サッカージャーナル編集部です。本日から3週に渡り、元川悦子氏によるオリンピック過去3大会の振り返りコラムを掲載いたします。

記事提供:
速報サッカーサッカーEGhttp://sp.soccer24.jp/
====================
 ロンドン五輪出場を決めた関塚ジャパンが7月の本番に向け、いよいよ本格的に動き出そうとしている。日本の五輪出場は96年アトランタ大会以来5回連続。今や「五輪は行って当たり前」と誰もが思うようになった。しかし、アトランタ以前の日本サッカー界は世界舞台とは程遠いレベルにいた。68年メキシコ五輪銅メダルから28年間もアジアの分厚い壁をこじ開けられずに苦しんだのだ。

 そんな不遇の時代から世界常連国となった現在までを振り返ることで、今後の五輪代表、日本サッカー界が採るべき道が見えてくるかもしれない…。そんな思いから今回、過去4大会の五輪代表の軌跡を改めて辿ってみることにしたい。

◆アジアの壁を28年ぶりに破る!

 五輪が23歳以下の世界大会となったのは92年バルセロナ五輪からだ。日本協会も若手強化に乗り出したが、当時はまだJリーグ発足前。満足いく準備もできず、バルセロナには行けなかった。翌93年には94年アメリカW杯出場権をあと一歩で逃すという「ドーハの悲劇」にも見舞われたことから、アトランタ五輪出場は関係者の悲願となった。

 アトランタ五輪世代はJリーグで活躍していた選手が多く「史上最強」との呼び声も高かった。指揮を執ったのは、昨季までガンバ大阪を10年間率いていた西野朗氏。92〜93年にユース代表監督を務めた彼が、そのまま持ち上がりで五輪代表を見ることになったのだ。川口能活(当時・横浜M)、伊東輝悦(当時・清水)、服部年宏(当時・磐田)、城彰二(当時・市原[現・千葉])らはユース代表から引き上げられた選手である。さらに前園真聖(当時・横浜F)、小倉隆史(当時・名古屋)らを加えた形で94年からチーム強化が始まった。前園は当時、ファルカン率いる日本代表にも名を連ねており、主将に指名されるなど、完全なるチームの主軸だった。

 西野監督は彼らを柱に据えつつ、見極めを進めていった。当時の日本サッカー界はJより代表の比重が圧倒的に高く、五輪代表合宿を頻繁に行えたので、チーム作りはしやすかっただろう。のべ50人以上の選手を招集したが、中核メンバーは変わらなかった。G大阪時代もそうだが、西野朗という人はある特定の選手に絶対的信頼を寄せる傾向が強い。「使えない」と烙印を押したら選手を浮上させることも滅多にない。そういう頑なな姿勢がアトランタ本番での「事件」につながるとは、本人も予想していなかっただろう…。

 アジア予選は95年5月からスタート。1次予選はタイとチャイニーズ・タイペイと同組になった。瑞穂で行われたホーム・タイ戦で1−0と苦戦した以外は、問題なく快勝。最終予選へとコマを進めた。しかし、96年3月の最終予選で五輪切符を争う相手はサウジアラビアやUAEなど強豪ぞろい。さらなるチームの底上げを図らなければ厳しいと見られた。

 そこで西野監督は、95年ワールドユース(カタール)で8強入りした若い世代を引き上げる決断を下す。その筆頭が中田英寿(当時・平塚)だった。95年にベルマーレ平塚入りし、新人ながら司令塔としてチームを掌握していたスケールの大きなMFを、指揮官は10月のオーストラリア遠征で初招集する。彼は1次予選で10番を背負った山口貴之(当時・仙台)のポジションを瞬く間に奪い、前園と中盤のコンビを形成した。二人は公私共に仲良くなり、後に「ラ王」のCMで競演も果たした。この二人がいなければ、日本は28年ぶりの五輪出場を果たせなかっただろう。

 前園と中田が存在感を一段と高めたのが、96年1月に最終予選の地・マレーシアでの合宿中に起きたアクシデントだった。エースFW小倉がヘディングの着地に失敗。右ヒザ後十字じん帯断裂の重傷を負い、最終予選どころか、本大会も絶望的になったのだ。「レフティモンスター」の異名を取る小倉は当時、将来を嘱望されていた。鋭い得点感覚と左足から繰り出す強烈なシュートは五輪にも不可欠だった。それを失った西野監督と選手たちのショックはあまりにも大きかった。

 その穴を埋めようと奮起したのが前園と中田であり、前線でコンビを組んでいた城彰二だった。前園は「オグがいなくなったんだから、俺たちがしっかりとやらなきゃいけない」と仲間にハッパをかけ、士気を高めた。西野監督も小倉と城の2トップの背後に前園を置く布陣を想定していたが、小倉の離脱によって、城を1トップに置いてその後ろに前園と中田を並べる「1トップ2シャドウ」の布陣へ変更することを決断。わずかしかない練習時間を最大限生かしてコンビネーションを熟成させていった。

 迎えた3月の最終予選。イラク、オマーン、UAEと同組で、日本はタフな戦いを強いられた。イラク戦では中田が独特のパスセンスを生かした多彩な攻めを演出し、城が1ゴールをゲット。最低限のドローからスタートする。次なるオマーン戦では前園の2発に城、中田がそろい踏みで4−1で完勝。第3戦のUAEは上村健一(当時・広島)のゴールで日本が1−0で勝利する。結果として2勝1分でグループを1位通過した日本は、28年間閉ざされ続けた世界への扉まであと一歩というところまで上り詰めたのだった。

 ベスト4進出を果たした彼らは、悲願の本大会切符を賭けてサウジアラビアと準決勝を戦うことになった。エースFWで最終予選MVPとなるO・ドサリを擁する彼らは「最終予選出場8か国中最強」と言われていた。チームの緊張とプレッシャーは最高潮に達したが、西野朗監督は「この日のためにチーム発足からの2年間があった。自分たちのサッカーをしよう」と力強く選手たちを送り出したという。

 指揮官は「相手のキーマン殺し」という策を徹底した。O・ドサリにはマンマーカーとして定評のあった白井博幸(当時・清水)をつけ、さらに司令塔のK・ドサリを伊東輝悦にマークさせたのだ。この守備的戦術はズバリ的中。粘り強い守りで相手を大いに苦しめた。

 そんな中、日本は前半開始早々、城彰二のヒールパスを受けた前園先制点をゲット。後半立ち上がりにも伊東とのワンツーから前園が二点目を挙げ、世界切符獲得に王手をかけた。終盤にはサウジの猛攻を受け、O・ドサリに1点を返されたものの、川口能活、田中誠(当時・磐田)、鈴木秀人(当時・磐田)らの強固な守備で相手の猛攻を跳ね返し続け、二点目を許さなかった。

 そして終了の笛。ついに歓喜の瞬間が訪れた。川口は両手を掲げてガッツポーズをし、前園も城も涙を流す。負傷でチームを離れた小倉への思いもあっただろう…。まさに苦しみぬいてつかんだ28年目の五輪切符だった。

 決勝では永遠のライバル・韓国に1−2で敗れたが、その悔しさを胸に秘めてアトランタに乗り込めたのは逆によかったのかもしれない。彼らの強い闘争心が本番でサプライズを起こす原動力になったのだから…。

◆サウジアラビアを撃破し「28年の壁」をこじあけた日本。そして本大会初戦で「マイアミの奇跡」を演出!

 28年ぶりにアジアの壁を突破した日本。96年7月のアトランタ五輪ではブラジル、ナイジェリア、ハンガリーという強豪ぞろいのグループに入った。決勝トーナメントに進むためには、上位2位以内に入らなければならない。ブラジルかナイジェリアから絶対に勝ち点を取る必要がある。これは日本にとって非常に大きなハードルだった。

 特にブラジルは、94年アメリカW杯で四度目の世界王者に輝いた勢いもあって、本気で勝ちに来ていた。「まだ果たしたことのない五輪優勝を何としても達成したい」と国中が湧き上がっており、23歳以上のオーバーエイジ枠にFWベベット、MFリバウド、DFアウダイールというアメリカW杯優勝戦士たちを抜擢。金メダル獲得体制を完璧に整えてきたのだ。

 それでも西野朗監督は94年から積み上げてきた結束力とコンビネーションを重視。「我々は単にアジアだけで勝つためにチームを作ってきたのではない」と言い、23歳以下の選手だけで戦うことを決めたのだ。選手たちも初めての世界舞台で自分の名前を売ってやろうと意欲満々だった。キャプテン・前園真聖(横浜F)も「アトランタでアピールして海外へ行きたい」と公言するなど、このチームの選手たちはJリーグ発足前の日本人選手とは違ったメンタリティを持っていた。

 だからこそ、ブラジルを倒す「マイアミの奇跡」を起こすことができたのだろう。

 96年7月22日、マイアミ「オレンジボウル」はブラジルからやってきた熱狂的サポーターで埋め尽くされた。日本のサポーターもわずかにいたが、カナリア色のユニフォームが圧倒的に多い。日本は完全アウェー状態での試合を強いられた。

 個人能力もチーム力も相手の方が圧倒的に上なのは間違いない。それでも勝つ方法は必ずある。西野監督が考えたのは、徹底的に守って、ワンチャンスからのカウンターを狙うことだった。べベットとサビオという両FWに鈴木秀人(当時・磐田)、松田直樹(当時・横浜M)という強力マンマーカーをつけただけでなく、トップ下のジュニーニョに左サイドバックの服部年宏(当時・磐田)を密着マークさせるというサプライズ采配を見せたのだ。予選を通じてボランチのレギュラーだった廣長優志(当時・V川崎)を外して服部をつけるというのは、紛れもない奇策。本人も驚きを隠せなかったという。

 この作戦がズバリ的中し、ブラジルは予想外に攻めあぐんだ。前半立ち上がりから次々と日本人内に攻め込み、雨嵐のようなシュートを打ち続けるも、守護神・川口能活(当時・横浜M)の守るゴールを割ることはできない。最初は「簡単に勝てるだろう」とタカを括っていたブラジルサポーターが徐々に静まり返り、後半になると悲壮感さえ表し始めた。それほど日本の粘り強い守備がよく機能していた。

 後半27分、日本の歴史的ゴールが生まれる。この1点はまさにアクシデントのような形からもたらされた。

 左サイドの路木龍次(当時・広島)が大きくアーリークロスを上げ、中央に走り込んだ城彰二(当時・市原)とGKジダが交錯。こぼれたボールをゴール前に詰めたボランチ・伊東輝悦(当時・清水)が無人の蹴り込んだのだ。「ITO」の名は世界中に打電され、日本サッカー史に深く刻まれることになった。

 実は日本サッカー協会のスカウティング部隊は「センターバックのアウダイールとGKジダの間の守りが弱い」と分析していた。それをもとに、西野監督と山本昌邦ヘッドコーチは「そこを狙ってボールを蹴りこめ」と選手たちに指示を出していた。ジダのミスが出たことは確かにアクシデントだったかもしれないが、そこを狙えたのは徹底した準備があったから。「マイアミの奇跡」というのは実は「必然」だったことを我々は改めて再認識すべきだろう。

 そこからブラジルは凄まじい猛攻を見せたが、川口、鈴木、松田、田中誠(当時・磐田)、服部ら守備陣は次々
とボールを跳ね返す。その集中力は常軌を逸していたといっても過言ではない。サッカーにはしばしば神が下りてくるといわれるが、この時の彼らはそんな状態だっただろう。決してやられる気がしなかった。

 そしてタイムアップの笛。西野監督と山本ヘッドコーチが抱き合い、先発した前園、城、中田英寿(当時・平塚)が歓喜の雄叫びを上げる。その傍らでベベットやアウダイールらW杯優勝選手たちがガックリうなだれる。もちろんオレンジボウルを陣取ったカナリア色のサポーターたちも落胆し、涙を流す者さえいた。それもそのはずだ。ブラジルは28本ものシュートを放ったのに1点も取れず、日本はわずか4本のシュートで決勝点を奪ったのだ。両者の実力差は明白だったが、勝利したのは確かに事実。選手たちは勝利の美酒に酔いしれていた。

 だが、この超守備的サッカーによる1勝がチーム崩壊の序章になるなど、一体誰が想像したのだろうか…。「マイアミの奇跡」は西野監督率いる若きチームを思わぬ方向へ導くことになってしまうのだ。

◆指揮官と選手が衝突したナイジェリア戦のハーフタイム。そして1次リーグ敗退へ

 スーパースター軍団・ブラジルに勝利するという「マイアミの奇跡」から2日後。アメリカ・フロリダ半島の中央部にあるオーランドへ移動し、日本五輪代表はナイジェリアに挑んだ。

「アフリカの雄」との呼び声が高かったナイジェリアには、かつて中田英寿(当時・湘南)や松田直樹(当時・横浜M)が93年U−17世界選手権(日本)で戦ったFWヌワンコ・カヌや、チームを司る攻撃的MFオーガスティン・オコチャなど優れたタレントをズラリと並べていた。初戦で3−2でハンガリーを下しており、この時点で勝ち点3と日本と並んで首位に立っていた。西野朗監督率いる若きジャパンが2位以内に入って決勝トーナメントに進出するためにも、ナイジェリアに負けることは許されなかった。

 相手との実力差を冷静に分析した指揮官は、ブラジル戦同様、超守備的な戦い方を選んだ。相手をマンマークして長所を消すという戦い方は少なからす機能し、前半を0−0で折り返すことに成功した。しかし守備ばかりに忙殺され、本来の仕事である攻撃が全くできないキャプテン・前園真聖(当時・横浜F)、中田英寿といった攻撃陣は苛立ちを隠し切れなくなる。そして迎えたハーフタイム。予期せぬ大事件が勃発してしまう。

 ロッカールームに入るや否や、中田は路木龍次(当時・広島)に向かって「もっと押し上げくれないとサッカーにならないじゃないか」と語気を強めた。路木は西野監督から「自陣に下がってボールを取れ。あんまり押し上げるな」と指示されていたから返答に困った。田中誠、鈴木秀人(ともに当時・磐田)、松田ら守備陣は指揮官の戦術を忠実に守っていたのに、中田らはそれを曲げて前に出てゴールを狙おうとしたのである。

 そんな自己中心的な態度に西野監督は我慢ならず、「みんなが頑張っているのに、なんでお前はそういうことを言うんだ」と怒鳴り声を上げた。日頃はあまり感情を表に出さない淡々とした男が、雌雄を決するといってもいいような大一番のハーフタイムに大声を出すなど、本人も信じられなったという。

 この様子を目の当たりにした副キャプテン・服部年宏(当時・磐田)は「自分さえしっかりしていれば……」と悔やんだようだが、もはや悪い流れは止められない。わずか15分間に起きたゴタゴタによってチームには戸惑いと不安が表面化。ここまで一枚岩だった選手たちの結束が失われてしまった。

 それでも後半も0−0のまま何とか耐えていたが、チームをさらなる混乱に陥れる大きなアクシデントが起きる。それが後半23分の田中誠の負傷退場だ。相手選手と接触した彼はピッチ上に倒れ動けない。痛めた箇所はヒザ。もはやプレー続行は不可能だった。指揮官も「あれさえなければ……」と悔やむ出来事が起き、もはやチームは制御不能な状態に陥ってしまった。

 そして残り10分を切った後半38分にオウンゴールで1点を失い、終了間際にオコチャに2点目を奪われる。最低でも引き分けたかった日本にとって0−2はあまりにも痛すぎる敗戦だった。

 前向きな黒星ならともかく、チーム内がゴタゴタした挙句、重要な守備の要を失って負けるという最悪の展開…。しかも2戦終えての得失点差−1はあまりに痛かった。ブラジルは第2戦でハンガリーを3−1で下していたから、最終戦のハンガリー戦でできる限り多くのゴールを奪って勝つしか、日本が決勝トーナメントに進める道はなくなった。

 そこで西野監督はここまでの超守備的スタイルを完全に転換。積極的に攻めに出る布陣をチームを変えた。FWに城彰二(当時・市原)と松原良香(当時・清水)の2トップを配し、トップ下に前園、ボランチに伊東輝悦(当時・清水)と服部、右サイドに森岡茂(当時・G大阪)、左サイドに路木らを置く3−5−2はこれまでにはないものだった。

 ただ、この重要な一戦のスタメンに1人のキーマンが欠けていた。それが中田だった。西野は自分に真っ向から意見した19歳のアタッカーをあえて外すことで、チームをまとめる方向に持っていきたかったのだろう。

 けれども、リスク覚悟の大胆策は成功しなかった。集中力を欠いた日本は立ち上がりの3分に先制点を食らう。前半終了間際に前園が同点弾を叩き込むも、後半立ち上がりにハンガリーに追加点を奪われた。開始早々の失点はメンタルの問題が大きいといわれるが、もしかすると西野監督率いるU−23日本代表はすでに「戦う集団」ではなくなっていたのかもしれない。

 後半終了間際に途中出場の上村健一(当時・広島)が2点目を奪い、さらにエース・前園が3点目を挙げて逆勝利を収めたものの、すでにブラジルはナイジェリアを1−0下し、得失点差で日本を上回っていた。まさに万事休す…。若きジャパンは2勝しながら1次リーグ突破を果たせず、アメリカの地を去ることになった。

 前園や中田に象徴される個性派集団だった西野ジャパン。彼らは日本サッカー界にかつて存在しなかった技術と戦術眼、自己判断力、強靭なメンタリティを持った選手たちだった。Jリーグが発足したからこそ、そんな強い精神力を持つ人間たちが次々と出てきたのだろう。だが、見るものをワクワクさせた個性派集団は小さなほころびをきっかけに破綻してしまった。28年目の五輪出場という異常な重圧と興奮が彼らをそのような方向に導いたのかもしれない…。

 それでも、このチームは「もしかしたら大化けするかもしれない」という果てしない可能性を我々に感じさせてくれた。若いエネルギーと力強さが素晴らしかった。あれから16年が経過した今、日本の若手は技術レベルは格段に進歩したが、指揮官に異議を申し立てるほど心臓に毛が生えた選手はいない。そういう意味では当時が懐かしく思えてくる。

記事提供:
速報サッカーサッカーEGhttp://sp.soccer24.jp/