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モンタニャールおじさんの日記 Twitter

2013-09-24

[][]コゼレック「概念の歴史と歴史の概念」 23:46

コゼレック「概念の歴史と歴史の概念」in ders: Begriffsgeschichten, Suhrkamp Verlag, Frankfurt a. M., 2006, S. 56-76

 イスラエルで概念史(conceptual historyないしhistory of concepts)について述べようとする者は、リチャード・ケーブナーへの賛辞から始めなければならない。彼の論考「Semantics and historiography」は1953年以来読む価値を有し続けている。言語学的精緻さにもかかわらず、ここで歴史家の豊富な経験からして明らかなのは、言葉が行動様式を制御し活動を惹起しうるのと同様に言葉が何に照準を合わせることができるのかということである。しかし同様にして、いかに言葉が政治的行動主体と党派に利害関心を条件づけられて依存したままであるかということも明らかである。言葉と活動は相互に作用しあい、相互に高めあう。ケーブナーは、ヘルムート・ダン・シュミットによって編集された偉大な遺作「Imperialism. The Story and Significance of a Political Word」において、こうした問題設定がいかに実り豊かなものであるかを模範的なしかたで披露した。 アングロサクソンプラグマティズムのやり方でここに示されるのは、いかにして百年の間に「帝国主義」という概念がおよそ一ダースほどもその意味を徹底的に変化させてきたかということであり、後代の人々はこの事実を知ることすらできないということである―というのも、この事実は過去の脈絡に概念史的に遡って手を加えるための導きの糸にあるからである。この時判明するのは、言語利用がいかに変容していく党派形成、紛争状況、階級利害、先入見、国民運動ないし植民地運動、あらゆる種類の味方イメージと敵イメージに依存しているかということである。歴史家としてそのようなものを指し示すことができる者は、読者を教導するのみならず、正気に戻す手助けもする。このような教書はケーブナーの意味論的著作をもって嚆矢とする。ケーブナーは優れて実用的に概念史に従事した。ゼマンティクはその議論上の―今日では言説上と言うのがより好まれる―用法に分類される。いわゆるコンテクストはその際、語にとって十分な内容を持っている。なぜなら、コンテクストがなければ個々の語の唯一の意味が確定されえないからである。その限りで、ケーブナーはまたポーコックとスキナーの先駆者に数えられるといえる。
 しかし、ケーブナーの概念史はまた、概念史の母国ドイツにもたらされるある別の側面を有している。「概念史」という術語はよく知られているようにヘーゲルに、いずれにせよヘーゲルの周辺に由来する。そしてヘーゲルは、非常に具体的に、一歩一歩、西洋精神の運動と変遷を跡づけた。―ヘーゲルがかつて名づけたようにいえば、「概念の作動」である。別の言い方をすれば次のようになる。概念の歴史は物質的利害ないし政治的利害を単純なしかたで反映するわけではない―逆もまた然りである。概念の歴史が示すのはむしろ次のことである。すなわち、概念の歴史には、自らの世界を認識しないしはそれに影響を与えようとする全ての者が惹起せざるを得ない言語的な固有の成果が含まれているということである。諸概念はしたがってまた固有の言語内在的な歴史を有する。そしてこうしたヘーゲル的な、あるいはこう言いたければ、観念論的伝統が、ケーブナーがベルリン、ブレスラウ、ゲンフで学んだ歴史学的―文献学的方法に影響を及ぼしたことは疑いない。
 ケーブナーは中世史家であって、そうした人間として言葉をそのより以前の時代の意味と利用から吟味していく特殊なセンスを発展させた。というのも、原典が乏しくなっていくのに応じて、失われた世界に関する言明を獲得するためにほとんど保存されていない証拠文献がますます問い詰められざるをえないからである。それゆえ、ケーブナーは1922年にある重要な本を編集したのであって、これは「ケルン都市共同体の起源」に関連するものであった。 この本でケーブナーが問うたのは次のことについてである。すなわち、いかなる主として法的な意味を「urbs」、「civitas」、「burgens」、「cives」のような原典にある中心的概念が12世紀を持っていたのか、そしていかにしてそうした意味が―市民が大司教や都市支配者と対決していくなかで―変化していったのか。ケーブナーはしたがって―かつて中世史学で支配的だったように―史料に忠実なしかたでとりわけよく裏づけられた法制史を媒介にして社会史と国制史に携わっていた。もちろん、今日の読者は振り返るに際して次のことに面食らう。すなわち、ケーブナーは共和的都市国制の最高の主導概念として「民族共同体」を利用しているが、これはもちろん史料にある概念ではなく、彼が盛期中世投影した19・20世紀の近代的概念であるということである。 この時にケーブナーが主として念頭に置いていたのは、平等な権利をもつ市民による共和的都市共同体を特徴づけるべき法的要素である。われわれは、ケーブナーがその12年後、パレスチナへの移住を強いられたときにはもはやこの「民族共同体」という概念を利用していなかったということは知っておいたほうがよい。しかし、まさにこの概念こそが、見かけ上での人種的基準をめぐって蓄積され、闘争的スローガンとしてユダヤ人を民族共同体から排除するのに役立ったのである。そうだとすれば、ケーブナーは、何万ものドイツ市民の死、何十万もの罪なき人間の死を解き放ち惹起したこのようなゼマンティクの転位の早い時期の犠牲者であった。ケーブナーは、1934年にブレスラウからエルサレムに移住したときすでにこれを予感していたはずである。
 (言語的)概念と(言語外的)歴史との間にある連関があるということにはそもそも論争の余地はない。私はこのような連関を二つのやりかたで解明しよう。第一に、私は概念の歴史を論じるだろう。第二に、私は歴史の概念を詳説するだろう。この二つは理解のありかたにおいて緊密に関連しており、そしてその次にこのような相互連関を解明するための若干の提言が定式化されることになる。

??. 概念史
 人間生活のすべては経験から構成されており、それゆえ経験は不意でありかつ新しいだろうが、あるいはしかし反復する本性であるだろう。経験を構成したり集積したり、経験を人の生活に接続するためには、概念が必要とされる。消えていく経験を保持し、何が正しいかを知り、そして過去をわれわれの言語のうちにとどめるためには概念が必要である。したがって概念は、過去の経験をわれわれの言語的資産ならびにわれわれの行動に統合していくために必要である。このような統合が成功してはじめて、何が起こったのかが理解されうるし、むしろ過去の課題を自らに設定することができるようになる。こうして、将来の出来事やありうる不意の出来事に対する準備を整える―そして一方でこうした出来事を阻むための―能力すらも獲得するだろう。これに続き、何が起こったかを伝えること―あるいは自らの経験の歴史を物語ること―すらできるようになる。カントにならって言えば次のようになる。概念なくして経験なし、経験なくして概念なし。この言い回しは人間学的な言明としても特徴づけられうる。この人間学的言明はあらゆる人間に該当し、その形式的特徴においてあらゆる文化、言語、時代に該当する―無数の過去の経験を言語化することを可能にし、そのようにしてまた想起するために、しかしまた想定可能な未来の経験を反省に取り込むためには、いかなる経験が獲得されいかなる概念が展開されるかについては何も言えないだろうが。
 何かが把握される、何かが捕捉されるということは、ある非常に特殊なしかたで、人間は言語を意のままにしかつ言語に条件づけられている生物であるということを意味する。そして人間が言語を利用するのは、自らが運動し、何かを見聞きし、何かを想起し何かを予期するとき、したがって人間が行為し同時にまた思考するときである。同様の視座において、このような一般的な人間の特性からして、概念に経験が言語的にはめ込まれることにより概念によって捕捉される概念の内容、現実的で具体的な経験と人は取り組むのだが、このような視座においてすでに変化は始まっている。それゆえ、何かが変化したがゆえに、歴史を物語ることで始まるきっかけがあると考えてよいだろう。しかし、このような変化の一般的な、構造的な条件が反復される場合にのみ変化は把握されうる。反復する条件を背景にしてのみ、変化一般が記録され捕捉されうる。
 不変のものによって意味されているのは、フェルナン・ブローデルが「longue durée」と呼称するものの反復的構造である。その時間性についていえば、「longue durée」は同じ出来事の常に直線的な経過として理解されるべきではなく、多様な出来事に対する同種の条件の継続的反復として理解されるべきである。 出来事は常に相互に異なっているが、しかし出来事の条件と構造は多かれ少なかれ継続的に反復する。このことは歴史の概念史的次元には、歴史の事象史的次元とは異なり当てはまらない。すなわち、別のものの量全体が不変でありしたがって反復的である場合にのみ、(諸)概念史を意味および実用の変化として主題化しうる。ゼマンティク上の・実用上の反復的構造を背景にしてのみ、ゼマンティクと実用における革新と歴史的変化が思考され、感知され、測定されうる。それゆえ、例として全く明快なのは、新たな概念は規定された解釈上の諸前提のもとでのみ導入されうるということである。聴衆ないし読者がすべて、あるいは少なくともほぼすべてを理解できるということを前提にしてのみ何かを新たなものとして伝達することができる。革新を孕む語彙を導入する者はまた、それ以外の語彙が理解されこのような意味で前もって意識されているということから出発する。つまり、言語と理解作用の反復的基本構造、それらの反復構造は、新たなものが言明されうるようになるための前提なのである。これこそが中心になる。なぜならまさに、すでに知られておりいわば反省されずに受け取られる先行する意味の反復的構造は全く特異なものにならないからである。
 ところで、そのような反復的な背景に基づき限定された変化について問うならば、歴史においては若干のものは即座に変化するが、しかしその他のものは長い時間をかけて変化するということが直ちに想起されるべきである。様々な変化速度が存在する。様々な速度での加速と減速が存在するが、これらは衝突しあい、一方にある一回的な出来事の時間層と他方にある反復的構造の時間層の間にある摩擦、それどころか断絶を産出しうる。それゆえ、言語利用、命題、テキスト、言説、そしてそれらの意味のやりくりにおいて摩擦が生じうる。ある語は不意に若干の新たな意味を保持するかもしれないが、しかしその他の語はそうではない。意味のある部分が別の部分よりも早く変化し、むしろより広範な転位を結果としてもたらす。このような可能性を理論的に解明したとき、人は分析上正確に先に進むことができるし、いかなる意味が広く残存しておりいかなる意味がそうではないのかを問題にすることができる。一つの例を出しておこう。1945年以降の時代を研究するとして、この時期に特徴的な言語史的・概念史的連続性ないし非連続性の一部を問題にするのであれば、当時新たに創刊された雑誌、例えばWandlungやNeuen Sammlungに目を通す際には次のことに注意しなければならないだろう。すなわち、ナチ時代からこのかたいかなる言語的・文体的・ゼマンティク的残滓が存在し続けていたか、そしてさらに移入された残余がその他の洗練された自由主義的再教育語法に対してもつおそらく非常に緊張に満ちた関係がどこにあるかということである。新たなものを古い公式に圧縮して告知すること―これは歴史において常に繰り返される挑戦である。
ここでわれわれの問題設定を敷衍しておこう。概念が概念によって捕捉される事実関係に対して持つ関係に立脚した歴史―概念史ならびに事象史―の時間的構造に関するものである。別の言い方をすれば次のようになる。概念と事実関係の間にある時間的関係はいかにして形成されるのか。ここに概念の歴史にとっての鍵があることは疑いない。というのも、把握されうるものと把握されなければならないものは、概念の外部にあるからである。あらゆるゼマンティクは自らを超え出ていくように指示する。言語のゼマンティク的蓄積がなければいかなる対象領域も捕捉されえず経験されえないとしてもそうである。現実に言語に縮減しその他の何ものにも縮減しない今日流行の理論は、言語は二重のものであり二重のものであり続けるということを忘却している。一方で、言語は―受容的に―言語の外側で何が生じているかを記録し、そもそも言語的に存在しているわけではないのに言語に付き纏うものを想定する。つまり、言語は先言語的かつ非言語的に現存しているような世界を想定する。他方で、言語は―能動的に―あらゆる言語外的事実関係と所与を吸収する。言語外的に経験され、認識され理解されるべきものは、概念にもたらされざるをえない。初めに述べたように、概念なくして経験はなく、経験なくして概念はないのである。
 言語は受容的でありかつ生産的である。つまり、言語は体験・認識・知識の構成要素を記録し、同時にそうした要素でもある。いかなる現実もその言語的解釈と形態に縮減されうるわけではないが、しかしそのような言語的蓄積がなければ―いずれにせよわれわれにとっては―いかなる現実も存在しない。しかし、このような差異規定には、あらゆる概念を二つの側面から解読せよという強制が含まれている。あらゆる語は変化可能な現実に適合するべき多様な意味を持ちうるのだから、ゼマンティクは学問的方法として存在する。そしてある事実関係はあらゆる場合においても同一の概念にもたらされうるわけではないのだから、事実関係は事実関係の変化に適合するべき多様な命名を生じさせる。したがって、名称論が学問的方法として存在する。この二つの方法的アプローチ、つまり意味論的アプローチと名称論的アプローチはそれゆえ、概念ならびに概念によって捕捉される現実の歴史的変遷を分析し記述しうるようになるためには不可欠である。
ハイナー・シュルツが明示したように、―純粋に論理的には―多くの可能性が存在するにすぎないが、そうした可能性にしたがって概念と事実関係の相関的変遷が形作られうる。
第一に、ある語の意味ならびに捕捉された事実関係は自らと同等なもの、共時的通時的なものであり続ける。
第二に、ある語の意味は自らと同等なものにとどまるが、しかし事実関係は変化する。事実関係は先行して生じたことの意味から逃れ出て行く。それゆえ、変化していく現実は言語的には新たに捕捉されなければならず、新たに概念的に把握されなければならない。
第三に、ある語の意味は変化するが、しかしそれ以前にそれによって捕捉された現実は同等なものであり続ける。したがって、変化していくゼマンティクは、現実性に適合するために新たな表現形態を発見しなければならない。
第四に、事実関係と語義は完全に相互に独立して発展する、それゆえかつての分類はもはや跡づけられない。概念史的方法によってのみ、いかなる現実がかつていかにしていかなる概念にもたらされたのかが伝達されうる。
純粋に論理的にいえば、この四つの可能性に対する概念史を記述するためのさらなる代替手段は存在しない。感覚的にいえばもちろん、とにかく歴史に普通にあるような中間形態の数多くの変種が存在する。これを説明するためにいくつかの例を挙げておきたい。
第一に、語義と事実関係が持続して相互に対応するということ、さらにいえば、これらが等しく平行して変化するということは非常に稀である。語義とそれに属する事実関係の大きなグループが存在し、このグループが世紀を超えて同様のものであり続けるということは確かである。このことは、自然を捕捉する概念と農民手工業生活には長く妥当してきたし、したがって持続する反復において実現されるかの領域にも妥当してきた。しかしまた、経済的、社会的、政治的、心性的な急変が生じるやいなや、こうしたものは変化し消耗していく。
第二に、概念は同じであるのに現実が急速に変化したという事例にとって刺激的な実例をわれわれはつい最近経験した。ソビエトマルクス主義にとっては、高度資本主義は、人類みなに自由と自己決定を贈る最終的な革命的転覆に先立つ最後の画期であった。その後、―第一次世界大戦までは予見されていなかった―ファシズムナチズムがその間に歩み出てきた。概念的には一貫しているが事実としては不当なかたちで、この二つがこうして資本主義の最高段階として再定義され、革命的解放理論を断念してはならないということになった。1945年以降は結果的に、古い解釈範疇すなわちユートピア的歴史哲学の概念に固執しうるようにするために、合衆国及びとりわけドイツ連邦共和国が独占資本主義的、侵略的、軍国主義的、したがってファシズム的な国家として端的に説明された。しかし最終的には、歪に解釈された現実が妨害的に自らを押し付けたために、伝統的でありドグマ化された概念体系のすべてが一夜にして崩壊したのである。
第三に、逆方向の転換が「革命」の概念史に即して示唆される。この概念は変化しているが、しかしこの概念によって診断される出来事の系列は同じようなかたちで繰り返されるのである。18世紀に至るまで、革命概念は、国家体制の歴史の経過のなかで規則的に反復される循環を意味していた。内戦の古くからの現象形態すなわち、騒擾、蹶起、配信、暴力、殺害、再殺と結び付けられることで、民主政、貴族制あるいは君主制ならびにそれらの堕落形態という人間の可能なありかたを超出するわけではない国制転換が実現される。こうして、「革命」は同じことの長期にわたる再来を意味したが、それぞれの変遷の血塗られた内戦段階においては何も変化させない。しかし、18世紀以来この概念は全く新たな特徴を獲得している。革命概念は啓蒙主義フランス革命以来、ある一回的で唯一のプロセスを指し示しているが、このプロセスは暴力が減少していくのに伴い平和的な自己組織化という全く新たな未来を招来するだろう。そのような仕方で進歩だとして解釈された革命がそれにもかかわらず、かつてと同様に血塗られた内戦に至らざるを得なかったということが、この新たな革命概念によって隠匿され、姿を隠され、排除された。成立したのはあるユートピア的に再解釈された革命概念である。この革命概念は、古くから反復されてきた残酷で血塗られた内戦の実現様態を概念的に排除し、あまつさえ理論的に許容しないことによって逆にそうした有り様を誘発したのである。それゆえ、内戦という現実は密かに言葉に伝えられた。こうして18世紀後半以来この概念が変化する一方で、かつてこの概念によって呼称された現実は同じものでありつづけた。つまり、殺害、暴力、戦争がユートピア的なプログラムのすべてに反して反復されたのである。
第四に、相互に独立して展開する単語史と事象史にとってとりわけ緊張をはらむ事例が、国家に関する概念と事実関係の間の緊張関係にある領域で明らかになる。
私はドイツの概念史を取り上げるが、これはおよそ百年遅れてフランスの概念史と事象史に追いつき、最終的にそれによって取って代わられることになる。
Statusはラテン語の、もとよりヨーロッパ共通の伝統においては、18世紀に至るまで、「等級」「名誉」「職務」という意味における「身分」、あるいはフランス語でいうところの、三身分のどれか一つとしての「etat」を意味していた。「Status」はドイツ語オランダ語では「Staat」とも言われ、それゆえ、法的に異質な、それ自体多元的で、社会的政治的に不平等な社会を指す概念であった。身分という意味におけるStatusはそれゆえ、同じ社会の内部で別の同様に局限可能で除外可能な部分集団を前提としたある法的な局限可能で除外可能な部分集団を意味した。このような諸身分の唯一の共通性は次の点にあった。すなわち、諸身分はみな平等に、支配権すべてを自らの手の内におさめようとする主権的君主に服従したという点である。
こうして、君主が自らの権利を主張することができるようになり、領主租税裁判可能性、時には教会をも制度上で解体していくにつれて、近現代の行政国家が成立した。成立したのはかの行政国家であって、これは身分的差異を融解させ、あるいは平準化しあるいは廃棄したのであって、それゆえ法的平等がますます貫徹されていくにつれて19世紀の近現代的階級社会が解き放たれたのである。
ドイツの領域国家の発展をこのように大雑把な流れで要約したことについては許しを請いたい。しかし、非常に複雑な事象史の短縮としてこのようなモデルは受け取られるだろう。というのも、「status」に関する概念史をここから除外していると考えられるからである。実際の国家形成の歴史はつまるところ、それに関連づけられた概念史と一致していたわけでもなければ並行していたわけでもないのである。いくつかの点を示唆することは許されるだろう。
1. 国家Staatは17世紀及びそれ以降でも19世紀までは身分Standと同一であった―君主の身分Standがその国家Staatであった。自然法論の遺産である法理論の言語では、二三十年のうちに完全な方向転換がなされた。身分Standは国家形成の干渉要素となった。つまり、「国家」と「身分」は、もとより同一の意味内容を持つと見なされていたのが、全くの対立概念へと凝固する。その他の概念では、同時期には「革命」と「内戦」が同様の経過をたどった。
2. Statusはかつて多元的社会を指す概念であったのが、意味の限定可能な組み合わせのうち「国家」としてある独占要求をなす基本概念へと昇格した。君主の代わりに国家そのものが「主権者」となり、「国家の元首」の位置に「国家一般」が就いた。つまり、国家は自らのうちに立法、財政、租税、学校、教会、領主にまで影響を及ぼす高権のすべてを束ねた。すなわち、国家はかつての身分制上の臣民すべてを国家市民として捕捉した。そしてこれらすべてが、外部に対し明確に境界が引かれた土地においてなされた。その限りで「国家」は、多くの分出した意味を抽象的に統合する多くの近代的集合単数名詞のうちの一つになる。
3. このように組織された単一国家はそれ以来、かつては「国家」について用いられていた他の意味のすべてを排除した。そしてこのことは西洋の隣接諸国家とは異なるかたちで進行した。他の国々では今日でもなお、「情勢state of affairs」「état des choses」について述べることができるが、ドイツ語ではこのような交流形式Umgangsformelnは押しのけられたのである。しかし、「国家」が一つの基本概念に昇格したがゆえに、この概念は反多元主義的独占要求を伴いつつまた争いの余地のあるものになった。
こうしてわれわれは、歴史的基本概念のカテゴリーを特徴づける一般的規準に逢着する。高度に複雑な集合単数名詞としての「国家」は、1800年ごろに形成されたいくつかの類似した基本概念とともにこのような特性を持っている。
「国家」は、これなしには社会的・政治的現実がもはや感知されえず解釈され得ないような代替不可能な概念になった。そしてまさにそれゆえに国家はますます論争の余地のあるものになった。というのも、かつての諸身分から生じた党派のすべてがそれぞれに固有の国家を創設しようとし、それぞれに固有のプログラムを実行しようとしたからである。こうして、かつての多元的国家概念は新たな形で敷衍され、それゆえにその間に獲得した制度的独占要求を放棄するには至らなかった。国家は君主制国家になり、社会国家になり、キリスト教国家になり、法治国家になり、国民国家になり、福祉国家になり、民族国家になり、連邦国家になり、その他考えられてきたものとなお考えられているものになった。歴史的に数多く存在し感覚的には鋭く争われてきた語の組み合わせは、国家「一般」のゼマンティク上の定数によっておよそ養われているのである。
いまや次のことについて争われるだろう。すなわち、このような特殊ドイツ的概念史は過去の現実にのみ反応してきたのかどうか、あるいは、新たに把握された国家―これは観念論的歴史哲学産物である―は現実に自らの影響を残したのかどうか。もちろん次のように言える。すなわち、出来事史に一定性が欠けることはこの新しく優勢になった国家概念によっては不十分にしか露呈されない、と。これに対して、官僚制的に統治される社会においては、正当にも「国家」という恒常的基本概念のもとにのみ包摂されうる反復構造が存在している。
第一の中間成果として次のことを明記しておこう。語義と語用は、一方から一方に対して持つ関係においてはいわゆる現実とは何の関係も持たない。概念と現実の双方は、それぞれ固有の歴史を持つ。その固有の歴史はもちろん相互に参照しあっているが、しかし異なる仕方で変化するものである。とりわけ、概念と現実性は相異なる速さで変化していくのであって、それゆえ一方では現実の概念性が先行したり、他方で概念の現実性が先行したりするのである。
このことはわれわれの一連の例では手短に示唆されただろう。あらゆる概念は、すでに国家概念において明らかになったように、様々な通時的深層編成を有している。18世紀には「status」=Standは何百年の前からの意味の過剰を有していた。この概念によって捕捉された、権利や名誉、特権、自由、責務、義務における多様な在り方は総じていわゆる盛期中世と後期中世に由来した。それゆえ、この概念は、これによって捕捉された事実関係がますます批判された場合でさえも、時代を越えて集積された豊富な経験財を概念みずからによって引き込んだ。いずれにせよ、もとより問題となるのはある経験記録概念、すなわち盛期中世から啓蒙期まで政治的・社会的言語ならびに法言語において支配的だったある類型である。
18世紀には古い現実を新たな現実へと変形するのに役立つ新たな概念が集積される。この時に常に問題となるのがすでに言及された集合単数名詞である。諸自由から「自由そのもの」が生じ、―モンテスキューおよびヨハネス・ミュラーによってその革新的概念にもたらされたような―旧帝国から「連邦共和国」(「république fédérale」)が生じ、諸々の進歩から「進歩そのもの」が生じ、諸々の歴史から「歴史そのもの」が生じる。こうした基本概念やその他相当する新たな基本概念の全てに共通するのは、これらは―時間的に言えば―基本概念を反映する経験のうえにもはやとどまっていないということである。むしろ、これらの基本概念は社会的・政治的意図ならびに宗教的意図においてある体制転換を目指している。さらにいえば、われわれの「国家」という概念はこのように未来に向かって道を開くことを関与している。国家概念は経験構成概念になる。
端的な国家、国家一般、これはフランス革命期に流行語となり、観念論哲学者によって理論的に思考され続けてきた。つまり、端的な国家、国家一般は、そもそも未来において履行されるべき倫理的・法的プログラム規範的要求を獲得した。真の国家とは来るべき国家、未来国家であった。
最終的にはなお第三の変種が明らかになる。われわれの概念が長期にわたり前提されていた経験を記録し現在的なものとしてから、そしてこの概念が新たな未来を自らに開示することになってから、この概念は最終的に現在の経験の脈絡から完全に遊離してしまった。つまり、国家概念はユートピア的に凝結した、純粋な期待概念となった。フィヒテにあっては、真の国家とはその市民を自立に向かって育成していく国家である。その自立とは、市民がそもそも行政すべてを手中に収めたときにはあらゆる国家を不要にし、したがってあらゆる暴力と強制を不要にすることになるものである。このような国家の目的は国家そのものの解体である。ここに先取りされているのは、後にマルクスエンゲルスのもとで来るべき「国家の揚棄」というドグマになるものである。
こうして、われわれは分析の第二の成果を手にした。すなわち、あらゆる基本概念は代替不可能であるのみならず、それゆえにこそ争いの余地がある―同様に、あらゆる基本概念は時間的な名称構造Binnenstrukturを持っている。基本概念すべてが過去の意味の様々な深層編成をなす分け前ならびに様々な重要視された未来期待を内包している。それゆえ、このような概念はいわば言語内在的に、その現実的内容や時間的な運動的潜勢力、変化的潜勢力にかかわらず発生する。そのような革新をはらんだ概念にとって代表的だと見なされるのが、―主義という接尾辞を伴う概念である。そのような―主義の結合に関係するリストは長い。このリストは18世紀初頭に、世界市民主義的な意味を持ち、あらゆる君主制を超越していく祖国愛をプログラム化した「祖国愛Patriotismus」に始まり、「共和主義」「民主主義」「自由主義」を経て、「社会主義」「共産主義」、ならびに「ナショナリズム」「ファシズム」「国民社会主義」に至る。「シオニズム」もまた言語上だけではなくこのような系譜の一部である。
このような運動概念・活動概念のすべてに共通していたのが、これらはそれが特徴づけられた時期には、その利用者の心理的特性を度外視すればいかなる経験内容も有していなかったということである。そもそも政治闘争のなかで多様なプログラムが様々な成果を伴って実現されえた。このようなシリーズにおいては、その提唱者や利用者によっては明らかにこれまで実現されてこなかった概念が存在する。それが共産主義である。共産主義はこれまで純粋な期待概念にとどまったのである。
こうした事実関係に応じて、近代のわれわれの運動概念にとってのゼマンティク上の規則が確立されうる。すなわち、経験内容がより僅かなものであるにつれて、期待は増大していくのである。こうしたゼマンティク上の補正規則をわれわれの語彙すべてが、フランス革命以来しかも国際的に注入してきた。過去を振り返ってみれば、フランス革命神学的遺産を内包し、強化されるにつれてますます的中しなくなる果たされない予言のよく知られた反復可能性に拠って生きている。未来に眼を転じれば、われわれのゼマンティク上の補正規則は、継続的に新たな行動を駆り立てることができ、しかも実際に駆り立ててきたユートピア的な過剰な潜勢力を内包している。
ここでわれわれは、実際の歴史をそのような基本概念の影響力にのみ帰するということはしないようにするだろう。それに加え、われわれは様々な階層、集団、党派あるいは階級によって実際に利用されてきた概念や話されてきた言語の多様な在り方を念頭に置かなければならない。納税義務、教育義務、兵役義務に見舞われた下層階級は、国家のうちに未来国家を見出すのではなく、むしろ完全に現存している専制支配者や教師を見出す傾向を有している。もちろん専制支配者や教師は、逆の徴候を伴って、前世紀の教養ある官吏層の視角からすれば、あるいは今世紀のプロレタリアート前衛としての党の視点からすれば次のようなものでもありえただろう。すなわち、至る所で干渉しあらゆるものを支配しようと試みる後見人である。こうして、個別の話者集団は言語交流のなかである基本概念の様々な意味帯を召喚するが、それゆえにそうした集団は代替不可能な基本概念それ自体を断念することはできない。そもそもある語が、積重なる経験を十分にまとめ上げこれを満たされない期待とともにある共通の概念にもたらす能力をもはや持たないのだとすれば、その語はある基本概念を代表する力を喪失している。このことはこうして長い時間をかけて交流によって明らかになる。次のことを想起していただきたい。すなわち、「貴族」が「エリート」によって、「農民」が「経済民」によって、「労働者」が時代にあわせて「勤労者」によって、「国家」が「社会」によって押しのけられたということである。したがって概念によって設定された問題が解決されたのではなく、もとより言い換えられ新たに定義されただけであるということは明白である。そして、このような再命名や概念形成のうらには言語外的な種類の問題が控えているということもまた明白である。概念と事実関係の間にあるこのような差異こそがまさに、歴史的転換を繰り返し新たに押し出しこれを制御するに至る差異である。
こうしてわれわれは第一関門の成果を手に入れた。言語のうえでは常に、実際の歴史に内包されていたし内包されているものよりも多くのことが言われるか、それよりもわずかなものが言われるかのどちらかである。そして歴史のうちには常に、言語のうえで述べられうるものよりも多くのものが含まれているかそれよりもわずかなものが含まれているかである。それゆえ、概念史から強制的に帰結するのは、歴史の概念への問いである。

??. 歴史概念
したがって、次のことから出発しよう。すなわち、歴史的事実関係とその言語的捕捉の間には、一度記録され固定された歴史が書き換えられなければならないということに必然的に至るような、繰り返し新たに掘り返される緊張関係が存在するということである。
歴史そのものを構成する主導概念への問いは、したがって、歴史の経過のなかで繰り返し新たに立てられ新たなかたちで解答される。このような考察によってわれわれは際限のない相対性という罠にはまるわけではない。その代わりもっぱら次のことが示される。すなわち、歴史的に転換していく経験とともに不断に新たなアプローチが生み出され、このアプローチは古い歴史を遡及的に新たに記述せざるを得ないということである。 このような書き換えは好みに合わせてなされるのではなく、史料の持つ拒否権のもとにある学問の範囲内でなされる。史料はもちろん、われわれが述べるべきことを何も語らないが、しかし史料によってわれわれは、史料の実状が許容せず、容易に誤りとして排除する言明をなす危険を冒すことを避けられる。
可能な歴史の概念のいくつかを内容的に取り扱う前に、方法上の中間的所見が許されるだろう。よく知られているように、何がそれぞれの歴史を歴史へと構成するのかに関する多様で議論の余地のある諸々の分類が存在する。いわゆる唯物論的先取にとっては、言語は固有の意義を維持できない。言語は所与の利害関心、例えば経済的由来の純粋な道具へと格下げされる。言語は非言語的諸力の付随現象となる。「存在が意識を規定する」。そうしたアプローチは全く有意義なものであろう。というのも、あるテキストの知識社会学的分析は、そのテキストそれ自体が差し出すものよりも多くのことをわれわれに告げるかもしれないからである。
解釈の別の終局に位置するのがいわゆる観念論的先取であって、これはあらゆるテキストを、文書であろうと解釈であろうと、等しく人間精神の表現形態として読み解くものである。このような先取もまた有意義なものであり続ける。というのも、このような先取によって―ハイデン・ホワイトとともにいえば ―歴史全体をその歴史記述の表現のうちに解消させることができるからである。こうして、それぞれの歴史記述が、別の著作群ののうちの単なる一つとして、文化的コミュニケーションシステムに関与する。そうであるとすると、言語はもはや道具ではなく、ある歴史の現実についてもっぱら評価を下す積極的構成要素である。このとき、歴史はその言語的形態のうちに余すところ無く解消される。
私は好んで、認識の発見法的原理としてここで手短に描かれた極端な立場双方を支持している。社会経済的歴史記述と文献批判的歴史記述はいささかも互いを排除しあわない。反対に、これらは相互に刺激しあうことができる。歴史的現実とその言語的形態の間にある、繰り返し掘り出される相違に対するわれわれのはじめの問いは、もちろん唯物論的にも観念論的にも解答され得ない。言語は、すでにこのような対立的組み合わせが利用されているならば、同時にそのどちらでもある。何が本来歴史であるのかという問いは、ここで別のかたちで定式化されなければならない。歴史が主として経済的に、あるいは政治的に、あるいは宗教的に、あるいは心性的に、あるいは社会的に、あるいはその他別な仕方で決定づけられているかどうかを決定することは、著者の選好と経験に応じて全く異なるかたちで解答されうる。その点で、別の説明モデルをすべて排除する先行決定は存在しない。しかし、何が優先されるものと考えられるべきかについての方法上の二者択一がすでに設定されているならば、解答はそれ自体言語的な決定である。
言語的に表現されるべき決定こそ、構成要素や条件がより尊重するべきものであり続ける。つまり、言語的構成要素と非言語的条件である。歴史は経済学的関心にしたがってよりよく把握されうるのか、それともあるいは言語学的に修正された行動様式にしたがってよりよく把握されうるのかに関する発見法的先取、これはもとより理論的に、したがって言語的媒介によって解明されなければならない。歴史家が優遇することをとりわけ好むような中間的解決やこれらを組み合わせた解答の試みは、ともかく可能である。しかし認識論的にいえば、歴史は言語的に決定づけられるのかそれとも言語外的に決定づけられるのかについての言語的に見出されるべきかについての二者択一は避けがたいものである。
歴史とは何であるかを確定するときに言語的に優先されるものは、したがって方法的反省の成果である。事実に即した内容的先行決定はそれゆえ適切ではない。研究手続きに関する内容的確定はまさに次のようなものに凝集されている。すなわち、非言語的構成要素や人間の動機と憧憬、欲求とこのような欲求を満たす資源の欠乏、経済的利害や政治的権力欲、慣例的な、合理的に反省されていない行動様式、空、土地あるいは海洋、川、砂漠あるいは山、雪、寒気、嵐、洪水、異常気象、酷暑、干魃および、例えば早すぎる死を招くこともある疫病のようなその他人間が生きることを阻む障害のような、あらゆる言語的解釈に先行する地理的行動条件である。
しかし、ある研究手続きは同様にして純粋に言語的な行動条件および言語的な働きを中心に据えることができる。例えば訴訟である。これはもちろん最終的に戦争になりうるが、しかしそれ以前に言語的に解決されうるものである。こうしたものに属するのが証書や法典である。これは、宗教史や教会史にとっては、神学的テキストが無条件的に最終決定権を持たなければならないわけではない場合でもそのテキストは変更の余地がないものであるのと同様である。同様にして、ある政治的国制史は、より急速な変化ないしはより長期的な変化を認識し叙述するためには、当事者の言語的表明およびその標準的テキストを利用せざるを得ないだろう。
われわれの政治的・人間学的歴史記述の昔の名人であるトゥキュディデスは、言語的に条件づけられた歴史ないし言語外的に条件づけられた歴史の二者択一を自らの叙述の基本モデルにしていた。つまり、戦争と内戦において殺害行為や残虐行為、疫病と奴隷化の際に何が生じたか、ならびに何が人間を越えてやってきたもの、これがトゥキュディデスの物語る章に並んでいる。しかし、その際に人間が何を想定したか、ならびに、人間が自らの惨めな経験や自らの繰り返しかきたてられた希望をいかにして言明したか、これは演説と対話において拾い集められている。トゥキュディデスが物語る章では、何が生じたか、何が生じ得たか、あるいは何が将来生じるべきかが概念にもたらされている。理論と実践という対立規定のもとに今日よく包摂されるものを、トゥキュディデスは非常にわかりやすく、直接的に、そして具体的に二者択一へと還元した。一方には言語的ないし対話的な考察と告知が位置し、他方には実行と不履行、能動的行為と受動的行為が位置する。言語と出来事、言語作用と出来事の連続との間にある今日まで変更されていないこのような差異規定によって、私は最後に自らの考察に達する。
われわれは今や、その概念的前提のもとで歴史が研究され、理解され、記述されるべきである言語的先行決定を問う。したがって単に言語的にのみ決定づけられた歴史、あるいは単に言語外的にのみ決定づけられた歴史のために事実に即した先行決定をなすことは適当ではないということは、安易なイデオロギー化を未然に防ぐためには一度ならず強調されるだろう。
もとより、西洋のラテン語の系譜にある言語では非常に再現されにくいある実状、つまり、「歴史Historie」(「histoire」「history」)と「歴史Geschichte」(「実際の出来事」)の間にある差異に注意が向けられるだろう。単純化していえば、ここで問題となるのは、一方の側でのres gestae 、den pragmata、行為および出来事と、他方の側でのそれらに関する報告、歴史的物語、歴史との間にある明白な対立である。われわれによっても利用されるこのような対立は18世紀まで自明であったが、しかし今では残っていない。
ドイツ語圏に目を向けると、18世紀後半には、歴史についての全く新たな概念に至るめざましい方向転換が見出される。第一に、「歴史die Geschichte」は、過去の個別の歴史と未来において可能な個別の歴史のすべてを一つの共通の概念にもたらす集合単数名詞へと濃縮される。それ以前は、「歴史」は個別の歴史の総和を意味する複数的概念であった。このような個別の歴史はそのそれぞれの行為主体―君主、ラント、あるいは何であろうと―を有しており、このような行為主体は物語や叙述―つまり、その歴史を限定された歴史によって著す歴史家の客体であった。
徐々に形成された新たな集合単数名詞はこれに対してその固有の主体になる。歴史はいわば神のように自ら行為を始め、個別の行為者を通じて作用し続ける。こうして、新たな概念は、古い複数形の「歴史」がそれ以前には到達しなかった、ある別の理論的地位を獲得する。一度道を開かれた新たな概念は、ギーセンの哲学者ハインリッヒ・ケスターによって、次のように完全に明確に定義された。「歴史」は「歴史の理論」や「歴史の哲学」や「歴史の論理」と同じことを意味するのである、と。 歴史はメタ概念になる。別の言い方をすれば次のようになる。この概念は経験的に生起するそれぞれの出来事を主題化するのみならず、第一義的に可能な歴史の条件を主題化するのである、その限りで、歴史は歴史そのものの主体である。
しかし第二に、この同じ歴史が同時にその固有の客体になる。というのも、歴史Historieという伝統的概念は新たな集合単数名詞によっていわば吸収されるからである。「歴史Geschichte」はおよそ1780年ごろから等しく「歴史Historie」を意味することができた。したがって、出来事の歴史とその研究および叙述のありかたが一つの共通の概念にもたらされる。行為の条件とそうした条件の認識の条件、別の言い方をすれば、あらゆる種類の歴史の言語外的前提と言語的前提が、概念的には共通するかたちで思考された。ここで問題となっているのは純粋言語史的には先取りされた超越論的方向転換だと言ってもよい。つまり、現実の条件は同時にまたそうした条件の認識の条件でもあるのである。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトこそ、このような収束を明敏に考え尽くした者であった。フンボルトの言葉はこうである。「世界史において作用しているもの全てがまた人間の内部で運動している」。「その名に値する歴史家は、あらゆる出来事を全体の部分として、あるいは同じことであるが、あらゆる出来事において歴史の形式一般を叙述しなければならない」。
このような収束論においてある美学的な循環論法を推測することは容易い。このとき、あらゆる歴史家が、自らが歴史に対して主観的に送り込んだものを自らの歴史において客観的に再発見しうる。これに続いて、イデオロギーが制止を受けることなくある歴史的叙述に流入しうることになる。なぜなら、理論上前提されたいわゆる全体が、そのそれぞれの特殊で固有な研究領域のうちに制御を受けることなく再認識されるからである。
私は、そうした類のイデオロギー的に縮約された歴史記述の実例を省いている。そのような実例は、歴史業界のいわゆる前学問的段階にもいわゆる学問的段階にも等しく見出される。ひとたび認識を導く利害関心を自らの研究に持ち込む者は次のことから出発しなければならない。すなわち、そのような利害関心は同時に認識を阻害するような働きをするということである。私がもっぱら念頭に置いているのは、19世紀の歴史学的―批判的に高度な訓練を受けたドイツ歴史学であって、これは19世紀に成立して初めて民族として把握されたドイツ民族の歴史を過去千年にわたって追求しようとしたのである。学問は誤謬からは何も守らない。
しかしもちろん、学問は性急な判断を妨げる方法的な歯止め口Hemmschwellenを組み込むことができる。そのような歯止め口は、互いに対して完全に一致することにはなりえない言語と歴史の概念史的差異規定である。歴史は、言語的に歴史について述べられることよりも、等しく常に多いかわずかであるかである。―同様に、言語は常に、実際の歴史のうちに含まれるものよりも多くのことをなすか、よりわずかなことしかなさないかである。