ミレイ
    本記事の前編はこちら。
    ■ ゲーム論壇の衰退とゲーム実況の登場
    三宅 近年、日本のゲームが衰退していると言われています。その責任はもちろん開発者自身にありますが、ゲームを批評する言論の力の弱さも、原因の一端にあると思います。ゲーム産業が盛り上がった時期には、ゲームを語る文化も同時に盛り上がるのが常で、そうした時代には、ゲーム批評を担うスターが現れます。当時、『ゲーム批評』という雑誌がありましたが、今の時代にもそういうメディアや批評家の存在は必要です。
    その点、中川さんの『現代ゲーム全史』は、コンピューターの黎明期から現代の『Pokemon GO』までを網羅した、ゲームの歴史を俯瞰するマップとして使うことができる。僕はこのマップを足がかりに、ゲーム批評を再興できるのではないかと期待しています。批評が盛り上がって言論が面白くなると、ゲーム開発の現場もエキサイティングになります。そうしてユーザーとゲーム開発者が高いレベルで応答できるようになれば、もう一度、「文化としてのゲーム」を取り戻せるかもしれません。今のメディアは売り上げばかりを報じていて、商業色が濃すぎますからね。
    中川 ありがとうございます。ゲームがコンテンツカルチャーとして伸びていった2000年前後は、批評の文脈でゲームを語る人たちが、テキストサイト界隈で記事を書いていました。ところが、ちょうど三宅さんがゲーム業界に入った頃から、そういった論壇がどんどん弱くなっていった。日本のゲーム産業の停滞と共に、ゲームを批評的に語るモチベーションも衰退していって、2000年代後半に、その隙間を埋めるものとして現れたのが「ゲーム実況」でした。ニコニコ動画内で、ゲームをプレイしている動画を実況付きで放送する。このゲーム実況の登場によって、かつて批評の対象だったゲームが、ネット上のおしゃべりのネタとして共有されていきました。
    ゲーム実況でプレイされるゲームは、すでに多くの人が共通体験を持っているレトロゲームとか、あるいは『青鬼』や『ゆめにっき』といった「RPGツクール」などで制作されたフリーゲームです。あの辺の作品は、スーパーファミコン時代のゲームシステムを踏襲しながら、ストーリーテリングの部分に工夫を加えたものです。基本的にファンコミュニティが有する共通のコミュニケーションコードに即したかたちでプレイヤーの心情を揺さぶる手法で、ゲームそのものの本質としては新しい体験が生み出されていないし、求められてもいないように見えます。
    三宅 批評の役割のひとつは、その分野を他の分野とつなぐことです。例えば、ゲームと16世紀頃の絵画、あるいはゲームと別の産業のプロダクト、といったように、開発者が気付いていないような、他分野の事柄と関連づけることで新しい可能性を開拓します。確かに、ゲーム実況もこれはこれで興味深い文化なのですが、内輪の盛り上がりだけで終わってしまうのが難点です。
    ■ なぜ日本のゲームは衰退したのか
    三宅 日本のゲームの衰退の背景には、コンピューターサイエンティストの少なさがあるように思います。ゲームプログラマーとして一流の人はたくさんいますが、ハイパフォーマンスのマシンに向けたゲームを制作する際に、コンピューターサイエンスの土壌の弱さが露呈してしまいます。その結果、相対的に欧米のゲームが伸びて、国内のゲームとその批評が衰退してしまうという連鎖が起きています。
    中川 日本のゲーム文化がピークに達した2000年代初頭ぐらいまでは、それまで蓄積したシステムを使って、いかに先進的な表現ができるかを突き詰めていくような試みがありました。ところが本格的な3Dエンジンを使う時代に入ると、技術力の不足も相まって、日本のゲーム業界全体が目的や発想力を失ってしまい、語るべき新しさを持ったゲームが現れなくなってしまったように思います。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第10回 学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム――【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.716 ☆

    2016-10-21 07:00  
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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第10回 学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム――【不定期配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.10.21 vol.716
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    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第10回です。今回からは、ゲームの本質を「学習」にあるとみなす立場を中心に検討を進めます。研究者のみならず、ゲーム開発者から見ても非常に強い説得力を持つ「学習説」とは何か。国内外で展開されている「ゲーム」と「学習」にまつわる議論を参照していきます。
    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第9回 どこまでが「ゲーム」なのか?【不定期配信】
    3−1 「ゲームの学習説」とは何か
    3-1-1.学習説の興奮
     「ついにゲームというものの本質がわかった気がします…!」
     筆者に対して興奮気味でこういったことを伝えてくれる人が、毎年一人ぐらいいる。時にはメールで、時には口頭で、時にはSNSのメッセージで。それらは、毎回違う人物であり、だいたい、コンピュータ・ゲームの開発に関わる人たちだ。
     そして、彼らの言う「ゲームの本質」は、表現には少しずつの違いはあるものの、だいたい同じ点を突いている。
     それは、ゲームをプレイするときにゲームプレイヤーに「積極的な学習行為が成立しているのではないか」といったことだ。もう少し丁寧にいえば次のようになる。
    いわゆる「ゲームにハマっている」と言われるような状態のことを考えると、ハマっているゲームプレイヤーたちは、ゲームをどんどんと習熟していくようなプロセスの中にいる。ゲームにハマるということは、ゲームの腕を上達させていくプロセスであるであることと、しばしば近似する。もちろん、それほどゲームに習熟できないプレイヤーというのもいるが、そういう人は、今ひとつゲームにハマりきることができずにゲームをやめてしまう。
     そういったゲームプレイヤーたちの行動が成立しているということを前提に、ゲーム開発者たちはゲームを作る。ゲームプレイヤーたちが、それまで習熟してきたことを土台としつつ、プレイヤーにとって少しだけ予想を超えるような課題をほどよいタイミングで与えつづけることができれば、プレイヤーはその状況を嬉々として受け入れ、課題に挑戦し続ける。
     設計の勘所はそのタイミングや、難易度の設計だ。プレイヤーがまったく乗り越えられないと感じるほどに、与えられた課題のハードルが高いと、プレイヤーはモチベーションを保てずに挫折してしまう。他方、ゲームをしていて、次に何がでてくるかということを予測し、その予測と完全に同じものがでてきて、予測された状況に、プレイヤーが完全に適応できるようなことが続くと、プレイヤーはそのゲームを徐々に退屈に感じはじめる。すなわち、難しすぎても、簡単すぎてもいけない。
     概ね、以上の点が多くのコンピュータ・ゲームの開発者が、ある日「はっ」と気付きによって得られるような「ゲームの本質」とされやすいことの中身だ。こういった感覚は、実に多くのゲーム開発者が抱くもののようで、こうした立場を公表し、より洗練された議論を目指そうとする人も少なくない。たとえばオンラインゲームの開発者だったラフ・コスターの議論[1]や、日本の家庭用ゲーム開発で長年のキャリアを積んできた渡辺修司らの議論[2]なども、基本コンセプトは今述べたような発想をベースとしている。
     「ゲームの本質」に関するこうした考え方を支持するのは、コンピュータ・ゲームの開発者のみにとどまらない。2011年以後、日常行為のなかにゲームの要素を組み込んでいくことを意味する「ゲーミフィケーション」という言葉が世界的に言われるようになってきた。筆者自身も2012年に『ゲーミフィケーション』という書籍を出版した[3]ため、この議論には深く関わっているが、この文脈のなかで「ゲーム」の面白さの中心をなすものとして紹介されたのは、ほとんどのケースで、これらの議論の一種といえるものだった。
     特にゲーミフィケーションをめぐる議論のなかで「ゲームの本質」として紹介されたのは、「フロー体験」と呼ばれるものだ[4]。「フロー体験」自体は、1980年代から1990年代にかけて広まった心理学者のミハイ・チクセントミハイによる概念であり、上記の要件に加えて、状況に対して自発的に参加を行っているかどうかとか、自己コントロール感があるかどうかといったいくつかの条件が追加される。
    即時にフィードバックがかえってくるような環境下で、限定された分野について、難しすぎず、易しすぎない課題が提示されているときに、人間は、非常に高度な集中力を発揮し、その課題を苦と思わずに、積極的に取り組むことになるという。
     ミハイ・チクセントミハイの提唱した概念はゲームそのものについての議論ではないが、ゲームを遊んでいるときに生まれる楽しさや、集中した感覚に近いということで「フロー体験」はゲームの面白さを説明するための理論として好んで使われることが多い。

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  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(前編) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.713 ☆

    2016-10-18 07:00  
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    【対談】三宅陽一郎×中川大地ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(前編)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.10.18 vol.713
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    今朝のメルマガは、ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんと、評論家・編集者の中川大地さんの対談をお届けします。デカルト以降の近代西洋哲学はどのように人工知能を定義するのか。欧米と日本のゲームの背景にある思想的な差異とは。『人工知能のための哲学塾』の三宅さんと『現代ゲーム全史』の中川さんが、ゲームとAIについて徹底的に論じ合います。

    本メルマガでの連載が元になった中川大地さんの著書『現代ゲーム全史』が大好評発売中です。ファミコン以前の時代からスペースインベーダー、マリオ、ドラクエ、FF、パズドラ、Ingress、さらにはPokemonGOまで――。"文化としてのゲーム”のすべてを一望できる大著です。ぜひともお買い求めください!

    ▲中川大地『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』 
    (紙)/(電子)
    本メルマガで連載していた『中川大地の現代ゲーム全史』はこちらのリンクから。
    ▼プロフィール
    中川大地(なかがわ・だいち)
    1974年東京都墨田区向島生まれ。ゲーム、アニメ、ドラマ等のカルチャー全般をホームに、日本思想や都市論、人類学、生命科学、情報技術等を渉猟して文化と社会、現実と虚構を架橋する各種評論の執筆やコンセプチュアルムック等を制作。批評誌『PLANETS』副編集長。著書に『東京スカイツリー論』、編書に『クリティカル・ゼロ』『あまちゃんメモリーズ』など。8月24日には『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』を上梓。
    三宅陽一郎(みやけ・よういちろう)
    @miyayou ゲームAI開発者/研究者。日本デジタルゲーム学会理事、芸術科学会理事、人工知能学会編集委員、デジタルコンテンツエキスポ委員、CEDEC委員。主著『人工知能のための哲学塾』『絵でわかる人工知能』『デジタルゲームの教科書』「ゲーム、人工知能、環世界」(現代思想、2015年12月号)。Facebookグループ『人工知能のための哲学塾』主催、Twitter上では『ゲームデザイン討論会』主催。
    ◎構成:高橋ミレイ
    ■ 実験物理学の研究からゲームAIの世界へ
    中川 今回、三宅さんとの対談をお願いしたのは、『現代ゲーム全史』をまとめてみて、ゲームと人工知能(AI)は車の両輪のような関係にあるなと感じたからなんですね。拙著の序盤の章でも述べたように、ゲームの数学的解析から始まるデジタルゲームとAIは、同じ起源を共有しています。以来、基本的には何か実用的な目的のために使うのではなく、純粋に人間がコンピューターで何ができるかの可能性を追求していくジャンルとして発展してきました。それが2012年あたりからAIではディープラーニング(深層学習)のブレイクスルーがあり、ゲームではOculus Riftなどが出てきてVRへの流れが全面化して、2016年現在はそれぞれに大きな歴史的転機が訪れています。
     そんな時流の中で、三宅さんはまさにゲームに活用するAIの専門家として、『人工知能のための哲学塾』と森川幸人さんとの共著『絵でわかる人工知能』を立て続けに出版され、AIという概念についての非常に本質的な思索を展開されていたのが印象的で、ぜひ深くお話をうかがってみたいと思ったわけなんです。
     それで、もともと三宅さんは物理学の研究をされていたそうですが、そこからどういう関心を持ってAIの研究に進まれたのかを、まずはお聞きかせ願えますでしょうか。
    三宅 最初は京都大学で数学と理論物理を勉強していました。修士課程で大阪大学に移って地下にある半径数kmという巨大な加速器でデータを取るような研究をやっていたのですが、装置を自分で作ってみたくなって、博士課程で東京大学に移り電気工学を学びました。そのうちに装置を自律的に動かすことに興味が出てきて、そこが人工知能の研究のスタートですね。「ひとつの知能を丸ごと作る」というのが僕の目標で、そういった技術はゲーム業界でこそ必要とされているはずだと思って、2004年頃にゲーム業界に入ったんです。でも、当時のゲームで使われていた人工知能は完全なものではなかった。今でも世間で人工知能と呼ばれるものの90%は、人工知能の一部を利用したものです。たとえばAmazonのレコメンドシステムやGoogle検索、ディープラーニング、画像認識などで、こういった単機能のAIの方がサービスにしやすいんですね。でも、僕が作りたいのは、ゲームの世界で本当に生きている、完全な人工知能でした。完璧でなくていいですが、知能として最低限必要な一揃いが作っているという意味で完全な人工知能です。そのためには、ゲームの中に「世界」そのものが存在しなくてはいけない。
    中川 なるほど。2000年頃といえば、ゲーム史的には2Dのドット絵の時代から、プレステ革命を経てポリゴンを用いた3DCG表現への主流の移行が完了したくらいの時期ですね。ゲーム世界が3D化すると、物理演算エンジンによって、現実の三次元空間に近い世界を作れるようになる。理念としてのAIは、特定の専門分野での用途に特化したものではなく、人間のような汎用的な問題解決のできる知能を目指すわけだから、知能に対して課題を与える環境の性格が人間のそれに近づくことが大きな意味を持つわけですね。言うなれば、AIがAIとして活動するための最も純粋なフィールドを用意しうる分野が、「世界」や「環境」を生成するテクノロジーとしてのゲームだったと。
      
    三宅 おっしゃる通りです。人間も含め、知能というのは外部の環境に合わせて相対的に生成されるので、単純な世界では知能を複雑にする必要がない。ゲームデザインが複雑になれば、人工知能もゲームを理解するために高い知能を持たなければいけなくなります。僕がゲーム業界に入ったのは、森川幸人さんがプレステで『がんばれ森川くん2号』(1997年)や『アストロノーカ』(1998年)を出した、そのちょっと後くらいでした。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第9回 どこまでが「ゲーム」なのか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.694 ☆

    2016-09-21 07:00  
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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第9回 どこまでが「ゲーム」なのか?【不定期配信】 
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.9.21 vol.694
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    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第9回です。空手家・大山倍達の「強さ」の追求が、期せずして直面したゲーム的世界観。「ゲーム」と「それ以外」を区分する境界線は、どこに引かれるべきなのか。「現象としてのゲーム」の具体的な議論のために、ゲームを定義する5つの評価基準を提示します。
    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
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    前回:井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第8回 ゲームとは楽しいものでなければならないのだろうか?【不定期配信】

    ■ 2−5 どこまでが「ゲーム」なのか?-さまざまなゲームのボーダーラインについて-
     
     神の手と呼ばれた20世紀後半の伝説的な空手家、大山倍達が語ったとされる言葉に

    「地上最強の動物はアリクイ」[1]

     というものがある。
    どういう理屈かといえば、なんでも①ストレートに考えると、個体としての世界最強の動物はおそらく象である。②像であってもアリの集団に食われてしまうことがある ③アリクイはアリに勝利できる、ということらしい。
     「何を馬鹿な」と思われるだろう。反論をするのも、いかにも容易だ。あまりにも突飛のない発言に、納得するというよりは、失笑を誘われる人のほうが多いだろう。
     さて、なんでこんな話をしているのかというと、ある行為が「ゲーム」という概念に入るかどうかが難しいようなボーダーラインをどう扱うかということ話を扱いたいからだ。
     大山倍達は20世紀後半の日本に「空手」を広めた立役者だが、大山によれば「勝負」という概念のボーダーライン上にいるからこそ出てくる発言であろう。大山は「ケンカと戦いの区別はどこにあるのか、ということは私には、はっきりとわからない」[2]と述べている。
     大山倍達が伝説的な格闘家であることのいくつかの理由の一つは、彼が人間以外の動物と戦っていることによる[3]。若き日の大山は「人間の相手がいない」[4]と感じて、ジャングルのなかでライオンやワニと闘うターザンのように、人間以外の動物と戦いたいと思い「比較的たやすくぶつかれる相手といえば、まず牛だ。」[5]と言い、70頭もの牛を倒す。そして次に熊と戦おうとして警察に止められ、ゴリラと戦ってはゴリラに逃げ出されたという。ライオンと闘うことについても真剣に研究しており、その結果「うーむ、とても勝てない。勝てるわけがない」という結論を得ている。
     大山による対猛獣戦についての発言には興味深い論点が多い。大山は、もし猛獣と人間が闘うのであれば、フェアな条件で闘うべきでないと言っている。虎やライオンに素手の人間が挑むとすれば、「壮年と壮年で、公平な条件で戦わせたら、勝つ可能性はゼロといってよい」という。もし空手の達人が真剣に虎に勝利する可能性を検討するのであれば、①老齢の虎であること ②弱らせておくこと ③広い場所で闘うこと ④200キロ以内の虎であることといった具体的な条件を挙げている[6]。また、若き日に、自身が熊と闘う際においても若い熊と闘って勝利をおさめるのはまず無理であると判断し、老齢でよぼよぼの熊に腹いっぱい食べさせて戦闘意欲をにぶらせた状態で対戦するように手配をしていたという。
     実際、大山は老齢の熊を手配していたものの、大きな若い熊と対戦することになり、対戦開始2,3分で「これは勝ち目がない」と思ったという。その直後に対戦に中止命令が出てこの対戦は取りやめになった。
     これらのエピソードから明らかなように、大山倍達の考える<強さ>をめぐる追求は、格闘技における<試合>の枠組みから大きく越え出ている。勝利とか、強さといった概念は、ふつう何かしらの枠組みの内側にある。異種格闘技戦であるにしても、それは一対一の人間による試合という範囲内であることがほとんどである。
     しかしながら、大山の世界観は「人間の相手がいない」という稀有な理由によって、この大前提が崩れている。そのために、牛や熊と戦っているのであり、その時点でもはや人間社会内での勝負といった評価基準ではなくなっている。大山の思考は、生命全体の生態系のなかにおける人間個体のあり方を考えるというところに近づいていっている。
     ちなみに、生物学者や、生態学者に「最強の動物は何か?」という質問をすれば、ほとんどの場合、まじめな答えとしては「生物というのは、環境によって有利・不利が決まるのであって、何が最強ということはありません」ということになる。大山の「アリクイ最強説」は、人間対人間の対戦という世界から遠く離れて、こうした生態系全体を考えるという視点へと旅立ってしまっている。ふつうの現代人が、自らの実体験からこうした発想へと至ることはまずないと思うのだが、大山の場合は例外的にこのようなことになってしまっている。熊や虎との対戦においても、フェアネスの概念を適用すべきでないと言っているのも、やはり人間対人間という枠組みの外側で、勝負における生死の問題を考えているということが大きいだろう。ライオンや虎に素手で勝てるかどうか、などといったことを真剣に思い悩めば、そういった発想に至るのは、ある意味ではあたりまえなのだろうが、大山の世界では人間社会において想定される「勝利」とか「強さ」という概念は、相対化されてしまっているからこそ「アリクイ最強説」のような、どう捉えればよいかわからない世界観が出てきうるのだろう。

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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第8回 ゲームとは楽しいものでなければならないのだろうか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.678 ☆

    2016-08-30 07:00  
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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第8回 ゲームとは楽しいものでなければならないのだろうか?【不定期配信】 
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.8.30 vol.678
    http://wakusei2nd.com



    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第8回です。
    ゲームの本質とは人間の「快楽」の追求に過ぎないのか。娯楽性の追求を本義に掲げながら、そこに留まらない余剰を抱え込んでしまうゲームという表現。震災の跡地に痕跡を残す『Ingress』や『Pokemon GO』、FPSの虐殺表現の是非を巡る議論を踏まえながら、ゲームのあり方について考えます。

    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
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    前回:概念の中心性――分けることとつなぐこと(井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第7回)【不定期配信】

     2012年、震災から一年と少し経ったころに友人らと東北をみてまわった。
     石巻を見て、気仙沼を見て、陸前高田を見てきた。津波によって飲み込まれた町をみてまわった。テレビでも、何度も観ている風景だったし、現地に行くことに何かテレビと違った意味があるのか、自分でもよくわからない気持ちを抱えながら、行くことにした。
     不思議な光景だった。普通の街並みが展開していたと思ったら、丘一つまたいだところで、風景が一転する。なにもない場所が広がっている。建物がすべて波にさらわれた跡だった。ニュースで見せられた風景は、普通の街並みのすぐ後ろ側に広がっていた。
     石巻にはじめて訪れた私にとって石巻の町の記憶はない。今、立っている場所がどのような場所であるかがわからなかった私にとって、そこはかつてそこにあった建物が削り取られたという跡だけがむき出しになっている場所だ。
     この場所を、どのように弔い、どのように記憶すればいいのかがわからなかった私は、スマートフォンを取り出し、YouTubeを見ようと思った。YouTubeの中に、石巻の街並みは記憶されているかもしれない。石巻の、いま、ここで私が立っている場所の風景は、残されているかもしれない。
     そう思って、YouTubeを検索したら、想像通り、1年前の石巻の町はYouTubeの中に、記録されていた。震災の前の風景も、震災の日の風景も、そこで見ることができた。石巻だけでなく、気仙沼も、陸前高田も見ることができた。私は何をしているのだろうか、とも思った。だが、この方法は、この場所の悲しみを知るためにできる数少ない方法の一つだろうとも思った。おそらく、似たようなことをした人は私以外にもいたのではないか、と思っている。
     そして、私が訪れた二年後の2014年に、いま『Pokemon GO』を展開しているNiantic社は、かつての町のスポットを、Pokemon GOの元となった『Ingress』のポータル(ポケストップ)として登録した。ゲームをすることで、町の記憶を見る経験を与える、ゲームはそのためのツールとなった。『Ingress』のために登録されたポータルは、いまも『Pokemon GO』のためのポケストップとして生きているはずだ[1]。
     *
     かつての町の記憶として、実空間に重ねあわされた情報たちは、いま私の立っている場所はどこであるのか、ということを知らせてくれる。そして、それは2011年の3月のことを思い出させる。
     2011年の3月ごろ、ゲーム業界以外の人はもうほとんど記憶をしていないかもしれないが、大量のゲームが発売延期を発表し、ゲーム関連企業のいくつかは臨時休業した。ゲーム業界の何人かの友人たちは「こういうとき、ゲームというのは不要不急のものなんだな、ということを思い知らされる」ということを嘆いていた。
     私はといえば、その陰鬱なムードを横から眺めつつ、田端さんと一緒に節電のゲームを作っていた。節電はゲームのように楽しめる要素がある、とそう思った。私と田端さんが、緊急にこしらえた節電のゲームは、それほどたいそうなものではなかったけれども、ゲーム業界関係のニュースで積極的にとりあげたいと思えるようなニュースがほとんどなくなっていたそのタイミングで、数少ないポジティヴなニュースとして、多くの人に取り上げてもらった。
     それはそれで嬉しかったし、取り上げてくれた人々や協力してくれた人々には今でも感謝をしている。だが、その一方で、なぜ自分ごときの不完全なゲームがこれだけ取り上げられてしまうのか、ということを何かふがいなくも思えた。多くのゲームが発売延期を発表し、尊敬するゲーム業界の友人たちが落ち込んでしまったその風景は、何か、私がとても長い時間をかけてきた、ゲームという文化が敗北した瞬間でもあるように思えた。なぜ、私が尊敬してきたゲームの開発者たちは、もっと素晴らしい節電のゲームを、もっと素晴らしい、震災のいま、必要とされるゲームを作ってくれないのか。なぜ、みんな沈黙したままなのか、と思った。
     当時の状況下において、そういったことを、ゲームにかかわる企業の中の人間がそういう動き方をすることに難しいところがあることはわかっていた。だから、私が感じていたそれは、わがままな感情の一種だと言われればそういうものだというのも、わかっていた。だが、ふがいなく感じたということは事実だ。
     「ゲームというものは、楽しいものでなければならない」
     これは、ゲームにかかわる人々の矜持であるのと同時に、呪縛のようなものでもあるように思う。
     多くのゲームというのは、確かに楽しいものだ。だが、「ゲームとは楽しいものだ」という想像力が、ゲームを通じて弔いをしたり、ゲームが社会的な問題提起をしたりする多様なプラットフォームとして機能しうる想像力を奪うものにもなっているのではないだろうか。
     つまらないゲームをみんなが作るべきだとか、無理やり前衛的なゲームを作ることが素晴らしいとか、そういう話ではない。ゲームというのものが、単に「快楽」の問題として語られ続ける限り、「快楽」であることによって、社会のさまざまな場所へとゲームが立ち入ることが禁止される、という問題が起こることになる。

     たとえば、『Pokemon GO』をめぐって先月(2016年7月)に起きた多くの「禁止」事例はまさにそのようなものだった。
     アウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館、アーリントン国立墓地、グラウンド・ゼロ、広島の平和記念公園などさまざまな場所で、「この場所はPokemon GOを楽しむのにふさわしい場所ではない」ということが問題となりPokemon GOが禁止された。
     これは、土地をめぐる権利者の異議申し立てプロセスとしては、当面は妥当な手続きといってもよいものだろうし、問題が起こった場合の対応に対する費用負担者の問題からしても一定の妥当性がありうる。そのため、特にこれらの禁止措置を申し立てた人々が偏狭だとか、そういうことを言うつもりはない。
     ただ、これらの禁止措置の理由の一つとして挙げられたのは、いずれも、ゲームをするという行為が、「快楽」のためのものであるという見立てに従っているということだ。

     別の例を挙げよう。
     1999年4月に米コロラド州のコロンバイン高校で起きた銃乱射事件をモデルにして、犯人たちの虐殺を体験できるゲーム『Super Columbine Massacre RPG!』(2005)は「不謹慎だ」として数多くの反感を買った。
     しばらくして、『Call of Duty Modern Warfare 2』(2009)(以下、『CoD:MW2』)という世界的な人気ゲームタイトルでも、マフィアに潜入捜査を行い、潜入捜査の過程でマフィアと共に、ロシアの民間人を虐殺する、というシーンがゲームに登場した。これは、日本でローカライズされて発売された際には「警察官には発砲できるが、民間人を殺したらゲームオーバーになる」という改変が行われ、民間人を虐殺するという良心を試すような行為は予め禁止されてしまった。
     これらは、いずれもゲームのなかで「虐殺を経験する」ということが不謹慎だとみなされた例だ。実際には、いずれのゲームでも、ゲームプレイヤーは虐殺の経験を単なる「快楽」として経験させることに主眼が置かれているわけではない。ゲームをすることはプレイヤーにとってどちらかと言えば、気分の悪い、良心を試されるような行為として心に残るような、そのようなものとして演出されてきた[2]。
     『CoD:MW2』の日本語版での改変については、少なくない数のゲーマーたちが、ありえない改悪だ、ゲームという文化を馬鹿にしている、として不快感を示した。
     その不快感は当然のものだと思うその一方で、このような批判を生み出す一因をゲーマーたち自身が作り上げてきたという側面もある。これらのゲームで民間人を殺すことが「不謹慎」だと思われる理由は、ゲームが何よりも快楽のためのものだということが社会的に強力なイメージとして想定されているからだ。そして、ゲームの開発者や、ゲームプレイヤーは、ゲームとは何よりも楽しいことが第一だということを、ゲームという文化のプライドとして築き上げてきた。
     ゲームに対して怪訝な視線を向ける人々のそれと、ゲームプレイヤーの文化的プライドは、ゆるやかな共犯関係にあるのではないか?「こんなに楽しいものは他にない」「楽しくなければゲームじゃない」といったことを言う、ゲームファンは、数多くいることだろうと思う。そしてこういった発言は、ゲーマーの日常感覚としては、とてもよく理解のできるものだ。
     だが、ゲームという文化が奥深く、多様なものだという主張をしたいのであれば、「楽しくなければゲームじゃない」と言うことは、ダブルスタンダードになってしまう。
     「ゲームは楽しいものでなければならない」という言辞は、プライドでもありうるし、呪縛でもありうる、というのはそういうことだ。
     「ゲーム」という現象の全体を記述しようと試みた時、確かに「楽しさ」という要素は、とても重要な役割を果たしている。しかし、それだけがゲームというものを規定するわけではない。
     本連載はそのようなこともまた、問題の一つとしている。

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