大河連載「伝説」

2008年05月30日

未だ破られぬ幕内97場所

【国技に黒船 高見山(10)】

 病院のベッドで悔し泣きした。厳しいけいこで流した涙を「これは汗よ」と言ってごまかした高見山が、この時ばかりは人目も気にしない。ねんざした左足首を恨めしげに見て、涙をポロポロ流した。

 1964年(昭39)夏場所で初めて番付にしこ名が載って以来、休むことなく土俵に上がり続けた記録が止まった。81年秋場所前の新潟巡業中に左足首を痛め、無理して初日こそ土俵に上がったが、ついに5代目高砂親方(元横綱朝潮)に説得されて休場した。17年半、無休で1425回出場は歴代4位。幕内連続出場1231回は今も残る最多記録だ。

 東関親方「あのときは、がっかりした。師匠が無理だからすぐ入院しろと。私はそれまで大きな故障が1度もなかった。今の若い力士は故障ですぐに休むでしょ。自分自身、本当によく頑張ったと思いますね」。

 それまでも休場のピンチは何度もあった。73年九州場所。夜中に激痛に襲われ、救急車で病院に運ばれた。尿道結石だった。治療を受け翌日も土俵に上がった。数年後にも結石に苦しんだが、連続出場記録を張り合いに「皆勤」を守った。

 記録が止まり、引退が現実味を帯びてきた。しかし、高見山の気持ちはなえていなかった。十両陥落寸前から1年、38歳で小結に復帰。このころは毎年、正月に家族の前で「40歳まで相撲を取る」と誓い、気持ちを奮い立たせてきた。

 目標の40歳まで約1カ月となった84年夏場所、ついに「その時」が来た。前年の九州場所で左ひじを剥離(はくり)骨折して途中休場。強行復帰した初場所も途中休場に追い込まれ、十両に陥落した。再入幕を果たせず、この場所は「負け越せば引退」を家族にも宣言して臨んでいた。9日目で1勝8敗。まげを切る決意を固めた。

 千秋楽。長男の弓太郎(32=米大ヤンキース通訳)は、その日の父親の大きな背中が忘れられないという。「朝、母と一緒に父を『いってらっしゃい』と見送った光景は今でも覚えている。土俵を降りて花束を渡されて泣いていたのをテレビで見た。(40歳まで)あと1場所でゴールだったのに。悔しかったと思う」。

 東関親方「40歳までできなかったのは残念だったけどね。ハワイから日本に来たとき、そんな長くやるとは思わなかった。若いときに、けいこしてきたおかげ。相撲がいやなときもあった。調子が悪いときもあったですね。ケガのときも。でも、私は出た。幕内97場所。それが一番の誇り」。

 日本人が好む努力と辛抱を重ね、引退時に史上1位記録を17も残した。横綱朝青龍を筆頭に、今や当たり前となった外国出身力士の源流が高見山だった。「外国人はギブ・アンド・テイクのつき合いというイメージがあったが、彼は義理人情に厚くてね。部屋は違うけど、よく面倒を見てくれた」。同期入門の武隈親方(元関脇黒姫山)はしみじみと言う。「生まれ変わっても力士になりたい」。引退会見での言葉は、相撲ファンの胸を熱くさせた。高見山は心も日本人だった。(この章おわり=敬称略)【西尾雅治】

 ◆高見山引退時の史上1位記録 20年を超える土俵生活で、引退時には17もの記録を塗り替えた。のちに通算出場回数こそ元小結大潮と元関脇寺尾に抜かれたが、幕内在位97場所。幕内出場1430回など現在でも11項目は1位のまま。中でも幕内連続出場1231回は、2位の元関脇巨砲の1170回を大きく引き離し、13年4場所以上続けて出場しなければならない大記録だ。横綱、大関との対戦に関する記録など、いかに長い間、幕内上位で戦ってきたかが分かる。

May 30, 2008 12:00 AM

2008年05月29日

エリート相手に燃えた雑草魂

【国技に黒船 高見山(9)】

 昭和40年代から50年代前半、高見山は相撲人気を支えた数々の名勝負を演じた。中でも、横綱初代若乃花の実弟の大関貴ノ花、学生横綱から角界でも綱を張った輪島らエリートにはライバル心を燃やした。

 「まげがなかったら相撲は取れない」。貴ノ花が残した名セリフは、高見山との一番で生まれた。

 1980年(昭55)秋場所7日目。高見山の突っ張りをかいくぐった貴ノ花はもろ差しから左を抜いて右下手投げ。高見山も左から小手投げを打ち返した。2人はほぼ同時に倒れた。行司軍配は貴ノ花。だが、物言い。貴ノ花のまげが先に土俵についたとして高見山の勝ちになった。

 東関親方「あれはよく覚えている。私も投げを打った。倒れたとき、貴ノ花の方は見えなかった。負けたかなと思った。でも、私の勝ちになってビックリしたね。まげの差だったけど貴ノ花に勝ててうれしかったですね」。

 これが実に45度目の対戦だった。巨漢の“ガイジン力士”と小兵のプリンス。ハワイから日本の国技に挑戦したハングリーな雑草と入門時から注目されたエリート。弁慶と牛若丸の対決にも例えられた対照的な2人が、相撲ファンを熱くした。昭和を代表するライバルストーリーの象徴的な名勝負が「まげ差勝ち」。それが最後の対戦でもあった。

 東関親方「けいこで貴ノ花と初めて対戦したのは、札幌巡業だったと思う。向こうは昭和40年5月が初土俵でしょ。私は2年目。けいこで10番やって全く勝てなかった。貴ノ花は体は小さかったが、とにかく腰が重かった。本当に強かったですね」。

 幕内での初めて顔を合わせたのは、69年初場所の12日目。西前頭6枚目の高見山と同11枚目の貴ノ花の対戦は、この場所で29度目の優勝を果たした大横綱大鵬の取組以上に注目された。結果は、押した高見山が引かれてバッタリ前のめりに倒れた。ここから4連敗したが通算では16勝29敗と健闘した。

 もう1人が、学生横綱として鳴り物入りで角界入りした輪島だ。史上2位の獲得金星12個のうち、7個が輪島から。下半身の弱さから、あっけなく転がることもあった高見山だが、初土俵から1年足らずの5場所で入幕した超大物にはキラーぶりを発揮した。

 学生相撲には当時、大型力士が少なかった。正攻法の四つ相撲が主流だっただけに、押し相撲の高見山は天敵だった。「大きい相手は好きじゃなかった。高見山は立ち合いでガツンと当たる。(突っ張られて)手の跡が3日ぐらい(胸に)残ったこともあった」と輪島は振り返る。

 東関親方「私は、ただぶつかっただけ。合口がよかっただけですね。私は欠点もある。つかまったらダメだからね」。

 通算対戦成績は43戦して高見山の19勝(不戦勝1含む)24敗。輪島にも貴ノ花にも数字の上では負け越しているが、ファンのまぶたには高見山の「強さ」を焼きつけた。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆高見山のライバル 最も対戦が多かったのは貴ノ花との45回。「弁慶と牛若丸の対決」と例えられた人気者同士の一番は、通算16勝29敗だった。次いで多いのが北の湖(8勝35敗)輪島(19勝24敗)との43回。輪島にとっては21敗(23勝)した北の湖の次に多くの黒星を喫した相手だ。輪島が横綱に昇進した後も13勝17敗と互角に近い成績を残した。そのほか三重ノ海と39回(16勝23敗)魁傑とは38回(18勝20敗)対戦している。

May 29, 2008 12:00 AM

2008年05月28日

親方になるため「日本人」に

【国技に黒船 高見山(8)】

 引退後の青写真を描き始めていた高見山は、思わぬ形で決断を迫られた。日本人でなければ、親方にはなれない-。1976年(昭51)秋場所後の理事会で、日本相撲協会は親方になるために必要な年寄名跡取得の条件に「日本国籍を有する者」という条項を新たに加えた。

 それ以前は、幕内を1場所以上、または十両を連続20場所、もしくは通算25場所務めれば資格を得られた。日本の国技としての伝統を尊重し、保守的な考えが大勢を占めた当時の相撲界。明らかに「外国人・高見山」の動向を意識した突然の改定だった。

 東関親方「なんで私だけダメなのか。最初は恨んだね。協会に残るには、日本人になるしかない。悩みましたね」。

 相撲協会が衝撃的な発表をする4カ月前、高見山は涙にくれていた。夏場所直前の5月6日、最愛の母リリアンが53歳で他界。糖尿病を患い、片足を切断するなど長い闘病生活の果てだった。「いつか母を日本に連れてくる」という願いはかなえられなかった。だが、高見山は悲報を周囲には隠し、帰国することなく場所を全うした。

 相撲のために日本に行くことには当初猛烈に反対したリリアンだったが、高見山の一番のファンでもあった。ラジオに耳を傾け、電話や手紙で励まし続けた。心配をかけ続けた母の死。引退も視野に入ってくる31歳の小結(当時)は、気持ちを奮い立たせた。

 東関親方「私は長く相撲を取りたいと思った。相撲しか自分にはなかったから。(4代目)高砂親方(元横綱前田山)が亡くなる1年半ぐらい前に呼ばれて、言われたことがあった。『お前の将来のことを考えている。相撲界に残したい』。親方になることを勧められました」。

 相撲協会の規則改定で夢をかなえるには日本国籍を取得しなければならなくなった。数千万と言われる名跡取得資金も必要になる。タイミングよく、CM出演など副収入を得られるようになった。だが、以前から懸案となっていたのが税金の問題だ。市民権を持つ米国と住民票のある日本と二重払いしていたからだ。

 東関親方「妹やハワイの知り合いに、将来のことを聞かれて『親方になりたい』と言った。誰も反対しなかったですね。みんな『いいんじゃないか』と言ってくれた。女房も賛成だった」。

 決意は固まった。79年5月に11代目東関親方(元前頭朝登)が角界を去った。株が空いたため、同年9月に国籍変更を申請。翌80年夏場所後の6月3日、異例のスピードで許可された。夫人の旧姓としこ名から命名した「日本人・渡辺大五郎」が誕生。長男弓太郎、長女理江も同時に日本人になった。

 だが、親方として東関を襲名するのは、これから4年も後のこと。高見山は天国の母に見守られ、土俵に立ち続けた。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆年寄名跡 「年寄株」と「親方株」とも俗称される。協会の「年寄名跡目録」に記載された年寄の名称で、現在は105ある。引退した力士は年寄名跡を襲名継承して初めて協会に残ることができ、弟子の育成や協会運営にあたる。襲名継承資格は(1)日本国籍を有する者(2)幕内通算20場所以上、幕内・十両通算30場所以上、3役1場所以上のいずれかを満たすか横綱・大関を務めた力士に限られる。定年は65歳。特例として一代年寄がある。

May 28, 2008 12:00 AM

2008年05月27日

「プロレス転向」大騒動

【国技に黒船 高見山(7)】

 1975年(昭50)5月1日、相撲界をにぎわす大騒動が起こった。高見山がプロレスに転向する-。30歳を超え、引退もささやかれていた人気者の格闘技転向は、その数年前からうわさされていた。日刊スポーツは、ハワイの有力プロモーターと契約していた事実をキャッチ。「ホノルルに高見山レスリングジムを開設」と報じた。

 当時から、角界からプロレスへの転身は決して珍しいことではなかった。戦前には駿河海、昭和30年代には元横綱東富士、元大関の力道山らがマットで活躍。全日本プロレスのジャイアント馬場も「ぜひ来てほしい」とエールを送った。だが、高見山は一貫してプロレスラー転向を否定し続けた。

 東関親方「私はプロレスに行くつもりはなかったですね。でも実はね、サインはしました。引退した後、もしプロレスに行くならマネジメントさせてほしいという契約。その人たちが、あんまりしつこかったから」。

 騒動ぼっ発前年の九州場所でのことだった。「Go For Broke(当たって砕けろ)」と刺しゅうされた化粧まわしを贈るなどハワイで高見山の後援会的な存在だった442除隊クラブのラルフ円福が米国の弁護士を連れ、高見山に話を持ちかけたという。ハワイにプロレスのジムを構え、日本だけでなく米国マットにも進出する具体的なプランまで考えていた。

 東関親方「その人たちは、私が相撲に行くことを勧めたのに、なぜプロレスに誘うのか分からなかったね。でも、女房も反対した。私もまだ相撲をやめる気持ちはなかったですね」。

 本人の考えとは裏腹に、なぜ周囲はその気になり、話題が独り歩きしたのか。それは持ち前のサービス精神が発端だった。地方巡業に出ると、高見山は余興で“プロレスごっこ”をやっていた。

 東関親方「巡業のとき、けいこの最後に、私は『いいとこ(冗談などで話を面白くする)』ばっかりしていた。エルボーとか空手チョップとか、マネをしていた。大げさなアクションでよろめくとかね。そうやるとお客さんが喜んだから」。

 ひょんなことから大騒動に発展していった。揚げ句の果てには、断り切れずマネジメント契約まで交わしてしまうとは…。もっとも、プロレス転向に興味がなかったからこそ、サインをしても構わなかった。引退などまだ考えてはいなかったのだ。

 東関親方「よく聞かれるのは、なぜ曙や小錦が今、親方やってないのかということ。彼らは30歳ぐらいでしょ、引退したのは。30歳ならまだほかのことをやりたいエネルギーがいっぱいあるね。私も、もし30歳で引退していたら、何をやったかは分からなかったけどね」。

 高見山はプロレスより、むしろ親方業に興味を持ち始めていた。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆力士とプロレス 大柄な体を生かしてプロレスラーに転身する例は多い。「日本プロレス界の父」と呼ばれる力道山は、48年夏場所に殊勲賞を獲得した元関脇。元横綱輪島は86年に全日本プロレスに入門し、元前頭筆頭だった天龍との戦いでマットを盛り上げた。現役では曙(元横綱)維新力(元十両)田上明(元十両玉麒麟)力皇猛(元前頭力桜)安田忠夫(元小結孝乃富士)らが活躍している。

May 27, 2008 12:00 AM

2008年05月26日

ハスキーCMの陰に悲話

【国技に黒船 高見山(6)】

 ボルサリーノをかぶり、ピンストライプのスーツできめた高見山が、軽快にタップダンスを踊る。200キロ近い巨漢からは想像もできない軽い身のこなし。「トランザム!」。独特のしゃがれ声で叫ぶ。CM大賞まで受賞した松下電器の新小型テレビのCMは、茶の間の話題をさらった。

 1977年(昭52)2月、このCMでデビューした関取は、愛嬌(あいきょう)のあるコミカルなキャラクターと、いかにも相撲とりというようなつぶれた声が受け、次々とCMに登場した。同年には「ニバイ、ニバーイ」のフレーズで一世を風靡(ふうび)した寝具メーカー丸八真綿、富士通ワープロ、P&Gの洗濯洗剤など13社・団体で起用され、力士のイメージを変えた。「ニコニコっとした笑顔。あれは人徳だね。うらやましいぐらいだった」と同期入門の武隈親方(元関脇黒姫山)は振り返る。

 東関親方「CMはよかったね。アルバイト。当時は十両で(給料は)5万円程度、幕内でも10万円ぐらいと場所手当だけ。CMが(1本)いくらだったか、もう忘れたけど、家を建てたね。私は恵まれてました」。

 CMでの年収は4000万円近くになった。74年2月に渡辺加寿江と結婚した高見山は、CMのギャラを資金の一部にして東京都内の高級住宅地に当時で1億3000万円と言われた7LDKの白亜の豪邸を建てた。現在では、テレビドラマのロケにも使われているという。

 相撲での最高位は関脇だったが、CM出演効果もあって人気は横綱だった。7代目となる現高砂親方(元大関朝潮)は「あんなに大柄なのにリズム感がいい。1度、小鼓をたたいていたのを見たことがあるが、うまくて驚いた」という。だが、一般人にもモノマネされた独特のハスキーボイスは後天的なもので、実は悲話から生まれたものだった。

 来日3年目の66年春場所前。東幕下17枚目だった初場所中に風邪をひき、扁桃(へんとう)炎を患った。1勝6敗と初めて大きく負け越し、場所後に手術を受けた。2週間ほど休み、春場所に向けてけいこを再開。ある日、ぶつかりげいこで相手ののど輪が入った。

 東関親方「親指がのどの骨の部分にグイッと入った。すごく痛かった。1週間ぐらい固いものは食べられなかった。手術すれば治ると医者に言われたが、けいこを休むわけにはいかない。休んだら親方も怒る。関取になった後も米軍の病院に行ったけど、2度と相撲が取れなくなるかもしれないと言われた」。

 もともとは、今では想像できない美声だったという。十両に上がるために必死だった高見山は、声をつぶしたままけいこを続けた。声を代償に、1年後に悲願の十両昇進を果たした。後にそのハスキーボイスで親しまれ、CM横綱の個性になるとは思いもしなかっただろう。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆力士とCM 昭和50年代が花盛りで、中でも高見山は「CM横綱」と呼ばれた。千代の富士は81年初場所の初優勝を機に鉛筆や湿布、日本酒などのCMに出演。2代目横綱若乃花も美男で人気だった。輪島と貴ノ花は引退直後に男性化粧品CMで共演。旭国や麒麟児、魁傑、朝潮、琴風らも土俵とは一味違ったユニークなキャラクターを出していた。当時の契約金は推定500万~2000万円。最近では朝青龍や白鵬、琴欧州、高見盛などが出演している。

May 26, 2008 12:00 AM

2008年05月23日

屈辱ハワイ巡業バネに十両

【国技に黒船 高見山(5)】

 大阪市南区(現中央区)の久成寺内にある高砂部屋には、早朝から約50人の報道陣が集まっていた。1967年(昭42)3月4日、高見山にとって人生最高の日だった。大阪場所の番付が発表され、ついに十両昇進が正式に決まった。初土俵から3年。日系人を除いて初めての外国人関取の誕生だった。

 東関親方「うれしかったね。付け人も2人ついたね。でも、すぐに幕下に落ちる人もいる。えらそうにする人もいましたけどね、私は、ちょっとしたことは自分でやりました。大きかったのは給料が出ること。5万5000円だったけど。その時からお酒とか遊びを覚えた。(関取になったからできる)うれしい遊びね」。

 付け人になるか、付け人がつくかは、地獄と天国の差があるといわれる。関取になるまでに、何人もが厳しいけいこと上下関係に嫌気がさして辞めていった。高見山もホームシックには何度もかかった。来日1年目はガムシャラ。東京五輪が終わり、秋風が冷たくなるころから寒さ、つらさが身に染みてきた。

 東関親方「パスポートはおかみさんが金庫にしまっていたから私は帰れない。よく一流ホテルに行ってお母さんに国際電話したね。でも『みんながジェシーの活躍している情報を待っているよ』と言われてね。ハワイの知らない人からも手紙が来た。もう少し、頑張ろうと励まされた」。

 もう1つ、幕下で壁にぶち当たっていた高見山が、猛烈に発奮する“事件”があった。66年6月のハワイ巡業。各島を順々に回り、マウイ場所のときだった。ちょうどその日(16日)は高見山の誕生日。最前列の席には、母リリアンをはじめ家族、親族が陣取っていた。巡業では取組前のけいこも観客に見せる。関取衆が若い弟子やアマ力士を相手にしたが、そのとき、高見山がぶつかりげいこの相手に指名された。

 東関親方「柏戸関(横綱)や豊山関が胸を出してくれた。関取が相手をしてくれるのは、本当はありがたいこと。でも、何度も倒され、ぶっ飛ばされるから、お母さんは私がいじめられていると思ったみたい。後で聞いたけど、泣いていたらしい」。

 高見山にとってはご当地場所。国内の地方巡業でも地元力士に花を持たせることがある。高見山は相撲界に入ってから初めての帰国で、ハワイでは熱烈な歓迎を受けていた。先輩力士たちが「タコになるな」(てんぐになるな)とかわいがった(厳しくけいこをつけた)わけだ。

 東関親方「悔しいというか、もっと頑張ろうと思った。次は、絶対に関取になって帰ってくると思った。次の場所から4場所連続で勝ち越して、十両になったね」。

 忘れられない誕生日の屈辱をエネルギーに変え、高見山が相撲界の歴史をも動かした。十両を5場所で通過し注目された新入幕の68年初場所で9勝6敗。いきなり敢闘賞まで獲得した。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆十両と幕下 厳しい番付社会の中で一人前として扱われる待遇の分かれ目。十両以上は「関取」と呼ばれ、協会から100万を超える月給が支給される。大銀杏(おおいちょう)や絹の締め込み、羽織はかま、けいこ場での白のまわしが許され、幕下以下の付け人がつく。部屋は十両昇進で個室を与えられることが多い。化粧まわしを締めての土俵入り。仕切り前に塩をまいたり水をつけてもらえるのも、原則として関取だけ。元幕内力士といえども、幕下に落ちればその特権を失う。

May 23, 2008 12:00 AM

2008年05月22日

猛げいこ…「泣いてません、汗です」

【国技に黒船 高見山(4)】

 初めて見る雪だった。1964年(昭39)2月23日、ハワイから羽田空港に到着したジェシーは日本の寒さに震えた。東京・両国の高砂部屋で初めて迎えた日本の夜は、布団を何枚も重ねて寝た。

 東関親方「次の日の朝、窓を開けたら真っ白。屋上に上がって見たね。でも、まだそのときは寒さは我慢できた。これから、たくさん日本を見るんだと思っていたから」。

 5日後には大阪で行われる春場所のために移動。早朝からの厳しいけいこが始まった。「股(また)割りのときは、1人が手を持って前から引っ張って、もう1人が後ろからグイグイ押す。よく『ギャー』って叫んでたよ」。兄弟子だった高田川親方(元大関前の山)は懐かしむ。

 東関親方「股割りが一番きつかったね。私、下半身が硬い。当時は5時から昼の12時ぐらいまでけいこした。ある親方にはよく『はい、しこを万回やって』と言われた。私は万回って分からない。エンドレスってことだった」。

 春場所の前相撲は本名のジェシーで取ったが、翌夏場所を前に「高見山」を贈られた。優勝制度が誕生した1909年(明42)夏場所で優勝した高見山酉之助の由緒あるしこ名。4代目高砂親方(元横綱前田山)の期待の表れだった。師匠は英才教育のため、元十両の響矢を特別コーチに指名。マンツーマンで指導させた。部屋全体のけいこが終わると、高見山のぶつかりげいこが始まるのが恒例だった。

 東関親方「毎日、私だけが、かわいがられた(厳しくけいこをつけられた)。30分ぐらい。なんで私だけ? どうしてこういうことをしなきゃいけないの? と思った。この野郎、覚えておけ。早く関取になると思ったね」。

 中村親方(元関脇富士桜)が振り返る。「響矢さんとのけいこは、見ていても大変だった。苦しかっただろうね」。序ノ口、序二段と連続優勝するなど番付はグングン上がったが、けいこはいっそう厳しくなった。あまりの苦しさに泣きながら耐えた。意地もあった。

 東関親方「東富士さん(元横綱)に『ジェシー泣いているのか?』と聞かれたけど『違います。汗です』と言ったのを覚えている」。

 けいこ場を離れれば、ちゃんこの恐怖が待っていた。来日当初こそ、おかみさんの好美が、高見山のためにから揚げや卵焼き、ホットケーキなどを作ってくれた。だが、それも数日間だけだった。

 東関親方「白い魚がダメだった。でもおなか減るね。体重も減った。もう、我慢して、少しだけ汁をすくって食べた。高砂親方は食べ残しにうるさい人だった。でも、私は全部は食べられないときもあった。あるとき、それを見たおかみさんが『ジェシーよこしなさい』って、私の丼を奪って食べ始めた。ビックリした。おかみさんは普通、そんなことしないですよ。だから私は『ダメ、ダメ』って慌てて取り返して、必死に食べましたね。ちゃんこは1年ぐらいでやっと慣れたね」。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆歴代の高見山 「高見山」のしこ名を最も古く確認できるのは江戸時代、1794年11月場所の勝負付。番付に名前がない高見山が三段目格で登場する。翌年3月に「高見山彦五郎」が載るが翌場所から名前を消し、わずか2場所の短命力士だった。その後は高砂部屋の由緒あるしこ名として受け継がれ、現東関親方は14代目の「高見山」である。中でも8代目はその後に高砂浦五郎と改名し、初代高砂親方になった。11代目は1909年夏場所、旧両国国技館が完成して、優勝制度ができた場所に優勝した。

May 22, 2008 12:00 AM

2008年05月21日

型破り高砂親方に導かれ日本へ

【国技に黒船 高見山(3)】

 高見山を相撲界にスカウトしたのは、型破りな人物として知られた4代目高砂親方(元横綱前田山)だった。1964年(昭39)2月のハワイ巡業。関取衆のけいこ相手として、ハワイ各島からアマ相撲の代表者十数人が呼ばれた。マウイ相撲クラブに所属していた19歳のジェシーもいた。

 東関親方「初めて見たプロのお相撲さんは大きくてね、ビックリした。大鵬関、栃ノ海関、若羽黒関とかね、みんな怖い顔していた。けいこをつけてもらうために順番に並んでいるときは、ドキドキした」。

 初日のけいこの後、1人だけ高砂親方に呼ばれた。「日本に来ないか? 5年は面倒を見る」。ジェシーは驚いた。だが同時に、いいようもない喜びがわいてきた。

 東関親方「うれしかったね。日本に行けるチャンス。私の友達、日系3世も多かった。日本はどんな国か、いっぱい見たい。フジヤマも見たいと思った」。

 高砂親方はその2年前に、親交ある明大相撲部監督の滝沢寿雄から、まわし姿のジェシー少年の写真を見せられていた。マウイからわざわざジェシーを呼んだのも、スカウトするためだった。

 当時、相撲は日本人のものという考えが一般的だった。だが、高砂親方に閉鎖的な考えはなく、新しいもの好きな面もあった。横綱時代の49年10月。休場中に、日米野球で来日中していたサンフランシスコ・シールズの試合を観戦。オドール監督と握手している写真が新聞に掲載された。これが大騒動になり、責任を取って引退。後に「シールズ事件」と呼ばれた。51年には藤田山、大ノ海らを連れてアメリカ巡業に出るなど前衛的で特異な存在だった。

 「高砂親方がラスベガスに行ったとき、洋式トイレを初めて見て『これはケガ人にいい』と買って帰ってきた。だから、高見山が来る前から部屋には、まだどこにもなかった洋式トイレがついていた」と、高田川親方(元大関前の山)は証言する。

 ハワイ原住民のカナカ族の血をひく19歳に相撲界の扉を開いたのも、高砂親方が海外に目を向けていたからこそ。ジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルアの運命が、思いもよらぬ方向に進んだ。

 東関親方「日本に行きたいとお母さんに相談したら『家族をみるのはお前しかいない』と泣いて反対された。でも、マウイ相撲クラブの小笠原さんが説得してくれた」。

 もう1つの問題は、ハワイの州兵として6年契約していたこと。まだ10カ月しか務めていなかった。だが、当時のバーンズ州知事がすんなり許可を出した。「日本とハワイの関係がよくなるんだから、君は向こうで頑張ってこい」。64年2月22日、周囲に後押しされ、ジェシーは希望を胸に、あこがれの日本へ出発した。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆前田山英五郎(まえだやま・えいごろう) 本名・萩森金松。1914年(大3)5月4日、愛媛県生まれ。29年春場所初土俵。37年春場所新入幕。入幕4場所目で大関になり、44年秋場所で9勝1敗で初優勝した。47年秋場所で第39代横綱に昇進、戦後初の横綱になった。突っ張りが得意で双葉山や羽黒山に激しくぶつかる取り口は土俵を沸かせた。49年秋場所限りで引退。引退後は4代目高砂親方として横綱朝潮や大関前の山、関脇高見山を育てたほか、海外への相撲普及にも尽力した。71年8月17日、57歳で死去。

May 21, 2008 12:00 AM

2008年05月20日

アメフトのため母のため

【国技に黒船 高見山(2)】

 外国人力士として史上初めて幕内優勝した高見山は、高校時代はハワイ・マウイ島で無敵を誇るアマ相撲の強者だった。だが、決して日本で力士になるために相撲に励んだわけではない。

 東関親方「高校入学前のサマースクールで、アメリカンフットボール部に入った。コーチはラリー宍戸さん。日系2世だった。下半身を鍛えるために筋トレと相撲をやらされた。週に2、3回はマウイ相撲クラブに通った。面白かったけど、相撲はアメフトでうまくなりたいからやっただけ」。

 ハワイ州になった記念日(6月11日)や米国の独立記念日(7月4日)にオアフ、マウイ、ハワイの3島相撲大会があった。ジェシー少年は高校1年のとき、警察官ら地元の猛者数人と一緒にマウイ代表として初めて出場。185センチ、135キロの体にものをいわせ、体ごとぶつかっていく相撲で圧倒した。

 東関親方「勝ったら商品がもらえた。時計つきのトランジスタラジオとか、砂糖、缶詰とかね。勝ち抜きで3番勝ってしょうゆ1瓶もらった。家に持って帰ったらお母さんが喜んでね。よーし、来年も頑張るぞって」。

 ジェシー少年は終戦前年の1944年6月16日に、6人兄弟(男3、女3人)の長男として生まれた。大柄で知られるハワイ原住民のカナカ族の中でも特別大きく、4900グラムで誕生した巨大ベビーだった。決して恵まれた家庭ではなかった。父親は別居状態で、ジェシー少年が母リリアンを支えた。将来は警官になることが夢だった。

 相撲大会に初出場した翌61年、転機が訪れた。日本から学生相撲の横綱ら2人を連れ、明大相撲部監督の滝沢寿雄がハワイにやってきた。マウイ相撲クラブのコーチで日系2世のイサム小笠原が「1度見てほしい子がいる」と推薦したのがジェシー少年だった。

 同行した北条巌氏(元明大相撲部監督)は「大きくて力強かった。外国人にしては、意外に足腰が強い」とマウイの怪童に圧倒された。

 その夜、滝沢はジェシー少年を宿舎へ呼び「日本に来ないか」と勧誘した。だが答えは「NO」。まだ17歳の高校生にとって、夢のような話だった。

 東関親方「滝沢先生に写真だけでも撮りたいと言われた。私はパンツの上にまわしをつけていた。まわしだけと言われ、恥ずかしかった。夜だし、誰も見てない。ちょっとだけだからと思って、パンツを脱いで初めてまわしをつけた。変な感じだった」。

 その1枚の写真が、ジェシー少年の運命を切り開いた。滝沢監督は帰国後、懇意にしていた4代目高砂親方(元横綱前田山)にマウイの怪童の存在を教えた。2年後の64年2月、同親方を団長とする大相撲の一行が、ハワイ巡業のためにやってきた。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

 ◆ハワイと角界 これまで海外最多9度の巡業が行われている。1914年を皮切りに、62年6月は戦後初の巡業を実施。高見山を含め7人の関取を生み、巨体と愛嬌(あいきょう)あるキャラクターで人気だった力士が多い。元大関小錦は現役時代の高見山にスカウトされ、史上最重量力士として3度優勝。11度賜杯を抱いた曙は93年春場所で外国出身力士初の横綱に昇進した。03年九州場所で引退した第67代横綱武蔵丸を最後に、ハワイ出身力士はいなくなった。

May 20, 2008 12:00 AM

2008年05月19日

大相撲300年 衝撃の一日

 ハワイからやってきた大男が、大相撲の新時代を切り開いた。ジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルア。厳しいけいこに耐え、文化・風習の違いを乗り越え、高見山として外国人力士初の幕内優勝を果たした。横綱朝青龍、白鵬らモンゴル勢が勢力を拡大するなど、今や相撲界は外国人力士花盛り。そのパイオニアが、元関脇高見山の東関親方(63)。異国の国技に挑戦した苦闘、葛藤(かっとう)、奮闘に迫る。

 大相撲の長い歴史を変えた瞬間だった。1972年(昭47)7月16日、名古屋場所の千秋楽。東前頭4枚目の高見山が初優勝した。史上初めて外国人力士が賜杯を手にした。表彰式ではニクソン米大統領(当時)の祝電が読み上げられ、192センチ、160キロの大男が肩を震わせた。表彰式で英語のスピーチが流れたのは、このときが初めてだった。

 東関親方「うれしかったね。外国人で初めてとかじゃなく、お相撲さんとして優勝できたことがよかった。一生懸命、けいこしてきたおかげだと思った」。

 最後まで優勝を争った「角界のプリンス」大関貴ノ花が目の前で敗れていた。もし高見山が負ければ、優勝決定戦にもつれ込む。館内のファンの大半は、対戦相手の旭国(現大島親方)に声援を送った。「高見山はやりやすい相手。負ける気はしなかった」と自信たっぷりの旭国だったが、右上手を引かれて寄り切られた。

 13勝2敗で日本の国技を制した外国人の偉業は称賛される一方で波紋も呼んだ。翌日の日刊スポーツは「国技大相撲敗れる」「大相撲300年 衝撃の一日」と報じた。柔道界では、61年の世界選手権、64年の東京五輪でアントン・ヘーシンク(オランダ)が優勝。外国勢力が日本のお家芸に脅威を与えていた。同じように高見山を“黒船”と見る向きも少なくなった。

 東関親方「私は、19歳のときに日本に来て、みんなと同じようにけいこしてきた。ずっと頑張ってきた。自分は運もよかった。その場所は、珍しいことがたくさん重なったからね」。

 場所前、高砂部屋に一門を超えて力士が出げいこにやってきた。二子山部屋、出羽海部屋勢を迎え、けいこ場は活気づいた。「当時では珍しいこと。なぜかは分からないけどね。私は最高のけいこができた」。もう1つは気候。7月の名古屋場所は、蒸し暑さが力士泣かせでもある。だがその年は、後に「昭和47年7月豪雨」と名づけられたほどの大雨が続き、ハワイアンの味方になった。

 場所が始まってからも幸運が続く。横綱北の富士が前代未聞の「不眠症」を理由に途中休場。大関大麒麟は右腕骨折、関脇三重ノ海も急性肝炎に倒れ、次々と上位陣が休場する異例の事態となった。千載一遇のチャンスだった。

 東関親方「千秋楽の前の晩、先代(4代目高砂親方=元横綱前田山)のおかみさんから『優勝してよ』と電話があった。優勝したいというプレッシャーで寝られなった。硬くなったけど、本当に勝ててよかった。先代は1年前(71年8月17日)に亡くなっていた。私を相撲にスカウトしてくれた人。先代がいなければ、今の私はなかったと思いますね」。

 ハワイ・マウイ島で体力トレーニングのために始めた相撲が、人生を大きく変えることになった。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

May 19, 2008 12:00 AM

2008年05月16日

激動の人生…孤独が親友

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(10)】

 王の野球に対する執念は凄まじい。06年7月、胃を全摘した際も、内視鏡での手術を選択したのは、開腹より早期復帰できるからだという。あれから1年もたたないうちにベンチに立ち尽くして指揮をとる姿は、痛々しく感じるときもあった。

 王「それが不思議なんです。ぼくはつくづく野球と出会って幸せだと思っています。20歳、30歳、40歳…、その都度取り組み方が違うし、野球ってマージャンと一緒で同じ手はないわけです。でも、バットを持たなくなっても、巨人からホークスに環境が変わっても、野球にだけは新鮮な気持ちになれるんです」。

 プロ入り後、新人時代に人種差別的な野次を飛ばされたこともある青年は、本塁打世界一に輝いた。そして巨人の王からホークス監督に就いた後も、生卵をぶつけられ、脱税事件、スパイ疑惑にも巻き込まれた。挙げ句にダイエーからソフトバンクへの球団売却を体験するなど波乱の連続だった。それでも王はグラウンドに立つことにこだわった。そして、20年連続Bクラスに低迷していたホークスを、常勝軍団に変えてみせたのだ。

 セ・パ両リーグで優勝した監督は、三原脩、水原茂、広岡達朗、野村克也に次ぐ史上5人目。今後は再度、巨人監督にという待望論もある。だが、王はその可能性をきっぱりと否定する。

 王「この年でジャイアンツに入ると死んじゃうよ。川上(哲治)さんも54歳で(巨人監督を)辞めたんですからね。巨人の監督は年寄りがやるべきじゃない。若い人がやらないとダメだと思います。コミッショナー? それも立ち消えたと思っています。確かに野球を通しての人生観、人には負けない経験もしてきました。でも、コミッショナーとなれば他の人以上にわからないこともあります。球界のリーダーとして引っ張っていかなくてはならない責任感もあるし、簡単な役職ではないです」。

 求道者、人格者…。世界の頂点に立ってから王の存在は常に特別視されてきた。胃に腫瘍があることが判明し、休養が記者会見で正式発表される3日前のことだ。ある人物から記者のもとに電話が入った。「王さんの体調が相当悪い。食事会も取りやめになりました。でも(新聞には)書かないでくれますか。本人も望んでいないし、自分から話すはずです…」。王は胃摘出手術のためグラウンドを離れる直前、律儀に身近な関係者に根回ししていた。巨人V9監督で、恩師の川上哲治は王に宛てて「人間は病気では死なない。人間は寿命で死ぬものだから、必ず治るから」と手紙をしたためた。

 手術後は、生活面での制限がある。しかし、これまでも、食事のときも、酒席でも、カラオケに興じるときも取り乱すことなく、どんなときも王貞治は“世界の王”の姿勢を崩さなかった。背筋をシャンと伸ばした生き方はこれからも変わらないのだろう。これから王はどこに向かうのだろうか。

 王「最終的にはこのままグラウンドで死にたいと思っていたんだけど…。それも無理みたいだ。本当はユニホームを着たままコトッと死ねればと思っているんですけどね。それは神のみぞ知るかな…」。

 最後に王に「王さんにとって孤独とはなんですか?」と聞いてみた。王は「僕にとって孤独? 親友みたいなものですかね」と言い残して、再びグラウンドに向かった(この章終わり=敬称略)【寺尾博和編集委員】

 ◆王貞治(おう・さだはる) 1940年(昭15)5月20日、東京都生まれ。57年、早実のエースとしてセンバツ優勝。59年、巨人に入団。77年にハンク・アーロンの持つ755号本塁打の大リーグ記録を抜き、初の国民栄誉賞を受賞。13年連続を含む本塁打王15回、打点王13回、首位打者5回、73、74年には2年連続三冠王に輝く。80年に現役引退。通算成績は2831試合、868本塁打、2170打点、打率3割1厘。助監督を経て84年、巨人監督に就任。5年間でリーグ優勝1回(87年)。94年野球殿堂入り。95年からダイエー(現ソフトバンク)監督に就任し、99、00、03年と3度リーグ優勝、99、03年は日本一に。06年春のWBCで日本代表監督として世界一に導いた。

May 16, 2008 12:00 AM

2008年05月15日

被弾投手への思いやり

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(9)】

 王に世界記録756号を打たれた元ヤクルト投手の鈴木康二朗は現在、福島県内でサラリーマン生活を送っている。

 「もう30年も前のことですからね。すっかり忘れました。だから申し訳ありませんが、取材はお断りしてるんです…」

 歴史に残る1球を配した瞬間から“打たれた男”の代名詞が付きまとった。しかし鈴木は王の言葉に救われたことを覚えていた。アーチを放った翌朝の新聞を読んだ鈴木の心は震えた。

 鈴木「そんなこともありましたね…。王さんが『巡り合わせなんだろうが、鈴木はしんどい思いをしたことだろう。申し訳ない気持ちだ』と語っていた。あれでこのまま終わっちゃダメだ、王さんに失礼になると思った」。

 王「あの雰囲気の中でピッチャーは投げにくかったと思います。フォアボールを出すとスタンドからブーイングがおこったしね。鈴木は運が悪かった」。

 いかなる時にも相手を思いやる王の人柄を表すエピソードは、兄の鉄城とのやりとりが原点にある。

 早実に入学した56年(昭31)春、日大三高戦に「5番投手」で出場し、4-0の完封劇を演じた。喜びを体で表現する弟に対し、東大球場にきていた兄の鉄城は「そんなに楽しいのか。相手の気持ちを考えろ」と説教した。以来、王が派手なパフォーマンスをみせることはなくなった。それは鉄城をして、「うれしいときは素直に喜び、悔しいときは耐えればいいのに、あれほどとは…。自然な生き方をさせてやれなかった」と、後に後悔させるほどだった。もちろん、父仕福の生きざまも他人を思いやる王の人生哲学に有形無形の影響を与えた。

 王「うちの父親は中国人だったし、日本に受け入れてもらったという気持ちが強かったんです。戦時中には第三国人として収容所に入れられたらしいし…。でも中国で生活するのが苦しく、日本で商売させてもらって曲がりなりにも店を出せるようにまでなった。兄も間違っていない。僕も生き方を悔いたことはありません。周りの人間への感謝の気持ちというものは、自分の心の中に知らず知らずのうちに入ってきたように思いますね」。

 頂点に上り詰めても、王は変わらなかった。80年10月12日の対ヤクルト戦(後楽園)で、現役最後の868号を打たれた神部年男(65=前オリックス投手コーチ)もその人柄を認める1人だ。

 神部「ユニホームを脱いだ後、近鉄のコーチ時代にキャンプ地の日向の宿舎でばったりお会いしましてね。向こうから言葉を掛けてもらった。ぼくは相手打者に感情を読まれるのを避けるのに帽子を目深にかぶるほうでね。(南海ホークスのエース)杉浦さんに『バッターとは視線を合わせないほうがいい』と教えられたんです。それでも王さんのにらみつけるような鋭い目つきは怖かったですよ。まさかあれが最後のホームランになるとは思いませんでした」。

 王の頭に「引退」の2文字が浮かんだのは、80年夏のことだ。868号はこの年30本目のアーチ。19年連続で30発の大台に乗せながら現役を退くのも、完璧主義の王らしい。

 「王貞治のバッティングができなくなった」

 11月4日、引退会見の席上、その名言を残して、王は静かにバットを置いた。

 選手、助監督、監督時代を通して30年間、巨人のユニホームを着続けた。充電期間を経て95年ダイエー(現ソフトバンク)監督に就任し、今季が14年目のシーズンとなる。果たして待望論が絶えない巨人復帰はあるのだろうか。王は静かに語り始めた…。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】

May 15, 2008 12:00 AM

2008年05月14日

国民栄誉賞にためらい

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(8)】

 1977年(昭52)の夏の終わりは「Xデー」に日本列島がわき上がった。王の通算ホームラン世界記録が国民的注目を集めた。

 前年、王はまずベーブルースを抜く715号を記録し、世界2位となった。これには、政府も動いた。首相の福田赳夫が閣議で「国民栄誉賞」新設を決め、王がその第1回受賞者に選ばれたのだ。

 授賞式は世界記録達成後に行われることになっていたが、王は外国人籍でいることが胸につかえていた。今ではスポーツ選手が帰化するケースは珍しくない。だが、王は今でも中国国籍でいる。

 苦い思い出がある。早実2年の57年センバツで初優勝、夏の大会もノーヒットノーランを達成するなど活躍したが、秋の国体に出場することが許されなかった。「参加資格は日本国籍を有するものに限る」。この規定に抵触した。

 実は、王は06年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、代表監督の打診を受けたときも就任をためらっている。「ぼくは中国籍だから…」。しかし、迷った末に受諾し、堂々と日本代表チームを世界一へと導いた。

 そんな責任感の強い王の生きざまは、父親仕福の厳格な教えと無縁ではなかった。仕福は1922年(大正11)、22歳で初めて日本の地を踏んだが、翌年関東大震災の直後に仲間と強制送還された。翌年再び来日し『五十番』というラーメン屋を営んだ。だが、45年3月の東京大空襲でB29の猛撃にさらされ、店は焼け落ちた。

 王は母、登美に背負われ火の粉を避けた。仕福は敗戦の中、木材やトタンを集め、その夏にはバラック建ての『五十番』を再開。日本で必死に生き抜いた両親。父親仕福から王は「絶対人に迷惑をかけるな!」と厳しく諭されながら育った。

 国民栄誉賞を受けるまで逡巡はあった。だが、父の教えを忠実に守ってきた息子に、何が最良であるか判断を下すのに時間は掛からなかった。

 王「選んでくれた福田さんの顔をつぶすわけにはいかないでしょ。自分1人がもらうんじゃない。野球界全体がもらうんだという気持ちでいただいた」。

 77年9月3日。国民のだれもが、この瞬間を待った。対ヤクルト23回戦。後楽園球場。ハンク・アーロンを上回る、王の世界記録756号が生まれた。3回裏1死。カウント2-3。鈴木康二朗が投じた1球を振り払った打球は、ゆっくりと上空に舞い上がった。滞空時間4・2秒。落ちたのは右翼席だった。

 NHK解説の仕事でネット裏にいた川上哲治は、ズボンのポケットからハンカチを取り出した。「よくやった。ほろりと来た」。世界最高峰のアーチに日本全国が酔いしれた。すでに『五十番』を閉めて悠々自適だった仕福と登美がグラウンドに降りて息子を称え、何度もスタンドに向かって頭を下げた。

 異常なほどの熱狂。その中で、もっとも冷静だったのは当の王本人かもしれない。痛恨の1発を食らいマウンドで沈んだ男が、王貞治の偉大さを痛切に感じたある出来事がある。それは翌朝のこと…。現在、打たれた鈴木は、みちのく福島県にいた…。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】

May 14, 2008 12:00 AM

2008年05月13日

阪急山田を沈めた劇弾

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(7)】

[3]巨人2勝1敗(10月15日・後楽園)
 阪急 010000000-1
 巨人 000000003X-3
【急】山田-岡村浩【巨】関本-森、吉田孝[勝]関本(2試合1勝)[敗]山田(2試合1敗)[本]王2号(3ラン=山田)

 通算284勝。球史に残るサブマリン、山田久志の鼓膜には、今でも痛恨の1発の打球音がこびりついている。

 山田「普通は『グシャ』というんだけど、圧縮バットの『カキーン!』という音だった。覚えているのは、その音だけ…。すぐにひざから崩れた。なにも見えないし、立ち上がれなかった。現実を受け止めるほど経験もなかったし、帰りのバスに乗ってバスタオルをかぶって初めてわかった。えらいことしたなと…。いつまでたっても、俺の背中からあの1本が消えない」。

 71年(昭46)10月15日。後楽園球場。阪急との日本シリーズは、1勝1敗で第3戦を迎えた。プロ3年目でシーズン22勝の山田は、8回まで巨人打線をわずか2安打に抑えていた。スコアは1-0。9回裏2死一、三塁。あと1人にこぎつけたところで、4番王を迎えた。

 山田「その前の長嶋さんがカーブに泳いで、バットの先っぽに当たった二遊間へのボテボテのゴロ。ゲームセットと思ったら、何を思ったか先輩の阪本(敏三)さんがボールに飛び込んでる。そんな打球じゃなかったのに、足が動かなかったのかもしれない。止まるような打球がセンターの福本さんの前までいった。太鼓やトランペットの応援はなかった時代だから、長嶋さんが出塁すると、『ウォー』という歓声が起きた。球場が揺れるというか、圧迫感を感じた。王さんを迎え、キャッチャーの岡村(浩二)さんがマウンドに来て『思い切って来い。大丈夫や』と言われ、うなずいたのだけは覚えている」。

 初球はストライク、2球目ボールと、続けざまに真っすぐを投げた。山田の持ち球は直球とカーブの2種類で、のちに強力な武器となるシンカーはなかった。カウント1-1。続く3球目。王は山田が自信をもって投じたストレートを打ち砕いた。打球は逆転サヨナラ本塁打となって、右翼席で弾んだ。

 山田「打たれっこないと思っていたのに…。いくらプロでも緊迫した場面では、ちょっと固くなったり、しぐさも変わるものなのに、王さんは打席に入る前も、入ってからも全てが変わらなかった。ネクストでバットを振り込んでから打席にはいる人だった。足場を固め、両手にふっと息を吹きかけ、手をこね、そしてバットを持ち上げて構える。寸分もリズムが変わらない。成熟した打者と未熟な投手、技術の差もあっただろうが、経験の差で打たれたホームランだった。でも今思えば、山田はあの1本で育てられた。本物のすごさというか、ああいった厳しいところを封じないと飯を食っていけないことを教えられた」。

 その日、山田は故郷の秋田から初めて母親ヨシさんと兄弟を三塁側スタンドに招待していた。母がマウンドに立つ息子を見たのは、20年間のプロ野球人生の中で、最初で最後だった。

 阪急監督の西本幸雄は、しゃがみ込んで動けない愛弟子を迎えに来た。マウンドで動けない敗戦投手を、監督が抱き起こすのは極めて珍しい光景。それほど衝撃的だった。

 一塁手の加藤英司はうつむいたままベンチに下がった。

 加藤「やられたと思った。俺たちにとってリーグ優勝は当たり前だった。春のキャンプから、どうしたら巨人を倒して日本一になれるかをずっと考えていたから…」。

 巨人監督だった川上哲治は「実力的には阪急のほうが上でした。あのホームランがなければ、9連覇はなかった」と言い切る。73年セ・リーグ初の三冠王、74年も連続して獲得。監督が川上から長嶋になった2年目の76年10月11日には、あのベーブ・ルースを抜く715号を記録。ついに『世界の王』に上り詰めた。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】

 ◆山田久志(やまだ・ひさし) 1948年(昭23)7月29日、秋田県能代市生まれ、59歳。富士鉄釜石から68年ドラフト1位で阪急入団。2年目の70年に10勝を挙げて以来、86年まで17年連続2ケタ勝利を記録。この間76年から史上唯一の3年連続MVPを受賞した。76年には26勝をマーク。オールスター通算7勝は最多記録になっている。オリックスの投手コーチとして95年リーグ優勝、96年日本一に導く。99年中日コーチ、02年監督。実働20年で654試合に登板し、284勝(史上7位)166敗43S。NVP3回、最多勝3回、防御率1位2回、勝率1位4回。現在は日刊スポーツ評論家。

May 13, 2008 12:00 AM

2008年05月12日

ONは「競っても争わず」

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(6)】

 王と長嶋。2人の頭文字をとった『ON砲』は、米大ヤンキースの大打者ミッキー・マントルとロジャー・マリスの『MM砲』になぞらえた愛称といわれている。長嶋は引退した川上に代わる「4番」で、王が「3番」に起用された。王の一本足打法が完成したとき、長嶋は「美しいね」ともらしたという。

 常勝巨人の両輪を取材した日刊スポーツ記者の三浦勝男(68)は、長嶋に王の存在について聞いたことがあった。

 三浦「両雄並び立たずといわれるが、長嶋さんが王について『競っても争わず』と話したのが印象的でした。2人に相手をおとしめるとか、感情的な対立はなかったと思います。いつか新聞でONそろっての企画を組んだ。取材現場は長嶋家だったが、王はいやがることなく、それも夫婦そろって訪問したほどだから。長嶋さんのファンは多かったが、王さんのことはみんな好きというより立派だという目で見ていた」。

 王が本塁打と打点のタイトルを獲得した62年(昭37)から、長嶋が最後に首位打者になった71年までの10シーズンで、2人で獲得した打撃3部門(打率、本塁打、打点)のタイトルは計26個。名将の川上哲治は、ONが引っ張った巨人不滅の9連覇を振り返った。

 川上「みなさんはONのことばかりとり上げるが、2人だけで強い巨人は築けなかった。柴田がいて、黒江、高田、土井もいてお膳立てができた。投手でも別所、杉下、宮田、中村、城之内らを、相手の欠点を調べ尽くした森がうまくリードしたのです。長嶋も王も、自分がいなければ勝てなかったなんて絶対に思っていませんよ。野球は組織と一緒でチームプレーなんです。2人は性格も違いましたし、ミーティングでは全員を前に、わざと長嶋を名指しで叱ってチームを引き締めたこともありました。彼は根に持たない明るい性格でしたからね。でも王は性格も違ったし、なにかあれば彼1人を呼びつけていました。長嶋は『天才型』で、王は『努力型』でした」。

 その後、王と長嶋の打順はしばしば入れ替わるようになった。70年の王はセ・リーグタイ記録の5試合連続本塁打を放ち、72年には通算500号、73、74年は2年連続三冠王になった。70年代になって、長嶋との立場は逆転する。

 他球団も必死に王封じを画策した。64年、広島監督で、のちに巨人ヘッドコーチに就いた白石勝巳が、内野手を極端に右に寄せた「王シフト」を実戦した。流し打てばすべてがヒットになる。それでも王はライトスタンドへのアーチにこだわった。

 そんな王が初めて大スランプに陥ったのは71年だった。9年ぶりに40本塁打を割る39発で止まりで、8年続けてきた打率3割が2割7分6厘に低下。監督の川上は「2本足に戻してはどうか」と助言したが、頑として譲らなかった。

 この年、7連覇のかかった日本シリーズで劇的なアーチを放ち、一本足打法の継続を無言で宣言した。それが、史上最強のサブマリン山田久志に浴びせた、あの一撃だ。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】

May 12, 2008 12:00 AM

2008年05月09日

下着一枚、鬼気迫る真剣振り

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(5)】

 プロ4年目の62年(昭37)、王は早実の先輩で師匠の荒川博とマンツーマンで一本足打法に取り組んだ。今のように報道規制などなかった時代だ。番記者たちは、遠征先のチーム宿舎となった和風旅館の座敷や、コーチだった荒川の自宅にも上がり込んで取材することができた。

 日刊スポーツで17年間、巨人の担当の番記者を勤めた三浦勝男(68)は、王が一本足打法を完成させる過程を現場で取材した1人だ。バットに見立てた二尺八寸、三百匁の真剣を振る姿は鬼気迫り、まさに伝説だった。連日の素振りによって、旅館の座敷の畳はみるみるうちに擦り切れていった。

 三浦「まず電球から短冊に切った新聞をたらし、それを日本刀で切るんです。王がパンツ一丁だったのは、裸のほうが筋肉の動きが一目瞭然だったからです。バットの芯でボールをとらえることをイメージした特訓にもコツがあって、日本刀の刃筋をちゃんと立てないと新聞は切れなかった。新聞が藁(わら)になったこともありましたね。わたしたち新聞記者は、正座まではしなかったけど厳粛な道場の雰囲気で、いつも邪魔しないようにながめていた。ぼたぼたと汗を落としながらの練習が365日続くんですから、まるで奇人だと思いました」。

 初めて一本足で本塁打を放ったのは、62年7月1日の大洋戦で稲川誠のカーブをとらえた。開幕から6月まで9本塁打と不振だった王は、ここから上昇気流に乗る。

 三浦「父親の仕福さんが営む中華そば屋「五十番」の奥に三畳ほどの小部屋があった。試合前に取材に寄るとそこでいつも王が食事をしていた。印象的だったのは毎朝、どんぶり鉢にいっぱい入った朝鮮人参のスープを一気に飲む姿でした。少しでもスタミナをつけようとする執念だったと思う。一本足で立って打つから、タイミングを崩しやすいのではと思って荒川さんに聞いたら『そんなやわな打法じゃない』という。実際、一本足で立った王の体を前後左右どこから押しても動かなかった。常に完璧を追求していた。一緒にステーキを食べたとき、王はフォークとナイフで肉をミリ単位も違わずそろえるように切る。そんな几帳面な性格と同じで、一本足打法には寸分の狂いもなかったかもしれないですね」。

 7月からの量産で、62年は38本で本塁打王に輝いた。そして、その座を13年連続で守り続けた。75年は田淵幸一(阪神)に奪われたが、翌76年から2年連続でタイトルを奪取。64年は55本塁打の日本記録を樹立するなど、通算15回もホームランキングを獲得した。

 巨人の黄金期に担当記者だった三浦は「そういえば14連チャンで王のヒーロー原稿を書かされた。最後はネタがなくて困った」と言って笑った。もう一人のトップスター、長嶋茂雄とのONコンビは、まさに王者巨人の象徴だった。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】

May 9, 2008 12:00 AM

2008年05月08日

一本足原型は“物干し竿”藤村

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(4)】

 王が尊敬する川上哲治の自宅は、都内の閑静な住宅街にある。居間で雨に濡れる庭を見ながら、川上は「野球」を語った。監督として常勝巨人軍を率い、不滅の9連覇を成し遂げた名将。「わたしの野球は“野球道”なんです」。その後、川上は一本足打法を発案した経緯について話し始めた。

 川上「ボールを待ち切れないんですな。すぐに迎えにいって、体重移動が悪かった。それが王の最大の欠点だったんです。荒川君(巨人コーチ)と話をして、もう少し引きつけて打つように教えてほしいと頼んだんです。もっと後ろ足に体重を乗せるように、と…。すると、わたしの頭の中に、あるバッターのフォームがイメージとして浮かび上がったのです」。

 川上が王の打撃フォームを徹底的に改造するため、ヒントを得たのは、ライバル阪神で「ミスタータイガース」といわれた藤村富美男のフォームだった。藤村は1936年(昭11)の阪神創立と同時に入団。38インチ(約96・5センチ)の物干し竿のようなバットで終身打率3割を記録し、監督も務めた。背番号「10」は永久欠番になっている。

 川上「右打者だった藤村さんの打ち方は前の左足を引きつけて出す、一本足の変形のようなフォームでした。王にはああいう感じで、もっと球を呼び込んで打つように教えた。前足を引きつけ、重心を後ろに乗せ、そして踏み出す…。それを繰り返しているうちに、だんだん一本足になってきた。そうやって王の打撃フォームは変わっていったのです」。

 マンツーマン指導に当たった巨人コーチの荒川博は、王に向かって「これからは地獄のような特訓になる。酒も、タバコも、女もやめろ」といった。王は「耐えますからやらせてください」と、答えたという。一本足打法を完全習得するために、師匠と弟子の血のにじむような日々が続いた。

 川上「まず王は球場入りする前に荒川の自宅に立ち寄ってバットを振りました。時には早めに後楽園球場に入って特打をし、そのままゲームに出て、それが終わると再び荒川の家でその日の反省とフォームの矯正をするわけです。これを3年も続けたのは、驚くべき鍛錬でした。わたしは現役時代にアッパースイングで打っていました。でも現役を退いて巨人の指導者になってからは、アメリカの野球理論の裏付けもあって『バットがボールの下から入ってはいけない』『上から叩きつけないとホームランは打てない』と教えるようになった。いわゆるダウンスイングです。わたしが王を怒ったことはなかったですね。よく練習しましたから。あれだけ努力をすれば何かをつかみましょうな。わたしはつくづく思うんですよ。人間とは死ぬまで学ぶものだと…」。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】

 ◆藤村富美男(ふじむら・ふみお) 1916年(大正5)8月14日生まれ、広島県呉市出身。36年阪神創立と同時に入団。エースで6番を打つが、肩を壊して打者に転向。ゴルフクラブにヒントを得た“物干し竿”といわれた38インチの長いバットで4番として活躍。応召を経て戦後再び阪神に復帰。49年には打率3割3分2厘、46本塁打、142打点の当時としては驚異的な成績で本塁打、打点の2冠に輝いた。初代のミスタータイガースと呼ばれた。46年、55年~57年阪神監督。国鉄、東映でコーチを務めた。74年殿堂入り。投手として76試合登板で34勝11敗。打者では1558試合出場、3割、224本塁打、1126打点。監督としては通算4年で266勝190敗6分け。92年逝去。

May 8, 2008 12:00 AM

2008年05月07日

神様の進言「打者転向」

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(3)】

 巨人入りが決まった早実3年の2月、王はチームがキャンプ地の宮崎に向かう夜行列車を見送りに、東京駅に向かった。プラットホームでは窓越しに長嶋茂雄と顔を合わせた。現役を引退して巨人助監督の座に就いた川上哲治は、そのほのぼのとした光景を思い出していた。

 川上「丸刈りの可愛い童顔でね。体は大きかったけどおとなしくて、わたしは王に向かって『宮崎で待ってるよ』と告げました。監督の水原さんはわたしの引退後の一塁に与那嶺(要)を予定していた。後を追うように王が宮崎に合流したわけだが、ある日、わたしは水原さんに呼ばれ、王の起用法について問われた。わたしは『投手では無理です』とはっきりと申し上げました。すると与那嶺本人が一塁ではなく古巣のレフトに戻りたいと言ってきた。あの時点で与那嶺はおそらく王の非凡さを感じとったのでしょう」。

 王の打者転向を強く推したのは、『打撃の神様』といわれた川上だった。首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回を獲得。現役時代の成績もさることながら、その後、巨人監督として不滅の9連覇を成し遂げた。その川上も38年(昭13)に熊本工から投手としてプロ入りしたが、監督の藤本定義から打力を認められて一塁手に転向した。

 川上「王はスイングするとき顔が上がらず、必ず振った後もポイントに顔が残っていた。当時はそういうスイングをする人は球界にいなかったから、わたしは大打者になる予感をもったのです。ただプロの世界は甘くはなかった。ホームランは出始めたが、どうも体重移動がスムーズでなく、来た球に対して体が突っ込むクセがあったのです」。

 プロデビューは59年(昭34)開幕の国鉄戦だったが、金田正一に対し三振、四球、三振…、全3打席の11球は1度もバットにかすらなかった。4月26日の国鉄戦(後楽園)、開幕から27打席目で村田元一から初本塁打を放った。これが記念すべきプロ初安打。1年目は94試合に出場し、打率1割6分1厘、7本塁打、25打点、72三振に終わった。2年目は三振数が3桁の101まで増えた。水原体制から川上が監督に就いた3年目の61年も、127試合に出場し2割5分3厘。13本塁打、53打点にとどまった。だが、4年目のシーズンに向かう王に大きな転機が訪れる。

 川上「いろいろ練習させましたが思うようにいかなかった。少しずつ良くはなってきましたが、まだ満足のいくものではなかった。ちょうど荒川君が打撃コーチになって、王のバッティングについていろいろ話し合い、大幅にフォームを変えることにしたんです。それが一本足で立ってボールを待つ、あの打法ですよ」。

 王のフラミンゴ打法は師匠の荒川博との血と涙の結晶だった。実はその奇跡の打法には秘密がある…。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】

 ◆与那嶺要(本名=Wally Kaname Yonamine・よなみね・かなめ) 1925年(大正14)6月24日、米ハワイ州マウイ島生まれ。外野手。沖縄県中頭郡中城村からのハワイ移民の2世。高校3年(4年制)の時にオアフ島のフェリントン高に転校、アメフトのハーフバックで活躍した。47年プロフットボール49ersに入団、50年野球に転向し、マイナーリーグを経て51年6月来日。同年、巨人で規定打席未満ながら打率3割5分4厘を記録した。激しいスライディングで有名になる。52年から6年連続3割をマークし、57年には3割4分3厘で3度目の首位打者。61年~62年中日に在籍。ロッテコーチを経て72年~77年は中日監督を務め、74年には巨人のV10を阻止し、20年ぶり優勝に導いた。南海、西武、日本ハムコーチを歴任。通算1219試合出場、3割1分1厘、82本塁打、482打点。通算6年の監督では388勝349敗43分。

May 7, 2008 12:00 AM

2008年05月06日

猛反撃…急転巨人入り

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(2)】

 早実の王、阪神入り-。日刊スポーツのスクープ報道に対し、巨人軍の動きは迅速だった。読売系列の報知新聞、田中茂光記者がすぐさま動いた。王を取り巻く状況は、即座に巨人球団社長の品川主計にも伝えられた。阪神に機先を制された巨人が、猛然と反撃に転じた。

 当時は、ドラフト制度が存在しない自由競争の時代だった。王がプロ入りする1年前の58年(昭33)には、長嶋茂雄が立教大から巨人に入団。南海ホークス(現ソフトバンク)の監督で、「グラウンドに銭が落ちている」との名言を残した「親分」こと、鶴岡一人が長嶋と杉浦忠を熱心にホークスに勧誘したのは有名な話だ。

 坂井保之氏(野球経営評論家)「今でこそ裏金問題と騒がれるが、かつては野球界の先輩が後輩を連れて食事にいくなどという行為は、美風というか、先輩の貫録で行われた時代だったと思う」。

 阪神球団のスカウトだった佐川直行は、王獲得に契約金1500万円を提示した。巨人も同額を用意した。10球団が参戦した王争奪戦の最後はGT決戦となった。この時代のスカウトは、革製のカバンに札束を詰め込んで動いたという。阪神の条件は2000万円まで吊り上がった。

 王は金額に左右されて、阪神から巨人へ翻意したわけではなかった。父親の仕福は大学卒業後、息子を電気技師にして、一緒に中国に帰るのが夢だった。王はその家族の意向もじっくり聞いた上で決断を下した。逆転巨人入り…。仕福も「貞治が決めたことなら」と、母国への帰郷を断念する。日刊スポーツの巨人担当だった小村多一は初めて王と会ったときの印象をこう語った。

 小村「監督の水原さんに紹介されて、きれいな挨拶で礼儀正しい青年だなと感じた。前の年、川上(哲治)さんから、1人遠征先の広島の宿舎に呼ばれて、座敷のハンガーに掛かった背番号『16』を指差しながら『このユニホームとお別れしようと思っている』と打ち明けられた。眼光鋭い王と初めて会ったとき、この男が打撃の神様に代わって巨人を背負うのかもしれないという直感めいたものがあった」。

 今、ソフトバンクの指揮をとる王貞治は、阪神入りを撤回し、急転巨人入りを決断した真相を語った。

 王「大学に行くと決めた後は、巨人からのアプローチはなかったんだ。そこで阪神からの攻勢にあって、気持ちの変化が生じたんだろうね。甲子園でプレーできるというのもあったし…。両親からは阪神入りを勧められていた。自分の気持ちが傾きかけたとき、新聞(日刊スポーツ)に『王が阪神に入る』と掲載され、急に巨人が来たんだよ。いろいろあって、最後は兄貴(鉄城氏)に『お前はどうなんだ?』と聞かれた。もともとぼくは巨人ファンだったし、あこがれを持っていた。それで巨人に入ることを決めた。日刊スポーツのお陰で巨人に入れたようなものだね(笑い)」。

 とはいえ、プロ入りしてから『世界の王』に上り詰めるまでの道のりは、決して平たんではなかった。川上が現役を引退したため、投手から打者に転向した王が一塁に起用された。ただ、ルーキーは苦悩していた。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】

 ◆川上哲治(かわかみ・てつはる) 1920年(大9)3月23日、熊本県生まれ。88歳。左投げ左打ち。熊本工では甲子園春1回、夏2回出場。37年夏に準優勝。38年(昭13)に巨人入り。投手から打者に転向し39年、打率3割3分8厘、75打点で2冠王を獲得。「弾丸ライナー」の強打者として知られた。大下の青バットに対抗し、川上の赤バットは有名。51年3月31日の多摩川での練習中に「ボールが止まって見える」と名言を残した。61年巨人監督に就任し、不滅のV9を達成。背番号「16」は永久欠番。65年野球殿堂入り。最優秀選手3回、首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回、日本シリーズMVP1回。監督として14年間でリーグ優勝11回、日本シリーズは無敗。

May 6, 2008 12:00 AM

2008年05月05日

王は阪神入り決めていた

【王貞治 すべてがアン・ビリーバブル(1)】

 「王フィーバー」に火をつけたのは、日刊スポーツのスクープ記事だった。

 王、阪神入り濃厚-。

 1958年(昭33)8月22日の本紙が報じたニュースに周辺は騒然となった。

 早稲田実業3年の王は、夏の東京大会決勝で明治高校と対戦し、延長の末、サヨナラ負けした。佑ちゃんこと、斎藤佑樹投手がそうだったように、王も早大進学が規定路線とみられていただけにインパクトは強かった。

 王本人に「阪神にお世話になります」と言わせたのは、阪神スカウトの佐川直行だった。

 佐川は王の父、仕福が経営する東京都墨田区の中華ソバ屋『五十番』に日参し、粘り強く口説いた。佐川が70年(昭45)にこの世を去るまで、同じスカウトとして、その仕事ぶりを見てきた河西俊雄(87)はぽつぽつと振り返った。

 河西「佐川は野球あがり(経験者)ではなかったが、しつこいことでは評判のスカウトだった。でも、ワンちゃんはあれだけ甲子園を沸かしたわけやから、タイガースが王獲得に執念をみせたのは自然だった。もう50年も前のことであまり覚えていないが、うち(阪神)もプロに入ったらピッチャーより、打者でスタートという評価ではなかったかな…」。

 王には輝かしい甲子園での実績があった。1年夏にはレフト兼控え投手となり、東京都予選の学習院高戦でノーヒットノーランを記録。甲子園にも出場した。秋にはエースになり、2年生となった57年センバツでは「4番」を打ち、優勝投手になった。同年夏の甲子園大会では寝屋川高を相手に、ノーヒットノーランを達成(延長11回)。通算で春夏2回ずつ甲子園に出場した。そんな逸材を、甲子園に本拠を置く阪神が放っておくわけはなかった。

 日刊スポーツで巨人担当の番記者だった小村多一(78)は、58年に引退するまで「ミスタータイガース」といわれ、阪神監督も務めた藤村富美男に耳打ちされている。

 小村「藤村さんは『王は阪神がとるよ』と自信ありげだった。佐川というスカウトは押しが利いて、阪神の内部でもボス的な存在でね。わたしも王は阪神に入団するものと思った。でもそれはあくまでもあの時点で、だ。あれから巨人も必死になったんだろう。ジャイアンツの球団首脳は、いつも銀座のある小料理屋に集まって作戦会議を開いた。そこに取材にいくと球団幹部と一緒に監督の水原さんもいた。確か川上(哲治)さんが『王は巨人にくるはずだ』といった。そこからだ…」。

 王は高校2年の夏、大学進学を理由に巨人の誘いを断っていた。それが阪神入りに傾いたというからには、黙ってはいられない。盟主巨人が逆襲にでる…。(つづく=敬称略)【寺尾博和編集委員】

May 5, 2008 12:00 AM

2008年05月02日

藍にもチャンスは来る

【メジャーを制した日本人 樋口久子(10)】

 樋口久子(62=富士通)が後継者に送るまなざしは温かい。米ツアーにフル参戦して、奮闘する宮里藍を「すごい!」と称賛する。

 樋口「あの年にして、あれだけのプレーはなかなかできないでしょう。私たちは15~16歳でゴルフを始めたら早い方だった。でも宮里さんは5~6歳から始めているでしょう。しかも密度濃く。才能もあるでしょうけど。人間としてもしっかりしている。マスコミとの受け応えもキチンとできる。初勝利? そのうちきっとチャンスが巡ってきますよ」。

 自らの全米女子プロ選手権獲得については「私は運が強かった」という樋口だが、実はそれは謙遜(けんそん)だけの言葉ではない。彼女が10年で米ツアー挑戦を切り上げた理由の1つは「目指すものがもうUSオープン(全米女子オープン)しかなくなったから」だった。裏返せば、まだ目標はあったにもかかわらず、彼女は米ツアー挑戦をあきらめたのだ。

 樋口「私はラッキーで全米女子プロを勝てた。しかしUSオープンは何カ月(アメリカに)いたから勝てるというものではない。アメリカの選手層の厚さ、環境を身近に見てきて、簡単に勝てるものではないことを痛感した」。

 メジャー優勝の重みは、それを獲得した本人にしか分からないのかもしれない。宮里に樋口のような強運が訪れるかどうか。その答えが出るのは、まだ先のことだ。

 いま、樋口の夢は日本ツアーをいかに充実させるか、そのことに尽きる。

 樋口「米ツアーのように盛んにしたい。強い人が集まり、賞金も高く。これは逆かもしれないですけど、とにかく世界中の多くの人が目指すツアーに…」。

 オフの12月、女子プロになって1~2年目の選手が新人教育を受けているのをご存知だろうか? 2泊3日でルール、トレーニングの仕方、用具のことなどゴルフそのものにまつわることから、会話の仕方、テーブルマナーなど一般常識まで幅広く学ばせている。

 樋口「若いうちにプロになって、お金稼ぐのが当たり前、試合に出てやっている、という姿勢の人がやっぱりいますよ。しかしプロだ、プロだ、と威張っても、試合がなければお金なんて稼げない。そういうことを教えてあげないといけない。プロアマ大会でも帯同キャディーと一緒にどんどん勝手に歩いていく選手がいました。スポンサーが日ごろ大事にしているお客さまが出場されているんですよ。年齢差で会話が難しければ、ワンポイントレッスンをしてあげるなり、残り距離を教えてあげるなりすればいいのです」。

 試合は言うに及ばず、前夜祭などのパーティーでも女子プロのいでたちは華やかになった。ファンを楽しませるプロとして、日本の女子プロたちは明らかに成熟しつつある。

 メジャータイトルを取り、03年にはアジア人で初めて世界ゴルフ殿堂にも入った。それでも「やりたいことはまだまだあります」と樋口は言う。

 07年12月には協会の定期総会で再任。樋口久子会長、実に5選目となった。(終わり=敬称略)【編集委員=井関 真】

May 2, 2008 12:00 AM

2008年05月01日

楽しむ“ゴルフ文化”こそ成果

【メジャーを制した日本人 樋口久子(9)】

 樋口久子(62=富士通)が米国から持ち帰ったものは何だったのか? 全米女子プロ選手権というメジャー大会制覇の輝かしい戦歴、米女子プロのコースマネジメント、テクニック、そしてファッション…。日本選手の強い米ツアー志向は当然「樋口効果」の1つだろうか…。
 72回の優勝によって彩られた樋口の現役生活は、ある時を境にピリオドを打つ。96年12月、日本女子プロゴルフ協会の総会で、圧倒的な信任を受けて会長に就任する。その時から、新しい人生が始まった。

 樋口「それまでも何回か(会長に)推薦されたことはありました。私も50歳、年齢的にもいい潮時だし、今回は断れないな、と思った。プレーヤーとしていい思いをいっぱいさせてもらったし、協会のことをやって恩返しをしていこう、と。アメリカの合理的な面を見てきて、日本もああいうふうにしたいな、という気持ちもありましたからね」。

 97年2月8日に正式就任してから、彼女は日本の女子プロゴルフ改革に次々と手を打った。「ゴルファーとゴルフファンの拡大」をスローガンに、子供やファンと選手の距離を大幅に縮めた。トーナメントプロ部門とインストラクター部門に協会の組織を二分化したのは、米国の合理性に倣った施策だった。

 樋口「試合で戦うことが目的の会員と、質の高い指導を目指すという会員は、本来別ですからね。それと社団法人になった時、外部からも受け入れなさいという指導があって、非会員でもQTで資格を得れば試合出場できるようにした。宮里(藍)さんですよ、一番目は。彼女が優勝してくれて、この制度で活性化が図れることを実証してくれた。学生や外国人選手など埋もれていた人が、どんどん出てきてほしい」。

 実はこの話を聞いたのは、中京テレビ・ブリヂストンレディスオープンの最終日が行われている最中だった。会場の中京GC石野コースは、名鉄「梅坪」駅からバスで30分はゆうにかかる。その日朝、大阪を出て午前8時前に名古屋へ、梅坪へ着いたのは9時前だった。ちょうど送迎バスへギャラリーが殺到する時間でもあったのだろう。30分以上行列してようやくバスに乗れたのだが、不思議なことにその間、不平不満をもらす人が周囲に1人もいなかった。

 行列の整理、バスへの誘導をする人たちの手際は確かによかった。しかし、こんな場合、必ずどこかで文句が出るものなのに、一切なかったのだ。「さくらちゃん、今日はどうかね?」「見られるやろうか?」。みんながゴルフ観戦を楽しみに待ちわびていることが、もれ聞こえてくる会話からしのばれた。

 樋口「そうですか。そんな雰囲気でしたか…」。

 そのことを伝えると、樋口は口元に笑みを浮かべた。その時、ふと思ったのだ。樋口久子が米国から持ち帰った最大のものは、メジャー制覇の勲章や協会の制度改革など目に見える大それたものではなく、誰もが試合を楽しむ軽やかな「ゴルフ文化」ではなかったか、と。(つづく=敬称略)【編集委員=井関 真】

May 1, 2008 12:00 AM