春分のやうな太陽運行の明確な節日は太古から祭られてゐた筈で、文字記録は無い。イギリスのストーンヘンジなど。
 では我が皇室の春分の日、春季皇靈祭の最古の記録はどうか。單なる春分でなく皇祖を祭る日となってゐる。「宮中三殿竝に祝祭日解説」(皇典講究所編、國晃館大正元年刊)の第百十三頁によれば、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/909536/75
『日本書紀』神武四年二月二十三日(甲申)の記載を「起源とも言ひつべきなり」とする。斷定してゐない。『日本書紀』原文に曰く、
(神武)四年春二月、壬戌朔。甲申、詔曰、
「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海内無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」
乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原、用祭皇祖天神焉。
現代の暦日計算では、この陰暦二月二十三日は陽暦の三月三十一日になるらしい(現行のグレゴリオ曆)。春分からかなりずれる。今度研究書で確認してみるが、日本書紀の神武四年を春季皇靈祭の最古の記録とするのは難しさうだ。

 今一つの春分皇靈祭らしき記録は、崇神七年2月15日に詔して三輪山の大物主を祭ってゐる。『日本書紀』原文に曰く、
七年春二月、丁丑朔。辛卯、詔曰、
「昔我皇祖、大啓鴻基。其後聖業逾高、王風轉盛。不意今當朕世、數有災害。恐朝無善政、取咎於神祇耶。盍命神龜、以極致災之所由也。」
於是天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姫命曰、
「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」
天皇問曰、
「教如此者誰神也。」
答曰、
「我是倭國域内所居神、名爲大物主神。」

關聯ブログ:
http://blog.goo.ne.jp/kuragesuke/e/5fc021c84d20e6c39cb168948bf2c31c
しかしこれも、現代の暦日計算では陽暦三月十二日になるらしい。確認を要するが、春分とするのは中々難しさうだ。淺茅が原に行幸したのが十日後だとすれば通じなくもない。以上の神武崇神の皇祖祭は、日本書紀撰者の考索にもとづく暦日にそもそも合致してゐない可能性もある。

 暦日が明確になるのは推古天皇十二年(西暦604年)からであるらしい。下に國立天文臺ホーム頁「曆wiki、傳來から宣明曆まで」。
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FC6FCCBDCA4CECEF12F1.CEF1A4CEC5C1CDE8A4ABA4E9C0EBCCC0CEF1A4DEA4C7.html
平安時代中期の『政事要略』に引く「儒傳」など諸書に「推古天皇十二年正月朔、始用暦日」云々とある。この「始用暦日」は殘念ながら『日本書紀』に載ってゐない。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-011002&IMG_NO=186
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/hougibu/frame/f000316.html
 そして三年後の推古天皇十五年(西暦607)年、秋に小野妹子を派遣し「日出づる處の天子」と述べたその年の春、『日本書紀』原文に曰く、
十五年春二月、庚辰朔、定壬生部。戊子、詔曰、
「朕聞之、曩者、我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮神祇、周祠山川、幽通乾坤。是以陰陽開和、造化共調。今當朕世、祭祀神祇、豈有怠乎。故群臣共爲竭心、宜拜神祇。」
甲午、皇太子及大臣、率百寮以祭拜神祇。


詔の戊子は陰暦二月九日。祭った甲午は陰暦2月15日。古曆の計算は面倒だが、内田正男『日本暦日原典』(昭和五十年雄山閣)によればユリウス曆の3月18日である。現行のグレゴリオ曆に換算すると三月21日であるらしい。これは春分として間違ひ無いだらう。陰陽開和は獨特の言葉なので、「陰陽諧和」の音誤だなどと言ふ人もあるかも知れないが、「陰陽諧和」といふ言葉も近代以前に用ゐた人はゐない。「開和」は漢文として問題なく、しかし思想として獨特である。

この推古春分祭の詔と、神武崇神の皇祖祭の詔とは、文面が非常によく似てゐる。神武崇神の時代の暦日は明らかでないので、春分であった可能性もあり、否定できない。

陰暦二月十五日は滿月、佛教の涅槃會となってゐる。そのため、推古十五年の詔が佛教流儀でないことを怪しみ、津田左右吉『日本古典研究』下册及び坂本太郎『聖徳太子』ではあらぬ臆測に這入り込む。ほぼ曰く、推古天皇は佛を祭ったのだが、『日本書紀』撰者はそれを神道流儀に改竄したのだと。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2983655
この臆測は、暦日研究の成果としてこの日が春分であったとなれば否定される。明治以後の春分に皇祖を祭る最古の記録がこの條だといふことになる。改竄は必要無かったのである。畏くも詔を任意に改竄するほどに日本書紀撰者の權力が大きかったならば、涅槃會の二月十五日といふ月日も改竄すれば良い。後人が古人の改竄を無闇に勘繰ると痛い目に遭ふ。

なほ、孔穎達「禮記正義」卷四十七「祭義」に曰く、
「祭日於壇」、謂春分也。「祭月於坎」、謂秋分也。
日本で春分秋分に皇祖を祭るのは、周王の日月祭祀の禮とは異なるやうだ。しかし「日のみこ」だとか傅會は色々と有り得るだらう。

關聯:
木庭元晴「飛鳥時代推古朝による天の北極及び暦数の獲得」(關西大學博物館紀要22。西暦2016年刊)
https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/11175



唐臼山小野妹子神社