国技館と共に歩んだ近代都市(前編)

後編

国技館という建築物

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Wikipediaに当コンテンツが紹介されています。

2000/07/28 横浜常設館周辺地図を掲載。その他話題を少々付加。
2000/08/03 富山国技館に関する話題など。
参考資料:日本相撲史
2000/08/05 京都国技館の写真を掲載。
参考資料:京都日出新聞
2000/08/21 本コーナーの整備
2000/09/25 京都国技館が中京区にあったことも判明。大阪国技館についても施設などの追記。
参考資料:歩く地元情報誌 「あるっく」 地元が世界に誇るもの
2000/10/24 大阪国技館、大阪大国技館についての追記。
参考資料:新世界、近代建築ホームページ浜村淳の「さて、みなさん!」
2000/10/26 浅草国技館、大阪国技館の消失時期についても追記。ラヂウム温泉の項目を削除。
参考資料:昭和初期日本都市地図集成』 柏書房ほか
2000/11/27 肥後相撲館(肥後国技館)の話題を追加。
参考資料:相撲評論家之頁、くまもとシネマパラダイス
2000/12/12 大阪国技館の話題を追加。更新に際して、参考資料や資料提供者を提示。
情報提供:山下和也さん
2000/12/13 富山国技館や肥後相撲館の話題ならびに大阪大国技館の考察を追加。
参考資料:富山県大百科事典、熊本県大百科事典
2000/12/14 肥後相撲館の写真を追加。横浜角力常設館の考察を追加。
参考資料:熊本県大百科事典
2000/12/20 旧両国国技館、横浜角力常設館、名古屋国技館、富山国技館の話題を少々追加。
参考資料:富山市史、東京毎日新聞、国史大事典、愛知百科事典
2000/12/22 横浜角力常設館や大阪国技館の写真、富山国技館の話題を少々追加。
参考資料:総曲輪懐古館、大相撲鑑識体系、読売新聞
2001/02/27 国技館という建築物というコーナーを新たに追加。
2001/07/27 浅草国技館の消失時期などを追加。
参考資料:浅草十二階計画
2002/09/27 1年ぶりの更新にあたって一部整備。
参考資料:蒲L隣堂ほか
2003/04/20 新旧両国国技館についての話題を追加。くまもとシネマパラダイスの保管庫を参考資料に追加。
参考資料:江戸東京重ね地図、Household Industries 歴史館、MICHIYOのお部屋、SILENT LIFE、BANZUKE.com
2003/06/27 旧両国国技館、浅草国技館についての話題を追加。
参考資料:名所探訪 失われた東京遺産、梅屋庄吉伝、帝国陸海軍現存兵器リストほか
2005/03/09 旧両国国技館についての話題を追加。
参考資料:関東大震災−消防・医療・ボランティアから検証する
2005/06/13 旧両国国技館についての話題を追加。
参考資料:都民の空襲体験記録集 東京大空襲・戦災誌
2009/01/25 若干補正。
2009/02/08 本文中リンク追加。
2013/05/06 4年ぶりの更新。蔵前国技館及び新両国国技館の設計・施工者を追記。
参考資料:戦後新入幕力士物語他
2013/05/31、06/01 京都国技館についての考察。
参考資料:レファレンス協同データベースの問い合わせ資料など
 

 序説

 普段慣れ親しんでいる大相撲は、神代の頃に生まれ、朝廷で行われた相撲節会を経て、江戸時代に今日の大相撲の原型が生まれて現在に至るまでじつにさまざまな変遷を遂げてきた。
 そうした相撲を象徴する建物が国技館であり、華麗でスマートな建物が建ち並ぶ今日の東京の中で数少ない和風大型建築として相撲の聖地とされている両国に燦然とそびえ立っているのである。
 両国以外には似たような形式として日本武道館などが知られているが、晴雨に関わらず多大な収容人員を誇るスポーツ施設としては国内では両国国技館が元祖である。
 国技館自体は都市の近代化においては映画館や喫茶店などに比べると発展に寄与したとはとても思えないが、日本固有の伝統芸能として温存していくうえでは重要な存在でもあった。
 また、歴史文献を見る限りでは国技館の歴史は相撲界の歴史であり、はては都市の歴史にも重なりを持つと思われる。
 その意味から国技館が近代都市とどういう形で歩んでいったかを踏まえたうえで、国技館の近代都市における位置づけを行うことを研究のテーマとする。

 第1章 両国国技館ができるまでの経緯

 明治42年(1909年)に両国国技館が開館して2009年の6月で100年目を迎えた。
 両国国技館のある本所回向院の境内が勧進相撲の開催場所として定着する以前は蔵前八幡・深川八幡・本所回向院・神田明神など決まっておらず、天保年間に本所回向院が定場所となった。この間に長年相撲界の勢力の中心であった京阪に代わって、江戸が中心となったのである。
 理由としては江戸が首都としての機能を高め、人や富が多く集まるようになり、都市としての力を付けたことと、力士を抱える大名の多くが江戸詰めとなったことで地方相撲出身であっても江戸相撲に入りやすくなったということにある。その中でも両国界隈は江戸随一の豪華な盛り場であった。本所回向院の全国有名寺院の出開帳は人々を集め、隅田川の花火大会は夏の風物詩として江戸っ子を賑わせた。江戸中を巡って興行を行っていた江戸相撲も民衆が集う両国で頻繁に行われるようになったのである。谷風・小野川時代、雷電時代を経て江戸相撲は京阪に勝るとも劣らぬ人気を得たのである。これによって両国は江戸相撲の代名詞となったわけである。
 徳川幕府が倒れて京阪相撲が再び勢力を盛り返してきたものの、世情が安定するに連れて東京相撲も復興していったのである。
 この辺りで相撲協会は江戸時代の旧弊を改めつつ、角界の近代化に努めたが、国技館建設もその一つである。
 両国国技館ができる前は相撲のできる常設館などはなく、雨雪などで順延になることも多かった。国技館建設前までは野天の仮小屋だったため、『蒙御免晴天十日間』という立看板で回向院の境内で雨雪にみまわれないときは十日間の興行が可能であって、順延によって十五日、二十日もかかってのんびりと続けられ、悪ければ千秋楽まで行われないうちに中断になることさえあった。相撲人気が今一つなのもこのことが一つの要因になっているとされてきた。

   

回向院境内の相撲場(明治30年)  

 

 常設館建設の念願は明治39年一月場所後に具体化し、同3月の第二十二回帝国議会にも『大相撲常設館国庫補助に関する建議案』などが提出されたりした。建設候補地には日比谷、三菱が原(丸の内付近)などが挙げられたが、最終的には本所回向院境内(本所区東両国2丁目2)で、二十八万円(現在でいうと七十五億円余)の巨費を投じて国技館(当時はまだ常設館)の工事が始められたのは明治39年6月で、明治42年5月に竣工し、同6月2日に開館式が行われた。工事期間中は両国橋の川下にある仮設の相撲場で4場所開催した。

   

竣工なった旧両国国技館
(右:取締雷権太夫、左:取締高砂浦五郎) 
 
旧両国国技館(昭和2年)  
旧両国国技館館内、右奥は貴賓席  旧両国国技館のイルミネーション  (昭和10年ごろ) 

 

 日本銀行や東京駅などの設計で有名な辰野金吾博士と葛西万司氏との設計で千五百坪の敷地内に九百六坪五合の建坪にして半楕円形の鉄骨を合掌させて直径約二百尺(60m余)、高さ八十尺(24m位)の円形の屋根を造る。桟敷を支えるべき柱や梁等の構造部にも同様に鋼鉄を用い、四隅に三角の袖壁を設け、床や仕切などは木製とした。約七百平方メートルのガラス屋根で採光をし、夜間には1000Wのアーク電灯八個を合掌より吊り下げ、外に桟敷及び回廊などに白熱10〜16Wの電灯五百個を設置した。洋風建築ではあったが、屋根の様式は法隆寺金堂を模したものである。館内の北正面に貴賓席を設け、一般観覧席は土間から四階に及ぶ。相撲興行のない間は菊人形展、各種博覧会、大演説会、剣術・武術の試合、体操、音楽関係のイベントに貸与して維持費に充てる。
 常設館の建設によって、晴天興行だったものが『晴雨不関十日間』と予定通りに行われ、三千〜四千人だった観客動員数が一万三千人に膨れ上がった。
 この常設館の命名には尚武館、相撲館などの候補が挙げられたが、国技館と命名されたのは同じく明治42年6月で、名付けたのが当時の年寄尾車(元大関・大戸平)であった。だが、実際に国技館の名を提案したのが江見水蔭氏と言われていて、開館式の案内状に「相撲は日本の国技なり」と書いたことがきっかけとなって開館式の前日になって案内状の中の「国技」を目に止めた尾車の提案した「国技館」が了承されたのである。なお、開館当時は両国元町常設館と書かれていたが、翌年6月には国技館に定着した。
 この「国技」の二文字は平安朝の節会相撲が前提であり、戦勝に沸き返っている日本の国粋主義と結びつけたものではなかったが、この命名によって相撲は日本の国技として定着していったのである。
 両国国技館は「大鉄傘」の愛称で親しまれ、その近代的な風貌から東京の新名所として観光客の注目を集め、沢山の電球の灯りで構成されるイルミネーションはこれまた大評判であった。

 第2章 両国以外の相撲常設館

 本来の研究は両国国技館が主体となるためこの章は短く押さえたいが、内容的にも興味深く、また同類の研究を行っている者が極端に少ないため、かなりのスペースをこの章に割くことになる。

 相撲常設館は両国国技館以外にも横浜、浅草、名古屋などに建設された。これは両国国技館が建設されたことが刺激となって行われたものである。相撲常設館が増えた本当の理由は分からない。だが、以下のことが考えられる。

 1.相撲が盛んになるにつれて、協会内外に地方にも相撲を広めようという動きが見られる。そこで地方場所と銘打って巡業に繰り出す。そのために地方も常設館建設を余儀なくされる(富山、肥後)。
 2.東京相撲の国技館建設に刺激されて京阪および地方の相撲集団も巻き返しのために常設館建設に乗り出す(横浜?、大阪、京都)。
 3.地域の活性化のために便乗して地元に常設館を建てる(横浜?、浅草?、名古屋)。
 4.両国国技館のように多目的に使えるから(浅草、名古屋)。
 5.相撲史に輝ける出来事を冠してその縁の地に建設する(富山、肥後)。

 その中の横浜角力常設館明治42年1月に建築許可が下りたのだから国技館の名は当然ながらまだ用いられていない。横浜に計画された理由はいまだもって不明である。地域の活性化はともかく、県内で盛んな海軍相撲(終戦まで存続)などのために常設館を建設したものと見てよい。館内に運動場があるのもそのせいらしい。
 横浜市松ヶ枝町相生座跡に常設館が建設され、敷地390坪、建坪254坪の和洋折衷三階造りで構造は西洋型鉄骨木造で周囲を煉瓦塀とした。総二階総桟敷とし、階上に幅三間長さ十七間の運動場および売店を設けた。桟敷は木材とし、破布型の屋根、周囲の壁は防火用のアスファルト、スレートぶきにて四方はガラス窓。外部には力士部屋、木戸などを設け、三万八千円の工費をかけて11月末に完成した。
 12月4日の開館式には相撲協会も招かれたが、一行の頭である有明が前頭四枚目(当時)を最高位に三役以上は一人も参加せず、いわば中相撲の一行であった。このことが相撲常設館の評価を裏付けているのかもしれない。
 これ以降は本場所・準場所が行われたという形跡はなく、横浜角力常設館から横浜常設館という名の映画館となっていた。震災にあって焼失した可能性もあり、大正末まであったと言われていたが、実際に上映された映画のリストの中に1939年上映のものがあったことから、常設館の名称そのものは戦前まで残っていたことは確かである。図は昭和14年ごろの横浜常設館の周辺地図。常設館は伊勢佐木町通り(現在はイセザキモールという名称)に面していて、近くにはオデオン座もある。
 

   
横浜常設館の周辺地図 (昭和14年)   開館当時の横浜角力常設館

 

 横浜角力常設館以外に関してはいずれも両国国技館開館の後だったため、国技館の名が使われたのである。
 浅草国技館浅草六区北側の十二階(凌雲閣)隣地明治44年5月に工事が行われ、明治45年2月に開館した。同じく辰野・葛西氏の設計によるもので、エジプトサラセニック式で間口二十二間、奥行き十八間、入口は正面・左右の三方に設けられ、観覧席は四階。貴賓館(ジャーマンセレクション式)、力士養成所を付属し、八角形の塔に二十人乗りのエレベーターを備え付ける。外面は五色の色彩美しく、中央の壁面に大きなアーチがかたどられている。総建物の坪数一千六百坪、価格は百六十万円ということである。浅草界隈には豪華絢爛で個性的な様式の映画館が林立していたが浅草国技館もその雰囲気にふさわしいものとなっている。

   

大池から見た浅草六区 左手に浅草国技館が見える(大正元年) 京都国技館(開館当時)  

 

 これだけの立派な内容にも関わらず開館当時の評判はさんざんであった。
 開館式終了後直ちに余興相撲が行われてこのときには横浜常設館のケースとは違って、常陸山・太刀山などの横綱以下の役力士も登場して場内は客でいっぱいだった。翌日から十日間の花相撲を開催したものの、肝心の初日は雨で客足が悪くたった三百人しか来なかった。三十銭均一の立ち見席だけは早くから満員を告げ、勝負事のやじり方もなかなか猛烈をきわめた。観覧券が(両国の)本場所に比べて高価だとか、設計が悪いなどの批判も一部にあった。建設費がかさんだのだから高額なのも無理はない。むしろ問題はこれである。

 「設計者がうまい(?)のか三角の両そでは大事な土俵が見えぬ。また四階から桟敷を見下ろせば目がまわって気の小さい者はとても見ておられない。両国の国技館はけっしてこんなことはない。これも設計が悪いのであろう。」という内容であった。
 だが、二日目以降になってようやく人気を盛り返してきた。
 この浅草国技館も花相撲だけでそれ以後は活人形の見世物などを興行していたが、やはりこれも大正3年に「遊楽館」という映画館に改装されて大正6年の芝居小屋「吾妻座」を経て大正9年3月に焼失した。

 京都国技館明治45年5月ごろに完成した。このころはまだ京都相撲なるものが存在していた(組織形態そのものは海外での相撲興行の失敗で解散している)が、もはや東京相撲には太刀打ちできないレベルにまで成り下がっていた。この京都相撲を再興するため、なおかつ絶縁状態にあった東京−大阪相撲に国技館建設を契機に三都合併相撲を行うことで和解を求めるためにも欠かせないプロジェクトであった。
 京都国技館は中京区三条千本東入ル北側(二条離宮(のちに移転後二条城に改称)の南西)に建設され、外面は純洋風式(写真は当時の京都国技館で、建物こそは西洋式だが中央のレリーフや屋根は折衷様式と思われる)、内部は純日本式とし、収容人員は3,500人であった。「京都にもいままた同じ名の国技館が出来上がった。ちょうど伏見の稲荷様の出店が至るところにあるようなもので、やがては相撲道の旺盛と共に山間へき地にまで国技館ができるやもしれぬ。あな勇ましの相撲道や。」という評判ぶりであった。
 肝心の取組はというと、大阪相撲に和解を求められないまま東京・京都合併相撲が催された。「合併相撲は非常の景気で、毎日売り切れ続きであったが、同国技館の構造は横浜常設館ぐらいの坪数で、浅草よりはるかに狭いから、景気の割合にはもうけが薄かったろう。相撲は初日から三日目ころまでは、ごちそうのために西京方へ少し花を持たせたが、四日目からはみな本気に取ったので、相撲はずいぶん面白かった。しかし西京力士はとうてい東京力士の相手にならない。」
 国技館開設を契機に京都相撲の再興をはかったものの、大碇をはじめとした京都相撲の主要力士が海外で散ってしまい、その結果京都相撲が成りたたなくなった以上、この一大プロジェクトはまさに焼け石に水であったとも言えよう。
 この京都国技館も昭和8年ごろまで存在していたと思われ、これもふだんは映画館となっていたようである。
 

名古屋国技館   名古屋国技館案内図 

 

 文化の発信基地と呼ばれている名古屋ですら国技館人気の契機を逸するわけにはいかなかった。昔から名古屋は大相撲とは縁が深く、東京・大阪・京都の三都に次ぐ全国でも屈指の土地柄で「名古屋で相撲興行をして外れたことがない」とまで言われたほどだ。両国で国技館が開館したときは名古屋にも国技館を建てようという運動が盛んであった。
 設計には両国・浅草国技館を手がけていた辰野金吾博士がやはり起用され、場所は名古屋市中区丸の内三丁目(現在の市立名城小学校の所在地)で、建物は十六角形でドーム型の屋根、鉄骨造4階建てで総建坪は507坪(約1,673平米)、直径の最長は三十間(約55m)、最短は二十三間(約42m)、中央の塔までの高さが八十五尺(約26m)という豪華さであった。京浜の国技館の欠点を補ったもので、収容人員は立ち見席も含めて約8,000人である。
 大正3年2月3日に総工費十五万円をかけて名古屋国技館が完成した。名実ともに『日本一の名古屋国技館』となった。
 驚くべき事は他の国技館とは違って前茶屋はもちろん、酒屋・茶火鉢店・果物雑菓子店・麺類店・絵はがき雑貨店・洋食店・しるこコーヒー店・寿司屋・ビヤホール・五銭均一食堂と食堂・売店がデパートの飲食街なみに充実していることである。
 建物全体にイルミネーションを施し、夜間には照明がともされて名古屋の新名所となった。また、大相撲のない間は芝居や映画、サーカス、講演会などに貸与した。
 だが、豪華さの割には名古屋国技館は常に不運にみまわれていた。
 同2月6日には開館式が行われ、愛知県知事・名古屋市長など八百人余りが招待された。土俵祭のあと、幕内力士の土俵入り、幕下以下の取組が行われた。
 翌7日から十日間東京相撲主催で初興行が行われたが初日は五十銭均一で大入りが予想されたものの、当日は四千数百人と振るわなかった。優勝力士の予想懸賞などを行って相撲熱を盛り上げたがやはり入りはまずまずで、ついには千秋楽を日延べして三十五銭均一に入場料を下げる羽目に陥った。以後の相撲興行も不入り続きだった。
 当時交通機関も未整備な人口四十万人台の名古屋では経営が困難となり、いつしか廃業に追い込まれた。
 その後国技館は関東大震災で被災した花月園(横浜市鶴見区にあった総合遊園地)再興のための鉄材として提供されたのである。

 大阪国技館(新世界国技館)は大正6年10月28日に新世界構内に建てる創立総会が開かれ、大正7年2月8日起工。同8年8月に落成した。設計は日本赤十字社大阪支部病院、愛媛県庁舎などを手がけた木子七郎。501坪(1,656平方メートル)、収容人員10,000、当時の金額で五十万円を要したと言われる。大阪相撲協会も土橋から、この国技館の中に移された。
 当時の新世界はルナパークや通天閣を中心としたモダンシティであって、北半分が花の都パリをモデルに、南半分はアメリカの行楽地コニーアイランドをモデルにした都市形態で、まさに夢の楽園である。ルナパークや通天閣がそれぞれ南北のシンボルであった。大阪国技館はルナパークの南側に建てられたのである。ここでは相撲以外にも、菊人形などの催し物が行われた。
 同9月12日、開館式が盛大に行われ、翌13日から十日間にわたって開館記念の東西合併大相撲がはじめて『晴雨不関十日間』の名目で行われた。先程の京都と同じように大阪相撲再興の契機とされてきた。
 

   

  
当時の新世界と大阪国技館  

大阪国技館のスケッチ

 

 しかし、国技館は株式組織(資本金200万円)で協会の所有ではなく、協会が場所ごとに借りる形式であって、屋根は両国のを真似して丸屋根なのに、底辺は四角ということで、あまり見よいものではなく、大阪相撲だけで興行したときは常に見物は空席が目立っていた。
 ルナパーク自体は大正12年に閉鎖されたが、国技館はそのままで、大阪本場所は東西合併寸前の大正14年まで行われた(大阪相撲の興行そのものは翌15年1月の台湾巡業で終止符を打つ)。昭和3年1月には松映という名前に変わり、以後は映画館として使われていたが、昭和20年の空襲で焼失してしまった。現在建っている松映旅館に映画館としての名をとどめている。昭和に入ると大阪関目にも国技館が建設されるが、これは次章で詳しく述べる。
 つい最近だが、大阪国技館に関しては今話題になっている許永中という男が数年前に建設を画策していたらしい。だが本報告では蛇足として触れるまでもないことだろう。

 熊本にも大正2年10月2日、吉田司家の十三代追風三百年祭を記念して熊本市(現在の辛島公園の辺り)に肥後相撲館(肥後国技館)が建設された。収容人数は二千人と規模的にも小さい。熊本での相撲興行および吉田司家(吉田司家は細川家の庇護にあって、元来横綱免許を授ける役職であった。)での横綱の認可儀式後の披露行事などの開催を目的とし、相撲行事のない間は映画館としても使われた。同年10月に東西合併相撲が催され、以後10年余りにわたって相撲館を経営してきたが、市電路線の変更に伴って昭和3年12月に解体されてしまった。なお、解体寸前の同年11月にはNHKによる相撲中継も行われている。閉館の納めの興行であろう。また、富山にも富山国技館(正式名称はこれでいいかもしれないが、越中角力富山国技館、北陸国技館の別名もあるので確かではない)が富山市総曲輪(そうがわ)富山相互銀行向かい富山青果市場北側に建設され、大正4年7月5日に開館、開館式で横綱梅ヶ谷の引退興行が行われ、翌5年11月25日に焼失したことがこれまでに確認されている。なお、建設された理由は玉椿、緑嶋ら数多くの名力士を輩出した越中相撲ゆかりの富山県に国技館がないのはおかしいということで、同郷の梅ヶ谷や太刀山の活躍で建設が決定的になったものと思われる。ここまで分かったがいかんせん資料に乏しく、木造であること以外は建築的な詳細は不明のままである。

 補足:肥後相撲館を紹介しているサイトです。 【NPO法人 行司】【肥後相撲国技館】 相撲館内部が望める貴重なコンテンツもあります。

 これだけを見ても当時の国技館への情熱がいかに凄まじいものだったかを感じ取ることが出来よう。両国国技館以外の常設館は相撲興行を行う目的としてはどれも不成功に終わったが、相撲人気と共に国技館の形式そのものが各地に伝播し、地域色に染まった証拠とも取れる。

 ※なお、京都国技館の消滅時期が本章に記載されているが、これは地図上から姿を消した時期であって、取り壊されたのか無名の映画館となり果てたのか明らかでない。ただ、国技館(と思しき映画館)周辺の治安悪化が閉鎖に追い込んだことも考えられなくもない。そもそも、京都国技館は京都相撲が瓦解してからは相撲興行の目的としては用を成さなくなったものの、その後も歌舞伎の会場に使われたり、映画館としても運営された経緯をもつ。背景には、明治末期に京都の横田商会によって、初めて映画が導入され、やがて時代劇映画が本格的に隆盛を極め、明治41年に映画の常設館が京都にも建てられる。大正以降に京都に相次いで映画撮影所が建てられ、映画産業の成長とともに、映画の質も向上した。そうした映画界における環境の中、京都国技館でどのような上映プログラムが組まれたかは不明だが、京都における映画館で、時代劇映画が頻繁に上映された事を鑑みると、昭和初期まで命脈を保った理由に挙げられるのも無理はないようだ。横浜常設館に関しては前掲の図の通り、昭和14年に「常設館」として名前が残っている。横浜という土地柄のおかげなのか、上映された映画の本数が多いことから有名な映画館の一つと思われる。実際、昭和14年6月に放映された『愛染かつら』では観衆で溢れかえった程だ。また、肥後相撲館も10年以上にわたって映画を上映してきて相撲よりはむしろ映画ファンにとっては印象深いものとなって直接ではないが九州における映画とりわけ洋画の普及に貢献したものと考えられる。これらは相撲常設館の第二の用途としては数少ない成功例だったことは間違いない。また、映画といえば、浅草国技館では映画を上映していた期間が短かったが、明治45年6月28日に白瀬隊の南極探検を映し出したドキュメント映画が初めて上映されるなど内容が濃かったし、旧両国国技館でも伊藤博文公暗殺の瞬間を捉えた実写フィルムが明治43年2月に公開されたりした。

肥後相撲館

  

  第3章 相次ぐ両国国技館の受難と昭和の国技館

 このように国技館の誕生は相撲の大衆化に拍車をかけ、とりわけ両国国技館への民衆の関心が強くなったことと梅ヶ谷・常陸山の第二次相撲黄金期を迎えたことで完全に東京相撲の一人天下となっていた。
 だが、この繁栄はいつまでも続くことはなく、大戦時の好景気もあっと言う間に終わりを告げ、失業者の増加や米騒動の発生などで相撲どころでなくなると相撲界は急速に衰えていった。
 国技館は菊人形大会のあとの大正6年11月29日の失火で全焼してしまい、大鉄傘は無残にも崩れ落ちてしまった。国技館の建設にあたっての借金も返し終わらない段階だっただけに協会は大きな痛手を受けた。
 その2年後に22本の鉄柱を建てて上棟式が行われたが強風で倒れ、十数名の死傷者を出す事故が発生し、再建が終わるのは大正9年1月のことである。再建には百三十万円をかけて火災に備えて屋根は全て亜鉛張りとし、鉄骨の上をコンクリートで包んだ。当時としては大空間の鉄骨コンクリート造(無筋)の建物は珍しい。この3年の間は、九段靖国神社で本場所が開催された。
 大正12年9月1日には関東大震災に遭ってまたも全焼。下町は火の海だったが、鉄骨の骨組が残っていたことがわずかな救いであった。翌年の春場所は名古屋市中区の武徳殿空地(当然ながらこの時は名古屋国技館はすでになくなっている)で開催され、夏場所開催までは国技館の再々建は終了していた。
 この震災によって東京相撲は経営難に陥った。その矢先に大阪相撲との合併話が持ち出され、大正14年7月に合併の調印式が行われた。昭和2年1月には両相撲協会は解散し、財団法人大日本相撲協会が発足した。
 その後は年4場所となり、春夏の両国国技館に加え、関西場所が3月と10月の2回行われることになった。
 関西場所は名古屋・京都・大阪・広島・福岡で行われたが、すべて仮設国技館であって、屋根はトタン張りだったため大雨が降れば順延にもなった。関西場所は昭和7年の春秋園事件で天竜・大ノ里らが脱退して翌年関西角力協会を結成したことを機に廃止された。
 関西場所が終了してからは年2場所に戻り、横綱玉錦・双葉山の登場によって相撲人気は息を吹き返した。昭和初期の両国国技館は4階建で、総面積は8600u、収容人数は25000人となっている。
 なお、昭和12年6月9日には大阪市旭区関目に建てられた大阪大国技館(大阪関目国技館)にて13日間の大場所が開催された。
 大阪大国技館は、昭和12年3月に完成し、敷地6千坪、建坪3千坪、円形の鉄筋コンクリート4階建ドーム式、収容人員25,000人と国技館史上最大規模の施設で、国技館の前には2階が力士の宿舎になっている相撲茶屋が建ち並んでいた。昭和16年の太平洋戦争の勃発で、わずか4年間7回の準本場所の開催だけで休館を余儀なくされた。後にベークライト工場として軍部に転売され、終戦後は進駐軍に接収されたまま倉庫として使われ、昭和26年ごろには解体されてしまった。
 建設された本当の理由は分からないが、そもそもの大阪大国技館建設の背景は異常なほどの双葉山人気にあると思われる。
 春秋園事件を皮切りに関西角力協会が結成されて以来中断していた関西準場所が関西角力協会の衰退と共に再開された。そして、第三次相撲黄金期にふさわしい相撲常設館として、仮設国技館のままでは格好が悪いので本建築を取り入れたことや地域の活性化、さらには大阪準場所の本場所への昇格も狙っていたものと思われる。
 なお、この頃はまだ大阪新世界国技館が存在していたが、無名(?)の映画館に成り下がった以上、これを国技館に再改装するわけにもいかない。これも本建築に踏み切った理由の一つに挙げておくべきであろう。

   

大阪大国技館の夜景  

 

 戦局が悪化してくると相撲界にも余波が及び、昭和19年の1月の春場所を最後に同2月に両国国技館は軍部に接収されてふ号爆弾(風船爆弾)の工場として使われた。国技館を追われた協会は小石川後楽園球場を本場所の開催地とした。
 翌3月10日には国技館は空襲で焼け落ちてしまい、大半の相撲部屋や国技館に隣接する相撲協会事務所、資料保存庫なども火に呑まれた。6月7日には焼け落ちた国技館で傷痍軍人のみ招待の非公開の晴天7日間興行、この場所をもって大横綱双葉山は引退し、8月には終戦を迎えた。

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