あの小説家を好きになったのは、たぶん父の影響だ。
陰影の多い古い木造家屋。
階段を上がりきった所に小さな本棚があり、
両親の読みかけの本や雑誌がいつも無造作に差し込まれていた。
昇り降りしながら、
僕はアメリカやイギリスの小説家をそこで覚えた。
次第に、哲学書や啓蒙書が増えていったから、
もしかしたら意図的に置いていたのかもしれない。
今思えば、あれは教養のバトンリレーだった。
同時に、仕事に忙しい父と母が今、
何に興味を持っているかを覗き見する密やかな楽しみもあった。
活字の伝言は、少しずつ心に降り積もり、
今、僕の血肉になっている。
親になった。家を建てたら、階段脇に本棚が欲しい。
子どもたちがいつかあの小説を読み継いでくれるように。
家族の成長とともに代謝し、変遷する。そんな生きた本棚を。
ある禅僧がこう語っていた。
「庭がなくとも、障子越しに畳に映る日ざしがゆらゆらと揺れる。
ああ、揺れているなあとほっとする。
それが心の庭です。どなたの心にもある」。
僕の家にも、ささやかな心の庭がある。カフェみたいでしょと、
妻が買ってきたウンベラータという鉢植えだ。
明るいグリーンの大きな葉が、午後の木漏れ日越しに影を作る。
風に葉が揺れ、季節の移ろいに合わせ、緑の濃淡を変える。
寒い冬、光が足りないと落葉してしまうこともある。
春が来ると、3センチ、いや5センチ伸びたと
子どもたちが定規を持ち出す。
幹の節目で生長がわかるのだ。たとえいつか枯れたとしても、
人の力の及ばぬものの存在を
そばで感じられる暮らしはかけがえがない。
色、香り、葉がすれの音。五感を通して、
心の庭は安らぎをつむぐ。
20代のころ、あれほど聴いていた音楽を
最近聴かなくなった。
逆に、30代のころわからなかった絵を
40代になって理解できるようになった。
好きなもの、信じていること、価値観、ライフスタイル。
それらは、知恵や経験を重ねるごとに変化していいものだし
そうなるべきもの、と僕は思う。
だが、日々暮らしていると、そんなあたりまえのことを
つい忘れそうになる。たとえば夫婦であっても
彼女はこう、なんて決めつけてしまったり……。
会社勤めの妻が、中断していた心理学の勉強を
再開して少し驚いた。そう、人は変化するものと
そのとき僕はあらためて思い出したのである。
彼女はいつか複数の仕事を持つことになるのだろうか──。
それもまた悪くない、と思えるやわらかな自分でいたい。
結婚して最初に買った家具は
北欧の無垢材のキャビネットだ。
若い僕らは随分無理をして手に入れた。
以来何度かの引っ越しと子どもたちの誕生、
ついでに、垂れ耳がかわいい同居人も増えたので
幾つもの傷が増え、色はいつしか
淡いベージュから深い琥珀に変化していた。
だが僕は、買いたてのころより、今のほうがずっと好きだ。
買ったその日が美のピークではなく
買った日から味わいを増す素材の魅力を
このキャビネットから学んだ。
木、石、土、鉄、革。自然界から生まれた素材は
必ず時間とともに表情を変える。
それは、「劣化」ではない。
味わいの美しい「進化」であり、
過去から未来への贅沢な贈り物である。
作:大平一枝
物語の舞台を360度映像で体感する
三菱地所ホームの自由設計注文住宅
「ONE ORDER」
おおだいら・かずえ/ライター、エッセイスト。長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観、人のつながりをテーマに、女性誌、書籍、各誌紙に執筆。住まいや暮らしに独自のスタイルを持つ人物ルポ、手仕事・暮らしにまつわるエッセイを多く手がける。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『ジャンク・スタイル』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『世界でたったひとつのわが家』(講談社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。朝日新聞デジタルのウェブマガジン「&w」で連載中の、市井の人々の暮らしと機微を台所から切り取った『東京の台所』は、多くの人に支持され6年目を迎えた。