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▲備前橋欄干 |
備前橋の名票
上「びぜんばし」
下「備前橋」 |
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▲天保14年(1843)の築地
「松平クラ」が岡山池田家中屋敷。■のマークは中屋敷の意で、上屋敷は家紋、下屋敷は●印がついている。 |
(人文社「天保十四年御江戸大絵図」) |
埋立地の中の藩邸 岡山藩の中屋敷は築地にもありました。築地はその名が示すように、明暦の大火(1657年)後に湿地帯を埋め立ててできた地区で、海岸・堀沿いに町屋が設けられている他は、築地本願寺の周辺に旗本屋敷が集まる以外、ほとんどが大名の屋敷地となっていました。
岡山藩邸は本願寺と堀を挟んだ北東向かい、築地地区のほぼ中央に位置しており、現在でも藩邸を囲む道がそのまま残されているため、藩邸の場所がはっきりと特定できます。広さは約1万6000uで、海岸に近く、藩邸前に掘があったことから、蔵屋敷としての役割を持っていたものと考えられます。
当時は藩邸の前に堀があり、対岸との間に「備前橋」という橋が架けられていました。言うまでもなく、備前藩邸の前にあることから付けられた名称です。昭和60年ころまでは、掘割の一部が築地川として残り、備前橋も橋として機能していましたが、その後川は埋め立てられて公園となり、備前橋も片側の欄干と親柱を残すのみとなっています。
築地地区には明治になって海軍省関係施設と外国人居留地が置かれますが、それらが移転・廃止された後、昭和になって中央卸売市場が設置されます。今では「築地」というと市場の代名詞になるほど定着しています。
築地のランドマーク ところで、築地本願寺はもとは浅草にありましたが、明暦の大火で焼失し、その後の江戸の街区再編に伴い、築地に移転してきました。とはいっても、移転を命ぜられた時、築地はまだ湿地帯で寺院を建築できる土地はなく、多くの信徒が協力して湿地を埋め立て、本願寺を再建したのです。今でこそインド様式の石造りの建物ですが、これは関東大震災後の建築で、当時は和式の寺院建築でした。本堂の屋根は平べったい江戸の町の中では群を抜いて高い建築で、かなり遠くからもその姿を眺めることができ、当時の浮世絵にもよく描かれています。 |