全国高校野球選手権大会が、100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第20弾は西本聖氏(61)です。甲子園で活躍した2人の兄を追い名門・松山商(愛媛)に入学するも、1度も甲子園の土を踏むことはできませんでした。当時、上下関係も練習も全国で一番厳しいとも言われた松山商。1年春から公式戦登板も2度の脱走事件を起こします。また高校生活の中で初めて「努力」の大切さを知ります。それが卒業後、ドラフト外で入った巨人、プロ野球での活躍につながりました。全8回でお送りします。


小学1年のころ、生まれ育った興居島の海で遊ぶ西本聖少年
小学1年のころ、生まれ育った興居島の海で遊ぶ西本聖少年

「西本3兄弟」。1970年前後、松山の野球ファンでこの3兄弟の存在を知らぬ者はいなかったに違いない。

第5子の三男の明和は66年夏の甲子園に松山商のエースとして出場し準優勝。69年夏には四男正夫が松山商の「7番一塁手」で甲子園出場。あの三沢(青森)との延長18回引き分け再試合を制し全国制覇を達成した。

末っ子で五男の聖も興居島(ごごしま)中1年時にエースとして松山市内の大会で優勝。「3兄弟の中で1番」と評判だった。誰もが兄たちを追い松山商に入学すると信じて疑わなかった。ところが、松山商卒業後、プロ野球の広島にドラフト1位で入団していた明和が動いた。「自分の手元において野球をさせたい」と瀬戸内海を挟んだ広島商へ入学させるべく準備を進めていたのだ。

西本 中学3年秋に広商の練習を見に行った。兄貴がお世話になっている、ある方の家に行って「ここに下宿するんだよ」っていうところまで全部セッティングをして、そういう話がほぼ決まりかけていた。

当時の広島商には1年に達川光男(現ソフトバンクコーチ)らがいた。強力なチームで達川が3年時には春は江川卓の作新学院を破り準優勝、夏は全国優勝している。もし1学年下の西本が広島商に入っていたら…。甲子園に出場し、江川と投げ合っていた可能性もあった。

しかし、かわいい末っ子の広島商入りを父友五郎が猛反対した。

西本 オヤジにとってみると「西本3兄弟」と言われた中で「当然末っ子も松商に来るだろう」という地元の声が耳に入っていた。3兄弟で一番良いと言われた弟が来れば間違いなく甲子園に行けるどころか優勝もできる。3年間甲子園に行けるんじゃないかという地元の期待に応えたいという思いもあった。それが広島の方に行くとなると面白くない。兄貴とオヤジの間では結構いろいろあったらしいけど最後は兄貴が折れた。

こうして西本の広島商入学は幻に終わり、兄2人と同じ松山商へ進むことが決まった。次回は7人きょうだいの末っ子として生まれた西本の幼少期に迫る。(敬称略=つづく)【福田豊】


73年、練習試合前、並んで投球練習する作新学院・江川卓(左)と松山商・西本聖
73年、練習試合前、並んで投球練習する作新学院・江川卓(左)と松山商・西本聖

◆西本聖(にしもと・たかし)1956年(昭31)6月27日、愛媛県松山市生まれ。松山商時代は甲子園出場ならず。74年ドラフト外で巨人入団。同期に定岡正二がいる。79年にライバル江川卓が入団し、2本柱としてチームを支えた。鋭いシュートを武器に81年18勝で沢村賞。同年日本シリーズMVP。中日に移籍した89年に20勝で最多勝。93年オリックス移籍、94年巨人に復帰し同年引退。日本シリーズの29イニング連続無失点は今でも最長記録。通算504試合、165勝128敗17セーブ、防御率3・20。ゴールデングラブ賞8度。投手コーチとして03年阪神でリーグV、10年ロッテでは日本一に貢献した。現役時代は176センチ、81キロ、右投げ右打ち。

(2017年10月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)