11.モナコのピット

 モナコは街中の道路をレースコースにしている。
スターティング・グリッドも、ビルと海岸通りの松並木に挟まれたアルベール1世通りに並んでいる。だからモナコのスタート地点には、F1を整備したり保管しておく様な場所はなかった。各チームはそれぞれ街のあちこちに点在する民間のガレージを借りていた。また、松並木の中のピットの近くにはトラックを止めとく様なスペースもないから、F1は街の通りを自走してピットまで行かなければならなかった。

ホンダと他車 プラクティスの第一日目、広くはないモナコの道路はレースファンでごったがえしていた。混雑する人と車をかき分けながら、メカニック達がF1を運転してスタート地点に向かっている様だ。街のあちこちからF1の排気音が響いて来る。
 我々もレニエⅢ世通りのガラージ・ド・エルストを出てアルベール1世通りへ向かった。高回転で高馬力を狙ったホンダのエンジンは、4000回転以下ではエンストする。しかも4000回転を越えるととたんに大馬力が出るから、通行人にぶつけない様に気を付けながら歩くスピードで運転するのは至難の技だった。
モナコのアルベール一世通りのピットのホンダ・チーム  エンストしないように苦労しているメカニックに付き添いながら、工具やストップウオッチやサインボードを持って、やっとの思いで初めて見るモナコのピット前に辿り付いた。
 そこに集まった色とりどりのレーサーを見て、私はちょっと意外な思いにかられた。レースの日の午前中にはクラシックレーサーのエキジビションレースがある。我々にとっては神にも等しいファンジオが幻の名車、ベンツのW196を走らせる。あの猛者スターリング・モスも出走するという噂は聞いていた。
 しかし、F1レースの前座として時々行われるF2(1000cc4気筒)のレースをモナコでやるとは聞いていなかった。もし、やったとしてもF1の時間にF2が片付けられていないとは、西洋人もだらしがないなあ、と思ったのだ。
 ところがプラクティスが始まって見ると、走り出した車は私が小柄なF2だと思っていたF1車達だった。初めて見る1500ccV8エンジン縦置きの他車は大変コンパクトだ。V12横置きの我々のF1に比べて胴体がひと回り、いや、ふた周り細い。こんなに太い車で勝負になるのかと、いささか心配だった。
 そういえば1年程前の1964年3月9日、1959年と60年のチャンピオン、ジャック・ブラバムが鈴鹿で我々のF1プロトタイプRA270 に乗った後の遠慮のない感想が私の手帳に残っている。
 「馬力不足、too heavy、too fat、old fashioned construction 」
 ジャックの意見も入れて、実戦用のRA271は設計し直した。
 シリンダーとシリンダーの間隔をギリギリに詰めた。クランクシャフトからカムシャフトを駆動するギヤトレーンの幅を極端に狭くした。スターターや点火装置、タコメーターの位置を移動した。そしてエンジンの長さを12cmも短くし、車体を細くしたつもりだったのに、まだまだ太かった。

フェラリーのピット(モナコ) ピットに入る前から初めて見る物ばかりでつい話が脇道にそれたが、地球の裏側からはるばるやって来た我々ホンダチームに宛てがわれたピットは、前年度のチャンピオン、フェラーリチームの隣だった。フェラーリとの間には高さ1m位の仮設の板塀があるだけで中が丸見えだ。工夫した工具類やサインボードが置いてある。車がピットインして来た時のメカニックの動き等も良く見渡せて大変参考になった。
 この頃、レース中にピットインして燃料補給をしたり、タイヤを交換する事は無かった。またピットの囲いからコースに出て車に触れる事が出来るメカニックは1台3人と決められていたから、ピットにいる人数も少なかった。
 フェラーリは会社が北イタリアのモデナにある。モナコからたったの400km。東京と鈴鹿くらいしか離れてない隣近所のせいか、そのピットはモナコ王家のロイヤルボックスの真向かいにあった。
 ロイヤルボックスは、スターティンググリッドが並んでいる道路を挟んで、我々のピットを見渡す向い側の一段高いところにあった。
 レース当日、黒塗りの車が止まってにわかに拍手が沸き起こった。ダークスーツのレニエⅢ世と、真っ白なドレスに白い帽子の王妃グレース・ケリーが手を振って赤い絨毯を敷き詰めた階段を上がって行った。二人は、ベルギー、デンマーク、ノルウェー等ヨーロッパの王家の人々が待つ華やかなロイヤルボックスに納まった。
グレース・ケリーはアメリカの有名な映画スターだった。  メザース君が説明してくれる王族の人々を眺めながら、よく美術館で見かける豪華な額縁の中に描かれた王家の肖像画を思い浮かべていた。勲章を付けているでもなく、燕尾服や裾の長いドレスを引きずっているでもない普通の格好をしていると、王族の人々も街で見掛けるヨーロッパ人達と全く区別が付かない、考えてみると当たり前なのだがちょっと意外な感慨を覚えた。このロイヤルボックスはレース終了後、優勝したグラハム・ヒルが招かれて、レニエV世から優勝カップが、クリスタルのカップをグレース・ケリーから贈られる表彰台にもなるのだった。
 ホンダのピットもまた最高の場所にあった。
 ロイヤルボックスの正面にあるフェラーリの隣りだから、階段を突っ切って斜め向いにいるグレース・ケリーのぴったりくっついた眩く白い二つの膝頭が、真っ直ぐこちらを凝視している。

 いや、そんなことに気を取られてレースをおざなりにしていたのではない。100周のレースをギンサーは1ラップで終わり、バックナムは33ラップ目に早々とリタイアしてしまったホンダチームのメンバーはレースが終わる3時間近くピットの中でじっと我慢していた。
 当時のコースはプールの海側は迂回せず、タバコ屋コーナーから松並木に沿ってプールの陸側を真っ直ぐ走っていた。最近のピットロードを逆走するのがバックストレッチだった。
 前と後ろをレーサーが疾走するコースに挟まれた、幅4m程のピットの中で、時にはオイル漏れの車から海風に乗った油の飛沫を浴びせられた。また水漏れのレーサーが通り過ぎると、生暖かい霧雨が降って来た。松並木の中だから屋根等なかったのだ。
 そんなピット中で無念の思いを噛み締めながら、他車の走りっぷりや、サインの出し方、ピット作業のやり方など何でも吸収してやろうと目を皿の様にして見ていたのだ。

 この頃松並木の港側やプール付近にはスタンドなどは全くなかったから、ピットから港が良く見渡せた。
 レーサーがトンネルを抜けて、モナコ港の北側に現れ長い坂道を下るところがある。その坂の途中でレーンチェンジをする様にコースが変わるあたりを、プール越しに眺めていた時だった。なんとレーンチェンジし損なったF1が欄干の下を潜り抜けて、フロント・カウルとボディが別々に分れながら下の海に向かってダイビング!
 車体の軽いF1は大きなタイヤとガソリンタンクに助けられてふわりと着水した。あっと思う間もなくエンジンを掛けて待っていたのかモーターボートが現れて、車体が沈む寸前にドライバーを救出した。何という早業 手回しの良さに驚かされた。

 最近テレビでレースを見ていると、欄干の下はガードレールでがっちり塞がれている。下にモーターボートを待たせておく必要も無い。それでも今もアクゥアラングを着けたダイバーがボートの上から来る事の無い出番を待っているという。
 また、例のレーンチェンジ部分にはシケインが出来た。下のタバコ屋コーナーも内側の海を埋め立ててスタンドが出来、大きなカーブになった。グランプリドライバーズ・アソシエイションの不安全に対する抗議の成果だろう。